式の開始時間はとっくに過ぎていた。純白のウェディングドレスを着て、ハワイのチャペルで私は一人、新郎を待っていた。10回目の電話でようやく繋がった彼の声は、楽しそうだった。「悪い、悪い。今元嫁と両親とグアムにいるんだわ。式なんて来月、日本の公民館とかで適当にやればいいだろう」…

式の開始時間はとっくに過ぎていた。純白のウェディングドレスを着て、ハワイのチャペルで私は一人、新郎を待っていた。10回目の電話でようやく繋がった彼の声は、楽しそうだった。「悪い、悪い。今元嫁と両親とグアムにいるんだわ。式なんて来月、日本の公民館とかで適当にやればいいだろう」...

式の開始時間を過ぎても、チャペルに新郎は現れなかった。純白のドレスに身を包んだ私は、参列者のざわめきを背中に感じながら、震える指で何度もスマホを操作した。10回目のコールでようやく繋がった電話の向こうから聞こえてきたのは、陽気なトロピカル音楽と、弾んだ笑い声だった。

「ああ、メイか。悪い、悪い。今元嫁と両親とグアムにいるんだわ」

「グアム?今日は私たちの結婚式よ?ハワイで」

「いや、ハワイとかすっかり忘れててさ。元嫁との旅行を先に予約しちゃってたんだよ。式なんて来月、日本の公民館とかで適当にやればいいだろう」

信じられない言葉に、私は言葉を失った。一生に一度の晴れ舞台を「忘れた」の一言で片付け、元嫁と旅行。それって浮気じゃないのか。

「席入れてねえんだから、俺はフリーだろ。お互い様じゃん」

「お互い様って何よ」

「知らばっくれんなよ。仕事に偽りをつけて、金持ちのじじいとホテルで密会してるの知ってんだぞ。色仕掛けでスポンサー探しとはご苦労なこった」

身に覚えのない妄想で逆切れする最低男。怒りを通り越し、私の心は急速に冷えていった。もういい。

「は?ズルしか?ま、帰ったらたっぷり説教してやるから覚えとけよ」

一方的に切られた電話。私はスマホを握りしめ、静かに反撃を誓った。地獄を見せてやるわ、最低男。

私の名前は田中メイ。映像制作会社でアシスタントディレクターとして働いている。婚約者は吉木健太さん。仕事で知り合った青年実業家で、スマートなエスコートと優しい笑顔に惹かれ、交際は順調に進んだ。プロポーズを受けた時は、天にも登る気持ちだった。

幼い頃に両親が離婚し、女手一つで育ててくれた母も数年前に亡くした。だからこそ、健太さんと作る新しい家族に大きな夢を抱いていた。彼のご両親にも、本当の娘のように可愛がってもらいたい。そんな淡い期待を胸に、私は健太さんの実家へ挨拶に向かった。

しかし、その期待はすぐに打ち砕かれた。到着するなり、彼の両親は私を値踏みするような視線で見た。

「まあ、メイさん。大変だったでしょ?お母様を一人で看取るなんて、ちゃんとできなかったんじゃない?」

「うちの健太は会社を経営している。やはり、家柄の釣り合いというものは重要だと私は思うがね」

トゲのある言葉の数々に、私は笑顔を貼り付けるだけが精一杯だった。お茶を入れ直すために席を立った私の耳に、信じられない言葉が飛び込んできた。

「健太、あの子で本当にいいの?なんだか品がないじゃないの」

「うむ、片親育ちというのはどうもな。結婚は家と家との繋がりだ。もう一度考え直した方がいい」

「まあまあ、そんなこと言うなって。俺はメイが好きなんだからさ」

両親の言葉を健太さんが軽く受け流している。その事実に、私は言葉を失うほどのショックを受けた。片親だからという理由で結婚を反対されるなんて、思いもしなかった。悩んだ末、私は健太さんに別れを告げる決意を固めた。

「健太さん、ごめんなさい。結婚はなかったことにしてください」

「どうしてだよ。急に。あんなに楽しみにしていたじゃないか」

「あなたのご両親は、私の家柄を理由に結婚を快く思っていません。祝福されない結婚はできません」

私の言葉に、健太さんは必死な表情を浮かべ、私の肩を強く掴んで懇願してきた。

「両親のことは俺が必ず説得する。だからお願いだ。俺を見捨てないでくれ。ずっと俺のそばにいて欲しいんだ」

彼の真剣な瞳と震える声に、私の決意は揺らいだ。この人を信じたい。私はもう一度だけ、前に進むことにした。

しかし、この選択が間違いだったと気づくのに、そう時間はかからなかった。結婚式の準備を進める中で、健太さんの無責任な一面が露わになっていく。楽しみにしていた週末のデートを、彼は何度もすっぽかした。

「健太さん、ひどいよ。今日は映画に行く約束だったじゃない」

「え、そうだっけ?ごめん、ごめん。すっかり忘れてた。今、仕事仲間と飲んでるんだ」

悪びれる様子もない電話越しの声に、私は言葉を失う。そんな約束したかと、逆に不思議そうに取り返されたことも一度や二度ではなかった。その一方で、私が仕事で立て込んでいる時に限って、彼は一方的に会いたがった。

「今からそっち行くわ。駅前のイタリアンで待ってるから」

「ごめんなさい。今日はどうしても抜けられないの。来週じゃダメかな?」

「はあ?なんでだよ。俺がせっかく誘ってやってるのに。お前の仕事なんてどうでもいいだろう」

そう言って不機嫌に電話を切られる。彼の気まぐれに振り回される日々に、私の心は少しずつすり減っていった。

そんなある日、打ち合わせが早く終わり、健太さんの会社の近くを通りかかった私は、信じられない光景を目にした。健太さんが魅力的な女性と喫茶店で、親密そうに話している。私はいても立ってもいられず、店の中へと足を踏み入れた。

「健太さん、この方はどなた?」

「うわ、メイ。なんでここに?ああ、こいつは元嫁の京子だよ」

三村京子と名乗った女性は、気まずそうに私に挨拶した。健太さんの口から「元嫁」という言葉を聞き、私の頭は混乱した。席を外した京子さんを見送った後、私は健太さんを問い詰めた。すると彼は、堰を切ったように嘆き始めた。

「実は会社の経営が苦しくてな。元嫁への慰謝料と子供の養育費の支払いが滞ってるんだ」

「え、そうなの?」

「ああ。だから今、向こうにしつこく催促されてて、本当に気が滅入るよ」

俯いて深いため息をつく健太さんの姿は、とても痛々しく見えた。会社の経営が悪化しているなんて初耳だった。そんな大事なこと、どうして今まで話してくれなかったの?

「お前に心配かけたくなかったんだ。でも、もう限界かもしれない」

彼の弱々しい言葉を聞き、私はいても立ってもいられなくなった。この人を支えられるのは私しかいない。結婚をスムーズに進めるためにも、問題を解決しなければならない。私は覚悟を決め、彼に一つの提案をした。

「健太さん、大変だったのね。よかったら、慰謝料の一部、私が立て替えようか?」

その言葉を聞いた瞬間、健太さんの顔がパッと輝いたのを、私は見逃さなかった。彼は大げさなくらい感謝の言葉を口にする。

「本当か?メイ君はなんて優しいんだ。これでやっと俺たちも結婚式に集中できるよ」

そう言うと、彼はまるで名案を思いついたかのように目を輝かせた。

「なあ、式はハワイでやらないか?両親も海外旅行に行きたがってたし、最高の思い出になるぞ」

彼の提案に少し戸惑ったが、慰謝料の件で負い目を感じていたことと、彼の嬉しそうな顔を見て断ることができなかった。後日、健太さんのご両親にハワイ挙式の話をすると、あれほど私を貶めていたのが嘘のように上機嫌になった。

「まあ、ハワイですって。素敵じゃない。楽しみだわ」

「うむ。健太もなかなか気の利くことを考えるじゃないか」

彼らの変わり身の速さには呆れたが、これで結婚がうまくいくならと自分に言い聞かせた。

そして、挙式を明日に控えた出発の日。私は大きなスーツケースを手に、指定された時刻に空港のチェックインカウンターで待っていた。しかし、約束の時間を過ぎても健太さんとご両親は現れない。何度も電話をかけるが、彼のスマホは留守番電話に繋がるだけだった。

出発時刻が迫り、焦りと不安で胸が張り裂けそうになった時、ようやく健太さんから一本の短いメッセージが届いた。

「ごめん。急なトラブル発生。先にハワイに行っててくれ。すぐ追いかけるから」

あまりに一方的な連絡に呆れたが、私は彼の言葉を信じるしかなかった。たった一人で飛行機に乗り込み、ハワイのホテルにチェックインする。窓の外には楽園のような景色が広がっていたが、私の心は曇ったままだった。その後も健太さんたちからの連絡は一切なく、不安な一夜を過ごした。

そして挙式当日。純白のウェディングドレスに身を包んだ私は、チャペルで虚しく待ち続けた。何度も何度も健太さんに電話をかけた。そして、10回目のコールでようやく電話が繋がった。しかし、聞こえてきたのは陽気な音楽と楽しそうな健太さんの声だった。冒頭に戻る。

ハワイから帰国した私の心は、驚くほど静かだった。裏切られた悲しみや怒りがなかったわけではない。しかしそれ以上に、あの男の本質を見抜けたことへの安堵感が勝っていた。私はすぐに弁護士に連絡を取り、法的な手続きについて相談を済ませた。彼との思い出が詰まった写真やプレゼントは全て段ボール箱に詰め込み、クローゼットの奥へと押し込む。部屋が片付いていくにつれて、私の心の中の澱んだ感情も整理されていった。あとは、全ての元凶であるあの男に最後の通告をするだけだった。

数日後、グアムでのバカンスを満喫し、こんがりと日焼けした健太さんが、私の自宅に何食わぬ顔でやってきた。インターホンの画面に映る脳天気な笑顔を見て、私は静かにドアを開ける。

「おお、メイ。帰ってたのか。ハワイはどうだった?俺がいなくて寂しかっただろう?いや、グアム最高だったぜ。親父もお袋も大喜びでさ」

「そうですか。それは良かったですね。どうぞ上がってください。あなたに渡すものと、大事な話がありますから」

私の冷え切った声と無表情な態度に、健太さんはようやく何かを察したのか、少し眉を潜めた。それでも構わずリビングのソファにどっかりと腰を下ろし、ふんぞり返って私を見上げる。私は彼の正面に立ち、弁護士に作成してもらった書類の束をローテーブルの上に静かに置いた。

「吉木健太さん。あなたとの婚約は、本日この瞬間をもって破棄させていただきます」

一瞬の沈黙の後、健太さんは鼻で笑った。

「は?お前、何言ってんだよ。頭でも打ったのか?ハワイボケか」

「私は至って正気です。つきましては、あなたがすっぽかしたハワイ挙式のキャンセル料全額、及びあなたの度重なる不貞行為に対する慰謝料を請求します。これがその請求書です」

私が差し示した書類に目を落とした健太さんの顔が、見る見るうちに怒りで赤く染まっていく。

「ふざけんのも大概にしろよ。なんだこの金額は。なんで俺がお前に慰謝料なんて払わなきゃいけないんだ」

「ご自分の胸に手を当てて、よく考えてみてください。心当たりは一つや二つではないはずです」

私の冷静な言葉が、さらに彼の怒りに油を注いだようだ。健太さんは請求書をくしゃくしゃに丸めると、テーブルを拳で強く叩き、勢いよく立ち上がって私を睨みつけた。

「不貞行為だ?してねえよ、そんなもん。お前こそ俺を裏切って浮気してただろうが、この浮気女め!」

そう獣のように叫ぶと、健太さんはジャケットの内ポケットから数枚の写真を乱暴にテーブルへ叩きつけた。そこには、私が白髪の初老男性とホテルのロビーラウンジで親しげに談笑している姿がはっきりと映っている。ご丁寧に、まるで2人が寄り添っているかのように見える悪意のある角度で撮影されていた。

「親父がな、たまたまお前を見つけて撮ったんだよ。これでもう言い逃れはできねえぞ」

写真の中の男性の顔を見て、私はすべてを察した。健太さんは自分が完全に優位に立ち、勝利したと確信したのだろう。得意げな笑みを浮かべ、汚いものでも見るかのような目で私を指差して罵倒を続ける。

「こんなじじいと不貞を働くなんて、本当にお里が知れるよな。やっぱり片親育ちだから、男の選び方も知らないし、だらしないのか。こっちから慰謝料請求してやるからな。500万はもらうぞ。お前が働いてる安月給の制作会社にもこの写真を送り付けて、お前の汚い正体をばらしてやってもいいんだぞ」

脅迫紛いの言葉を浴びせられても、私の心は湖面のように穏やかだった。むしろ、彼の底知れぬ愚かさに哀れみすら覚える。私はゆっくりと、テーブルに散らばった写真の中から一枚を手に取り、彼の目をまっすぐに見つめ返した。勝利を確信した健太さんは、なおも私への罵詈雑言を続けた。

「どうなんだよ。なんとか言えよ、この泥棒猫」

私は手に取った写真を健太さんの目の前に突き返し、静かに口を開いた。

「こちらの方が誰だか、本当に分からないのですか?」

「は?知るかよ。お前の汚い浮気相手のじじいだろう」

その言葉を待っていた。私はゆっくりと自分のスマートフォンを取り出し、写真フォルダを開く。そして一枚の古い写真の画面を、彼の顔の前に差し出した。

「よく見てください。写真に映っている幼い私と一緒にいるこの男性と、あなたが『じじい』と呼んだこの方は、同一人物です」

彼が覗き込んだ画面には、遊園地で満面の笑顔を浮かべる幼い私と、その隣で優しく微笑む若い男性の姿が映っていた。髪の色こそ違うが、面立ちは写真の白髪の男性と瓜二つである。健太さんは二枚の写真を必死に見比べ、信じられないといった表情で顔を上げた。私はそんな彼に追い打ちをかけるように、事実を告げた。

「この方は、私が幼い頃に離婚して家を出ていった、私の実の父親です」

「う、嘘だ。そんな話、聞いてないぞ」

「ええ、お話ししましたよ。一ヶ月ほど前、仕事の関係で偶然父と再会できたと。それから時々こうして会って、昔の思い出話などをしているとも伝えました」

私の言葉に、健太さんは必死に記憶を辿ろうとしているようだった。だが、思い当たる節がないのか、ただ混乱した表情で首を横に振るばかりだ。それもそのはずである。彼はいつだって、私の話に真剣に耳を傾けることなどなかったのだから。

「父がこのホテルに宿泊していたのは、地方からの出張で来ていたからです。ロビーで会っていたのは、チェックアウトの時間に合わせて私が顔を出した。ただ、それだけのこと。やましいことなど何一つありません。あなたにもちゃんとお話ししました。今度、父に会ってみると。その時、あなたは何て言いましたか?『へえ、そうなんだ。まあどうでもいいけど』。そう言って、スマホのゲームに夢中でしたよね。私の話なんて全く興味がなかった。だから、忘れてしまったのでしょう」

私の指摘に、健太さんはぐうの音も出ないようだった。彼の顔からは血の気が引き、その表情は見る見るうちに青ざめていく。自分が突きつけた浮気の証拠が全くの見当違いであったこと。そしてそれが自分の無関心さによって引き起こされた失態であること。その事実が、彼のプライドを粉々に砕いたのだろう。呆然と立ち尽くす彼を、私は冷たい視線で見据えた。形勢は完全に逆転したのだ。

「さて、私の潔白はこれで完全に証明されましたね。今度は、あなたの番です」

「な、なんだよ。俺は何もやましいことなんて、これっぽっちもないぞ」

勝ち気に満ちた彼の声は、哀れなほどに上ずって震えていた。私は黙って、テーブルの上に散らかった父との写真を丁寧に片付ける。そして代わりに、脇に置いていた分厚い茶封筒を逆さにし、中身をテーブルの上にぶちまけた。そこから現れたのは、夥しい数の写真と一台のICレコーダー、そしてホチキスで止められた分厚い書類の束である。

「こ、これは一体何だ?」

カラー印刷された写真には、健太さんとあの時喫茶店で会った元嫁の京子さんではない、見知らぬ若い女性がこれでもかと映っていた。二人が高級ホテルのエントランスに腕を組んで入っていく姿。ブランドショップで楽しそうに買い物をする様子。そして夜景の見えるレストランで、シャンパンのグラスを傾け、濃厚なキスを交わしている決定的な一枚。

「言い訳があるなら、聞きますよ。この、あなたに寄り添っている女性は一体どなたですか?」

「こ、こいつは京子だ。元嫁と会って、何が悪いんだよ」

あまりに見苦しい言い訳に、私は心の底から呆れたため息をつき、静かに首を横に振った。

「残念ですが、全くの別人です。この方は川村ミクさん。京子さんのたった一人のご親友だった方ですよね?」

私の口からその名前が出た瞬間、健太さんの顔から完全に感情が消え去った。私はここに至るまでの全ての経緯を、彼にゆっくりと、しかしはっきりと語り始めた。

「最初にあなたと京子さんが会っているのを見た時、私は本当に復縁を迫られたのだと信じ、あなたに同情さえしました。今思えば、おかしなことばかり。慰謝料の立て替えを申し出た時の、あなたの嬉しそうな顔。経営が苦しいと言いながら、あなたは新品の高級腕時計を買い、毎日ブランド服を着ていたわ。募る不審感に耐えきれなくなった私は、プロの探偵にあなたの素行調査を依頼したのです。その結果は、私の甘い想像をはるかに超える、おぞましくそして卑劣なものでした。探偵の報告によると、あなたが密会していた相手は一度も京子さんではありませんでした。常に、この川村ミクさんでした。京子さんはあなたへの愛情など、とっくに覚めきっていました。ただ、お子さんの養育費の支払いが滞っていたため、仕方なく連絡を取っていただけ。むしろ、あなたにまとわりつかれて、親戚迷惑していたそうです。さらに探偵の調査は、もっと驚くべき事実を突き止めました。京子さんがあなたとの離婚を決意した本当の理由。それは他ならぬ、あなたの隣で微笑むこの川村ミクさんからの、執拗で陰湿な嫌がらせだったのです。ミクさんはあなたとの親密な関係をこれ見よがしに京子さんに報告していたそうです。『健太君、あなたの作ったご飯より私のお手料理の方が美味しいって』『昨日は素敵なホテルに連れて行ってもらったの』と。そのあまりにも残酷な事実を知った私は、京子さんに直接連絡を取り、全てを正直に話しました。最初は当然警戒していた彼女も、私が健太さんの新たな婚約者だと知ると、堰を切ったように全てを打ち明けてくれたのです。そして、私に協力してくれると固く約束してくれました。ここに広げたLINEのスクリーンショットと、このICレコーダーに入っている音声は、全て京子さんが提供してくれたものです」

私は印刷されたLINEのやり取りの束とICレコーダーを、彼の目の前に押し出す。そこには、健太さんとミクさんがいかにして京子さんを精神的に追い詰め、そして今度は私を騙して金を巻き上げようとしていたか、その卑劣な計画の全てが生々しく記録されていた。健太さんは震える手で書類を一枚めくり、その顔は絶望の色に染まっていった。

「これであなたの罪は明らかですね。慰謝料とキャンセル料、全額をお支払いいただきます。さらに、もう一つ。あなたは見当違いな自信に満ち溢れているようですが、あなたの会社への資金援助も、本日をもって停止させていただきます」

その言葉に、健太さんは負け惜しみのように鼻で笑った。

「は、資金援助だ。寝言は寝て言えよ。お前みたいな制作会社で下働きしてる女に、俺の会社を援助できる金がどこにあるってんだよ」

彼の見下した態度。その愚かな発言こそが、彼の破滅を決定付ける最後の引き金となった。ええ、私一人では無理ですね。だから、私がそう言いたいその時だった。今まで閉まっていた隣の和室のふすまが、静かにすっと開かれた。そこから現れたのは、先ほどまで写真の中にいた白髪の紳士。私の父、小笠原譲二である。

「援助しているのは、私だ」

穏やかだが、有無を言わせぬ父の低い声がリビングに響く。健太さんは目の前に現れた人物が信じられないといった様子で、目を白黒させていた。

「お、小笠原社長?! なぜあなたが、ここに」

「ここにいて、何か不都合でも?娘の家に父親がいて、何もおかしなことはないだろう」

健太さんは父と私を交互に見て、まだ状況が飲み込めていないようだった。それもそのはずである。父はプライベートでは白髪だが、会社の代表として公の場に出る際は、若々しく見せるために髪を黒く染めている。健太さんは、自分の会社に500万円もの大金をぽんと出資してくれた大手企業経営者の小笠原。その人物と、私が会っていた白髪の初老男性が同一人物だとは、夢にも思っていなかったのだ。

すべての線が繋がった瞬間、健太さんはその場に崩れ落ちた。そして、見るに耐えないほど無様な姿で土下座を始めた。

「も、申し訳ございませんでした。私が、私が全て間違っておりました。どうかこの通りです。メイさんとの結婚をもう一度、そして援助の継続を、何卒!」

彼の謝罪が私たちの心に響くことは、もはや万に一つもなかった。父は冷たい視線で健太さんを見下ろし、静かに言い放った。

「君のような不誠実な男に、娘をやるわけにはいかない。援助についても、当然打ち切りにさせてもらう。君の会社に未来はない。そういうことです。慰謝料とキャンセル料については、改めて私の弁護士から連絡させます」

全てを失ったことを悟った健太さんは、最後の悪あがきとばかりに叫んだ。

「なんでだよ!俺はただ、メイの顔とスタイルがタイプだったから、そばに置いておきたかっただけなんだ!結婚なんて、どうだって良かったんだよ!」

その言葉は、彼の本性を余すところなく物語っていた。言い訳が空回りし、自ら墓穴を掘ったのである。彼は私を愛していたのではなく、ただ自分の欲望を満たすためのアクセサリーとしか見ていなかったのだ。その腐り切った本性を最後に確認できたことで、私の心に残っていたわずかな未練も完全に消え去った。あの日、私の家から逃げるように去っていった健太さんと私が顔を合わせることは、二度となかった。

後日、弁護士を介して健太さんには婚約破棄の通告と共に、慰謝料とハワイ挙式のキャンセル料の全額が一括で請求された。父からの資金援助という最後の命綱を断たれた彼の会社は、あっという間に経営が行き詰まったそうである。結局、健太さんは高額の慰謝料を支払うため、そして会社の負債を清算するために、ご両親と同居していた豪邸と、名目の塊だった会社を売却するしか道はなかった。

さらに、彼の不幸はそれだけでは終わらない。浮気相手であった川村ミクさんが、実は既婚者であることが判明したのだ。当然、ミクさんの夫は激怒し、健太さんはそちらからも高額な慰謝料を請求されるはめになったと聞いている。まさに自業自得の結末であった。

そして、あの吉木家にも崩壊の時が訪れた。驚くべきことに、元義父の国明さんが、私と父の写真を隠し撮りしたあの日、あのホテルで彼自身も若い愛人と密会していた事実が発覚したのである。何かの手違いで、愛人とのツーショット写真が元義母の花江さんの目に触れてしまったらしい。すべての裏切りを知った花江さんは、「貧乏は嫌」と言い放ち、一切の躊躇なく二人を突き離して、どこかへ蒸発してしまったそうだ。以前から経営者としての評判が高かった健太さんは、再就職も全くままならない。愛人に見捨てられ、会社も首になった国明さんと共に、今は路頭に迷っているという噂を、風の噂に聞いた。

一方、私はあの騒動の後、仕事に没頭した。辛い経験は、私を精神的に大きく成長させてくれたと思う。これまでの努力が認められ、私はアシスタントディレクターから念願のディレクターへと昇進した。自ら企画した独自のコンテンツは幸いにも高く評価され、会社の業績に大きく貢献することができている。

そして、私の父は会社の経営を後継者に譲り、会長職として一線から身を引いた。今では悠々自適の毎日を送り、現役時代にはできなかった登山や草野球チームに参加するなど、第二の人生を謳歌している。その生き生きとした父の姿を見ていると、私の心も自然と温かくなるのだ。先日、私はそんな父の体を気遣い、感謝の気持ちを込めて温泉旅行をプレゼントした。これからは、私が父を支えていく番である。

Thumbnail