「お前は首だ。息子が帰国して入社するからな。」新社長は、二十年間会社のために尽くしてきた僕に、笑顔でそう宣告した。海外留学していた自慢の息子を会社に迎え入れるため、邪魔な管理職はクビにするという。それだけじゃない。僕に反抗した社員は全員追い出すと、机を叩いて怒鳴り散らした。あの日、僕は全てを失った。しかし、それから数週間後、あの傲慢な新社長から、泣きそうな声で電話がかかってきた。「会社に誰も…

「お前は首だ。息子が帰国して入社するからな。」新社長は、二十年間会社のために尽くしてきた僕に、笑顔でそう宣告した。海外留学していた自慢の息子を会社に迎え入れるため、邪魔な管理職はクビにするという。それだけじゃない。僕に反抗した社員は全員追い出すと、机を叩いて怒鳴り散らした。あの日、僕は全てを失った。しかし、それから数週間後、あの傲慢な新社長から、泣きそうな声で電話がかかってきた。「会社に誰も...

「海外留学していた息子が入社するから、お前は首だ。」

その言葉が、会議室の空気を一瞬で凍りつかせた。俺、堀内兵は、二十年間この会社のために尽くしてきた。地図や歴史書を専門に扱う、小規模だが誇りある出版社。俺はその出版部門で課長を務め、これまで培ってきた知識と経験を全て注ぎ込んできた。

だが、それを一方的に切り捨てたのが、新しく社長の座に就いた近城だった。彼は前社長の妻の弟で、元々は大手銀行のエリート行員だったらしい。表面上は腰の低い物腰で、前社長にはいつも気に入られようと猫を被っていた。だが、社長の座を手にしてからは、その本性をこれでもかと晒け出した。

「明日から毎朝、うちに迎えに来いよ。社長が電車通勤なんて、あんたら会社の沽券に関わるだろうが。」

高級車を用意させ、取材の移動にはタクシーを手配しろと喚く。業務の細部にまでケチをつけ、目につくもの全てに文句を言う。社員たちは顎で使われ、誰かが抗議すれば逆上して怒鳴り散らす。まるで暴君のようだった。

そんな中でも、俺は社員たちの士気を保とうと必死だった。愚痴を聞き、適切なアドバイスを返し、何とか雰囲気を保とうと努力してきた。

だが、事態はさらに悪化する。

「本の紙の質なんて、誰が気にするんだ。そんなマニアックな本に金をかける必要がどこにある。」

そう言って近城は、俺たちが長年築き上げてきた取引先との関係を、自らの独断で壊そうとした。良い紙も印刷所も使うなと言い放ち、俺が反論すれば、軽くあしらわれる。それでも何とか、取引先を変えるという暴挙は防いだが、プレッシャーは日に日に増していった。

そして、あの日が来た。

地域情報誌の増刊号の編集が遅れ、俺は印刷所への納期に間に合わせるため、社員に残業を命じた。何とか形にして、販売の目途も立った。だが、近城はそれを面白く思わなかった。

「無駄な残業してくれたもんだ。残業代は出さないぞ。残業中の光熱費を徴収する。回収しきるまで給料から天引きだからな。」

そう言って高笑いし、社員たちの名前を読み上げる。我慢の限界を超えた俺は、立ち上がった。

「社長、それはあんまりじゃないですか。確かに残業はしましたが、それは正当な業務です。締め切りを破れば、その方が大きな損害を発生させます。」

「そんなものは寝言だ。あんたらは無駄金を使うしか脳がないんだよ。だからいらない残業をしたんだろう。」

「お言葉ですが、私たちは無駄遣いしているつもりはありません。時間に関しても、無駄を省いて意識しています。」

俺は自分でも驚くほど熱くなっていた。気づけば、近城の面前に迫って意見していた。

近城は一瞬だけ俺から目をそらすと、大きく首を横に振った。

「そうか。あんたは反乱分子か。俺に盾突いて、クーデターでもやろうって言うんだろ。」

そして、俺を軽く突き飛ばし、耳元でこう言い放った。

「いいさ、堀内。貴様は首だ。俺の言うことに逆らい、会社の金を使い込もうって言うんだからな。」

「社長、それはいくらなんでも…」

「俺はな、この会社を改革してやろうと思ってるんだ。来月、息子がアメリカから帰国する。息子と二人で会社を整理する予定なんだよ。」

近城は、困惑する俺たち社員を前に、高笑いしそうな口調で画策を披露した。アメリカ帰りの息子の手を借りながら、会社にメスを入れて人員整理を行う。存在の意味が不明な地図・地形図部門や歴史書部門を切り捨てる。地域情報誌は廃刊として、新たにビジネス情報誌を制作する。翻訳も取り込み、事業の海外展開も可能にする。

まるで、うちが大手出版社になれるような大風呂敷を広げていた。

「その計画に、まずは堀内。お前が不要だ。とにかく出ていけ。」

それに対して、俺は何も言い返せなかった。近城の無謀な計画への呆れと、元々の傲慢さへの嫌悪。全てが押し寄せ、あっさりと解雇通告を受け入れてしまった。

「わかりました。退職いたします。」

「そうか。じゃあ早速、退職の手続きをしてもらおうか。社長室に来てくれ。」

満足そうな笑みを浮かべ、近城は椅子に座り直す。その姿を見て、同僚たちが口々に抗議する。

「あんまりでしょう。それは社長。それはないですよ。解雇を取り消してください。」

周囲はしばらく騒然としたが、俺の意志が変わらないと分かると、次第にトーンダウンしていった。

ところが、部下の中の一人が大きな声を上げた。

「課長がやめるんなら、僕も一緒にやめます。少なくともここにはいたくない。」

彼は近城の前に進み出て、自分も退職すると宣言した。

「そうか。お前も堀内と同類か。」

近城は若手に向かって頷き、その場の全員に向かって呼びかけた。

「他には、俺よりも堀内を選ぶ人間はいるか? だとしたら全員首だ。俺に反抗しようって言うなら、全員追い出してやるよ。」

近城は怒りを隠さず、真っ赤な顔で怒鳴り続けた。文句があるなら出ていけと叫び、机を叩く。俺は近城に歩み寄ると、解雇と退職の手続きをしたいと申し出た。そうでもしなければ、全員の怒りが収まらないと思ったのだ。

それから大した時間もかからず、俺は会社を後にした。積み上げた二十年の思い出は心に残っていたが、それはしばらく封印しようと自分に言い聞かせた。

一週間後、近城から突然電話がかかってきた。

「話は後だ。会社に来てくれ。」

いつもは傲慢な近城らしからぬ、気落ちした声に驚かされた。俺が何事か尋ねても、答える気力もないという感じで、曖昧な返事ばかり。頼みを断ろうとしたが、前に職場にいくつかの私物を残していたのを思い出した。俺は気の乗らないまま、職場へと向かった。

会社に到着すると、平日の昼間だというのに妙に静かで、人の気配がなかった。みんな取材で出払っているのかと思うほど、とにかく人を見かけない。

出版部のフロアに足を踏み入れると、フロアにいるはずのない近城が一人、ぽつりと開いたデスクに向かっていた。

「あんた、来てくれたんだな。」

俺の姿を確認するなり、近城は目を輝かせてこちらに歩み寄った。そして、縋るように俺の手を取ると、会社に人の気配がない理由を、夢中で話し始めた。

「あんたを首にしたら、誰もいなくなったんだ。みんな辞めていったんだ。もう誰もいない。誰も。」

数週間前、近城が俺に解雇を言い渡した後から、会社の歯車は狂い始めた。俺の解雇に抗議するために、若手から順に退職者が続出した。それはやがてベテラン社員たちにも波及し、社員は綺麗さっぱり消え去ってしまった。

「あの…社長の息子さんというのは、いらっしゃるんじゃないんですか? 」

俺の頭に、近城の切り札的存在の人物が浮かび上がった。だが、その指摘に近城は項垂れた。

「あいつは…あいつもいない。出ていった。」

「え? どうしてですか?

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「あいつも…俺を見捨てたんだ。」

近城はそう言うと、目に涙を浮かべた。何事なのか聞けば、近城は息子の留学失敗談を明かしてくれた。

近城の自慢の息子は、帰国早々会社に合流したそうだ。しかし蓋を開けてみれば、息子は留学で何も学んでいないことが発覚した。息子はアメリカのビジネススクールに入ったものの、英語力で挫折したという。授業は何とか理解できる程度で、現地の人とのコミュニケーションも流暢にはいかない。最終的には日本人同士で固まり、学校でも世話になりっぱなし。テストもどうにか再試で切り抜けて、後はもう日本人としかいなかったらしい。だから、もう英語もろくに喋れなかった。

近城は息子から「留学生活は順調だ」としか聞いておらず、帰国後の現実を知って打ちのめされた。そして、その後には追い打ちも待っていた。

「あいつは『本の作り方なんぞ知らない』と言い捨てて、『わけのわからないことはやりたくない』と俺に喧嘩を売ったんだ。最後は、息子と取っ組み合いの親子喧嘩になって、そのまま親子の別れに発展した。」

「では、息子さんはどこにいるんですか? 」

「さあな。もうわからん。俺も妻も、連絡の取りようがない。」

近城は力なく答えた。息子は本当に音信不通で、行方すら分からないという。

「あんた…いや、堀内さん、お願いだ。私と会社の立て直しをしてほしい。これまでのことは全て水に流す。私と一緒に、社員を呼び戻してくれないか? あなたがいれば、きっと社員は戻ってくる。」

近城は最後の力を振り絞るように、土下座をした。

「頼む。」

床に頭をつけて詫びる。

「申し訳ありませんが、お断りいたします。私は今日、残った荷物を取りに来ただけです。」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。」

自分が使っていたデスクに向かった俺に、近城がしがみつく。俺はそれを振り払おうともう一度、拒否の言葉を口にした。

「お断りします。私にはもう、今の仕事と会社があります。」

「そ、そこを何とか。今の会社には私が話しに行きます。」

「でしたら、お話はここまでにしましょう。私は今、出版社の社長をしているんですよ。」

「は? それはどこで?

俺の告白に目を丸くした近城に、俺は自分の現状を伝えた。

「あなたに首を切られてから、俺は新たに自分で出版社を立ち上げたんですよ。それまでとは比べ物にならないほど小さな、地域情報誌だけを出版する会社です。それでも今後の事業発展を考え、俺の後を追って会社を辞めた人たちに声をかけ、雇いました。順調に行けば来年には歴史書の編集部門を立ち上げる予定です。全員に十分な知識と経験があります。それに、情報誌には欠かせない地域の方々との繋がりも保てています。私はこれから、恩を返したいと思っています。近城さんが切り捨てようとした地域との繋がり、俺はそれを会社の基盤にしようと考えました。前社長のおかげで、途絶えてしまいそうになっていた情報誌も無事継続させることができました。社長、私はあなたに返す義理はないと思っていますが、こうなれば解雇していただいたことに感謝したい。そして、今回の頼みに答える義理はありません。」

近城は、その場に崩れ落ちた。俺はそれを見届け、残した私物を引き上げた。

近城の土下座から一ヶ月も経たずに、あの出版社は倒産した。社員も去ってしまい、取引先にも銀行にも見放され、見事なまでに散ってしまった。

「本当に申し訳ないことをしてしまった。私が甘かったんだ。近城の本質を見抜けず、社員を路頭に迷わせた。」

退任し、故郷で療養している前社長は騒ぎを知り、俺に謝罪の電話をしてきた。重すぎる謝罪と言葉に詰まる涙声に、俺も今更やるせなさを感じた。

近城は妻にも離縁された。現在は一人寂しく暮らしているという。清掃のパートと飲食店でのアルバイトを掛け持ちして、日々食いつないでいるそうだ。あの近城からは想像もできない現状だった。近城の息子も、相変わらず行方知らずだ。

「堀内君、私にできることがあるなら、いつでも協力をさせてくれ。これがせめてもの私の罪滅ぼしだと思って。」

俺は前社長の謝罪と協力の意思を受け取った。思うことはあっても、今は前を向いていることが重要だった。

会社経営は慌ただしい。俺は社長として、取引先回りや銀行との面会に追われている。かつてしていた取材に出向けないのは寂しく、消化不良になりそうになる。だが、自分の今の頑張りが未来に繋がると信じて、これからも会社と地域のためになる仕事をしようと誓っている。

そして、新しい会社での日々は、また新たな出会いと挑戦の連続だった。俺が雇い入れたかつての同僚たちは、皆、それぞれの部署で手腕を発揮し始めている。彼らがいてくれるからこそ、新しい会社は成り立っている。

そんなある日、俺は新規事業のプレゼンの準備をしていた。海外展開を視野に入れた、新しいプロジェクトだ。ところが、そのプレゼン本番で、予想外の出来事が起こった。

「プレゼンは私の部下が英語で行わせていただきます。彼は英語が堪能で、我が社期待のホープであります。」

会社の今後を左右するプレゼンの場で、課長が突然そんなことを言い出したのだ。俺は驚いた。この課長は、普段から俺を「中卒のニート」と見下していた。それが、なぜ今になって俺を立てるようなことを言うのか。

俺は、この課長が何か企んでいることに気づいた。彼は俺に恥をかかせるつもりなのだ。英語が話せないと思っているのだろう。だが、俺は屈しなかった。

「承知しました。それでは、英語でプレゼンさせていただきます。」

俺は堂々とプレゼンを始めた。使い慣れた英語で、流暢に話す。相手方の企業は、さすがグローバル企業というべきか、全員が英語に堪能で、俺のプレゼンに時折頷きながら聞き入ってくれている様子だった。

プレゼンが終わると、会議室は拍手に包まれた。質疑応答にもすべて英語で答え切った。相手方の反応も良好で、取引は成立の運びとなった。

社長は満足そうに立ち上がり、こう言った。

「本社に習い、最近は弊社の社員にも積極的に語学の勉強を進めておりましてな。ここにいる岩君は、十年間海外暮らしをしていたこともあり、ご覧の通り若手では群を抜いて英語が堪能なのですよ。」

「い木君のおじさんが、海外に拠点を置いていらっしゃるんだよね。父が亡くなり、残された母と私を心配して叔父が自身の元へ呼び寄せてくれたのです。また、叔父は現地で会社を経営しておりましたので、私もそこで学生の頃から手伝いをしておりました。」

そう、俺は日本では中卒だが、叔父の力添えもあり、海外ではそれなりの大学を出ている。日本へ帰国したのは、母がこちらの病院に入院することとなったからだ。母は海外生活に馴染めず、入院するなら慣れた日本の病院がいいと言ったのだ。

俺の英語力を見くびっていた課長は、その場で顔を真っ赤にして慌てふためいていた。俺はとどめに、彼が日頃から俺に対して行ってきた嫌がらせの一部始終を、録音していた音声データを社長の前で再生した。

「お言葉ですが、長谷川課長のおっしゃっていることは事実とは異なります。私は入社以来、長谷川課長から幾重にも重なる嫌がらせを受けてきました。証拠が入り用ということになりましたら、音声のみですがこちらに。全てではありませんが、私に対する長谷川課長の嫌がらせ行為の一部始終が録音されています。」

俺はそう言って、ポケットから小型のレコーダーを取り出し、上層部の前に掲げた。

「なるほど。」

社長は鋭い眼光で長谷川課長を睨みつけると、重々しい口調で言った。

「部下からこのような訴えが上がってきているが、まず君の申し開きを社長室で伺おうじゃないか。じっくり時間をかけてな。」

長谷川課長は、脇をしっかり固められ、小さな悲鳴をあげながら連れて行かれた。

その後、長谷川課長は改めて社内調査を受けることとなった。結果、勤務中に一部の部下に対して不適切な言動があったとして、平社員に降格させられた上、窓際部署へ移動となった。

社内では長谷川課長の処分が話題となり、それを機に各部署も改めて組織内の風通しを見直した結果、会社全体の雰囲気がより明るいものへと変化した。また、それに伴いハラスメント再発防止のための研修や指針の改定なども積極的に行われることとなった。

一方、俺はあの時のプレゼンが高く評価され、引き続き海外案件の担当として抜擢された。さらにその件が発端となって、会社主体で社員一人一人のスキルを上げることを目的とした学びの場も設けられることになった。俺はそこで英語の社内講師を務める傍ら、自身も中国語を学び始めた。

プライベートでも嬉しい変化があった。入院していた母の手術が成功し、無事退院することができたのだ。

退院当日、病室の片付けをしていた俺に、母が穏やかに尋ねてきた。

「ゆうや、お仕事の方はどうなの? 」

「大変なこともあるけど、毎日が新鮮だよ。それに海外暮らしの経験を生かして、今は英語の社内講師もしているんだ。」

俺はにっこりと笑って答えた。母は嬉しそうに笑って頷いた。叔父も近々帰国できるように仕事を調整しているらしい。その時には、これまでお世話になった恩を伝えると共に、一回り成長した自分の姿を見せられるよう頑張ろう。俺は改めて気合いを入れるのだった。

かつて、俺を切り捨てた男は、今頃どこで何をしているだろうか。あの時、俺は解雇された。だが、そのおかげで新しい道が開けた。近城の暴挙がなければ、俺は今頃、あの会社で耐えながら働いていたかもしれない。そう思うと、あの解雇も悪くないものだったのかもしれない。

人生は何が起こるかわからない。だが、どんな逆境でも、自分を信じて努力を続ければ、必ず道は開ける。俺はこれからも、自分の会社と、そして大切な人たちとの未来のために、仕事に励んでいくつもりだ。