交差点に差し掛かった瞬間、前の車が急に止まった。気づくのが遅れ、避ける間もなく衝突した。道は狭く、交差点の真ん中で、小さな接触事故にしては異様に大きな衝撃音が響いた。
私はすぐに車を降りて謝罪した。「ごめんなさい、すぐに警察を呼びます」と言ったが、相手の車から降りてきた男の姿を見た瞬間、背筋が凍った。見るからに柄の悪い男で、その鋭い目つきに恐怖を感じた。
その男は、私の申し出を聞き入れようともせず、耳を疑うような要求を突きつけてきた。「警察だと? 冗談も大概にしろよ。俺を誰だと思ってんだ。この界隈で名を張ってる組の龍一だぞ」
彼は私を下から上まで舐め回すように見つめると、左手の指輪に目を留めた。「お前、結婚してるみたいだな。この傷だと、慰謝料と車の修理費合わせて1億円だ。お前が払えないなら、旦那が弁償しろ」
1億円という大金に、私は言葉を失った。「パート勤務の私には50万円が精一杯です。それで許してもらえませんか」と必死に交渉したが、龍一は「50万だと? ふざけるな」と一蹴した。
さらに、車内のベビーシートに気づいた龍一は、恐ろしい言葉を吐いた。「子供もいるのか。この辺の保育園に通ってるのか? 俺が迎えに行ってやってもいいんだぞ」
息子のカイトに危害が及ぶことは絶対に許せない。「やめてください。息子は関係ありませんから」と懇願したが、龍一は「職場から金を盗むか、旦那を始末するか、それともお前の体で払うか。どれか選べ」と、信じがたい選択を突きつけてきた。
恐怖で頭が真っ白になる中、私は夫に助けを求めるしかなかった。震える手で電話をかけると、夫はすぐに異変を察知し、こちらに向かってきてくれた。
ほどなくして、軽自動車が一台、現場に到着した。作業着姿の夫が、急いで駆けつけてくれたのだ。それを見た龍一は、嘲笑うように言った。「お前の旦那ってのは、そのボロ車でしか来られないのか。随分と情けない家族だな」
軽自動車から降りてきた夫は、見たこともない鋭い目つきをしていた。しかし、私に向ける声は優しかった。「大丈夫か?」
龍一は夫に「慰謝料と車の修理費で1億円払ってもらおうか」と嘯いた。夫は冷静に言い返した。「遅れて悪かったな。妻が迷惑かけたって話を聞いてな。金がかかるらしいな」
龍一はさらに嫌味を言おうとした。その時だった。どこからともなく、重厚なエンジン音が何台分も響いてきた。見ると、数台の黒いセダンが次々と現場に滑り込んできたのだ。
龍一は「うちの組の奴らか」と言ったが、次の瞬間、その顔は凍りついた。「いや、うちのセダンではないか」
セダンから降りてきた連中は、明らかに龍一の組の者ではなかった。彼らは整然と並び、夫に一斉に頭を下げた。その光景に、龍一は言葉を失い、見開いた目で夫を見つめた。
夫は静かに、しかし威圧感をもって言い放った。「お前のやり口は知り尽くしてる。いい大人なんだから、自分の立場くらいは自覚してもらわないとな」
龍一は声を震わせながら「まさか、あんた……」と言った。夫は冷たく答える。「やっと分かったか? 俺の名前、田村誠也だ。聞いたことあるんじゃないか?」
その瞬間、龍一の顔は真っ青になった。夫が組の組長であることを、その場にいた誰もが理解した。さらに、その場に新たな人物が現れた。「おい、森田。こいつ、お前のところのでいいのか?」
現れたのは、龍一の組長である森田だった。森田は低く震える声で謝罪した。「はい、申し訳ないです。うちの若い衆が……本当に救いようがない」
龍一は森田にすがりつこうとしたが、森田は足を振り払い、冷たい視線で言い放った。「お前は破門だ」
龍一は地面にひれ伏すように絶望した。夫は森田に言った。「それだけじゃ済まないよな、森田」森田は深く頷いた。「はい。俺が責任を持って、こいつが二度と誠也さんの奥様の前に現れないようにします。今回のこいつの始末は、こちらでつけます」
その場の全員が、龍一の運命が決まったことを悟った。私は恐怖から解放され、夫の存在にただただ安心感を抱いた。
事件から3日後、私は職場で普段通りの忙しい一日を過ごしていた。書類を整理していると、窓の外に誰かの視線を感じた。目を向けると、包帯をぐるぐる巻きにした龍一が、不穏なオーラをまとって立っていたのだ。
心臓が凍りつくような思いだった。龍一は不気味な笑みを浮かべて言った。「元気そうだな」
「どうしてここに?」と震える声で尋ねると、龍一は言った。「夫の前では大人しくしておいてやったが、俺も黙ってるわけにはいかないんでな」
恐怖で腰が抜け、動けなくなった。周囲の同僚は気づかず仕事に没頭している。龍一はゆっくりと近づき、耳元で囁いた。「俺がこんなことされて黙ってるわけがねえだろうが。お前がどうなるか、見物だぜ」
私は震える指でスマホを掴み、夫に連絡しようとした。しかし、龍一はそのスマホを瞬時に奪い取った。「何やってんだ?」激痛が走った。耳をわし掴みにされ、そのまま引きずられるようにして外に連れ出された。「やめて、誰か助けて」と叫んでも、誰も気づかない。龍一は車のドアを乱暴に開け、私の体を押し込んだ。シートベルトを無理やり閉められ、逃げ道を断たれた。
「黙って座ってろ。大人しくしてりゃ、無事に帰れるかもな」
ドアが閉まり、車が急発進した。窓の外の景色が流れ去り、絶望が深まるばかりだった。「誠也、助けて」と心の中で叫びながら、涙が止まらなかった。
しかし、それは龍一にとっても突然の出来事だった。車がしばらく進むと、周囲に10数台のセダンが現れ、龍一の車を囲むように並んだ。龍一は焦りと動揺を隠せない。「なんだこりゃ。こんなことがありえねえ」
やがて車は、人の気配のない工業地帯へ誘導された。停車したセダンの窓が開き、夫が冷静な声で語りかけた。「そう驚くな。これは計画通りなんだよ」
夫は部下に命じて龍一を車から引きずり下ろさせた。そして、龍一の髪を掴み、顔を上げさせると、冷ややかな声で言った。「お前の目論見を見破るのは簡単だったよ。初めから何も信じちゃいなかったからな」
龍一は「なんでこんなにすぐ分かったんだ」と叫んだ。夫は淡々と答えた。「俺の可愛い奥さんを、また怖い目に合わせたくないからな。お前のところの奴らを張っておいただけだ」
その場に、元組長の森田も現れ、龍一を追い詰めた。「なんてことをしてくれたんだ。お前のせいで全部めちゃくちゃだ」森田は涙を浮かべながら、龍一に最後の通告をする。「もう言い訳は聞きたくない。お前は全てを失ったんだ」
龍一は混乱し、森田にすがろうとしたが、森田は手元の書類をちらりと見せて言った。「忘れたのか。お前が自分で書いた、あの書類。生命保険の契約書だよ。お前と俺のな。あの時、これ以上妙なことをすれば、お前と俺の落とし前になるって約束しただろう。どうやら俺が死ぬ前に、お前が消えることになりそうだ」
龍一は、自分が追い詰められていたことをようやく悟り、地面に膝をついた。夫は静かに言った。「さあ、消え失せろ。このままだと本当にどうなるか、分からないぞ」
森田と龍一は車に乗せられ、その場から連れ去られた。私は涙を浮かべながら、その光景を見守り、ようやく全てが解決したことに深い安堵の息を漏らした。
数日後、生活は再び穏やかさを取り戻していた。心に残る記憶はあったが、私は前を向くことにした。そんなある日、夫が思いがけない提案をしてきた。「新しい住居を探そうと思う」
私は驚いた。「どうして急に?」夫は穏やかな微笑みを浮かべて言った。「まあ、たまには人生のサプライズがあってもいいだろ。今まで頑張ってくれたお礼さ」
少し臨時収入が入ったという夫。私は嬉しさが込み上げる一方で、心配もあった。「本当に大丈夫なの? 無理してるんじゃない?」
夫は優しく私の手を取った。「心配ない。新しい家は、これからの俺たちの進展地だ。君とカイトの笑顔が見れたら、それだけで十分だよ」
その言葉に、私は心の安らぎを感じた。「あなたと一緒なら、どこでも幸せよ。でも新しい家があるともっと嬉しいわね」
私たちは新しい家を見つけ、新居での生活が始まった。ある夜、カイトを寝かしつけた後、静かなリビングで夫と一息ついた。夫が言った。「ここで新たなスタートを切れるのは、あの事件のおかげかもな」
私は微笑んで答えた。「そうね。どんな怖いことがあっても、私たちはこうして一緒にいる。それだけで、何にも変えられない力になるわ」
職場にも無事に復帰し、同僚たちは温かく迎えてくれた。「本当に無事でよかった」という言葉に、私は心から感謝した。そして、仕事と家庭を一層大切にし、これからも幸せな日々を紡いでいこうと、深く心に誓ったのだった。



