勇志5億のキャンセル——そう告げる銀行員の声には、なぜか楽しげな響きがあった。元メガバンク勤務の俺を目の敵にしていた男だ。直感的に、これは何かあると感じた。
俺は新井、39歳。去年までメガバンクで働いていたが、慢性的な疲労感、頭痛、不眠、食欲不振——原因不明の体調不良が続き、「このままだと壊れますよ」と医者に言われてようやく目が覚めた。キャリアを捨てるのは惜しいと思っていたが、心をすり減らして体まで壊して、何の意味があるのか。退職を決意し、地元に戻った。
友人の一人、高校の一つ下の後輩である吉田から連絡が来た。祖父の代から続く金属加工の町工場で、父が倒れたことをきっかけに三十代で経営者になったのだ。人手が足りず、経営にも不安が多い。メガバンクで働いていた俺なら知恵を貸してくれるだろう、というのが吉田の考えだった。
今は吉田の工場で働いている。メガバンクでの経験や知識を活かし、経営の助言をするのが仕事だ。
「社長、おはようございます」
吉田とは親しいが、仕事中は筋を通した態度で接している。吉田も敬語をやめるよう言ってあるのに、気を抜くと敬語になる。
「社長、どうかしましたか?」
元気のない様子の吉田に首をかしげると、吉田が言った。
「実は山下さんからさっき電話が来て……午後にここへ来るって言うだけ言って、一方的に切られました」
山下とは、俺たちが勇志を頼んだ地方銀行の担当者だ。2ヶ月前の融資相談で初めて会ったが、のっけから「町工場に5億の投資ですか?本気で言ってます?」と言い放った印象の悪い男だった。
吉田の工場は老朽化が進んでおり、回収費1億、新事業の設備導入3億、運転資金1億——計5億の計算だった。新事業を開拓し、ゆくゆくは独自のブランドを作りたいという夢がある。
「元メガバンク勤務の俺が新事業に関して助言している」
吉田がそう言った時、山下は「メガバンクねえ」と嫌な顔をした。今にして思えば、これが地雷だったのかもしれない。だが、その時は特に疑問に思わなかった。
吉田の工場の技術は極めて高い。特に精密な加工技術は抜きん出ていて、生体適合性の高いチタンを使い、0. 01ミリの誤差もない素材を作れば、医療分野だけでなく航空宇宙産業にも貢献できる。山下は渋い顔をしていたが、課長の田中さんが「これは通すべきだ」と押してくれて、融資は問題なく決まったのだった。
あとは信用保証協会の審査を待つばかり。吉田が不安そうにしているので、俺は笑いかけた。
「大丈夫ですよ。俺も同席しますし」
数時間後、約束通り山下が工場を訪れた。そして挨拶もそこそこに、いきなり言い放ったのだ。
「底辺工場への融資、5億はキャンセルで」
会議室に山下の冷たい声が響き渡る。俺たちは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「は……聞こえませんでした」
「いやいや、いきなり何を言い出すんですか?融資はキャンセルって」
山下が馬鹿にした顔で笑う。
「元メガバンク勤務だった方ともあろう人が分からない。元メガバンク勤務の自分がついているのだから融資は確実だとでも思っていたんですか?」
言葉に詰まる俺をよそに、山下は続ける。
「信用保証協会からの保証が降りなかったんですよ。ですから融資は無理ということです」
吉田の顔が絶望に歪む。無理もない。設備メーカーへの発注など、融資が行われる前提で既に資金が動き始めていたのだ。
「保証が降りない正当なケースとしては、過去の返済遅延や税金の滞納、財務内容が著しく悪いことなどがあります。確かに吉田の工場は不安定なバランスで経営されてはいましたが、特に問題になるような点は見られなかったはずです」
「にらんでもダメですよ。保証が降りないのは僕のせいじゃありませんし」
「誰もあなたのせいなんて言っておりませんよ」
山下は怖い笑顔を浮かべた。
「都会でいい気になっていたのが、田舎でも通用すると思ったら大間違いです」
検討違いな発言を吐く山下。ちらりと吉田を見ると、すっかり魂が抜けたような顔をしていた。俺は山下に問いかけた。
「保証が降りないと言っていましたが、保証不承諾通知書はこちらに通知されていません。おかしいですよね?原則として申し込み者本人、つまり弊社の社長に届くはずですが」
吉田がはっとした顔をする。
「そういえば、そんな通知書は来ていません」
「とにかく融資はできないんですよ。新事業なんて夢を見るのはやめて、町工場なんて畳んでしまえ」
「なんてこと……」
仮にも企業に寄り添う銀行の人間が言っていい言葉ではない。俺は思わず声を張り上げた。一瞬、山下は驚いて肩を震わせたが、強がるように鼻を鳴らし、そそくさと出ていった。
それからおよそ1時間後、作業場の方で吉田の声がした。
「みんな、ちょっと来てくれ」
吉田の思い詰めた横顔が視界に入り、嫌な予感がした。吉田は集まってきた職人たちに深く頭を下げた。
「先ほど山下がやってきて、融資をキャンセルされたことを説明した。すまん、こうなってはもう無理だ」
俺以外の全員がざわつく。吉田は父が倒れてから半年、ほとんど眠れていないと聞いている。経営の重圧と今回の融資問題で完全に追い詰められているのだ。
俺は慌てて吉田に駆け寄り、あえて明るい調子で言った。
「え、15億なら行けますよ。やだな、社長。この話は冗談じゃありませんか?まあ、まだ取り乱してますよね。無理もないです」
吉田は一瞬ぽかんとする。周りは「どっちなんだろう」と首をかしげていた。吉田は昔から時々思い詰めて突拍子もない行動を取ることがあった。まさかその辺りが変わっていないとは思わなかったが——ああ、そうだった。確かにまだ頭が混乱しているのかも。
「すまん、みんな。今のは忘れてくれ」
俺に何か考えがあると踏んだのだろう。吉田はとっさに俺に合わせてくれた。俺が「大丈夫だ」というように力強く頷いて見せると、職人たちは何も聞かずに引き下がってくれた。
そのまま吉田を事務所に誘導する。
「吉田、少し落ち着いて。さっきの山下さんの話は一度忘れてください」
俺は吉田の肩に手を置き、真剣に告げた。
「でも、本当にもうどうなるんだ?15億なんて……先輩、5億がダメだったのに」
感情が高ぶっているせいだろう。脈絡のない発言をする吉田に、俺は優しく笑いかけた。
「まずは落ち着いて。15億ですが、5億の融資の話をシンジケートローンという形で規模を拡大するんです。15億はざっくりした金額ですが、うちの技術力と事業計画の将来性を考えれば、可能性は十分にあると私は考えています」
「シンジケートローン……?」
耳慣れない言葉に吉田は首をかしげる。俺は説明を続けた。
「複数の銀行が手を組み、1つの企業に対して共同で資金を貸し出す仕組みです。大口の融資にはよく使われる手法です。実は俺、メガバンク時代に別の案件でシンジケートローンを組んだ経験があって、規模は違いますが手法は同じです。最初にこっちを提案しなかったのは、5億で十分だと思ったし、まさかこんな事態が起こるとは思わなくて」
「こんな事態……」
山下の言動を思い出したのだろう。かすかに吉田が声を詰まらせた。
「とにかく今すぐ倒産だと諦める必要はありません。設備発注の件も、メーカーに事情を説明して支払いを延期してもらいます。運転資金は短期のつなぎ融資を別の金融機関に相談中です。それよりも、俺が気になっているのは山下さんの発言と保証不承諾通知書の件ですよ」
「じゃあ、山下さんが何か?」
「確証はないですが、山下さんの態度や俺への敵意、町工場に対する凝り固まった偏見を見るに、何か裏があると思った方が自然でしょう。それから、実は社長が1人にして欲しいと言ってから、俺は銀行に問い合わせをしたんです」
電話に出たのは若い声の銀行員だった。
「はい、地銀でございます」
俺が町工場の人間で吉田の代理で電話したことを告げると、その若手行員は少し戸惑っているようだった。山下から融資キャンセルの旨を聞いたこと、保証協会の審査状況について確認したいことを伝えた。
「あの、山下さんにお電話を代わります」
「いえ、電話はそのままで。お忙しいところ恐縮ですが、今すぐ確認したいのです。私どもは融資を前提にすでに動き始めています。審査状況を知る権利もありますし、何か問題があるならすぐにでも対応したいんですよ」
俺が早口で少し強めに言うと、若手行員の声が震え始めた。
「あの……実は先週、保証協会から1度連絡がありました。一部記載漏れがあったため、修正して再提出してもらえれば審査続行が可能だと」
「当然、山下さんにその内容を報告したんですね」
「はい。ですが、山下さんは『修正不要だ』と言って、そのまま提出して回答を待つようにと……私も変だとは思ったんです。でも、その指示命令に逆らえなくて。申し訳ありません」
その瞬間、全て理解した。山下は融資を妨害するため、わざと書類不備のままにしたのだ。書類不備のまま期限が来れば、保証協会は不承諾の判断を下す。電話をした先にいたのが、山下の指示を受けた部下本人だったのは運命的でさえあった。
すると、若手行員が思いがけない発言をした。
「本当に申し訳ございませんでした。あの、実はこの件に関しては、良心の呵責に耐えられず、数日前に内密に上層部に相談しておりました」
「え?」
俺が驚いていると、若手行員は小さな声ではっきりと告げた。
「山下さんの指示は銀行員として絶対に許されない行為です。それに私はずっと後悔していたんです。処罰されるとしても、自分に恥じない行動をしたいと思って」
「正直に言ってくださり、ありがとうございます」
そう言って電話を切った。許せない。一体何の恨みがあって、こんなことを。
俺の話を聞き終わり、吉田は顔を抑えていた。理解できないことが連続したからだろう。無理もない。
「おそらく俺が元メガバンク勤務というのが、山下さんの劣等感や嫉妬を刺激したのかもしれません。何にせよ、だからと言って手詰まりになる余地はない」
吉田は大きく頷いた。俺は吉田の背中を叩いた。
「正気に戻ったな。頼みますよ、社長」
俺はここで、あえて口調を友人としてのものに戻した。
「ありがとう。やっぱ先輩がいてよかった。でも、そればっかりじゃダメですよね。もっとしっかりしないと」
両手で自分の頬を挟むようにして叩き、吉田は苦笑する。それから俺たちは、改めて握手を交わした。
数日後、俺たちの工場に1台の車が止まった。乗っていたのは融資課長の田中さんと山下だった。俺が問い合わせた時に聞いた話通り、部下からの告発で山下が行った融資の妨害が明るみになったのだろう。田中課長は事務所に入るなり深く頭を下げた。
「この度は弊行の行員・山下の不適切な行為によって大変ご迷惑をおかけしました。心よりお詫び申し上げます」
「申し訳ございませんでした」
山下も田中課長に続くが、どこか不服そうな表情だった。
「なぜこんなことを?」
吉田が短く質問する。山下は中空に視線を彷徨わせた後、観念したように話し始めた。
「町工場なんか融資したって何の意味もないと思って。加えて、私がその新井さんの元メガバンク勤務という肩書きが気に食わなくて」
山下はそのまま床に膝をつき、土下座の姿勢になった。顔は完全に床に向いていて表情は分からないが、声は震えていた。
「町工場なんて、どうせ融資しても無駄になって潰れるに決まってる。そう思ったんです。それに、融資を潰せば元メガバンク勤務のあなたの面目も潰れると思って。私は本当は地方銀行員なんかじゃなくて、メガバンクで華やかな道を歩きたかったんだ。あなたはその俺に向かって偉そうに……」
「山下さん」
俺はだんだんとエスカレートしていく山下の言葉を遮った。
「あなたの行為は、どう言いつくろっても重大な背信行為にしかなりませんよ」
「違う。私はメガバンクに行きたかったのに、地方銀行しか入れなくて」
的外れな言い訳だ。吉田が一つ咳払いし、こう切り出した。
「言い訳は結構。田中課長、融資の件ですが、改めて書類を整えて、迅速な再審査をお願いできますか?我々はシンジケートローンを検討しており、融資額は15億です」
田中課長が驚愕した。俺も吉田に続いて口を開く。
「この不祥事の規模、それから私どもの損失を考えたら、融資の規模を拡大するのは当然では?私のメガバンク時代の人脈を生かし、すでに複数の金融機関に打診を始めています」
「では、誠意を持って我々が主幹事を務めさせていただきます」
田中課長の申し出に、俺と吉田は揃って首を横に振った。
「あなたがたに主幹事を任せるつもりはございません」
田中課長が顔色を変えた。銀行にとって新事業の主幹事を担うことは、実績と信用に直結する。それを拒否されるということは、面目を潰されるに等しい。
「中心を担うのは、別の大手金融機関に依頼する旨を伝えました。あなた方に求めるのは、参加金融機関の1つとして最低限の融資枠を担っていただくこと。それだけです。不祥事の後始末として、責任を果たしていただきます」
あえて山下たちの銀行を参加させるのは、彼らにとって不祥事の制裁を意味する。山下を見ると、今にも泡を吹いて倒れそうな様子だった。
「承知いたしました。必ずご協力させていただきます」
田中課長と山下が再び頭を下げた。山下に美味しいところを一切与えず、その銀行には重い責任だけを負わせる。これが元メガバンクの俺が示す最も良い復讐だろう。
その後、山下は広報部署へと異動となったそうだ。解雇でもおかしくなさそうだが、プライドが高い山下にはこの方が応えるだろう、と田中課長が言っていた。
俺たちのシンジケートローンは3ヶ月後、無事に審査を通過した。その後、日に陰者になり笑われたことに腹を立てた山下が銀行内で暴れて首になったという噂も聞こえてきた。
俺はと言うと、今日も楽しく穏やかな気持ちで仕事に望んでいる。信頼できる友人と、そして仲間たちと、これからも働いていけるよう尽くしていくつもりだ。



