「真辺涼介先生でいらっしゃいますか?」
ええ、そうですが――突然押しかけて申し訳ありません。私、朝倉咲と申します。やっとお会いできました。
朝倉咲。俺はその名前を頭の中で繰り返した。すると周りの同級生たちがざわめき始めた。
俺の名前は真辺涼介、歳は四十二。この山合いの町で小さな内科医院を営んでいる。今日も朝から五人の患者を見た。どれも派手な治療ではない。ただこの町の人たちはそれで十分だと言ってくれる。「先生、ありがとうね。」こう言って帰っていく女性の背中を、俺はいつも黙って見送る。感謝される日々というのは悪いものではない。ただ、俺には誰にも話していないことがある。かつて自分が大学病院で心臓外科として働いていたこと。「奇跡の執刀医」などと呼ばれてメスを握っていたこと。そして十年前のあの日以来、二度とその場所に戻らなかったこと。
午前の診療を終えると、看護師の白石萌が茶を入れて差し出してきた。彼女はこの医院に務めてもう五年になる。真面目で、患者からの信頼も厚い。
「先生、お昼ですけど、おにぎり買ってきましょうか?」
「ああ、頼む。今日は梅でいい。」
「了解です。あ、それと篠崎さんが午後の最初に来られますよ。」
「そうか。あの人、最近よく来るな。」
白石が笑って出ていく。俺はカルテを閉じ、椅子の背に持たれた。天井の木目を見上げていると、ふと十年前の手術室の光景が頭をよぎる。モニターの音、看護師の声。そして自分の手の中で動かなくなっていったあの小さな心臓。俺は目を閉じて、その記憶を押し戻した。
午後の最初の患者は篠崎掃郎さんだった。元高校の校長で、この医院の常連だ。持病の高血圧で月に一度通ってくる。
「先生、今日もよろしくお願いします。」
「血圧測りますね。袖まくっていただいて。」
測定が終わると、篠崎さんは椅子に座り直し、少し改まった顔をした。
「先生、一つお願いがあるんですが。」
「何でしょう?」
「実は来週、私の知り合いの…先生の高校の同窓会の連絡が回ってきましてね。先生、まだ一度も出ておられないでしょう。」
「ええ、まあ…」
「たまには昔の友人と顔を合わせるのもいいもんですよ。」
俺は答えに迷った。同窓会という言葉が、なぜかひどく遠いものに感じられた。あの頃の自分は、まだ何にでもなれると思っていた青年だった。
「考えておきます。」
「せっかく声をかけていただいたので。是非。先生は、少し外の風に当たった方がいい。」
穏やかな言い方だったが、言葉の端々に何か含むものがあった。
二週間後の土曜日、俺は隣町のホテルにいた。結局、同窓会に出ることにしたのだ。スーツを着るのは何年ぶりだろうか。会場の宴会場に入ると、丸テーブルが十ほど並んでいた。すでに何人かが集まっていて、笑い声が響いている。俺が受付で名札を受け取ると、すぐに声をかけてきた男がいた。
「おお、真辺じゃないか。久しぶりだな。」
「三浦か。元気そうだな。」
「お前こそ、どこにいるのかと思ってたぞ。今は何やってんだ?」
「田舎で内科をやってる。小さくて、いいんだがな。」
三浦浩は高校時代の同級生だ。今は都内で会社を経営しているらしく、腕には派手な時計が光っていた。彼の周りには数人の同級生が集まっていて、それぞれが近況を語り始めた。会社の役員になったもの、大学の教授になったもの、地方議員になったもの。誰もがそれぞれの場所で、それぞれの成功を手にしていた。俺は黙ってビールを口に運んだ。
「それで真辺、お前、確か昔は医学部に行ってたよな。大学病院でかなり名前売ってたって噂、聞いたことあるぞ。」
「ああ、昔の話だ。」
「ああ、それが今は田舎の内科か。」
三浦は薄く笑った。周りの数人も釣られて笑った。
「ま、あれだろ。街で失敗したから帰ってきたんだろう。よくあるパターンだよな。エリートが挫折して田舎で開業ってやつ。」
その言葉にテーブルが少しだけ静まった。反論しようとも思わなかった。彼の言葉は、半分は当たっていたからだ。自分自身、人生の途中で逃げ出した人間だと思っている。
「まあ、そんなところかもしれない。」
こう答えると、三浦は満足そうに頷いた。俺はグラスのビールをゆっくりと飲み干した。
俺は窓際の席に移って、一人外の夜景を眺めていた。ホテルの窓からは、遠くに町の明かりが点々と見えた。十年前まで、俺は光を放っているつもりだった。メスを握れば誰かの命を救えた。それが医師としての自分の存在意義だと信じていた。今、その光はどこにもない。ただ、それで良かったのだと思う。
宴会も終盤に差しかかった頃だった。会場の入り口の辺りが少しざわついた。俺は何気なくそちらに目をやった。入ってきたのは一人の女性だった。シンプルなワンピースに薄いコートを羽織っている。化粧は控えめで、けれど一目で気品のある人だと分かった。背筋をまっすぐに伸ばして、彼女は会場を見渡している。
「あれ、誰だ? 同級生にあんな美人いたか?」
誰かが小声でそう言った。彼女は受付の者に何かを尋ね、それからまっすぐに歩き出した。不思議なことに、彼女の視線はまっすぐに俺の方を向いていた。彼女は俺のテーブルの前まで来ると、深く頭を下げた。
「真辺涼介先生でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうですが…」
「突然申し訳ありません。私、朝倉咲と申します。やっとお会いできました。」
朝倉咲。俺はその名前を頭の中で繰り返した。心当たりがあるような、ないような、不思議な感覚だった。三浦が声をあげた。
「おい、あの人、テレビで見たことあるぞ。確か心臓外科の有名な先生だ。」
周りの同級生たちがざわめき始めた。
「先生、ここでは少しお話しづらいかもしれません。お時間を少しだけいただけませんか?」
「構いませんが…私に何の用でしょう?」
彼女は顔を上げて、俺をまっすぐに見た。
「私の弟の話を聞いていただきたいんです。弟の名前は朝倉翔太と言います。十年前に手術をしていただいた子です。」
その名前を聞いた瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れた。朝倉翔太。忘れたことなど一日もない名前だった。
「翔太は生前ずっと先生にお会いしたいと言っておりました。私はその願いを叶えるために、ずっと先生を探してきました。」
俺は彼女の顔を見つめたまま、何も言えなかった。
同窓会の翌日、俺は隣町のホテルのラウンジにいた。朝倉咲は約束の時間より十分早く来ていた。
「昨日は本当に突然のことで、失礼いたしました。」
「いえ、こちらこそ。座って話しましょう。」
向かいの席に座ると、彼女は鞄から一冊の古いノートを取り出した。表紙の角がすり切れていて、長く大切に扱われてきたものだと分かった。
「これは翔太の日記です。あの子が亡くなった後、机の引き出しから出てきました。」
「日記ですか?」
「先生にお見せしたくて持ってまいりました。少しだけ読んでいただけませんか?」
俺は手を伸ばすのをためらった。
「翔太は、先生に救われたと言っていたんです。」
「救われた、ですか?」
俺は思わず聞き返した。十年前のあの日、俺の手の中で、あの子の心臓は確かに動きを止めかけた。何度も心臓マッサージを繰り返し、ようやく鼓動を取り戻したものの、術後の経過は思わしくなかった。
咲は静かに頷いて、ノートを開いた。真ん中あたりのページに、しおりが挟まれていた。
「ここ、十六歳の時の日記です。読みますね。」
彼女は少し息を整えてから、低い声で読み始めた。
「今日、初めて自転車に乗れた。お母さんが泣いていた。真辺先生のおかげで、僕は今日も生きている。いつか先生に会いに行きたい。会って、ありがとうって言いたい。それから、僕も先生みたいな医者になりたい。」
俺は息を飲んだ。ラウンジの天井の照明が滲んで見えた。
「翔太は、先生の手術の後、十二年生きました。普通の子と同じように学校に通って、高校を出て、医学部に進みました。二年生の時に、別の病気が見つかったんです。先天性のものでした。それはもう、誰にも直せませんでした。」
「そうでしたか。まさか、そんなことが…」
「亡くなる前の日まで、あの子は真辺先生に会いたいと言っていました。先生がどこにいるのか、誰も知らなかったんです。」
俺は両手で顔を覆った。十年間、あの子が生きていた時間を、俺は何一つ知らずに、自分を責め続けてきた。
「私は、あの子を救えなかったと思っていました。手術の翌日に容態が悪化して、もうダメだと自分で判断したんです。」
「先生は、あの後病院を出られたんですよね。」
「ええ。家族に説明する勇気もなく、逃げ出しました。誠に申し訳ありません。」
咲は静かに首を振った。彼女の目にも涙が浮かんでいた。
「逃げたなんて思っていません。私は先生にお礼を言うために、十年探していたんです。」
医院に戻ってから、俺はしばらく仕事が手につかなくなった。白石はそんな俺の様子に気づいていた。
「先生、最近よく眠れていないみたいですね。」
「顔に出ているか?」
「五年も一緒にいたら分かります。」
俺は苦笑して、湯呑みを手に取った。
「先生、私、先生のこと何も知らないんですけど、何かあったんなら、無理しないでくださいね。」
「ありがとう。少し昔のことを思い出していただけだ。心配かけてすまない。」
「先生は、患者さんのことばかり考えて、ご自分のことは後回しにしすぎです。」
彼女はそう言って診察室を出ていった。
その日の午後、篠崎掃郎さんが予約もなく尋ねてきた。測定が終わると、彼は俺の顔をじっと見た。
「先生、どうか行かれたんでしょう?」
「ええ、行きました。お勧めいただいて、ありがとうございました。」
「何かありましたかな?」
俺は答えに迷った。篠崎さんには、何かを見抜く目がある。長く校長を務めてきた男の、静かな鋭さだった。
「篠崎さん、私は昔、心臓外科をやっていました。十年前に、一人の少年の手術を担当しました。その子のことをずっと救えなかったと思って、医療の第一線から離れたんです。」
「おお、そうでしたか。」
「昨日、その子のお姉さんに会いました。弟さんは、私の手術の後、十二年も生きていたそうです。私のことを、感謝してくれていたと。」
篠崎さんは深く頷いた。
「先生、私は教師を四十年やってきました。教え子の中には、若くして亡くなった子もいます。私はね、その度に、自分にもっとできることがあったんじゃないかと考えてきました。」
俺は黙って聞いていた。
「でも、ある時気づいたんですよ。亡くなった子たちが本当に望んでいたのは、私が自分を責めることじゃない。私が残った子たちのために教え続けることだったんだとね。」
窓の外で鳥が鳴いていた。
「先生、その少年が望んでいたのは、何でしょうな?」
俺は答えられなかった。
その夜、俺は二階の自室で、咲から預かった日記をもう一度開いた。ページをめくる手が震えていた。十六歳の翔太は、高校の文化祭で実行委員をやったと書いていた。十八歳の翔太は、医学部の合格通知が来た日、母親と二人で泣いたと書いていた。二十歳の翔太は、初めて解剖実習を行った。そして、最後のページ。病床で書かれたであろうその文字は震えていた。
「真辺先生。もしいつかこれを読んでくれることがあったら、伝えたいことがあります。先生がくれた十二年は、僕にとって全部宝物でした。先生のおかげで、僕は医者を目指せました。短かったけれど、悔いはありません。だから、もし先生が今自分を責めているなら、どうかやめてください。先生は、たくさんの人を救える人です。僕の代わりに、これからも誰かを救ってください。」
俺は日記を閉じて、机に突っ伏した。涙が溢れていた。
翌朝、咲から電話があった。彼女の声はいつもより少し緊張していた。
「先生、お願いがあります。実は今、私の病院である十歳の患者さんを担当しています。十年前の翔太と、ほとんど同じ症例なんです。」
「同じ症例ですか?」
「執刀できる医師が、今日の日本に数人しかいません。私もその一人ですが、もう一人立ち合って欲しい医師がいるんです。私は、先生にお願いしたいんです。」
俺は受話器を握ったまま、しばらく言葉が出なかった。十年間、二度と握らないと決めたメスだ。
「無理を言っているのは分かっています。でも、その子を救えるのは先生しかいないと、私は思っています。」
「少し考えさせてください。」
「お待ちしています。」
電話を切って、俺は窓の外を見た。机の上には、翔太の日記が静かに置かれていた。
三日後、俺は東京の大学病院の前に立っていた。見上げると、白い建物が朝の光を反射していた。正面玄関を入ると、白衣を着た咲が待っていた。
「先生、来てくださって、ありがとうございます。」
「お願いしますとは言われましたが、まだ執刀すると決めたわけではありません。まずは患者さんのことを教えていただきたい。」
「もちろんです。こちらへ。」
廊下を歩きながら、咲はカルテを開いて説明を始めた。患者は十歳の少女。名前はゆいちゃんと言うらしい。心臓の奇形は、十年前の翔太のものとほぼ同じ。手術のリスクは高く、執刀できる医師が限られていることも、電話で聞いた通りだった。
病棟の個室に案内されると、ベッドの上に小さな少女が座っていた。点滴のチューブが、細い腕に繋がれている。俺たちに気づくと、彼女は遠慮がちに会釈した。咲が優しく彼女に声をかけた。
「ゆいちゃん、こちら真辺先生よ。」
「初めまして。よろしくお願いします。」
俺は彼女のベッドサイドに歩み寄り、膝をかがめて目線を合わせた。翔太に、どこか似ている気がした。
「ゆいちゃん、怖いことはないかな?」
「ちょっとだけ怖いです。でも、お母さんが絶対大丈夫だって言ってくれました。」
「そうか。お母さんの言う通りだ。大丈夫だよ。」
その言葉が自分の口から出てきたことに、自分でも驚いた。十年間、患者にそんなことを言える資格はないと思ってきたけれど、その小さな手を握った時、迷いは消えていた。
病室を出てから、俺は咲に向かって言った。
「執刀させてください。私にできることなら、全部やります。」
「ありがとうございます、先生。」
咲は深く頭を下げた。
手術は三日後と決まった。俺はその間、病院の資料室にこもって、最新の術式を一から学び直した。十年のブランクは、想像以上に大きかった。
手術当日。手術室の扉の前で、俺は深呼吸を一つした。咲が隣に立って、静かに頷いた。
「先生、よろしくお願いします。」
「こちらこそ。一緒に、必ず救いましょう。」
扉が開く。消毒液の匂いと機材の音が、一気に体を包んだ。
そして、手術開始から六時間が過ぎた頃だった。担当の看護師が息を切らせて廊下に出てきた。
「終わりました。成功です。心臓、しっかり動いています。」
待合室に喜びの声が広がった。ゆいちゃんの母親がその場に崩れるように座り込んだ。父親が声を上げて泣いた。しばらくして、手術室から俺と咲が出てきた。ゆいちゃんの母親が駆け寄ってきて、俺の手を取った。
「先生、ありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます。」
「お母さん、よく頑張られましたね。ゆいちゃんは強い子です。私たちは、その手伝いをしただけです。」
咲が少し離れたところで、涙を拭っていた。
一週間後、ゆいちゃんは一般病棟に移っていた。俺が病室を尋ねると、ベッドの上で起き上がって本を読んでいた。俺の顔を見ると、嬉しそうに笑った。
「先生、ありがとうございました。」
「いや、ゆいちゃんが頑張ったからだ。本当に、よく頑張ったね。」
廊下に出ると、咲が待っていた。彼女は白い封筒を手に持っていた。
「先生、これ、翔太から預かっていたものです。先生にお渡しする時が来たら、渡してほしいと言われていました。」
「翔太君から?」
「亡くなる少し前に書いた手紙です。私は中身を読んでいません。」
俺は封筒を受け取った。病院のロビーの隅のベンチに座って、ゆっくり封を切った。
「真辺先生。先生に手術してもらった日のこと、僕はまだ覚えています。麻酔がかかる前、先生が僕の手を握って『大丈夫だよ』と言ってくれたこと。あの一言で、僕は怖くなくなりました。あの手の温かさは、忘れられません。先生、もう一度、誰かの手を握ってあげてください。」
俺は手紙を膝の上に置いて、しばらく動けなかった。咲が隣に静かに座った。何も言わず、ただそこにいてくれた。
「ありがとう、翔太君。」
俺は手紙に向かって、小さく呟いた。十年間、ずっと言えなかった言葉だった。
故郷の医院に戻った日、白石が待合室の掃除をしていた。
「先生、お帰りなさい。」
「ただいま。留守の間、ありがとう。」
「先生、なんだか少し顔つきが変わりましたね。」
「そうか。自分ではよく分からないが。」
俺は診察室に入って、白衣を羽織った。窓の外に、いつもの山の稜線が見えた。机の上には、翔太の日記と、ゆいちゃんからもらった折り紙の鶴が並べて置いてあった。
午後、篠崎掃郎さんがいつもの時間に来た。血圧を測りながら、彼はぽつりと言った。
「先生、これから時々、東京にも行かれるんですかな?」
「ええ、月に何度か、咲木先生の手伝いに行くことになりました。もちろん、この医院は続けます。ここの患者さんたちを置いていくつもりはありませんから。」
「それがいい。先生には、両方の場所が必要だ。」
俺は頷いた。窓から差し込む夕方の光が、診察室の床に長い影を落としていた。
その晩、二階の窓を開けると、山の向こうに星がまたたいていた。俺は深く息を吸い込んだ。冷たい空気が、胸の奥まで届いた。



