朝の台所に味噌汁の香りが漂っていた。炊きたてのご飯を茶碗に盛る千尋の背中を、俺は食卓から眺めていた。二階から結菜が駆け下りてくる足音がする。
「あのね、今日、発表があるの」
「そうか。何を書いたんだ?」
「三人で行った海だよ。パパが貝殻拾ってくれたやつ」
覚えていてくれたのか。胸の奥が少し温かくなる。千尋が振り返って笑った。
「あなた、今日は何時に帰れそう?」
「六時には上がれると思う。定時で切り上げるよ」
「じゃあ、夕飯は結菜の好きなハンバーグにしましょうか」
俺の名前は前田洋平。四十五歳。地方の医療機器メーカーで技術者をしている。妻の千尋と一人娘の結菜と暮らしてもうすぐ三年になる。家族の誰も知らないが、俺はかつて大学病院の外科医だった。「神の手」などと大げさに呼ばれたこともある。五年前、俺はそのすべてを捨てた。最愛の妻を病気で失ったからだ。人の命を救うのが仕事の俺が、たった一人の妻を救えなかった。その事実だけが、いつまでも胸の底に沈んでいる。
食卓で結菜が牛乳を飲みながら喋っている。
「ねえ、パパ。パパの会社って、何の機械を作ってるの?」
俺は箸を止めた。一瞬、返事が遅れる。
「病院で使う小さな部品だよ。地味な仕事だ」
「うん。パパ、頭いいもんね」
無邪気な言葉が静かに刺さる。食事を終えて、俺は玄関で靴を履く。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「行ってくる。二人とも、また夕方に」
結菜が背中に飛びついてきた。
「パパ、ハグしてから行って」
俺はかがんで、その小さな体を抱きしめる。守らなければと思う。守れなかった記憶があるからこそ、そう思うのだ。車を走らせながら、俺は窓の外を眺めた。田んぼの緑が朝日に光っている。大学病院にいた頃、景色を眺める余裕なんてなかった。手術、当直、学会、また手術。それが自分の生き方だと信じていた。今の俺はただの前田洋平だ。それでいい。それがいい。
日曜日の午後、久しぶりに家族三人で家にいた。千尋が思い出したように切り出す。
「今日、少しだけ屋根裏を片付けない? お祭りの前に家をすっきりさせたくて」
「私も手伝う!」
結菜が真っ先に立ち上がる。
「そうだな。俺もやろう」
屋根裏へ続くはしごは少し軋んだ。誇りっぽい空気と木材の匂い。狭い空間にダンボールがいくつも積まれている。引っ越しの時に運び込んだまま、開けずに置いてある箱もあった。千尋が窓を開けて風を通す。
「わあ、すごい誇り。結菜、マスクしてね」
「はーい」
三人で一つずつ箱を開けていく。
「あ、これ、私がちっちゃい頃の写真だ」
「ママ、この髪型、可愛い」
「やめてよ、その頃はまだ若かったの」
穏やかな笑い声が屋根裏に響く。奥の壁際に、ガムテープで厳重に閉じられたダンボールが二つ積まれていた。結菜がそれに気づいて、無邪気に手を伸ばす。
「これはパパの? これ、開けていい?」
俺の心臓が一つ跳ねた。
「そこは俺がやるから、大丈夫だ」
自分でも驚くほど早口になっていた。結菜が手を止めて俺を見上げる。その目が少し不思議そうに揺れる。
「うん。わかった」
それ以上、結菜は何も聞かなかった。千尋が向こうの箱を整理しながらちらりとこちらを見た。何も言わない。俺はダンボールを自分の膝元へ引き寄せた。ガムテープの上に薄く埃が積もっている。その中身は俺しか知らない。外科学会からの表彰状。患者からの感謝状の束。分厚い専門書。そして、医師免許と、白衣の胸ポケットに差していた古い名札。風を通したまま、五年間、この箱を一度も開けていない。
「これは昔の仕事の資料だ。もう使わないけど、捨てるのも面倒でな」
「そう。じゃあ、そのままでいいわよ」
俺はそのダンボールをまた元の壁際へ戻した。今日も開けない。多分、これから先も。ふと息をつく。汗が首筋を伝った。
数日後、町は夏祭り一色になった。商店街の先に提灯が下がり、電信柱には手書きのポスターが貼られている。夕方から始まる神輿に向けて、朝から法被を着た男たちが道路を掃き清めていた。俺たち家族は昼過ぎに家を出た。結菜は浴衣を着せてもらって、朝からずっとそわそわしている。
「パパ、りんご飴ってどんな味? 私、まだ食べたことないの」
「甘くて硬いかな? 歯にくっつくから、気をつけて食べるんだぞ」
「うん。パパにも一口あげるね」
千尋が笑いながら結菜の帯を直してやっている。
「こんなに嬉しそうな結菜、久しぶりに見た気がするわ」
「そうか。俺もこういうのに来るのは久しぶりだ」
街の広場に着くと、屋台の匂いが漂っていた。焼きそば、たこ焼き、かき氷。子供の笑い声と太鼓の音。どこにでもある夏の風景だった。だが、俺の目はある一角へ自然と止まった。広場の隅に白いテントが貼られている。「救護」と書かれた看板が風に揺れていた。中には腕章をつけた地元の看護師と、消防団員らしき若い男が立っている。救護所。ただそれだけのものだ。祭りには必ずあるものだ。それなのに、俺の心は静かにざわめいていた。胸ポケットの中で、指が無意識に動く。かつて白衣の胸に差していた聴診器を、今もそこに探しているのだ。何をしている、と自分を叱る。もう俺は医者じゃない。医療機器メーカーのただの技術者だ。五年前にそう決めたじゃないか。
結菜が俺の袖を引っ張った。
「パパ、あっちに金魚すくいがあるよ」
俺は視線を救護所から引き剥がして、娘を見た。
「パパ、聞いてる?」
「ああ、悪い。行こう。パパが金魚いっぱい救ってやるよ」
「本当? じゃあ、うちの水槽いっぱいにしようね」
「そんなになったら、うちが水族館になっちゃうわよ」
三人で笑いながら、俺たちは屋台の並ぶ通りへ入っていった。結菜が俺の右手を、千尋が左の袖をそれぞれ軽く握っている。ただの父親でいい。ただの夫でいい。救護所の白いテントはもう視界の外にある。太鼓の音が少しずつ大きくなっていた。夕方の神輿に向けて、町全体が熱を帯びていく。
夕暮れが町を朱色に染めた頃、神輿が始まった。祭りのハイライトだ。広場から本通りへ向かって、担ぎ手たちが「そいや、そいや」と声を上げながら進んでいく。提灯で飾られた神輿が揺れながら、中を舞うように動いていた。沿道は人で埋め尽くされ、拍手と歓声が絶えない。俺は結菜を肩車していた。浴衣の小さな足が俺の胸の前でパタパタ揺れる。
「パパ、見える? すごい、ぐるぐる回ってる」
「落ちないように、ちゃんとパパの頭を掴んでるんだぞ」
千尋が隣で笑いながらスマートフォンで神輿を撮っていた。穏やかな時間だった。それが、あと数秒しか続かないことを俺はまだ知らなかった。
異変は、掛け声のリズムが崩れた瞬間から始まった。神輿の右前の担ぎ手が足をもつれさせたのが見えた。バランスが崩れる。反対側の担ぎ手が支えきれずに膝をつく。嫌な予感がした。神輿の重心が大きく傾いた。悲鳴が上がった。数百キロはある木造の神輿が、若い男の一人を巻き込んで道路に倒れ込んだのだ。群衆が一斉に後ずさる。結菜が俺の頭の上でびっくりして震えた。
「パパ、今、何か落ちた?」
俺は結菜を素早く肩から下ろし、千尋に預けた。
「千尋、結菜を頼む。ここから動かないでくれ」
「あなた、どこへ?」
返事の代わりに、俺はもう人混みをかき分けていた。自分でもなぜ体が動いたのかわからない。医者を辞めて五年。蓋をしてきたはずのものが、勝手に手足を動かしていた。
倒れた神輿の下から、若い男が引きずり出されるところだった。腹の部分が赤黒く染まっている。腹部を強打したのだ。男の顔は蒼白で、口の端から泡状の唾液が漏れていた。周囲の担ぎ手たちが呆然と立ち尽くしている。そこへ救急救命士の制服を着た男が駆けつけた。胸の名札に「相沢」とある。
「下がってください。道を開けて。高橋さん、聞こえますか? 高橋さん!」
男の名は高橋というらしい。相沢は膝をついて頚動脈を触れた。その表情がじわりと硬くなる。
「救急車、まだか? ドクターヘリの要請は!」
無線に向かって叫ぶ声が震えていた。無線の向こうから声が返ってくる。
「救急車は渋滞で到着まで十五分。ヘリは天候不良で近隣機は出動不可」
相沢の顔が青ざめた。
「間に合わない。このままじゃ助からない」
高橋の呼吸が浅く早くなっている。出血性ショックの兆候だった。腹腔内で血管が破れているなら、あと数分で心停止する。俺の中で何かが軋んだ。医者を辞めた男が、助けを求められてもいない現場で口を出す資格があるのか。また救えなかったらどうする? また目の前で命が消えたら。妻の顔が頭の奥で一瞬フラッシュした。息をするのも忘れて、俺は立ち尽くしていた。高橋の唇から細い吐息が漏れた。その音を聞いた瞬間、俺の迷いは吹き飛んだ。
俺は相沢の隣に膝をついた。
「腹腔内出血だ。血圧、下がってるだろう。急がないと死ぬ」
「あ、あなた、何を……?」
「話は後だ。救急バッグを開けてくれ。静脈のルートを二本取る。太いやつで」
「え? あ、ああ。はい。分かりました」
体が覚えている。指先が勝手に段取りを組んでいく。彼の頭を少しそらせて気道確保。口腔内が潰れている。エアウェイあるか?
「あります。これでいいですか?」
「挿入は俺がやる。あなたはルート確保を頼む」
「分かりました」
高橋の口腔にエアウェイを入れる。呼吸音が少しだけ通った。腹部を圧迫する。右上部が硬く、肝損傷の可能性が高い。だが今は回復できない。ここでできるのは時間を稼ぐことだけだ。
「腹部圧迫。骨盤ベルトを腰に回して閉めろ。とにかく圧を維持する」
「はい、分かりました」
群衆はざわめきながらも、俺たちの周りに大きな輪を作って見守っていた。誰かが「あの人、医者か?」と囁く声が聞こえた。高橋の脈が少しずつ持ち直していく。だが、油断はできない。
「高橋さん、聞こえるか? 手を握ってみろ」
高橋の指が、俺の手のひらでかすかに動いた。生きている。まだこちら側にいる。十分ほどが過ぎた頃、遠くからサイレンが近づいてきた。救急車がようやく到着し、隊員たちがストレッチャーを持って駆け寄ってくる。俺は隊員に、これまでの処置と疑われる損傷部位、投与した輸液の量を簡潔に伝えた。隊員たちの表情が変わった。これはただの通行人の証言ではないと気づいた顔だった。
「分かりました。搬送先の指示をそのまま連携させます。ありがとうございます」
ストレッチャーが救急車に運び込まれ、扉が閉まる。サイレンが遠ざかっていった。俺の膝が遅れてきた震えでかくんと落ちた。アスファルトに両手をついて息を吐く。汗が目に入って染みた。五年ぶりだった。人の命をこの両手でつなぎ止めた感覚。懐かしくて、恐ろしくて。涙が出そうだった。
背後で足音が近づいてくる。振り返ると、千尋が立っていた。結菜の手をしっかりと握っている。
「あなた……」
声が細く震えていた。
「あなた、まさか……お医者さんだったの?」
俺は答えられなかった。結菜が俺と千尋を交互に見上げていた。何が起きたのか、まだ理解しきれない顔だった。沈黙が祭りの喧騒の中にぽっかりと落ちた。
俺たちは広場を離れて、川沿いの土手のベンチに腰を下ろした。祭りの太鼓の音が遠くから聞こえてくる。結菜は少し離れたところで、心配そうにこちらを見ていた。気を利かせて、近くのベンチに一人で座ってくれている。千尋は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。俺も、何から話せばいいのか言葉を探せずにいた。
「黙っていて、悪かった」
ようやくそう切り出した。
「俺は五年前まで、大学病院で外科医をしていた。心臓外科だ。それなりに名前も知られていたと思う」
「前の妻を、病気で亡くしたんだ。発見が遅かったわけじゃない。俺が誰よりも早く気づいていた。それでも助けられなかった」
声が途中で枯れた。
「人の命を救うのが仕事だと胸を張って言っていた俺が、たった一人の妻を救えなかった。手術室で他人の心臓は繋いでいたのに、家に帰れば妻が痩せていくのを、ただ見ていることしかできなかった」
言葉にすると、思っていたよりずっと重かった。
「メスを握るのが怖くなったんだ。だから逃げた。名前も職業も変えて、この町へ来た」
「千尋と結菜に会って、俺は救われた。もう一度、家族というものを持てた。だから余計に怖かったんだ。医者だったと知られたら、いつかまた、大切な人を目の前で失うんじゃないかと。そうしたら、今度こそ俺は本当に壊れてしまう。だから言えなかった」
千尋がゆっくりと、俺の手に自分の手を重ねた。
「どうして、どうして一人でそんな重いものを抱え込んでいたの?」
その声は責めていなかった。
「あなたが今日、あの人を助けたの、私見ていました。震える手で、それでも迷わず動いていた。あれが、あなたの本当の姿なんですね」
俺はただ、千尋の手を握り返した。離れたベンチから、結菜がとことこと歩いてきた。
「パパ、泣いてるの?」
「いや、汗が目に入っただけだ」
結菜が俺の膝にそっと頭を乗せた。
「パパ、さっきすごくかっこよかった」
夕闇の中、祭りの灯りが一つずつ消え始めていた。
祭りの夜から三日が過ぎていた。高橋は搬送先の病院で緊急手術を受け、一命を取り留めたと聞いた。現場での応急処置が命を繋いだと、医師が家族に伝えたらしい。その話を俺は職場の同僚から聞いた。町ではもう、俺の名前が「あの祭りで人を助けた技術者」としてちらほらと囁かれていた。
家の中は、少しだけ静かになっていた。千尋は普段通りに朝食を作り、結菜を送り出し、俺を見送る。けれど、その笑顔の奥に、まだ整理しきれない何かが残っているのが俺には分かった。俺自身も同じだった。
その日曜日の午後、玄関のインターホンが鳴った。千尋が出て、少しの間応対する声が聞こえた。
「あなた、お客様。朝倉さんっておっしゃる方が……」
俺は新聞を持ったまま、動きを止めた。朝倉。その名を俺はよく知っていた。いや、忘れられるはずがなかった。玄関に立っていたのは、五十歳の女性だった。背筋を伸ばして立っていた。目の光は昔と変わらない。朝倉裕子。俺が大学病院にいた頃の外科部長であり、恩師だった人だ。
「久しぶりね、前田君」
「先生、どうしてここが分かったんですか?」
「消防の記録と救急救命士の報告書をたどったら、あなたに行き着いたの。あの現場で、私の教え子以外にあんな処置ができる人間なんて、そういないもの」
俺は朝倉を家に通した。千尋が茶を出して静かに席を外そうとするのを、朝倉が呼び止めた。
「奥様もどうぞ、ご一緒に。あなたの旦那様の話をしに来たんです」
千尋が俺の顔を見た。俺は小さく頷いた。朝倉は静かに切り出した。
「前田君、あなたが病院を辞めた日のこと、私は今でも覚えているわ。奥様のお葬式の翌日に、辞表を持ってきて、深々と頭を下げたわね」
「あの時は、ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんかじゃない。私はただ悔しかったのよ。あなたほどの腕を持った人間が、自分を罰するために現場から降りようとしていることが」
千尋が湯呑みを膝の上でぎゅっと握った。
「奥様、ご主人は大学病院で百人以上の命を救ってきた人です。心臓外科で彼のメスに救われた人たちが、今も元気に生きています。それは事実として残っているんです」
「はい」
「でも彼は、ご自分の奥様を救えなかったことだけを抱えて、五年も逃げていた。私はそれをずっと悔やんでいました。もっと早く迎えに来るべきだった」
朝倉は俺に向き直った。
「うちの系列で、地方の中核病院が外科医を探しているの。常勤じゃなくてもいい。週に二日でも三日でもいい。もう一度、あなたの手を必要としている人たちのところへ、返してあげて欲しいの」
俺はすぐには返事ができなかった。
朝倉が帰った後、家には長い沈黙が落ちた。
「悪かった。急な話で驚かせたな」
「いえ、驚いてはいません」
千尋の声は、思っていたより落ち着いていた。
「祭りの日からずっと考えていたんです。あなたが手を動かしていた時の顔を、私、生涯忘れないと思う。切実で、それでいてあんなに真っすぐな目をした人を、私は他に知りません」
「千尋……」
「私、あなたに医者を続けて欲しくて言うんじゃないんです。あなたが、あなた自身を許せる場所に戻って欲しくて言うんです」
千尋の目に涙が滲んでいた。けれど、その口元は微笑んでいた。
「亡くなった奥様のことを、私は嫉妬したことがありません。あなたがその方を今も思っているのは、あなたが誠実な人だからです」
その時、襖の向こうから小さな音がした。結菜がそっと顔を覗かせた。どこまで聞いていたのか、その目は少し赤かった。
「パパ……」
「聞いていたのか?」
「うん、ちょっとだけ」
結菜は俺の隣に来て、ちょこんと座った。
「パパ、この前のお祭りでね、パパのこと、みんなすごい人だって言ってた。私、それを聞いて、ちょっとだけ怖かったの」
「怖かった?」
「うん。パパが遠くに行っちゃう気がして」
その言葉に、胸が締め付けられた。
「でもね、考えたの。パパが助けた人にも、きっと私みたいな女の子がいるかもしれないでしょ。パパがいなかったら、その子のパパ、いなくなっちゃったかもしれない」
十歳の口から出た言葉が、あまりに重かった。
「私、パパがお医者さんに戻っても、パパはパパのままだよ。ちゃんとうちに帰ってきてくれるでしょ?」
「ああ、必ず帰ってくる」
「じゃあ、いいよ」
千尋が笑いながら涙を拭った。
「この子には敵わないわね」
俺は結菜の頭に手を置いた。その夜、俺は屋根裏に上がった。壁際のダンボールを、五年ぶりに開けた。表彰状の束の下に、名札があった。前田洋平。その名札を、俺はそっと手に取った。
数週間後、俺は朝倉の紹介で、隣町の病院の救急外来に立っていた。週に三日、非常勤の外科医としての勤務が決まった。残りの日は、医療機器メーカーの技術者の仕事を続けることにした。どちらも俺の一部だ。片方だけを選ぶ生き方は、もうしない。白衣に袖を通す瞬間、指先が少しだけ震えた。恐怖ではなかった。畏れという方が近い。命を預かる場所に、また立つことへの静かな畏れ。
初日の夕方、廊下で見覚えのある顔とすれ違った。救急救命士の相沢直樹だった。当直で立っていたらしい。相沢は俺の白衣を見て、しばらく言葉を失っていた。
「先生、本当に戻られたんですね」
「まだ駆け出しみたいなものだよ。五年のブランクは大きい」
「あの祭りの日、俺、一生忘れません。目の前で人が死にかけているのに、俺は手が止まっていた。先生の声で動けたんです」
「あなたの手が動いたから助かったんだ。俺一人じゃ何もできない」
相沢が深く頭を下げた。若い救命士の背中を見送りながら、俺はふと廊下の窓の外に目をやった。夕焼けが病院の駐車場を染めていた。
家に帰ると、玄関に結菜の靴と千尋のサンダルが並んでいた。台所から味噌汁の匂いが漂ってくる。結菜が駆け寄ってきた。
「パパ、お帰り。今日、病院どうだった?」
「ああ、緊張したけど、ちゃんと帰ってこれたよ」
千尋が振り返って笑った。
「お帰りなさい。ご飯、もうすぐできますよ」
食卓に着きながら、俺は自分の両手をそっと見つめた。一度は封印した手だったけれど、この手はまだ誰かのために動くことができる。そして、この手はこれからも、目の前の家族のために湯呑みを運び、結菜の頭を撫でるのだ。



