「うわ、おっさん。そんな見た目で清掃員なんかやってんのかよ。きっと勉強してこなかったんだろうな」
病院の外で掃除をしていた俺に、新人医師らしき若者がいきなりそう言ってきた。どう見ても還暦近い年齢の俺を見て、彼らは嘲笑う。
「でも俺らちゃんと勉強してて良かったな」
「学歴があってもキャリアがないと、この人みたいになっちゃうからな。俺たちは頑張らないと」
一緒にいた新人たちも同調して、わざと聞こえるように俺をけなしてくる。そして、ペットボトルを俺の目の前に捨てた。
「おい、ゴミも片付けとけよ」
俺は「はい」と静かに言い、そのペットボトルを拾った。そんな俺の姿を見て、彼らは笑いながら病院内へと歩いていく。
医師として、いや、人としてあるまじき行為に、俺は眉を潜めた。これは少しお灸を据えてやらないといけないな。
俺の名前は飛河シジ。58歳だ。俺はこの大学付属病院で、毎日院内と院外の清掃をして働いている。俺はこの仕事に誇りを持っていた。毎日清掃していると、病院の医師や看護師、患者たちとコミュニケーションが取れるからだ。俺のモットーは笑顔で人と接すること。掃除をしながら様々な人と話すことで、いろんな情報を取り入れている。
そのおかげで、俺は周りの人からよく声をかけられる。世間話から日頃の不満や愚痴まで、多種多様な会話を交わす。悩み事の相談を受けることも多く、俺と話した後はみんなすっきりとした表情をしている。力になれて何よりだ。
今日もいつものように掃除をしていると、病院の近所に住む杉江文さんが愛犬のマロを連れて散歩で通りかかった。
「ああ、文さん。おはようございます」
「シジさん、おはようございます。毎日ご苦労様です」
「いえいえ、俺にはこれくらいしかできないので」
「そんなことないですよ」
文さんとは、マロの散歩コースがきっかけで話すようになった。今では毎朝同じ時間に挨拶を交わし、いろんな話をしている。夏には冷たい飲み物、冬には温かい飲み物を差し入れとして持ってきてくれる優しい人だ。最初は仕事中だからと断っていたが、今ではその好意に甘えさせてもらっている。
今日も文さんと世間話をしていたら、今年からの新人医師と思われる若者たちが近づいてきた。そして例のセリフだ。俺が清掃員であることを馬鹿にし、勉強してこなかったんだろうと決めつける。明らかに俺に聞かせるための嫌味だった。
文さんは、今まで見たことがないくらい恐ろしい顔で、彼らに詰め寄ろうとした。俺は慌ててそれを制す。すると、新人たちはさらに調子に乗った。
「おい、このゴミも片付けとけ。あなたみたいな人にはお似合いの仕事ですね」
そう言って、ペットボトルを目の前に捨てる。俺は静かにそれを受け取り、拾った。
「クソだせえ」
彼らは俺を嘲笑いながら、院内へと歩いていく。
俺は内心ため息をついた。今年の面接官は、一体どこに目をつけていたのか。
「一体何なのよ、あの子たちは」
隣で文さんが納得いかないという顔で怒っている。俺は彼女をなだめた。
「まあまあ、文さん。落ち着いてください」
「でもシジさん、あんな言われ方をしたんだから、もっと怒ったら良かったのに」
「そうですね。実は、少しいい考えが浮かんだので大丈夫です。ご心配ありがとうございます」
本当に大丈夫かと心配してくれる文さんに頷き、俺は院内へと戻っていく。
院内に戻ると、先ほどの新人医師たちがいた。彼らは、同じ新人医師に向かってこう言っていた。
「え、君、あの三流の出身だったんだ。それなら、これからは僕たちに話しかけないでね」
「そうそう。俺たち名門のエリート卒だからな。お前らと一緒にされたら、俺たちの評価が下がっちまう」
「底辺の人間は、底辺同士で仲良くしてくれや」
自分たちと同じ新人医師たちのことまでけなしている。周りの新人たちは、居心地が悪そうな表情をしていた。
なるほど。あの連中は名門以外の大学の出身者を見下しているのか。だが、そんなことを言うのは間違っている。一人ひとりが一生懸命勉強して、この病院の就職を決めたのだ。立場は同じはずだ。
彼らの様子を見ていると、大学に通っている間もあんな調子で過ごしていたのだろうと想像がつく。大学側の人間も、この病院の人事も、人を見る目がないのか。そんなことを思いながら、俺は用意室へと向かう。
さて、彼らには少しお灸を据えないといけないな。文さんに言った通り、俺はある考えを思いついていた。それをどう実行しようかと考えていた。
それから数日後、今日は入職式だ。新人たちが各部署での研修を経て、どこに配属されるのかが発表される日でもある。俺はいつもより一層気合いを入れて、院内を清掃した。文さんにも「今日は一段と気合いが入ってますね。今年は今日なんですね」と笑われたくらいだ。
そう。俺は毎年のように入職式の日には、気合いを入れて清掃していた。念入りに掃除を済ませ、俺自身リラックスできたことを確認すると、ある準備に取りかかった。
「じゃあ、そういうことだから。うまく頼むよ」
「はい。わかりました」
俺は仲のいい医師にそう伝えた。
そうしているうちに入職式の時間になり、俺はスーツに着替える。会場へ入ると、緊張した様子の新人や、リラックスした様子の新人、知り合いと小声で雑談している新人など、様々な顔があった。医師だけでなく、看護師や薬剤師、技師や事務など、多様な職種の新人も一緒だ。
会場を見回すと、その中に俺をけなしていた新人たちを見つけた。ほんの一瞬、彼らと目が合う。目を合わせるつもりはなかった。俺はすぐに顔を背けたが、彼らは驚いたような顔でじろじろと俺を見ていた。
入職式が始まり、藤委員長が挨拶をする。いつも通りの挨拶から、医師としての責任、何より患者を思いやることについて長々と説明していた。
「えー、それでは私からの挨拶は以上になります。皆さん、頑張ってください」
藤委員長の挨拶が終わり、新人たちがほっと肩を撫で下ろす。そんな姿を見て、俺は「もう一回気を引き締めてくれ」と小さく呟いた。
「藤委員長、ありがとうございました。では、続きまして理事長から皆さんにご挨拶をさせていただきます。理事長、ご登壇お願いいたします」
俺はステージに登壇した。ステージに上がると、会場全体がよく見える。俺が登壇したことで、静まっていた会場がざわめき出す。それもそうだろう。俺のことをただの清掃員だと思っている人が多いのだから。
会場内にいる新人たちを見つけると、彼らは顔面蒼白になって俺を見ていた。そんな彼らに構うことなく、俺は話し出す。
「ええ、司会の方からもあったように、ここの病院で理事長をしている飛河です。改めて自己紹介します」
さらに会場がざわめき立つ。「え、毎日清掃をしていた人だよね」などと、いろんな会話が飛び交っている。
「この病院では、職員全体で一つのチームと考えています。職業などで区別は一切しません。誰に対しても尊敬の気持ちを持ち、対等に接しましょう」
俺は彼らの目を見て、しっかりと言った。
「ただ、今回の新人医師の皆さんの中に、自分の学歴で優劣をつけ、人をバカにする人たちもいるようです。そこは非常に残念なことだと思います」
俺がそこまで言うと、心当たりのある新人たちは、彼らのことをチラチラと見ていた。当事者である彼らは、プルプルと小犬のように震え、身を縮めている。
「ここまで言えば、彼らにとっていい薬になるでしょう。ですが、私たちの努力次第でそれは変えていけます。私たちは、一人では何もできません。それをよく覚えておいてください。それでは、これから一生懸命励んでいってください」
こう言って、俺はステージから降りる。そのまま事務所に向かって歩き出すと、藤委員長が追いかけてきた。
「ちょ、ちょっと待ってください。飛河理事長」
「ああ、藤委員長。どうしたんですか?」
「今回は、いつもと違う感じの挨拶でしたね」
「いや、実はですね」
俺はことの顛末を委員長に伝えた。
「ええ、そんなことがあったんですか」
「こう見えて、私は怒っているんですよ。人事の目はどうなっているのかなと。あんな奴らを採用するなんて。いつから人事の目は節穴になっていたんでしょうか」
「そ、それはすぐに確認してみます」
藤委員長はメモを取り、すぐに確認と対応をすると言ってくれた。俺も藤委員長の手を煩わせたくはなかったが、仕方ない。入職後まで彼らを放置していたら、この病院はダメになってしまうと感じたからだ。何事も先手を打つことは大事である。
俺は「後は任せます」と伝え、理事長室へと戻った。
入職式の翌日。俺はいつものように清掃をしており、文さんと楽しく話をしていた。すると、例の新人たちが俺たちの前を通りかかる。俺たちに気がつくと、彼らは急ぎ足でこちらに近づいてきた。文さんも彼らに気づき、少しだけ顔をしかめている。まだあの時のことを根に持っているようだ。
「あ、あの、この度は本当に申し訳ございませんでした。僕たちの数々の非礼、本当に申し訳ありません。あなたが理事長だということに気づかない上、他の同僚たちの悪口まで言ってしまい、申し訳ありませんでした」
近くまで来ると、彼らは勢いよく頭を下げて謝ってきた。そして俺が口を開くより先に、文さんが口を開いた。
「私はね、シジさんのことを昔から知っているの。とってもいい人で、本当に優秀なお医者様なのよ。なのにあなたたちときたら、あんなことしか言えない。あなたたちに、ここの病院の医師が勤まるのかしら?」
文さんは、俺が自分で言おうとしていたこと以上のことを言ってくれた。日頃から世間話や愚痴を聞いてもらっているだけの関係だと思っていたが、まさかそこまで思っていてくれたことに感動する。
新人たちは文さんの勢いに押され、下を向いて黙っていた。まるで耳の垂れ下がった子犬のようだ。この前までの威勢の良さはどこに行ったのか。
「正直、君たちみたいな人が私の病院で医師として勤まるとは、現時点では思えない」
「はい、ごもっともです」
「でも、若い才能の芽をすぐに潰すわけにもいかないから、君たちのことはしばらく様子を見させてもらうよ」
「はい。この度は本当に申し訳ありませんでした」
一人が口に出すと、他の新人たちもすごい勢いで謝ってきた。俺は何度も謝罪の言葉を口にする彼らに、苦笑いしか出てこなかった。一方で文さんは「そんなんじゃ足りないわ」という表情をしている。しかしさすがに、ここまで反省の色が見える謝罪をしてくれているので、俺も折れることにしよう。
それに、さっき言ったことは事実であり、この病院にとって良い医師になれるかは、本当に彼らのやる気次第なのだ。だから、俺は新人たちに訪ねた。
「君たちは、どうして俺が毎日清掃をしているか、考えたことはあるか?」
「い、いえ」
「俺が毎日清掃をするのには、意味があるんだよ」
「毎日清掃する意味ですか?」
「そう。それはね、謙虚な心を忘れないこと。それから、細かいところにも目が届く癖をつけること。これができるかできないかで、いろんな差が出てくるんだな」
「なるほど」
「そして、これらは全て先代からの教えでもあるんだ。俺はその先代の意志を尊重して、ずっと続けているんだよ」
「そうだったんですね。とても勉強になります」
「それに、実はその先代も、たまにここら辺の清掃をしているんだよ」
そう言って、俺は新人たちにウインクした。文さんに「うまくできてないわよ」と言われたのは、聞こえないふりをした。
そんなやり取りをしていると、新人たちが言った。
「あ、あの。僕たちも、これからは一緒に清掃に来てもいいですか? 仕事は仕事でしっかりとします。手の空いた時間に、お手伝いさせていただけないでしょうか?」
「あなた、何を言っているの? そんなことできると思っているわけ?」
「そうだね。病院も広いから、お願いしようかな。ただし、手を抜いたらすぐにバレるから、手を抜かないようにね」
「あ、ありがとうございます」
「ちょっとシジさん、あなた甘いわよ」
文さんはまだ怒っていたが、特に断る理由もないので俺は承諾した。
「これからの行動を見守りましょう」と言って、文さんを落ち着かせる。
「俺が言うなら仕方ないわね」と言って折れてくれる文さん。そんな文さんに感謝すると同時に、彼ら新人の監視役になってもらおうと考えていたのは言うまでもない。
あれから二ヶ月。問題だった新人たちは、今や医師としての仕事に必死で取り組んでいる。そして、彼らは自分たちが言った言葉を守り、朝や空いた時間に清掃を手伝ってくれていた。
「こうして清掃していると、理事長がおっしゃっていた意味がよく理解できます」
「本当に、あの時の僕たちはどれだけ器が小さい人間だったのか、思い知らされました」
「俺たち、これからも理事長のように、清掃を精一杯やっていこうと思います」
彼らはそう言い、あの時のような偉そうな態度を取ることはなくなっていた。何事にも広い視野を持ち、周りを気遣える余裕すら見せている。たった二ヶ月という短い時間でこれだけ成長したことに、俺は本当に関心していた。
今の彼らを見ていると、本当は根はいい子たちだったのだろうと納得する。きっと大学時代に置かれていた環境の中で、ほんの少し道を外れてしまっていただけのような気がした。
そして彼らは、本当に心を改めて、一生懸命この病院で働くことを俺に誓ってくれている。そんな彼らを見て、俺は謙虚な心でこれからも人に接していこうと決めた。同時に、病院に勤務する全員が思いやりと深い心を持てるように指導していこうと心に誓った。


