「まさか彼女に限ってそんなわけないだろう。」
そう言い聞かせても、心のどこかに小さな引っかかりが残った。
俺の名前はただのおむ。営業事務として働いている。真面目で几帳面な性格で、数字のミス一つが命取りになるこの仕事に誇りを持っていた。小学生の頃、父が不倫の末に母を捨てたことを知ってから、俺は曲がったことが何より嫌いになった。母子家庭で育ち、周りの冷たい目に耐えながら勉強に打ち込み、今の会社に就職した。
直属の上司、藤原美ゆさん。誰もが一目置く美人で、仕事も完璧。物静かで無駄なことを言わないけど、一度仕事に向き合うと、その真摯な姿勢に誰もが惹きつけられる。俺もその一人だった。尊敬なのか恋なのか、最初は分からなかったけど、徐々にその思いは確かなものになっていった。
親友の光一だけが、その気持ちを知っていた。光一はいつも率直に言う。「あの人、鉄の女みたいで全然愛がないよな。気持ちを伝えても跳ね返されるだけかもよ。」
それでも、俺の気持ちは変わらなかった。むしろ気になることが増えていった。それは、社長の息子で、俺が一番嫌いな男、ひ田さんの存在だった。彼は最近、美ゆさんと妙に親しげだった。仕事中の雑談、すれ違い様の微笑み。そして「ひ田さん、美ゆさんに交際を申し込むらしいよ」という噂まで聞こえてきた。
その噂を聞いた数日後、俺は彼女の秘密を目撃してしまうことになる。
その日は定時より早く仕事が片付いた。外は土砂降りで、折りたたみ傘を忘れた俺は、どうやって帰ろうかと玄関で迷っていた。すると、美ゆさんが声をかけてきた。「雨がひどいので、車でお送りします。」断ろうとしたが、彼女の好意を無駄にするわけにはいかず、車に乗せてもらうことに。
車内は妙に静かだった。緊張して隣を歩くのも気まずかった。駅に着く頃、ラジオから懐かしい曲が流れ出した。その瞬間、美ゆさんが小さく息を飲み、涙をこぼし始めた。驚いて何も言えずにいると、後部座席からウインという機械音が聞こえてきた。どうやら紙袋が揺れているらしい。彼女は焦って「やめて。大丈夫だから、そのままにして」と言うが、振動で袋が落ち、中から大量の大人のおもちゃが転がり出した。
頭の中に光一の言葉がよぎる。「あの人、地上らしいぞ。」
嘘だろ……。美ゆさんは真っ赤な顔で何も言わず、目は涙で潤んでいた。そして、俺の家の前で彼女はこう言った。「バレた以上は、覚悟してね。」
翌日、美ゆさんは何事もなかったように仕事をしていた。だが、その日、さらに俺を打ちのめす噂が飛び込んできた。「美ゆさん、ひ田さんと付き合ってるらしい。」あれだけ美ゆさんに冷たい態度を取っていた男と、彼女が付き合っているなんて。確かに彼は俺と違って社交的で、魅力がある男だ。彼女が惹かれるのも無理はないのかもしれない。でも、受け入れられなかった。
昼休み、食堂でひ田さんが社員たちに昼食を奢っていた。彼は得意げに話し出す。「美ゆさんさ、年上だし。正直俺としてはあんまり乗り気じゃないんだけどさ。まあ、あっちが俺にすがってきてるって感じ。断るのも悪いし、仕方ないかな。」その言葉を聞いた瞬間、俺の怒りは頂点に達した。彼女を何だと思っているんだ。その日の午後、美ゆさんが体調不良で倒れた。俺が必死に介抱して、病院まで付き添った結果、なんと初期の肺炎と診断された。
彼女が入院し、病室で眠る姿を見つめながら、俺は決意した。ひ田は美ゆさんを本気で愛していない。彼女をあんな男に任せるわけにはいかない。彼女を守りたい。彼女に幸せになってほしい。それが、俺の使命になった。
そして、美ゆさんが職場に戻ってきた後、ひ田の発言に俺はついに耐えられなくなった。「お前も病室でなんかあったんじゃないの? あの人、真面目そうな顔して、実は欲深いタイプなんだよ。誰でもいいんじゃないの? 」その言葉を聞いた瞬間、俺は立ち上がり、怒りをぶつけた。「自分の婚約者のことを、そんな風に言うなんて信じられません。本気で彼女を愛しているんですか? 」
「もしかしてお前、美ゆさんのこと好きなんだろ?

まあ、いい女なのは間違いないけどな。だけどさ、お前には彼女、絶対に渡さないから。」
その余裕ぶった態度に、俺はさらに怒りが湧いた。そんな日々が続く中、ついに決定的な事件が起こった。ひ田が美ゆさんを取引先に差し出そうとしたのだ。「せっかく取ってきた商談が台無しじゃないか。お前のせいで先方が激怒して話にならなくなったんだよ。ここで土下座しろ。」彼は、相手の社長の誘いを断った美ゆさんが悪いと、誰の目も気にせず怒鳴り散らした。
俺は気づけばひ田の胸ぐらを掴んでいた。「ふざけんなよ。そんなやり方で取った仕事が本当に誇れるのか。彼女を何だと思ってるんだ。人として最低だぞ。」
その時、社長が現れた。社長は状況を確認すると、ひ田に言い放った。「悪いのはお前の方だ。なぜ商談に部下を差し出す必要がある? ただ野君の言うことは正しい。彼を首にはできない。」そして、社長はその場でひ田の頬を叩いた。「お前、結婚を考えている相手によくもそんなことを。」
その後、社長は美ゆさんに謝罪し、俺にこう言った。「彼女のこと、頼んだよ。」その言葉とともに、俺は彼女を会社近くの公園へ連れ出した。温かい飲み物を買って、ベンチに並んで座る。沈黙が心地よかった。
「本当なら、私にもあの子くらいの子が、1人いるはずだったの。」突然の告白に、俺は息を飲んだ。彼女は静かに語り始めた。貧しかった学生時代、家庭のある年上の男性を本気で愛してしまい、妊娠したこと。その事実を知った男性の妻に突き飛ばされ、お腹の命を失ったこと。そのことを知ったひ田から「地」と呼ばれ、それをネタに交際を迫られていたこと。体の関係を持たなかったから、彼はだんだん苛立つようになったこと。
「あの出来事以来、私は誰かと愛し合うということが、もう怖くなってしまったんです。」そう語る彼女の声には、深い傷と、それでも前を向こうとする覚悟があった。
「俺じゃダメですか? あなたのそばにいて、支えていきたいんです。」俺は自然とそう言っていた。「焦らなくていい。時間がかかってもいいから、またあなたの笑顔が見たいんです。」彼女の瞳に、ほんの少しの希望のような笑顔が浮かんだ。
それから数ヶ月、俺は彼女と友達としてゆっくりと距離を縮めていった。休日に買い物に出かけたり、仕事終わりに軽く飲みに行ったり。彼女の好きなもの、苦手なこと、過去の痛み、今の小さな幸せ。全てを知りたかった。そして、彼女の笑顔が少しずつ増えていくのを感じていた。
海辺の公園で、俺は彼女の手を取った。「もっと近くで、あなたを知りたい。ずっと、そばにいてくれますか?
」彼女は頷いて、俺の手を握り返してくれた。あの日のキスは、まるでやっと始まった二人の恋の味がした。そして、俺たちは初めて夜を共にした。すると彼女は、月明かりの下で、あの時車で見た紙袋を俺に差し出してきた。中にはおもちゃが入っている。「前に、責任持ってって言ったでしょ。」そう微笑む彼女を見て、俺は彼女を強く抱きしめた。どうやら彼女は、ひ田に無理やりおもちゃを使わされていたらしい。だが、今はそれすらも、俺に全てを委ねてくれた証だと感じた。その夜、俺は彼女と何度も愛し合った。
それから1年後、俺たちの元に新しい命がやってきた。2人でサインした婚姻届を区役所に提出した日、俺は心から誓った。これからもずっと、この人と、そして生まれてくる子供を守っていくと。これが俺たち2人の馴れ初めです。


