「あの…私、半田直子という者ですが…」
電話の向こうの看護師が告げたのは、私の夫が緊急搬送されたという知らせだった。でも、私は独身だ。結婚したこともないし、恋人すらいない。
「間違い電話では?」
そう問い返すと、看護師は患者の名前を伝えてきた。その名前を聞いた瞬間、私は全身の血の気が引くのを感じた。
「嘘…」
私は「すぐ行きます」とだけ言い残し、部屋を飛び出した。向かった先は病院。そこで私は、人生が大きく変わる出来事を目の当たりにすることになる。
事の発端は数日前に遡る。私はとある会社の営業部で働いていた。以前は事務職だったが、一念発起して転職し、今では成績も悪くない。仕事が楽しくて、残業すら苦にならない毎日を送っていた。
そんなある日、取引先で担当者の山崎さんに声を掛けられた。
「直子さん、今日はうちで終わりですか? じゃあ食事にでも行きませんか?」
山崎さんはやたらと私を食事に誘ってくる。2人きりで行くのは正直困る。以前担当していた宮田先輩からも「山崎さんは悪い人じゃないけど気をつけてね」と忠告されていた。一度でも食事に行くと、しつこく誘われたり、プライベートを根掘り葉掘り聞かれたりするらしい。
「すみません。今日は先約がありまして」
「そっか。直子さん、牡蠣が好きって聞いたから、いいオイスターバーを探しておいたんだけどな」
「どうして私が牡蠣好きだと…?」
私は引きつる顔を必死に隠して、愛想笑いを浮かべるしかなかった。
あの日、家でゆっくり過ごしていた私のスマホが鳴ったのは、昼下がりのことだった。
「西田病院です。旦那さんが緊急搬送されました。今すぐ来てください」
ありえない。私は独身だ。そう伝えると、看護師は患者のフルネームを告げた。山崎さん。あの日、私を食事に誘ってきた山崎さんの名前だった。なぜ私が? 私は混乱しながらも、すぐに病院へ向かった。
病院に駆け込むと、宮田先輩が入り口で待っていた。先輩に連絡を取り、一緒に病室へ向かったのだ。中に入ると、そこには山崎さんが横たわっていた。そして、その奥のベッドには、私の同期である伊藤さえ子の姿があった。
「え、さえ子…」
さえ子は顔色が悪く、髪も乱れていた。山崎さんは私に気づくと、気まずそうに目を泳がせた。
「どういうことですか? 病院からは『旦那さんが緊急搬送された』と言われました。私は独身です。でも、あなたの名前が書かれた連絡先が病院にあったそうですね」
山崎さんは深くため息をつくと、観念したように話し始めた。山崎さんはさえ子と食事をしていたらしい。だが、その店で集団食中毒が発生し、2人とも緊急搬送された。動けない中、病院が山崎さんの持ち物に私の名前が書かれたメモを見つけたため、私に連絡が来たのだと言う。
「なぜ、さえ子と2人で食事を?」「それは…その…」
山崎さんが言葉を濁すと、さえ子は相変わらず黙り込んだまま、不機嫌そうな顔をしていた。
痺れを切らした宮田先輩が口を開く。「伊藤君からは何もないのか?」
すると、さえ子は突然、涙まで浮かべて宮田先輩を見つめた。「宮田先輩が魅力的すぎるから悪いんです。山崎さんに協力してって言われて、正直気は進まなかったですけど…宮田先輩に近づけるならって思って」
呆れ果てた話を、さえ子と山崎さんはポツリポツリと語り始めた。さえ子は以前から宮田先輩を狙っていたが、相手にされず、宮田先輩と同じチームで仕事をする私に嫉妬するようになったらしい。私の物を隠したり、マグカップを割ったりしていたのも、さえ子の仕業だった。そして、私が山崎さんの会社の担当を変えてもらいたいと上司に相談しているのを聞き、山崎さんに近づいた。私と山崎さんの仲を深めさせて、私を宮田先輩から遠ざけようとしたのだ。
「呆れた話だな」私はそう呟くしかなかった。
さえ子はまだ諦めず、猫撫で声で宮田先輩に迫る。「先輩、こっちに来てください」
だが、宮田先輩はきっぱりと断った。「悪いが、そういうのはやめてくれ。俺にはもう心に決めた人がいる。もうすぐ結婚するんだ」
「そんな…ひどいです」
先輩が結婚すると言った瞬間、さえ子はあんぐりと口を開けた。宮田先輩の結婚相手は、私の幼馴染みだった。去年、私と幼馴染みが飲みに行った時、偶然宮田先輩と会い、一目惚れしたのだ。私が2人を後押しし、今では結婚が決まっている。私は結婚式でスピーチを頼まれていた。
真実を知ったさえ子は、こちらが気まずくなるほどショックを受けていた。
「分かったか? それに、結婚のことがなくても、お前の気持ちには答えられない。君のことをそういう目で見たことはない」
はっきりと告げる宮田先輩に、さえ子は錯乱した。「どうしてよ! 容姿も仕事ぶりも私の方が絶対に上だわ!」
「人を見下してばかりで嫌がらせばかりする人に惹かれる人なんていないわ」
「何よ! それに、嫌がらせって証拠あるの? 山崎さんが罪を逃れようとしているんでしょ!」
すると、宮田先輩が静かに言った。「その件だが、警備員さんから報告を受けている。お前が半田さんのデスクを覗こうとしているのがカメラに映っていたらしい」
さえ子は逃げ道を探すように視線を彷徨わせ、小さな声で呟いた。「そんなの…証拠になりっこないわ」
それを聞いた宮田先輩が、胸ポケットからスマホを取り出し、画面を全員に向けた。「今までの話、全部録音済みだ。これは会社に報告させてもらう」
さえ子は真っ青になり、ベッドに倒れ込んだ。
その後、私たちは警察に全てを話した。そこで分かったことだが、山崎さんは会社役員の息子らしい。立場を利用して、これまで好き放題やってきたようだ。さらに、警察の捜査で、山崎さんが私の後をつけていたことが防犯カメラに映っていたことが判明した。ポストが荒らされたり、帰り道に視線を感じたりしていたのは、これが原因だったのか。
さえ子も、親のコネで入社していたことが発覚し、今までの行為を問われて自主退職することになった。
一連の騒動はこうして幕を閉じた。
数日後、私は宮田先輩とカフェで会っていた。
「宮田先輩、弁護士さんを紹介いただいてありがとうございました。おかげで慰謝料の請求は終わりました」
「そうか。あいつ、ちょっとぶっきらぼうだけど腕はいいからな」
退職した後、さえ子と山崎さんには色々あったらしい。山崎さんはさえ子の家に怒鳴り込み、暴れて逮捕されたという。さえ子は引っ越しをして、今どこで暮らしているのか誰も知らないらしい。
「あの件があってから、本当に怖くなってな。新居に防犯カメラをつけちゃったよ。俺がいない時に、あいつに何かあったらと思って」
「でも、あの子、小柄だけど柔道の有段者ですからね。子供の頃は『やわらちゃん』って呼ばれてましたよ」
「俺より強いかもな。でも一応心配だからさ」
そう言って笑う宮田先輩の心遣いが、私は嬉しかった。素敵な幼馴染みが、素敵な先輩と結婚する。それは本当に嬉しいことだ。
「おっと、ごめん。あいつから連絡来たから行くよ。明日よろしく」「はい。結婚式、楽しみにしてますね」
宮田先輩と別れ、私は美容室へ向かうことにした。明日の晴れ舞台に、嫌な思い出を持ち込みたくない。気分を切り替えるために、髪をばっさり切ってしまおう。そう思い、私はスマホでヘアカタログを開いた。
突然、着信音が鳴った。大輔の携帯からだ。どうやら家に忘れて外出してしまったらしい。画面には義母の名前が映し出されている。義母からの電話を無視するのも悪いと思い、私は代わりに電話を取った。
「あなた、何してるのよ! 今日は娘の晴れ舞台でしょ! 父親が娘の結婚式に遅れてくるつもり!?」
電話を取るや否や、義母がまくしたてた。
「何のことですか? 私たちの娘は5年前に亡くなったはずですが…」
すると、電話口の向こうから若い女性の声が聞こえてきた。「おばあちゃん、お父さんまだ? やっぱり間に合わなさそう…」
娘は5年前に亡くなった。でも義母は確かに「娘」と言ったし、若い女性は義母を「おばあちゃん」と呼んでいる。これは一体どういうこと? 私は頭が真っ白になった。
「直子さん…どうしてあなたが電話に出るのよ!」義母は焦った様子で絶叫した。
私は義母を問い詰めた。「母さん、これはどういうことですか? 電話口の娘さんは誰ですか? 大輔とはどんな関係なんですか? 今日の結婚式、全部説明してください」
「ど、どうしましょう…いきなり全部説明しろって言われても…」
義母はうろたえるだけで、ちゃんと答えようとしない。これではらちが明かないと判断した私は、義母の家に乗り込み、帰ってくるまで待つことにした。
帰宅した大輔は、私が義母の家にいることに驚いていたが、電話の内容を説明すると、肩を落としてため息をついた。私は2人に真実を問い詰めた。最初のうちは口を閉ざしていた2人だったが、私が「答えるまで絶対に帰らない」と言うと、観念したようにポツリポツリと話し始めた。
話は20年前に遡る。大輔は結婚する前から不倫をしていた。しかも、その相手との間にも娘がいたのだ。そして、その娘は、亡くなった私たちの娘と同い年だった。大輔は「仕事が忙しい」と言い訳して、家に帰らない日が増えていた。あの日々は、もう一つの家庭で優雅に過ごしていたのだ。
さらに驚くべきことに、義母も大輔の二重生活を容認し、時には向こうの家庭に対して援助までしていた。義母は生まれつき病気を持っていた私たちの娘を「迷惑な子」と思っており、そんな娘を産んだ私のことも好きではなかった。娘のお見舞いに来てくれたのは、いつも義父だけだった。
「大輔、もうこんな女、別れなさいよ。せっかくの娘の結婚式が直子さんのせいで台無しになったじゃない」
「本当に母さんの言う通りかもしれないな。俺は今日という日をずっと待ち望んでいたのに。それで、俺ら別れるよな? てか、もう別れろよ」
「慰謝料なら言い値で払ってやるから。これで十分だろ」
この後に及んで上から目線の2人に、私は言葉を失った。不倫をしていたこと。隠し子がいたこと。亡くなった娘をないがしろにしていたこと。その上で、離婚しろと命令してくること。このままでは、私自身以上に、亡くなった娘が哀れだと思った。
「遠慮なく離婚します」
私はそう言い残し、義実家を飛び出した。家に戻り、すぐに弁護士を立てる準備を始めた。離婚届を提出し、大輔と住んでいた家を出た。弁護士をきちんと立てたため、大輔からも浮気相手からも、相場より多めの慰謝料をきっちりと受け取ることができた。
そして、あの日、義実家で2人が衝撃の事実を語った会話、実は全て録音していたのだ。私はその録音を、義父と大輔の会社に送り付けた。大輔の会社は義父が経営している。つまり、義父が大輔と絶縁すれば、大輔は会社を首になるということだ。
録音を聞いた義父は、海外から飛んで帰ってきて、私に会いに来てくれた。義父はこれまでも私のことを気にかけてくれていた。
「家庭にもっと目を向けるべきだった。あなたには本当に辛い思いをさせてしまった。本当に申し訳ございませんでした」
そう頭を下げて謝罪し、「俺はあいつらが許せない。あなたを傷つけた大輔とは絶縁する。もちろん妻とも離婚する」と告げた。
義父から絶縁され、会社を首になった大輔。離婚された義母。2人は生活する術を失った。そして、全ては私のせいだと逆恨みした2人は、あろうことか私の家に乗り込んできた。
「直子! 出てこい!」「私たちがどうなってもいいのか!」2人は大声で怒鳴り、ドアを叩き壊さんばかりに暴れ出した。しかし、私はすでに別の家に引っ越し済みだった。2人が暴れ出した家には、知らない別の人が住んでおり、警察が呼ばれる騒ぎになった。
この後、2人はさらに転落していくことになる。
聞いた話だが、とうとう生活に困り果てた2人は、大輔の不倫相手の娘にすがろうとしたらしい。新婚の娘の家に押しかけ、「援助して欲しい」と土下座も辞さない勢いで懇願した。
しかし、娘は冷たく言い放った。
「でも、あんたにとって私のお母さんは浮気相手だったんでしょ? それで私は浮気相手の娘。それでも私たちを支えてくれていたから、少しは感謝しようと思って、あんたを『お父さん』って呼んでただけ」
「つまり、お金が繋いでいた親子関係ってことね。おばあちゃんも、私たちを援助してくれてたからこそのおばあちゃんなのよ」
「お金のない人たちには用はありません。あなたたちは本当の家族が別にいるのに、私たちのことを浮気相手の家族としていいように使ってきたじゃない。それと同じように、私たちもあなたたちをいいように使わせてもらっていたってわけ」
「じゃあ、分かったらお金のない人はお帰りください。もう家族じゃないんだし」
これまで黙って聞いていた大輔と義母も、さすがに怒りが込み上げ、娘に食器やクッションなどを投げつけ始めた。2人の暴走で部屋はめちゃくちゃになり、身の危険を感じた娘は警察に連絡。駆けつけた警察は、手がつけられない2人を再び連行した。
この騒動で、娘は近隣住民からマークされるようになり、夫からも「家族が相当やばい」とバレてしまい、結婚わずか1ヶ月で離婚されてしまった。
一方の私は、義父の計らいで、義父が経営する系列の会社に再就職することができた。元々、私は簿記一級やパソコン検定一級などの資格を持っていた。すべて、娘の医療費を稼ぐために、介護の合間を縫って努力してきた成果だった。今では1人で暮らすのに十分な給料をもらって、バリバリと仕事をしている。
離婚した後も、私に気を使って、実の息子と縁を切り、妻とも離婚した義父。それだけではなく、住まいまで用意してくださった義父には、本当に感謝している。その気持ちを伝えると、義父はこう言った。
「こちらこそ、直子さんには申し訳ないことをしたと思っているから、これくらいはさせてください。私にとって唯一の孫娘を産んでくれた直子さんには、本当に感謝しています。あんなにも可愛い孫に出会えて、僕の人生は本当に幸せになりました。それに、家族で支え合うのは当たり前のことですよ。直子さんは、私に孫を作ってくれた大切な家族なんだから」
その温かい言葉に、涙が止まらなかった。これも、娘が繋いでくれたご縁だと思う。娘は確かに5年前に亡くなった。でも、娘のおかげで悪い縁が断ち切れたし、今でもこうして私を家族と思ってくれている人と、素敵な関係を築けている。
本当に、娘に出会えてよかった。生まれてきてくれて、ありがとう。これからも一緒に、新しい人生を歩んでいこうね。


