課長の内田は、まるで俺を見下すように鼻で笑った。
「あのね、大人の世界では察するっていう能力が必要になるんだよ。」
そう言ってから、彼は俺の顔をじっと見つめ、こう付け加えた。
「上司の言うことは絶対だからね。逆らわずに従うこと。これが社会のルールだから、肝に命じておいてね。」
俺の名前は柏木蒼太。今年で十九歳になったばかりだ。
高校を卒業して、今はこの会社で働いている。
ここは、父さんが長年勤めていた会社で、プログラミングでアプリやウェブサイトの開発を行う会社だ。
父さんは俺が小さい頃から、よくパソコンの前に座らせては、プログラミングのことを教えてくれた。
「そうだ。ちょっとこっち来てみろ。」
父さんは仕事が一段落すると、いつもそう言って俺を呼び、パソコンの画面を見せてくれた。
「蒼太にはまだ分からないだろうな。」
そう言って笑う父さんの顔は、いつも嬉しそうだった。
きっと父さんは、自分が作ったものを誰でもいいから見てほしかったのだと思う。
今、同じ仕事をしているから、その気持ちがよく分かる。
母さんの言う通り、初めは俺には画面に映るものが何なのか、さっぱり理解できなかった。
しかし、画面の中でキャラクターが生き生きと動いたり、かっこいい模様が描かれていくのを見るのは、とても楽しかった。
だから俺は、父さんが家で仕事をしていると、よくパソコンの画面を覗きに行った。
すると父さんも嬉しそうに、いろいろと教えてくれたのだ。
年齢が上がってくると、パソコンに触らせてくれるようになり、簡単なゲームを遊ばせてもらったり、一緒に作らせてもらったりもした。
おかげで俺は、プログラミングを楽しみながら学ぶことができた。
「蒼太は才能があるなあ。これはいつか追い越されるな。」
父さんがそう言ってくれるのが、本当に嬉しかった。
そしてプログラミングにのめり込んだ俺は、小学生になる頃には、父さんの手を借りなくても、自分一人でゲームを開発できるようになっていた。
父さんと同じように、自分が作ったものを誰かに見てもらいたくなる。
俺は学校の友達に、自分が作ったゲームで遊んでもらうことにした。
当時作っていたのは、本当に単純な、ボールを的に当てるだけのようなゲームだったが、友達が楽しそうに遊んでくれるのが、本当に嬉しかった。
「次のゲームはまだできないの?」
なんて言われると、照れくさくなった。
「今ちょっと忙しくてね。」
そんな風に、一丁前にプログラマー気取りで答えていた。
そしてますますプログラミングにのめり込んでいった俺は、中学生になった。
「そうだ。ちょっとこっち来い。」
俺が中学生になっても、父さんは俺を呼んでパソコンの画面を見せる。
しかしその頃に見せられた画面は、完成したものではなく、制作途中のものだった。
「ここなんだけど、お前ならどうする?」
そう聞いてくるようになったのだ。
父さんは、会社の仕事の手伝いまでさせてくれるようになった。
母さんは「中学生に意見なんか聞いていいの?」とよく言っていたが、父さんは決まってこう言った。
「いやあ、若い感覚というのは大事なんだ。これに蒼太には思いつかない角度の発想を持ってる。こいつはすごいぞ。」
父さんはいつもそう言って、俺を褒めてくれた。
そして手伝いではあるが、自分の手が加わったものが商品として世に出され、それを買ってもらったり使ってもらったりするのは、友達にゲームを遊んでもらうのとはまた違った感動があった。
初めは父さんが家に持ち帰ってきた仕事を手伝う程度だったのだが、次第に俺が一緒に会社に行って仕事を手伝ったり、父さんが働く様子を見せてもらったりするようにもなっていった。
会社での仕事は、家で一台のパソコンで作業するのとは、開発の規模がまるで違う。
その大きなものを作れる喜びに感動した俺は、頻繁に父さんの会社に通った。
そうしていると、俺の顔を覚えてくれる人も出てくる。
自分たちの仕事に中学生が興味を持ってくれたのが嬉しいのか、父さんの同僚の人たちは俺をよく可愛がってくれた。
当時社長をやっていた大谷さんという人は、特に可愛がってくれていた。
「蒼太君、将来は是非うちで働いてくれよ。」
冗談で言ってくれているとしても、嬉しかった。
「ありがとうございます。その時は是非よろしくお願いします。」
「そうなったら俺の立場ないじゃないですか。部長は家でゆっくりしてたのに、いきなり首ですか?」
「ははは。」
そう言って三人で笑った。
そんな風に楽しい中学生活を送っていた。そんなある日のことだった。
大谷さんから俺の携帯に電話が入った。
連絡先は教えていたが、実際に連絡が来ることはそれまでなかったので、正直驚いた。
「もしもし、大谷さん?」
「蒼太君、大変だ。」
電話口で大谷さんは慌てている様子だった。俺はとても嫌な予感がした。
「どうしたんですか?」
「お父さんが倒れた。救急車を呼んで、今から運ばれるところだ。」
嫌な予感が当たってしまった。
急なことに頭が真っ白になり、返事ができなかった。
「蒼太君、聞こえてるか?」
大谷さんの呼びかけで、我に帰ることができた。
「はい。病院はどこですか?」
搬送先の病院を教えてもらい、母さんと急いでその病院に向かった。
母さんと病院にたどり着いた頃、ちょうど父さんの検査が終わった頃だった。
検査の結果は、脳梗塞ということだった。
命はなんとか助かったが、父さんは半身麻痺という障害を負い、介護が必要な状態になってしまった。
あまりにも突然のことに、俺は理解が追いつかなかった。
もちろん父さんが働くことは不可能だ。
専業主婦だった母さんがパートで働き始めたが、それだけでは十分に暮らせるほどの収入にはならない。
貯金もいずれは底をついてしまうだろう。
そう思った俺は、中学を出たら働く決意をしていた。
そして中学三年の進路を決める時期。
俺は担任の先生に、家の事情と中学を出たら働くことを話した。
その時、親身になって考えてくれた先生には感謝してもしきれない。
先生は、中学の学歴でつける仕事では、父親の介護と母さんと三人で暮らせるほどの収入を得ることは難しいという現実を教えてくれた。
そして、夜間の定時制の高校に通い、昼間は働きながら夜に学校で学ぶという道を提案してくれた。
その時、大谷さんも俺の進路を心配してくれた。
「蒼太君は中学を出たらどうするんだ?」
「担任の先生から、定時の高校に通って昼間働いて夜は学校っていう進路を提案してもらいました。」
「そうか。だったら昼間はうちで働いたらどうだ?」
「いいんですか?」
「蒼太君ならうちでやれるだろう。社員にも顔が知れてるし、都合はいいと思うよ。」
「ありがとうございます。」
そうして俺は、昼間は大谷さんの会社でパートとして働き、夜は学校で勉強するという高校生活を始めた。
正直その生活は大変で楽ではなかったが、母さんも一緒に頑張ってくれたし、会社の人もよく面倒を見てくれたので、なんとか無事に高校を卒業することができたのだった。
そして俺は晴れて、この会社に正社員として入社することになった。
パートから正社員に雇用形態が変わるだけなので、俺の仕事は特に何も変わらない。
だけど一応新入社員としての入社となるので、皆さんの席を回り挨拶をしていった。
「新入社員の柏木蒼太です。どうぞよろしくお願いします。」
そう言うと、みんな「何を今更」と笑っていた。
しかし、みんな口々に「よろしくね」と温かく迎えてくれた。
そして次に向かう場所は、課長のところだった。
この課長は今年、同業他社から転職してきた人なので、俺とは初対面になる。
だから今までの顔見知りの社員さんたちとは違い、ちゃんとした挨拶をしようという心構えで向かった。
課長は内田という男だった。
「内田さん、お仕事中失礼します。」
そう言って声をかけると、内田は何も言わずに振り返った。
その表情には、めんどくさいと思っているのがありありと出ている。
「初めまして。今年から入社しました柏木蒼太と申します。どうぞよろしくお願いいたします。」
そう言って頭を下げる。
内田は見下したような目で、俺のことをまじまじと見た。
「随分若いけど、いくつ?」
こちらの挨拶は無視で、そう聞いてくる。
「今年で十九歳になります。」
「十九歳じゃあ、大卒ってことか。」
「はい。高校を出たばかりです。」
「出たばかり?出たばかりなら十八歳じゃない?もしかして、留年したの?」
「いえ、定時制だったので四年生なんです。」
「定時制って?おいおい。」
内田はわざとらしく大きなため息を吐いた。
「ねえ、お前みたいな底辺高卒の若造が、なんでこの会社入れれたの?」
「はい?」
「やってらんないよな。俺は東大出てんだよ。なのに高卒と一緒に働かなきゃならないのか。しかも定時制の。」
このものの言い方には苛立った。
定時制高校は、中学の担任の先生と大谷さんに支えられて進んできた道だ。
それを馬鹿にされるのは我慢ならない。
「どういう意味でしょうか?」
「だからね、一生懸命勉強していい大学に入って、その後別の会社で経験を積んだ俺が、君みたいな青二才と一緒に働かなきゃいけないのは、やってらんないと思ってもしょうがないでしょ。わかんないかなあ。」
そして内田は鼻で笑った。
「そっか。わかんないよね。ついこの間まで高校生だったんだもんね。そりゃ気づかなくてもしょうがないや。」
すると内田は、「しょうがないから教えてあげるよ」という態度で話し出した。
「あのね、大人の世界では察するっていう能力が必要になるんだよ。でもね、簡単に教えてもらえるわけじゃないの。そんな甘えた態度だと仕事にならないよ。大丈夫?」
そしてこちらを小ばかにした態度で笑った。
「それから、上司の言うことには絶対従いなさい。逆らわずに従うこと。これが社会のルールだから、肝に命じておいてね。」
俺は内田の話を黙って聞いていた。
そのことに内田は、俺が内田の大人の威厳のようなものを見せつけられて圧倒されたとでも思ったのだろう。
その気持ちが、満足そうに笑う内田の表情に、よく現れていた。
俺の心に、この男を少しこらしめたいという気持ちが芽生えた。
「上司の言うことは絶対ってことですね。」
「その通り。分かってくれたんだね。」
「はい。じゃあ腹減ったんで、焼きそばパン買ってきてください。」
俺の一言に、内田の顔が見る見る怒りに真っ赤になっていく。
「お前、ふざけてるのか?」
内田の怒鳴り声がオフィスに響いた。
「ふざけてないですよ。いいから早くパン買ってきてください。」
「お前、全然理解してないな。上司に逆らうなって言ってるんだ。子供だからって許されると思うなよ。」
「上司の言うことは絶対って教えてくれたのは、内田さんじゃないですか?何回も言わせないでください。早くパン買ってきてもらっていいですか?」
「お前、子供のおふざけで済まされると思うなよ。」
三度目の内田の怒鳴り声が響いた時、社長の大谷さんが現れた。
「どうした?大きな声出して。」
「社長、聞いてください。このガキ、そうに俺に指示してきたんです。子供のおふざけにしても、どう超えてますよ。」
「いや、おふざけじゃないよ。」
「はい?」
「蒼太君は、君の上司だから。」
「な、なんで?どういうことですか?」
「蒼太君には、これからうちの部長になってもらうからね。内田君は課長。つまり、蒼太君は君の上司になるからね。」
「まさか。」
内田は俺が部長になることに、納得がいかない様子だった。
その内田に、社長が説明する。
「内田君もプログラマーの端くれなら、柏徹也の名前は聞いたことがあるだろう。」
「もちろん。柏徹也って言ったら、業界じゃ知らない人がいない天才ですよ。」
「え?柏…」
「蒼太君はね、徹也君の息子なんだよ。」
「まさか。」
内田はむかつくやつだが、この内田まで父さんの名前を知っていることは、正直誇らしかった。
「そして徹也君は、うちの社員だったんだ。部長として、うちの中心になって活躍してくれていたんだ。」
そう話す社長は、少し寂しそうだった。
「しかし徹也君は重い病気になってしまってね。体に障害を負ってしまったんだ。そのことは内田君も知ってるだろう。」
「はい。」
「でも彼には息子がいた。それが蒼太君だ。蒼太君は子供の頃からお父さんにプログラミングを教わっていてね。中学生の頃には、お父さんの仕事を手伝えるまでになっていたんだよ。」
「中学生で?」
「そう。それが何を意味するかは、内田君にも分かるだろう。つまり、彼も相当な天才。」
「天才…なんてほどじゃ…」
思わず照れてしまった。
「それでね、蒼太君は高校生のパートでありながら、社員の仕事を補佐していたんだ。それどころか、教える立場になることもあったんだよ。」
「ああ…」
「プログラミングの知識、それに人に教える能力。それらが揃った蒼太君には、お父さんのように部長として会社を引っ張っていってほしいって、私の方からお願いしたんだ。文句あるかい?」
「いえ、ありません。」
内田は力なく頷いていた。
すると社長が、何かを思い出したように俺の顔を見た。
「そうだ、って天才蒼太。」
「その呼ばれ方するのは懐かしいです。」
思わず笑ってしまった。
俺は高校生の頃に、ここでパートとして働きながら、いろんなプログラミングコンテストに出場し、一時期たくさんの賞をもらった。
コンテストに出れば必ず入賞する俺は、社内で「天才蒼太」の名前で呼ばれるようになっていた。
まさかそれを内田が知っているとは思わなかったが。
「本当に申し訳ありませんでした。」
内田が急に立ち上がり、深く頭を下げてきた。
年上の男性に頭を下げられ、俺は少々戸惑ってしまった。
「あなたがまさか、あの天才蒼太とは知らず、すいませんでした。」
「いえ、そんな…いいですよ。」
「自分は上司に不遜な態度を取りました。降格なり、謹慎なり、処分は受けます。」
「いいですよ。そんな、知らなかったんですから、しょうがないです。」
「でもそれより内田さん、これから俺と力を合わせて、この会社のために働いてくれますか?」
「もちろんです。俺にできることなら、何でもやらせていただきます。」
「よろしくお願いします。」
そして二人で握手をかわした。
社長は笑顔で見守ってくれた。
「じゃあまず、焼きそばパン買ってきます。」
内田さんが走り出そうとしたので、慌てて止める。
「いいです、冗談ですから。」
俺と社長は思わず笑ってしまった。
しかしその様子を見て、きっとこの人は会社のために実直に働いてくれるだろうと思った。
俺は社長や他の社員さん、内田さんたちと共に、父さんがいた頃よりも、もっと立派な会社にすべく頑張っていこうと心に決めた。



