朝の診察室で、風邪だと訴える患者の胸に聴診器を当てた時、小さな“擦れ”が聞こえた。薬を出せば話は早い。でも、その音を無視できなかった。「風邪薬を出してください」と怒鳴って、患者は病院を飛び出して行った。一週間後、その患者は倒れたと連絡が入る。誰もが風邪だと思った症状は、実は心不全のサインだった。彼が「本当に医者か」と吐き捨てた言葉が、今も耳に残っている。私は紹介状を書いていた。だが、届くかど…

朝の診察室で、風邪だと訴える患者の胸に聴診器を当てた時、小さな“擦れ”が聞こえた。薬を出せば話は早い。でも、その音を無視できなかった。「風邪薬を出してください」と怒鳴って、患者は病院を飛び出して行った。一週間後、その患者は倒れたと連絡が入る。誰もが風邪だと思った症状は、実は心不全のサインだった。彼が「本当に医者か」と吐き捨てた言葉が、今も耳に残っている。私は紹介状を書いていた。だが、届くかど...

カーテンを開けると、商店街のシャッターが上がる音が聞こえてきた。豆腐屋が水を打ち、八百屋がトラックからダンボールを下ろしている。いつもの朝だった。

俺は白意に袖を通し、診察室の椅子に腰を下ろした。田司浩、40歳。東京下町の商店街の一角にある診療所を継いで、ちょうど3年になる。

看護師の朝倉さんが入ってきた。50歳になる彼女は、亡き父の時代からここに勤めている。

「先生、おはようございます。今日は予約が3件と、太田さんが朝一番に来るそうですよ。風邪をこじらせたみたいで、声が枯れてました」

カルテ棚から太田浩のファイルを引き抜く。血圧、体重、過去の処方歴。紙は少し黄ばんでいた。

待合室から引き戸を勢いよく開ける音がした。太田浩が来たらしい。

診察室に入ってきた太田は、ダウンジャケットの襟を立て、マスクの上から目を細めていた。頬に赤みが差し、額には汗が滲んでいる。

「先生、もう3日もこれだよ。咳が止まらねえし、夜も眠れねえんだ」

「座ってください。喉を見せてもらえますか」

喉の奥は赤いが、扁桃の腫れはそれほどでもない。聴診器を胸に当てると、呼吸音にわずかな擦れがあった。普通の風なら聞き流すような、ごく小さな音だ。背中側からも聞く。

「先生、ちゃっちゃとやってくれよ。店開けなきゃいけねえんだから」

「太田さん、最近息切れはありませんか。階段を上がる時とか」

「そりゃ年だからな。少しはあるよ」

「足のむくみは?」

「まあ、夕方になると靴がきつい気はするな。それが何だってんだ?」

俺はカルテにペンを走らせた。

「太田さん、今日は風薬は出しません」

「あ? どういうことだ?」

「代わりに、もう少し詳しい検査を受けて欲しいんです」

「心臓の検査か? 俺は風だって言ってるだろう。咳止めと熱さましをくれりゃいいんだよ」

俺は静かにカルテを閉じた。呼吸音に混じった擦れ、むくみ、息切れ、夜間の咳。胸に引っかかるものがあった。風と決めつけて薬を出すには、引っかかりすぎていた。

「咳が出るのは風のせいだけじゃないかもしれません。心臓に負担がかかると、肺に水が溜まって咳が出ることがあるんです。念のため紹介状を書きますから、大きな病院で検査を受けてください」

「冗談じゃねえよ。俺はピンピンしてるんだ。ちょっと風邪引いただけで大病院だ。検査だって大げさなんだよ」

「大げさかどうかは、調べてみないと分からない」

「あんた本当に医者か? 風薬1つ出せねえのか?」

太田さんは椅子を蹴って立ち上がった。

「もういい。隣町の医院に行くわ。あそこの先生はちゃんと薬を出してくれるからな」

「太田さん、お願いします。検査だけでも」

「せえ」

太田さんは診察室を乱暴に閉めていった。廊下で何か言い捨てる声が聞こえる。

俺はカルテに視線を戻し、紹介状の下書きを書き始めた。

しばらくして朝倉さんが入ってきた。眉を少し下げてため息をつく。

「先生、太田さん相当ご立腹ですよ」

「すみません。怒らせてしまいましたね」

「でも先生には、何か理由があるんでしょう」

「呼吸音が少し気になったんです。心不全の初期かもしれない。検査を受けてくれるといいんですが」

朝倉さんは黙って頷いた。言葉にせずとも、彼女は俺の判断を信じてくれる。父の頃から診療所を見てきた人だ。

「奥さんにそれとなく電話しておきますね」

「助かります」

午後の診察が終わり、待合室の明かりを落とした頃だった。診療所の引き戸が控えめに開く音がした。立っていたのは黒いコートを着た男だった。きちんとしたスーツに磨かれた靴。商店街の光景の中で、その姿は明らかに浮いていた。

「久しぶりだな、浩司」

「谷か」

大学病院時代の同期、谷洋一郎。今は都心の大型総合病院で部長を務めている。最後に会ったのは、俺がここを継ぐと決めた時だった。

「相変わらず、地味なところで開業してるな」

「上がってくれ。茶でも入れる」

「いや、長くはしない。近くで会合があってな。ついでに寄っただけだ」

診察室に谷を通した。彼は患者用の椅子に腰を下ろし、室内をぐるりと見回した。

「うちの病院に来る気はないかと聞きに来たんだ」

「断るよ」

「即答するな。話くらい聞け」

谷は足を組み、こちらをまっすぐに見た。

「お前の診断能力は、こんなところで使うものじゃない。海外の学会でも、いまだにお前の名前を聞くことがある。あの男はどこに消えたとな」

「もう昔の話だ」

「昔じゃない。お前は30代で世界中の難病を治療した男だぞ。それが今は風邪と腰痛を見てる。冗談にもならん」

「ここでも人は病気になる。やる仕事に変わりはない」

谷は短く息を吐き、首を振った。

「塔の先生との約束か」

俺は何も答えなかった。

「あの人が亡くなってもう何年だ? 義理を果たすのもいい加減にしろ。お前の才能は、お前一人のものじゃない」

「谷、俺は塔の先生に教わったことを、ここでやってるだけだ。それ以上でも以下でもない」

谷はしばらく黙っていた。やがて立ち上がり、コートの襟を直した。

「気が変わったら、いつでも連絡しろ。ポストは開けてある」

「ありがとう。だが変わらない」

「豪情なやつだ。昔と何も変わらん」

谷は診察室を出て引き戸を閉めた。革靴の音が商店街の方へ遠ざかっていく。

机の引き出しを開ける。一番奥に古い写真が一枚しまってあった。白意の塔の先生と、若い頃の俺が並んで映っている。先生はいつもの穏やかな顔で笑っていた。

「医者は病気ではなく、その人の人生を見ろ」

その言葉を、今日も思い返していた。俺は写真を引き出しに戻し、白意を脱いだ。

翌週の月曜日、朝倉さんが慌てた声で報告してきた。

「先生、太田さんの奥さんから電話です。ご主人が店で倒れたって。意識はあるけど、ぼんやりしてるそうです」

「救急車は?」

「呼んだそうです。搬送先は、谷先生のところの中央総合病院に運ばれるそうです」

俺は立ち上がった。カルテ棚から太田浩のファイルを引き抜き、先週書いた紹介状の下書きを挟み直す。万年筆のキャップを外し、追記を加えた。

「心不全の疑い。安静。呼吸困難」

書き終えるまでに1分もかからなかった。

「先生、行かれるんですか?」

「ファックスで送る。読んでもらえるかどうかは、向こう次第だ」

「谷先生なら、読みますよ。きっと」

「そうだといいんですが」

受付の古いファックスにカルテのコピーを差し込み、中央総合病院の谷洋一郎宛てに送った。

午後の診察を1件こなしてから、俺は朝倉さんに告げた。

「夕方、少し抜けます。太田さんの様子を見てくる。あとは予約の確認だけ頼みます」

「わかりました。気をつけて」

外へ出ると、商店街の風が冷たかった。

総合病院は診療所とはまるで別世界だった。磨かれた廊下、清潔に並んだナースステーション。受付で名前を告げ、面会の許可を取る。担当医として、谷の名前が出てきた。

病室の前で、奥さんが俺を見つけて駆け寄ってきた。

「田先生、すみません。わざわざ。うちの人が先生の言うこと聞かないで、本当に」

「いえ、間に合ってよかったです」

「ご主人の容態は重い心不全だって、谷先生に言われました。あのまま放っておいたら、もう1週間も持たなかったって」

奥さんは言葉をつまらせ、ハンカチを目に当てた。

病室のドアが内側から開き、谷が出てきた。俺の顔を見て軽く眉を上げた。

「来たか? ファックス読んだぞ」

「すまない。突然送って」

「謝るな。お前の見立て通りだった。来週には精査の上、治療方針を決める」

谷は廊下の隅へ俺を誘い、声を落とした。

「正直驚いたよ。先週の段階で、聴診だけでここまで疑ったのか」

「呼吸音に擦れがあった。むくみと夜間の咳。それだけだ」

「それだけで気づけるのが、お前なんだよ」

谷は腕を組み、俺の顔を見ていた。

「太田さんがお前のことを怒鳴って帰ったと聞いた。奥さんからさっきな」

「俺の説明が足りなかった」

「違う。患者が聞く耳を持たなかった。それでもお前は紹介状を書いておいた。普通はそこまでしない」

俺は答えなかった。書いておかねばならない気がした、といったところで説明にはならない。

谷は薄く笑い、首を振った。

「浩司、お前本当に街医者でいいのか? 一人救うのに、こんなに遠回りして」

「遠回りでも届けば構わない」

「届かなかったらどうするんだ?」

「届かなかった時のために、紹介状を書く」

谷は何も言わず、病室の方へ目をやった。ベッドに横たわる太田さんが見えた。点滴のスタンドと心電図モニターの青い光。

俺は奥さんに頭を下げ、病室の中まで入った。太田さんは薄くまぶたを開けた。

「先生か」

「太田さん、来ましたよ」

「悪かったな。先生の言うこと聞いておきゃよかった」

「治療、ちゃんと受けてください。店は奥さんと相談して、しばらく休めばいい」

「ああ、分かったよ」

俺は枕元で軽く頭を下げ、病室を出た。

診療所に戻ったのは、もう日が落ちてからだった。

診療所の前に、見慣れない女が立っていた。グレーのコートに、肩にかけたカメラバッグ。40歳前後だろうか。俺の姿を見て軽く会釈をした。

「夜分にすみません。田司浩司先生でいらっしゃいますか?」

「ええ、田ですが」

「テレビ局でディレクターをしております、瀬戸と申します。少しだけお時間いただけませんでしょうか?」

名刺を受け取り、表と裏を眺めた。報道番組の名前が刷ってある。こんな下町の診療所にテレビ局の人間が訪ねてくる理由が、すぐには思いつかなかった。

「どうぞ、話だけなら」

診察室に通し、患者用の椅子を勧めた。

「率直に申し上げます。私は半年前にある実業家の方を取材しました。シンガポールで原因不明の症状に倒れ、現地でも診断がつかなかった方です。その方が、日本人の若い医師に命を救われたとおっしゃったんです。当時その方を見たのが、大学病院から派遣されていた田司浩司先生だと」

俺は湯飲みを置く手を止めた。

「他にも何件か、海外で先生に救われた患者さんがいらっしゃいます。皆さん口を揃えて、あの先生は今どこにとおっしゃるんです。私はそれを追って、ここにたどり着きました」

「人違いですと言いたいところですが、写真も当時の論文も拝見しました。間違いなく先生です」

俺は短く息を吐き、湯飲みを両手で包んだ。

「瀬戸さん、そのお話を番組にしたいということですか?」

「はい。”町医者となった伝説の診断医”として、ぜひ取材をお願いしたいんです」

「理由を伺ってもよろしいですか。私はここの患者を見ているだけです。経歴を売り物にしたら、商店街の人たちが私の前で構えてしまう。それが一番、診察の邪魔になるんです」

瀬戸さんはしばらく俺の顔を見ていた。食い下がるかと思ったが、彼女はゆっくりと頷いた。

「失礼ですが、もう少しだけ先生のことを知りたいと思っています。患者さんとして待合室に通うのは、構いませんか?」

「患者としてなら、誰でも歓迎します。ただし、カメラは外でお預けください」

「承知しました」

瀬戸さんは立ち上がり、深く頭を下げて出ていった。

俺は机の引き出しを開け、塔の先生の写真を取り出した。先生は今日も同じ顔で笑っていた。

太田さんが退院してきたのは、桜のつぼみが膨らみ始めた頃だった。総合病院での治療とリハビリを経て、杖をつきながらも自分の足で歩けるまでに戻っている。

診療所の引き戸を開けて入ってきた時、その後ろには奥さんが付き添っていた。顔色は以前よりずっといい。

「先生、世話になった」

「太田さん、お元気そうで何よりです。座ってください」

太田さんはゆっくり腰を下ろした。以前より少し細くなっていた。聴診器を首から外し、彼の胸に当てる。呼吸音は以前ほど擦れていない。心音も落ち着いている。

「先生、あん時俺ひでえこと言ったろ。”本当に医者かなんて”よ」

「気になさらないでください。あの時は、私の説明が足りなかったんです」

「いや、違う。あんたがちゃんと書いてくれた紹介状を、谷先生が読んでくれたんだ。それですぐに手が打てたって。先生、本当にありがとうございました」

奥さんが深々と頭を下げた。俺は慌てて手を振った。こういう時の返し方が、いつまで経ってもうまくならない。

「治療したのは谷たちです。私はただ、ちょっと気になっただけで」

「その”ちょっと”が命綱だったんだよ、先生」

太田さんは大きな手で自分の膝を一つ叩いた。

「店はしばらく息子に任せることにしてな。俺は無理しねえで、通いながら奥でアイロンだけ握る。先生にも、これからちょくちょく見てもらわなきゃならねえ」

「ええ、お引き受けします。月に1度は顔を見せてください。お薬の調整もありますから」

「ああ、今度はちゃんと言うこと聞くわ」

太田さんが小さく笑った。俺も釣られて口元を緩めた。

診察室の窓から商店街の喧騒が漏れ聞こえてくる。太田さんが奥さんに支えられながら出ていった後、朝倉さんが診察室を覗いた。

「先生、良かったですね」

「ええ、間に合いました」

「太田さん、診療所の前で奥さんと一緒にもう一度頭を下げてましたよ」

「そうですか」

俺はそれだけ言って、カルテに今日の所見を書き入れた。

瀬戸さんが診療所に通うようになって、1ヶ月が過ぎた。最初は風気味だと言って待合室に座り、次は健康診断。その次は商店街で出会った老人と一緒に来た。俺は、カメラを持ち込まない約束を守る限り、彼女を拒まなかった。

ある日の夕方、診察を終えて出ていく瀬戸さんを俺は呼び止めた。

「瀬戸さん、少しいいですか?」

「はい、もちろん」

「番組の件、その後どうなりましたか?」

「正直に申し上げます。上司にはまだ”取材中”だと報告してあります。ただ、私の中ではもうほとんど結論が出ています。待合室で患者さんたちの話を聞きました。皆さん、田先生のことを”うちの先生”と呼ぶんです。経歴も知らないで、ただよく話を聞いてくれる先生として信頼しているんです。それを私が壊してはいけないと思いました」

「私はただ、患者の話を聞かないと診断がつかない、不器用な医者なだけです」

「不器用な医者の前で、こんなに皆さんが安心して話してるんですか?」

瀬戸さんは小さく笑った。

「番組は別の切り口で進めます。先生のお名前も診療所の場所も出しません。”どこかの町にこういう医者がいる”という形で構想を立て直しています。それも先生が嫌だとおっしゃるなら、企画ごと取り下げます」

「名前を出さないなら、それはもう私の話じゃない。瀬戸さんが見てきた、町の医者の話です。それなら好きにしてください」

「ありがとうございます」

瀬戸さんは深く頭を下げた。

「先生、1つだけ伺ってもいいですか。なぜここまでして名前を隠されるんですか?」

「音師との約束です。それと、名前を背負うと患者さんが私じゃなく肩書きを見て診察室に来るようになる。それが一番怖いんです」

「塔の先生ですね。取材の過程で、お名前だけは世界中の医者が尊敬していた方だと」

俺は引き出しからあの古い写真を取り出し、机に置いた。若い俺と笑っている塔の先生。

瀬戸さんは写真を見て、1度だけ深く息を吐いた。

「いい先生の顔ですね」

「ええ、本当に」

瀬戸さんは立ち上がり、診察室の戸口で振り返った。

「私、これからも患者として通ってもいいですか?」

「もちろんです。待合室の椅子は、いつでも開いていますから」

引き戸が閉まる音が、夕方の診察室に静かに残った。

数日後、谷から電話が入った。

「太田さん、外来で来たぞ。経過は順調だ」

「そうか。世話になった」

「お前にも1つ伝えとくことがある。瀬戸ってディレクターが、うちにも取材に来た。お前の名前は出さないと言って、ちゃんと筋を通して帰っていったよ」

「そうか。彼女らしい」

「前に”うちに来ないか”と言ったの、覚えてるか?」

「ああ、覚えてるよ」

「あれは撤回しないでおく。だから、お前がそこにいる理由が少しだけ分かった気がする。まあ、それだけだ」

「そうか」

谷は一度短く笑い、電話を切った。

受話器を置くと、待合室の方から朝倉さんの声が聞こえてきた。最初の患者が来たらしい。俺は白意の前を直し、診察室の椅子に腰を下ろした。机の上のカルテを開く。

「先生、山下さん入られます」

「お願いします」

引き戸が開き、女性が杖をつきながら入ってきた。俺は立ち上がって、彼女の腕に手を添える。

「山下さん、今日は寒いですね。膝、どうですか?」

「先生、それがね、孫が今度ね、結婚するって言うんですよ」

「それはおめでたい。式はいつですか?」

俺は聴診器を首にかけたまま、彼女の話に耳を傾けた。俺の一日は、いつもこうして始まっていく。

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