朝6時、競馬場のスタンドにはまだ誰もいなかった。俺はゴミ拾い用のトングと袋を手に、観客席の段差を一段ずつ上がっていく。昨日の馬券の半券、空き缶、丸められた新聞紙。それらを拾い集めながら、俺は誰とも目を合わせずに生きてきた。
俺の名前は塔野優馬。45歳。この競馬場の施設管理員だ。かつて俺は心臓外科医だった。世界中の難病患者が俺の手を求めて来日し、雑誌は俺を“手術の神様”と書き立てた。10年前、そのすべてを捨てた。今、俺の手にあるのはメスではなく、錆の浮いたトングだけだ。それでいい。そう思って10年やってきた。
スタンドを降りていくと、馬券売り場の窓口に明かりがついていた。倉沢なお。シングルマザーで、ここで5年働いていると聞いている。俺と顔を合わせるといつも明るく挨拶してくれる。
「おはようございます。今日も早いですね」
「ああ、おはよう。今日は風が冷えるから、暖房をつけておいたほうがいいぞ」
「ありがとうございます。気にかけてくださって」
なおは笑った。その笑顔の裏に疲れの色が滲んでいることに、俺は気づいていた。気づいていて、見ないふりをした。
午後開催の日、競馬場は人で埋まる。俺はパドック裏の通路を掃除していた。そこに、小学生くらいの男の子が一人、柵にしがみつくようにして馬を見ている。
「ラストランナー、頑張れよ。今日こそ、今日こそだからな」
声をかけられた馬は、白い毛の混じった栗毛の老馬だった。足を引きずるように歩いている。予想を見なくても分かる。最低人気。12頭立ての12番人気だ。
俺がそばを通りかかると、少年が振り返った。人懐こそうな目をしていた。
「おじさん、ラストランナーって知ってる? すごく強かった馬なんだよ。昔はG2も勝ったんだから」
「そうか。よく知ってるな」
「俺、リクト。倉沢リクト。母ちゃん、ここで働いてるんだ」
「ああ、倉沢さんの息子さんか。お母さんにはいつも世話になってる」
リクトと名乗った少年は嬉しそうに笑った。そしてまた馬のほうを向いた。
「みんな、もう走らせるなって言うんだ。かわいそうだって。でも、走りたいのはラストランナー自身なんだよ。だって、走ってる時の目がすごく綺麗なんだもん」
柵にしがみつく小さな背中が、なぜか胸に刺さって離れない。誰にも期待されない馬を本気で信じている子供。その姿が、遠い記憶の中の誰かと重なった。
その日のメインレース、ラストランナーは最下位でゴールした。それでもリクトは拍手を送り続けていた。
数日後の朝、俺は階段の踊り場で、しゃがみ込んでいるなおを見つけた。胸を押さえ、額に汗を浮かべている。
「倉沢さん、大丈夫か?」
「あ、塔野さん。すみません。ちょっと立ちくらみが。もう大丈夫です」
顔色が悪い。少し座って休んだほうがいい。なおの唇にはわずかにあざが出ていた。息は浅く、不規則だ。俺の10年前の知識が、まだ目の前の症状を読み取ってしまう。これはただの貧血じゃない。
「ご心配かけてすみません。最近、寝不足が続いていて。リクトの塾の送り迎えもあるし」
「無理しないほうがいい。一度、ちゃんと病院で見てもらったほうがいいんじゃないか」
「そうですね。落ち着いたら行ってみます」
「落ち着いたら」という言葉に、俺は何も返せなかった。シングルマザーが「落ち着いたら」と言う時、それは「行けない」という意味だと、俺は知っている。
立ち去ろうとした俺の背中に、なおの声が追いかけてきた。
「塔野さん、なんだかお医者さんみたいな見方されますね」
足が止まった。
「昔、家族に病人がいたんだ。それだけだよ」
「そうでしたか。すみません、変なこと言って」
競馬場を出て、俺はしばらく外の壁にもたれていた。助けたいと思った瞬間、別の声が頭の中で鳴る。お前に、また人の命を背負う資格があるのか。あの少女を救えなかったのに。
その日の午後、競馬場の相馬場長が出てきた。顔つきが暗い。
「塔野君、ちょっといいか?」
「はい」
「来月の役員会で人員整理の話が出る。売上がもう3年連続で落ちている。何人かには辞めてもらうことになるかもしれん」
「俺の名前も入っていますか?」
「君は残ってもらう。問題は若い職員のほうだ。倉沢さんのようなパートの女性も……」
相馬は言いにくそうに目を伏せた。シングルマザーで、心臓に異変を抱えているかもしれない女性が、職を失う。俺の中で何かが軋み始めていた。
俺はいつからか、毎朝、馬房の前にラストランナーの様子を見に行くようになっていた。ニンジンを一本、ポケットに忍ばせて。理由は自分でもうまく説明できない。ラストランナーの首を撫でていると、背後から声がかかった。
「塔野さん、毎朝来てくださってるんですね」
「ああ、牧瀬先生に立ち入ってすみません」
「いえ、ラストランナーも塔野さんが来ると落ち着くみたいで」
競馬場の獣医師、牧瀬裕子は若いがしっかりした意志の持ち主だった。
「塔野さん、前から伺いたかったんですが」
「何でしょう?」
「先週、あの馬の足に裂傷ができた時、消毒のやり方を見ていらっしゃいましたよね。あの時、ガーゼの当て方について私にアドバイスをくださいました。あれは素人の知識じゃないと思うんです」
俺は微笑んで首を振った。
「昔、本で読んだだけです。たまたま覚えていただけで、深い意味はありません」
「そうですか」
牧瀬はそれ以上は聞かなかった。ただ、その目には確かな疑いの色があった。
その夜、俺はアパートの押入れの奥から古いダンボールを引っ張り出した。10年間、開けることを避けてきた箱だ。アルバムを開く。病院のベッドの上で、痩せた少女が笑っている写真があった。柏山弓。生まれつきの心疾患で、何度も手術を繰り返してきた少女だ。俺が最後に執刀した患者だった。
弓は競馬が好きだった。特に、当時3歳でデビューしたばかりの一頭の馬を、いつもテレビで応援していた。
「先生、あの馬ね、ラストランナーっていうの。“最後に走るランナー”。私、あの馬が走っている間は絶対に死なないって決めたの」
そう言って笑った少女の顔を、俺は忘れたことがない。手術は失敗だった。俺の技術ではなく、運命がそう決めていたのだとしても、俺はメスを置いた。
アルバムの最後のページに、弓の母親から渡された手紙が挟まれていた。震える字でこう書いてあった。
「先生、弓はあなたを恨んでいませんでした。最後までラストランナーを応援していました。あの馬が引退する日まで見届けてあげてください。それがあの子の最後の願いでした」
俺は手紙を閉じた。窓の外で夜の風が鳴っていた。ラストランナー。最下位を走り続ける12歳の老馬。あいつの引退を見届けるために、俺はこの競馬場へ流れ着いた。それだけのつもりだった。
その週の終わり、なおは休憩室で意識を失いかけた。話を聞いた相馬は半ば強引になおを地元の総合病院へ送り込んだ。検査結果が出たのは3日後の朝だった。俺は事務所の前で、検査帰りのなおと待ち合わせた。封筒を抱えたなおの顔は沈んでいた。
「倉沢さん、結果は?」
「先天性の心臓の病気だそうです。生まれつきの。私、貧血だと思って生きてきたんですけど」
「医者は何と言ってたんだ?」
「手術しないともう長くは持たないって。それも、かなり難しい手術だって言われました」
なおは乾いた笑い方をした。
「費用もすごくかかるみたいで。私、貯金なんてほとんどないんですよ。リクトの中学のためのお金を貯めるのが精一杯で」
「リクトには話したのか?」
「いえ、これからお話します。多分、もう働かせてもらえないですよね」
俺は何も言えなかった。封筒の中の病名を聞かなくても、分かってしまう自分がいた。10年前、柏山弓のカルテにも同じ文字が並んでいた。
「塔野さん、リクトにはしばらく言わないでもらえますか? あの子、まだ12歳なんです。親が病気だなんて、知らないほうがいいんです」
「分かった。約束する」
なおは深く頭を下げて、事務所へ入っていった。
その日の夕方、リクトが制服のまま競馬場へ駆け込んできた。ランドセルを事務所の隅に置き、慣れない手つきでパドック裏のゴミ拾いを始めた。俺はトングを差し出した。
「リクト、これ使え。素手じゃ危ない」
「ありがとう、おじさん。俺、母ちゃんの代わりに少しでも稼ぎたくて。社長さんが、手伝うなら小遣いくらいは出してやるって」
「そうか。無理はするなよ」
「うん。ねえ、おじさん、ラストランナー、引退するって本当?」
俺は手を止めた。馬房のほうを見る。正式な通達が出たのは昨日のことだった。
「ああ。来月の最終開催で、引退レースになる」
「そっか。じゃあ、あいつの最後、ちゃんと見届けてやらなきゃな」
リクトの横顔は、12歳の子供のそれではなかった。母親の異変に、多分もう気づいている。
牧瀬裕子が俺のアパートを尋ねてきたのは、雨の夜だった。彼女は玄関先で頭を下げた。
「夜分にすみません。どうしてもお話したいことがあって」
「どうぞ」
狭い部屋に牧瀬を招き入れた。彼女は座るなり、一冊の医学雑誌をテーブルの上に置いた。12年前のものだった。表紙に、若い頃の俺の顔写真が載っている。“世界が注目する天才外科医・塔野優馬”と見出しが踊っている。
「大学の頃、教授に勧められて読んだ雑誌です。捨てられなくて、ずっと持っていました」
俺は黙って聞いた。
「先週、ラストランナーの心音を聞いていた時、塔野さんが『不整脈の収縮が混ざってる』とおっしゃいました。獣医師の私でも、触診なしには気づけない音でした」
俺は黙ってお茶を入れた。
「人違いだと言っても、信じてもらえそうにないな」
「はい、もちろんです」
「俺は10年前にメスを置いた。もう医者じゃない」
「なぜやめられたんですか?」
俺は答えなかった。代わりに押入れから弓のアルバムを取り出して、写真を見せた。牧瀬は長いこと、その写真を見つめていた。
「この子、救えなかったんですね」
「俺の腕でも救えない命があった」
「塔野さん、倉沢さんの病名、ご存じですよね」
「ああ、分かってる」
「執刀できる医師が、この地域にはいません。県外まで探しても、なかなか見つからないそうです」
牧瀬はまっすぐに俺を見た。
「あなたがもう一度メスを握ってくださるなら、倉沢さんは助かるかもしれません」
俺は首を振った。
「俺はもう、手が動かない。10年握っていないんだ。指先が自分のものじゃないみたいだ」
「本当にそうですか? 私は医者の手は忘れないと思っています。忘れていたら、ラストランナーの異変に気づけるはずがない」
俺は窓の外を見た。助けたいと思う気持ちは、確かにある。あると認めた瞬間、弓の顔が浮かんでくる。俺の手の中で、戻ってこなかったこと。
「もう一人失うのが怖いんだ。それだけだ。すまない。今夜はこれで帰ってくれないか」
牧瀬は静かに立ち上がった。
「倉沢さんも、リクト君も、ラストランナーも、みんな最後まで走ろうとしています。先生だけが立ち止まっていていいんですか?」
ドアが閉まった。俺はテーブルの上の雑誌を、長いこと見つめていた。
事態が動いたのは、その3日後の朝だった。俺がスタンドの掃除をしていると、馬券売り場のほうから悲鳴が聞こえた。駆けつけると、なおが窓口の前で倒れていた。
「倉沢さん、聞こえるか? 倉沢さん!」
呼吸が浅い。脈は早く、弱い。俺の手は自然に頸動脈へ伸びていた。
「救急車を今すぐ。リクトには後で連絡を入れてくれ」
職員が走った。俺はなおの頭を膝に乗せ、気道を確保した。自分でも驚くほど落ち着いていた。なおは搬送先の市民病院で緊急処置を受けた。
夜になって、相馬場長と俺は病院の廊下で医師の説明を聞いた。
「心臓の弁の状態がもう限界です。一週間以内に手術をしなければ、命の保証はできません。ただ、この症例を執刀できる医師が当院にはおりません。今、全国に紹介を出して受け入れ先を探しています」
「見つかるんですか?」
「正直に申し上げて、難しいです。手術自体が特殊なんです」
相馬は廊下の椅子に崩れるように座った。俺はその隣に立ち尽くしていた。病室のドアの向こうでなおが眠っている。ロビーではリクトが膝を抱えて泣いていた。
その時、競馬場から連絡が入った。来月の最終開催、競馬場の存続をかけた最後の開催が正式に決定したという。ラストランナーの引退レースが組まれることになった。
俺は病院を出て、夜道を歩いた。冷たい風が頬を打った。ポケットの中で、手のひらをゆっくりと開いて閉じた。10年ぶりに、その動きを意識していた。
街灯の下で立ち止まり、俺は空を見上げた。弓と心の中で呼びかけた。あの日、俺は君を救えなかった。だけど、君が応援していたあの馬は、まだ走っている。俺はどうすればいいのだろう。
引退レース当日の朝、空は薄曇りだった。俺はいつものように馬房へ向かった。ラストランナーは首をゆっくりと上下させながら、俺の差し出したニンジンを受け取った。その時、相馬が息を切らして走ってくるのが見えた。
「塔野君、倉沢さんの容態が急変したと連絡があった」
「いつですか?」
「ついさっき。病院からだ。リクト君が今、向こうに一人でいる。私は開催の準備があって、すぐには動けない」
俺は頷いて、競馬場のトラックを借りた。市民病院までは車で20分の距離だった。
病院のロビーに着くと、リクトが長椅子の端で両膝を抱えていた。肩が小刻みに震えている。俺が隣に腰を下ろすと、リクトは顔を上げた。泣きはらした目だった。
「おじさん……母ちゃんが、母ちゃんが」
「落ち着け。今、お母さんはどうしてる?」
「集中治療室。先生たちが、もう手術しないと無理だって。でも、執刀する先生が見つからないって。母ちゃん、死んじゃうの? 俺、母ちゃんしかいないんだよ」
リクトの声がロビーに響いた。俺は手のひらをゆっくりと開いて閉じた。10年間、誰の命にも触れずに来た手。一人の少女の顔が浮かんでいる。あの子が応援していた馬の引退の日に、俺はここに立っている。偶然じゃない。弓が俺をここまで連れてきたんだろう。
「リクト、よく聞いてくれ。おじさんは昔、医者だったんだ」
「え? どういうこと?」
「心臓の手術をする医者だ。10年、メスを置いてきた。だけど今日、もう一度握る。お母さんはおじさんが助ける。約束する」
リクトは目を見開いたまま、声を出さなかった。俺は立ち上がり、ステーションへ向かった。当直の看護師に、外科部長への連絡を頼んだ。名乗ると、看護師の表情が固まった。雑誌で見たことがある、という顔だった。
外科部長室で、俺は10年ぶりに自分の名前を口にした。
「塔野優馬です。倉沢なおさんの執刀を、私にやらせていただきたい」
「塔野? あの塔野先生ですか? 10年前に引退された」
「正式な復帰ではありません。今日、この一例だけです。責任は全て私が取ります」
部長は立ち上がって、深く頭を下げた。
牧瀬裕子に連絡が入ったのは、その10分後のことだった。
午後2時、手術室の扉が閉まる。無影灯の下、なおの胸は青いドレープに覆われていた。
「メスをお願いします」
差し出されたメスを握った瞬間、10年が音もなく溶けていった。最初の切開を入れる。血管の走り方、心膜の厚み、すべてが記憶の中にあった通りだった。
同じ時刻、競馬場のスタンドは最終開催の客で埋まっていた。牧瀬裕子はパドックの柵越しにラストランナーを見ていた。老馬はいつもと変わらず、静かに歩いていた。相馬は特別観覧席で、リクトの隣に座っていた。リクトはモニターで母親の手術室の様子を見つめ、それから芝生を見つめた。
最終レースのファンファーレが鳴った。12頭立て。ラストランナーは大外の12番。単勝は200倍を超えていた。ゲートが開いた。スタートでラストランナーは出遅れた。前の11頭が一団となって先へ走り、老馬は最後方に取り残された。スタンドからため息が漏れた。リクトは身を乗り出した。
「走れ! 走れ! ラストランナー!」
その声に答えるように、第3コーナーの手前から、一番外を回る栗毛の影がじわりと追い出しを始めた。
手術室では、俺が破損した弁にアプローチしていた。癒着が想定より強い。スタッフが息を飲むのが分かった。俺は呼吸を整えた。縫合の糸が指先で滑らかに動いた。
第4コーナーを回って、最後の直線。先頭は内側、ラストランナーは大外。追い込んでくる。あの引きずるような歩き方の老馬が、地面を蹴っていた。牧瀬の目から涙が流れていた。相馬は立ち上がっていた。スタンド全体が立ち上がっていた。最下位を走り続けた馬の名前を、誰もが叫んでいた。
「ラストランナーが走ってる! 走ってるよ!」
ゴールの前、ラストランナーは先頭から半馬身差の3着でゴールした。勝てなかった。それでも、誰一人として、その走りを“負けた”とは思わなかった。
同じ時刻、手術室の心電図が安定した波形を刻み始めていた。俺は最後の縫合を終え、針を置いた。
「執刀医、塔野優馬です。全身麻酔から覚めたら、ご家族にお伝えください」
無影灯を見上げた。眩しさの向こうに、笑っている少女の顔が見えた気がした。
なおが目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。リクトが枕元に駆け寄り、母親の手を握って泣いた。なおは息子の頭を撫でながら、ベッドの脇に立つ俺を見て、静かに微笑んだ。
「塔野さん……先生って呼んでいいんですか?」
「倉沢さん、今は塔野でいい。よく頑張ってくれた」
廊下に出ると、リクトが追いかけてきた。俺はベンチに腰を下ろし、隣にリクトを座らせた。ポケットから古いアルバムを取り出した。
「リクト、聞いてくれるか? 10年前のことだ」
俺は少女のことを話した。病室のテレビで、デビューしたばかりの一頭の馬をいつも応援していたこと。その馬の名前がラストランナーだったこと。
「お母さんから手紙をもらったんだ。あの馬の引退を見届けてやってくれ、それが弓の最後の願いだったと。だからおじさんはこの競馬場に来た。掃除をしながら、だけどな」
「……でも、母ちゃんを助けてくれた」
「君があの馬を信じていたからだ。リクト、君のおかげで、おじさんはもう一度メスを握れた」
リクトは俺の作業着の袖に顔をうずめた。俺はその細い肩に、そっと手を置いた。
数ヶ月後、退院したなおは普通の暮らしを取り戻していた。窓口にはまだ立てないが、事務所で軽い仕事を任されている。リクトは学校から帰ると、ラストランナーが過ごす牧場へ通っていた。笑い声が競馬場に戻ってきた。
ある朝、俺は競馬場の小さな記念碑の前に立っていた。ラストランナーの名前と生涯の成績が刻まれている。牧瀬裕子が隣に並んだ。
「先生、市民病院からもう一度連絡が来ていました。非常勤でいいから来て欲しいと」
「ああ、受けようと思ってる」
「ようやくですね」
遅すぎたかもしれない。だが、まだ間に合う命があるなら、俺はもう一度歩き出せる。記念碑に、そっと手を置いた。



