「中卒君、原料10倍な。無理なら他者に売る。」…

「中卒君、原料10倍な。無理なら他者に売る。」...

取引先の会議室で、向かいの男が鼻で笑いながら俺を見下ろした。就任したばかりの工場長である俺に、仕入れ先の新任担当者は一言目からこう言った。
「中卒君、原料10倍な。無理なら他者に売る。」
俺は静かに立ち上がり、テーブルに広げられた見積もり書を手に取った。向こうの2人が動きを止める。
「では、取引契約は解除で。」
そう言い残して、俺は会議室を出た。

俺は杉山、38歳。自動車用精密部品の加工一筋で、この4月に会社創業以来最年少で工場長に就任した。
家が貧しく、中学を卒業してから高校には行けなかった。働きながら独学で大検に合格し、夜間の工学部に通って技術の資格を取った。入社してから13年、現場の機械の前に立ち続けた。そんな俺を社長の岩田が評価し、地元の大学と共同で新素材を開発するプロジェクトを任せてくれた。試作から生産ラインの設計まで、俺が主導してきた。
就任の翌日、俺は30年来の付き合いである仕入れ先への挨拶に出かけた。担当者が交代するというので、普段は着ないスーツを着て。

案内された会議室にいたのは、俺より10歳近く若い男だった。落合と名乗るその担当者は、挨拶もそこそこに、俺の話を聞こうとしない。腕を組んだまま目も合わせず、仕舞いには「ファックスはもう使ってないんで」と、時代遅れだと決めつけるような口を利いた。
話が一区切りすると、落合は顔を上げて言った。
「私は海外留学してMBAを取得してるんですがね。杉山さんはどちらの大学ですか?」
業務に関係ない質問だったが、答えないのも変だ。俺は正直に答えた。
「中学卒業後、大検を取って夜間の工学部を出ています。」
落合の口元がわずかに動いた。
「へえ。それなら中卒みたいなもんですね。」
嘲るような声だった。俺が積み上げてきた18年を、この男は「中卒」の一言で切り捨てた。

それから2週間後、落合から呼び出しがあった。会議室には、初めて見る顔の男がいた。営業部長の野村だ。
落合は分厚い書類をテーブルに広げた。
「相談したいのは来月からの単価の件だ。」
数字に目を走らせて、俺は息を呑んだ。桁が1つ多い。従来の10倍の単価だった。
「まあ、世界的に原料がシビアなのは知ってるよね。あるいはこの単価でお願いできるかな?」
「これは弊社として正式に決定した話だ。ご理解いただきたい。」
野村が重い口調で付け加える。2人は最初から俺を問答無用で押し切るつもりだった。落合はペンを差し出しながら、勝ち誇った顔で言った。
「さっさとサインしてくれよ。中卒君。原料10倍な。無理なら他者に売る。」
だから俺は、あの場で契約解除を告げた。

工場へは戻らず、俺は本社の社長室へ向かった。岩田に一部始終を報告すると、社長は一瞬目を見開いたが、すぐに表情を引き締めて経理部の三浦を呼んだ。
三浦は俺の話を聞き終えると、腕を組んだまま訊いた。
「契約解除ももう告げてきたのか。」
「はい。あの場で判断しました。」
俺は机の上に、持ち帰った見積もり書を広げた。10倍の数字が並ぶ書類を、岩田と三浦は黙って見つめる。
先に口を開いたのは岩田だった。
「杉山、お前、こうなることを見越して動いてたのか?」
「はい。ただ、今日あの場で切るとは思っていませんでした。いずれは1社依存から抜ける時が来ると、これまでご報告してきた通りです。切り替えの準備はすでに整っています。」
岩田は小さく頷いた。
「分かった。やれ。」
その短い言葉に、俺が積み上げてきた全てを受け止めてくれた。
三浦が口を開く。
「1つ確認させてくれ。相手との交渉を続ける選択肢は本当にないのか?30年の付き合いだ。条件を引き戻す余地もあるんじゃないか。」
「この10倍という数字は、書面で正式に通告されたものです。1人の暴走ではなく、野村部長は『弊社の正式決定』と言い切りました。それに、一方的な値上げ通告は独占禁止法上の優越的地位の濫用に当たる可能性があります。この見積もり書を持って、まずは弊社の法務に相談させてください。正式な契約解除の通知は、内容証明で送る形が望ましいと考えています。」
岩田は深く頷いた。三浦もようやく腕を解いて言った。
「杉山がそう言うなら、進めてくれ。」

俺はその足で法務部へ向かった。法務部長は見積もり書を入念に確認し、独占禁止法上の問題として正面から指摘できると断言した。契約解除の通告は、その場で内容証明郵便の手続きを進めてくれた。
3日後、工場の事務室に相手方から電話が入った。落合が「条件を見直すご相談をさせていただきたい」と言っているという。あれだけ「無理なら他者に売る」と脅しておいて、手のひらを返したのだ。内容証明が届いたのだろう。
「すでに法務を通じて手続きを進めています。」
俺はそれだけ告げて、電話を切った。

並行して、工場では切り替えの準備が動き始めていた。俺は地元大学の研究チームに連絡を取り、生産ラインの最終調整を進めた。半年前には量産設備の設置が完了しており、作業手順書も整備済みだった。数日かけて、加工精度、生産速度、不良品の発生率を確認していく。全ての数値が目標の範囲に収まった。
俺は従業員たちを集めて、切り替えの全体像を説明した。
「来月から新素材の量産を本格的に立ち上げる。これまで使ってきた特殊原料の仕入れは止める。」
試作段階で何度もラインを回してきた従業員たちは、表情を引き締めて頷いた。
一方、相手方からの連絡は途切れなかった。落合や野村が入れ替わり立ち替わり、ほぼ毎日のように電話をかけてくる。俺は、法務を通すよう取り次ぎを断り続けた。1週間、2週間と経つうち、相手の声は次第に切迫していった。こちらが折れて戻ってくると見込んでいたのだろうが、焦っているのは向こうの方だった。

俺が次に動いたのは、取引先の大手自動車部品メーカーだった。試作段階で新素材のサンプルを受け取り、高い評価をしてくれた2社の調達担当者に、俺は自ら電話を入れた。
「量産体制が整いました。正式な量産サンプルをお持ちします。」
反応は早かった。どちらの担当者も、その日のうちに打ち合わせ日程を折り返してきた。

契約解除の内容証明を送ってから1ヶ月後。相手方の野村から、取引再開を打診する電話が入った。量産ラインの構築が片付いた今なら、向き合ってもいいだろう。俺は「工場までお越しください」とだけ告げて、電話を置いた。
翌日、野村と落合は揃って工場の正面玄関に現れた。俺は2人を応接室へ通し、テーブルを挟んで向かい合った。
最初に口を開いたのは野村だった。
「先日の単価通告については、社内で改めて検討しております。価格条件を大幅に引き下げる用意がございます。30年の付き合いを、なんとかこの先も続けさせていただきたい。」
言葉は丁寧でも、その声には契約をつなぎ止めたい必死さが滲んでいた。
俺はゆっくりと口を開いた。
「当社から原料を仕入れる計画は、もうありません。」
野村が顔を上げる。俺は隣の落合に視線を移した。
「落合さん、1ヶ月前、あなたと最初にお会いした日のことを覚えていますか?」
落合は唇を結んだまま、目を伏せている。
「あの日、あなたは私の経歴を聞いて『中卒みたいなもんですね』とおっしゃった。私はあの一言で、あなたという人物を理解しました。取引相手の中身を見ようとせず、学歴という記号でしか人を見ない。」
落合の指先が、膝の上でかすかに震え始めている。
「2週間後の会議室では、私を中卒と嘲りながら笑いを含んだ声で10倍の単価を押し付けた。」
俺はポケットから、あの日持ち帰った見積もり書のコピーを取り出し、テーブルの上に置いた。
「この書類が何を意味するか、お分かりですか?すでに私どもの法務部から、優越的地位の濫用にあたる事案として対応中です。」
野村の顔がわずかに強張る。
「あなたは私を完全に見誤った。30年の取引依存を盾にすればサインせざるを得ない。他者調達も難しいと踏んだ。あなたの読みでは、私はあの場でしぶしぶペンを取る人間だったはずだ。」
落合は依然として一言も発さない。
「今、この工場は本社から仕入れた原料を一切使っていません。我々が5年かけて開発した新素材で量産化の目処が立っている。これは時短系化合物と炭素繊維を複合した金属系複合材料です。従来の特殊鋼と同等以上の引っ張り強度、疲労強度を持ちながら、重量が約3割低い。自動車部品の軽量化が世界的に厳しくなる中、取引先各社が最も求めていた数値でした。本社から一方的な通告を受けた時点で、切り替えはすでに射程内に入っていました。」
落合の表情がわずかに揺れる。俺は一息置いて、声に重みを込めた。
「あなたには、お礼を申し上げます。」
落合の目がかすかに見開かれた。
「あの10倍の通告書は、私にとって最高の贈り物でした。1社に原料を依存し続けることがどれほど危ういか。それを我が社の幹部に証明するために、これ以上ない説得材料を持ち帰ることができた。この見積もり書があったからこそ、私は迷うことなく新素材への全面切り替えを決断できたのです。今この工場が何の問題もなく稼働できているのは、全てあの時のあなたの判断のおかげだ。あなたがあの日、礼儀正しく交渉していたら、私は今でも貴社から原料を仕入れ続けていたかもしれません。」
落合の顔から血の気が引いていくのが見えた。
俺は視線を隣の野村へ移した。
「野村部長、あなたにも申し上げたいことがあります。営業部長として、部下の暴走にチェックをかけるのがあなたの役目だったはずです。ところがあなたは『社の正式決定だ』と言い切って援護した。いや、正確には違うかもしれない。落合さんに『30年の依存関係があるから強気でいける』と、あらかじめそう伝えていたのではないですか?確認したばかりの担当者が、あれほど踏み込んだ通告を1人で決断できるとは思えません。」
野村は口を開きかけては閉じることを繰り返し、ようやく途切れ途切れに言葉を絞り出した。
「杉山さん、あれは……あの場では……」
「あの場で止められなかった部長が、契約を失った今になって頭を下げに来た。それが貴社の組織判断の限界だということが、よく分かりました。」
野村の唇がわずかに動いたが、もう声は出てこない。
俺は立ち上がった。
「お引き取りください。今後、貴社との取引が再開されることはありません。」
野村と落合は何かを言いかけては飲み込み、力なく立ち上がった。俺は応接室のドアを開け、2人を正面玄関まで見送った。
車が敷地を出ていくのを見届けてから、俺は晴れやかな気分で事務所に戻った。

それから数ヶ月後、業界紙に相手方の名前が載った。公正取引委員会が、優越的地位の濫用を認定し、行政処分を受けたと報じられたのだ。取引先への一方的な単価引き上げ要求が、複数社への調査で次々と明らかになったという。法務部が言うには、俺が持ち帰った見積もり書が調査の端緒になったとのことだった。
記事を読みながら、俺はしばらく手を止めた。筋は通すものだと思った。
一方、工場の方は好調が続いた。2社からの正式受注に加え、新たに3社から量産サンプルの提供依頼が届き、設備稼働率は前年の2倍近くに達していた。

ある日、本社へ出向いた時、岩田から声をかけられた。
「杉山、あの時のお前の判断は正しかった。」
それ以上は何も言わなかった。だが、その一言に、これまで歩んできた道のりが全て詰まっていた。

工場に戻ると、俺は製造ラインの脇に立った。新素材の部品が次々と組み上がっていく。ふと、中学を出たばかりの自分が、初任給で大検の参考書を手に取った日のことを思い出す。
あの日の自分に、今日のこの景色を見せてやれたら、何と声をかけてやれるだろう。
答えは出ない。俺はもう一度製造ラインに目をやり、明日の段取りに頭を切り替えた。

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