「予約は偽造じゃないですか。隣の潰れかけの民宿では?」…

「予約は偽造じゃないですか。隣の潰れかけの民宿では?」...

「娘が入社するからやめてくれ。今日で最後だ。」

社長から突然、首を宣告されたのは20日の朝だった。え? あの……。私は驚いて言葉に詰まった。

20日は取引先への支払い日だ。銀行振り込みのところもあるが、古くからの取引先には挨拶も兼ねて直接支払いに行く。ちょうどすぐにでも帰れそうな格好をしているじゃないか。特別に今日は休みにしてやるから、さっさと出ていけ。

グイグイと背中を押されて事務室から追い出され、鼻先で扉をピシャッと閉められた。どこから突っ込んでいいのか、まるでわからない。

私はナツキ。高卒でこの会社に入って、今年で10年目の事務だ。いや、さっきまで事務員だったと言うべきか。

私が務めていたのは家族経営の舗装会社で、社員は20名ほど。創業者で現在の会長が社長だった頃は、職場の雰囲気も良くて、とても働きやすい会社だったのに。

今でこそ現場を知りたがる会長も、以前は若手に混じって率先して働いていたし、奥様のももこさんも会長が入院するまでは毎日会社に来て、雑用を一手にこなしていた。娘のアイさんは現場も事務もこなす万能な人で、アイさんの夫も現場長として現場に出る社員たちから信頼されていた。

創業者一族だからと言って、誰も偉ぶったり社員を見下したりしない。このままトラブルとは無縁の楽しい会社生活が続けば良かったのに、残念ながら現実は甘くなかった。

去年の暮れ、会社の集団検診で会長に癌が見つかった。会長は社長を勇退することにして、現場長だったアイさんの夫を次期社長にすると決めた。私も他の社員も満場一致で賛成。会長には治療に専念してもらい、長生きしてほしいとみんなの意見がまとまった。

ところが、どこで聞きつけたのか、会長の長男のケンイチさんが家族を引き連れ、突然現れた。実は会長にはアイさんだけでなく、子供がもう1人いたらしい。ケンイチさんは30年ほど前に勘当されていて、私は全く知らなかった。

子飼いの社員から聞くと、ケンイチさんは若い頃、札つきのワルだったようで、警察のお世話になることもしょっちゅう。問題を起こしては会長とももこさんが謝りに行っていたようだ。高校中退後はマルチ商法や詐欺まがいのことをし出し、ついに会長が勘当したらしい。

それきり長らく音信不通だったのに、ケンイチさんはある日突然やってきて「親父、今まで悪かった。俺を許してくれ」と叫び、会長に向かって土下座した。私は何事かとびっくりした。小さな会社で社長室兼事務室が一室だけだから、私も一部始終を目撃したし、よく覚えている。

ケンイチさんは今までのことを水に流し、自分も会社で一緒に働きたいという。「水に流して」って、勘当された側から言う言葉ではないと思うんだけど。みんなには申し訳ないが、頼む。ケンイチにもう1度だけチャンスを与えてほしい。アイさんや子飼いの社員たちはケンイチさんの過去を知っているから、手放しでは喜べないようだったけど、会長から深々と頭を下げられ、それでも拒否できる社員は誰もいなかった。

こうしてケンイチさん一家は会長の離れで暮らすことになり、ケンイチさんは社員として、奥さんは専業主婦として、会長の家の切り盛りをすることになった。娘さんは大学生らしく、会社に来た時に1度しか見ていない。会長は「世間に揉まれて苦労して、ケンイチもまともになったはずだ」と言っていたし、ももこさんもケンイチさんが家族を連れて帰ってきてくれたことを泣いて喜んでいた。

これからは一緒に会社を盛り立てて行こうと話していたのに、問題が起こってしまったのだ。ケンイチさんは「長男だから次期社長は俺だ」と譲らず、アイさんや現場長と険悪になってしまった。会長の前だけは真面目に働くふりをし、実際は何もしない。「肉体労働なんて現場がすること。お前たちは働きアリだ。黙って働け」とパワハラ的な発言を繰り返す。あっという間にみんなから嫌われた。

「やっていられない」と会長に直訴した若手社員も何人かいたらしい。でも会長もももこさんも「ケンイチを信じておくから、もう少し長い目で見てやってほしい」と頭を下げるだけだ。

待っているうちに、会長の癌が一気に悪化。入院したのが3ヶ月前だ。するとケンイチさんは「俺が社長だ」と言い出した。社員たちは当初の予定通り現場長を社長にするよう会長やももこさんに進言したが、結局2人は娘の夫よりも血のつながったケンイチさんを選んでしまったのだ。

「我が子可愛さに目が曇ったか。盲目したものだな」なんて陰口を叩く人も出てきたし、あんなに和気あいあいとして楽しかった会社の雰囲気はガラリと変わって、すっかりギスギスしたものになった。

このままではダメだと誰もが思い、ついにアイさんは現場長と陰で動き始めたのだ。すると必然的に、会社の事務は私1人がすることになってしまった。今までももこさん、アイさんと私の3人だったから定時に帰れたけど、今は毎日残業だ。日付が変わることもざらにある。それなのにケンイチさんは事務はとにかく暇だと思っている。社長こそ昼間からキャバクラに行ったり、競馬やパチンコに出かけたりと遊び歩いているのに。

社長との関係が決定的に悪化したのは、ある経費の問題からだった。会社のクレジットカードを使って自分の飲食代や遊興費などプライベートの支払いをするのを、ある程度はしょうがないと目をつぶっていた。でも、いくら何でも認められないレベルだったのだ。

私は怒られるのを覚悟で社長にレシートを突きつけた。「こんな経費は認められません」「はあ? なんでだよ」「これ、奥様の下着ですよね。業務には関係ありませんから、経費にはなりませんよ」

予想通り社長は真っ赤になって怒り出す。「ふざけんな。社長の妻だぞ。買ってやるのが当然だ。経費だ」「いえ、でも下着ですけど。奥様は社員でもないですし」。私は口ごもりながら言い返す。社長の妻の下着40万円なんて、どうして経費で落ちると思えるのか。私には理解できないが、社長の次の言葉はさらに理解不能だった。

「じゃあ、これから下着の販売をうちの新事業にしよう。そうすれば仕入れだから経費だろう」

名案だとばかりに社長はドヤ顔をしてきたが、私は目が点になった。「あの、うちは会社ですけど」「だからどうした? 取引先にうちとの取引を盾に売りつければいいんだ。買わなければ契約を打ち切るといえば、みんな買うだろう。必ず儲かるぞ。1つ売れば20万、セットで売れば40。ボロい商売だ」

社長は高笑いをしているけど、私はゾっとした。「そんなの絶対にダメですよ。信用問題になりますからね」。つい怒りに任せてきつい口調で言ってしまい、社長から嫌われる対象になってしまったのだ。

その日から、私は徹底的に社長からいびられるようになった。辛くて何度もやめようと考える。でも、今までお世話になった会長たちのために頑張りたいという思いや、私がいなくなったらみんなが困るという思いから、耐えて働き続けた。現実問題、私も急に仕事がなくなっては困る。とにかく耐えて、準備が整うまで待とう。そう思っていたけど、なんと首を宣告されたのだ。

今いきなりやめたら、取引先に迷惑がかかる。私は深呼吸して扉を開けた。「無理です。こんな急にはやめられません。引き継ぎも何もなければ、娘さんだって仕事はできませんよ。それに、今日は支払い日ですからね」

絶対に社長は怒り出すだろうなと思いながら、私は一息でまくし立てた。案の定、社長は見る見る顔を赤くし激怒。「うるさいぞ。娘が入社するからやめてくれと言っているだろう。お前は今日で最後だ。支払いなんて、向こうから取りに来るまで待たせとけばいいんだ。わざわざこっちから払う必要はない」

「え? 物を買ったらお金を払うのが当たり前ですよね」私が呆れて、つい子供に噛んで含めるように説明すると、社長も社長でまともな大人だとは思えない不条理なことを言い出した。「ふん。だったら、別の取引先に帰ると脅せばいいだろう。今回は支払いに行かないから、全部ただにしろと言え」

「はあ? そんなことできるわけがないじゃないですか」。私は呆きれて言葉が出ない。「全く使えないやつめ。娘は大卒なんだ。こんな簡単な仕事、すぐできる。娘なら身内だし、何を買ってもうるさく言わないからな。お前みたいに口ばっかりで仕事ができないやつなんて、うちの会社にいらん。さっさと出ていけ」

つまり社長は、経理の管理を娘にさせれば、使用分も経費で楽に落とせると考えているのだろう。「ああ、そうですか。後悔しても知りませんよ」もうダメだ。言葉が通じない。私の堪忍袋の緒が完全に切れてしまった。私物をまとめ、さっさと会社を後にする。

ただ、やはり取引先には申し訳ない。私はアイさんに電話をかけた。ももこさんは会長の看病があるし、アイさんも忙しいのは分かっていたけど、非常事態だ。私は事情を話し、後のことはアイさんに託した。

会社を出ると、急に私は暇になってしまった。解雇予告もなしの解雇は、明らかな労働基準法違反。労働局にちればアウトだ。うちは中退共という制度に加入していたから、私は退職金と1ヶ月分の給与を請求できる。中退共とは、中小企業のための国の退職金制度で、自力で退職金を用意できない会社の強い味方だ。でも、これは退職した日から5年以内に申請すればいいし、請求時効は2年間だから、そこまで手続きを急ぐ必要はない。事務の職業病で、退職時に必要な手続きとスケジュールを逆算して、少なくとも1週間はのんびりしてもいいと結論を出す。

最近ずっと残業と休日出勤続きで、家のことは何もできていないし、落ち着いたら行きたいと思っていた場所もたくさんある。だから、私は日帰り温泉に行くことにした。

温泉でリフレッシュして、ロッカーに入れたスマホを見ると、何件もの不在着信やメール、留守電が来ていた。とりあえずメールを見ると、アイさんからで「支払いは無事に終わった。準備はOK」とのこと。私はほっと一安心だ。社長から急にやめさせられたとはいえ、怒りに任せて仕事を放り出してしまったのは申し訳なく思っていたからだ。

次に会社からの留守電を聞いてみた。すると、慌てた社長の声で「おい、どういうことだ? 俺が本当の社長じゃないだと? お前、知っていたのか? ちゃんと説明しろ」と入っていた。

やっと気づいたのか? 本当にバカな社長だと、私はくすっと笑ってしまう。それから私は順番にメールや留守電を確認し、会長からの留守電を聞き、急遽病院へ行くことにした。

夕方になって私が会長の病室に着くと、ももこさんだけでなく社長も来ていた。会長は私を見るなり、ベッドの上でガバッと頭を下げる。「ナツキ君、うちのバカ息子が本当に申し訳なかった」「おい、どういうことだよ。正式な社長じゃないって説明しろ」事態が飲み込めずケンイチさんが偉そうに怒鳴ってくるけど、会長がすぐに一括した。「お前は黙っとれ」

実は、私がアイさんに電話をした後、アイさんはすぐに会長とももこさんに連絡をしたらしい。それを聞いた会長が慌てて社長に電話をし、「お、お前、本当に何も知らないのか」と社長に話をしたそうだ。「だから、どういうことなんだよ」私はわけもわからずに怒鳴ってくる社長に向かって「つまり、ケンイチさんは法的に何の影響力もない、名ばかりの社長だったんですよ」とあっさりネタ晴らしをしてやった。

知識がないと難しくてよくわからない話かもしれないが、「社長」は社内の役割を示す呼び名であって、法律で定められた役割ではない。会社を代表し対外的な責任を持つのは「代表取締役」で、単なる社長とは似ているようで全然違う。「社長」という肩書きだけなら社内で自由に変更できるが、「代表取締役」を変更するためには複雑な手続きが必要で、かなり大変なのだ。

3ヶ月前、ケンイチさんが社長になることが決まった時、アイさんや現場長、子飼いの社員たちから強烈な反発があったから、私が会長を代表取締役のままにして、ケンイチさんを名ばかりの社長にする方法を提案したのだ。事務として手続きの大変さや会社関係の法律について知っていたから思いついた方法だった。

アイさんが心を入れ替えて真面目に働き、社員全員から認められたら、その時に初めて法的な手続きを開始することになっていた。逆に、もしケンイチさんが社長として不適格だと判明した場合は解任するか、そのまま会社を廃業する予定で、アイさんと現場長が新会社を開業する準備を進めていたのだ。アイさんはケンイチさんの性格が変わるとは思っていなかった。会長とももこさんは最後までケンイチさんのことを信じていたけど、ケンイチさんが私を不当解雇したことで目が覚めたらしい。

会長は「経営者になるなら、しっかり勉強して社員を大切にしろと何度も言っただろうが」と社長をしりつける。でも社長はまだピンと来ていないようで「別に今からでも手続きをすればいい話じゃないか」という。「いや、もう無理だ。うちの会社はな、希望する社員には自社株を与えていて、大体みんな持っている。ナツキさんは10%を持っているから、うちの主要株主だ。ナツキさんの意見は無視できないし、自社株を持っている他の社員たちだって、お前の味方をするはずないだろう」

少しずつ事態が飲み込めてきたのか、社長の顔色が悪くなる。「な、なんだって。でも、俺だって株はあるんだろう」「ゼロだよ。お前が本当の意味で社長になったら、私の分を渡そうと思っていた。お前には本当にがっかりしたよ。どうせ私の余命があとわずかだからと、財産目当てだったんだろう」。会長はがっくりと肩を落とし、ももこさんも悲しそうな顔をして黙り込んでいる。

社長は開き直る。「当たり前じゃないか。俺は長男なんだ。もらえるものをもらって、何が悪いんだ。会社は俺のものだ」と言い放つ。私はもう許せなかった。「いいえ、違います。会社の全責任を持つ代表取締役は会長です。それから、私は株主です。株主総会の招集を請求して、社長の解任を求めることもできるんですよ」

「解任」という言葉は理解できたのか? 社長は見る見る真っ青になる。「俺が首にされるかもしれないってことか。くそ。ただの事務じゃなかったのかよ」「ケンイチ、ナツキさんの言う通りだ。こうなっては誰もお前の味方をしてくれる人はいないぞ。ナツキさんだけが、お前にもチャンスを与えるように言ってくれたんだ」

ももこさんがそこで口を開く。「ナツキさん、あなたには本当に申し訳ないことをしたわ。息子可愛さで、あなたに迷惑をかけてごめんなさい。あなたがどうしたいか、教えてちょうだい」

私は社長を見る。「社長、私はあなたの元ではもう働きたくありませんから、このままやめさせていただきます。ただし、退職金はしっかりもらいますし、1ヶ月分の給与、休日出勤の未払い分もしっかり払ってもらいますからね。労働局にも報告させてもらいますし、株主の1人として、会社に害のある人物を排除するため徹底的に戦いますよ」

私がにっこりと笑って言うと、社長は真っ青を通り越して真っ白になった。私はついでに、アイさんが取引先を回りながらしっかりと新会社の営業をしてきた話をしてやる。ほとんどの取引先が今の会社を見限り、新会社に鞍替えしてくれることになったのだ。社員もほぼ全員移動してくれる予定になっている。

「そ、そんな。訴えてやるぞ」社長が逆上して脅してきたが、会長が一喝する。「代表取締役は私だ。お前にはそんな権利はない」すると社長はついに立っていられなくなり、膝から崩れ落ちた。私は何とも言えない気分だ。「社長、戻ってきた時に心を入れ替えて働けば、こんなことにはならなかったのに。残念ですね。何度もやり直したり、調べたり、勉強すれば分かる機会はあった。チャンスを棒に振ったのは、他でもない。社長自身で、完全な自業自得です」

その後、結局会長は会社を廃業し、ケンイチさんは無職になった。社長の奥さんと下着の販売を始めたが、全く売れず。悪質な訪問販売で通報され、ついにはマルチ商法で逮捕されたそうだ。アイさんが用事で実家へ戻った時、下着の入ったダンボールがいくつも残っていたらしい。娘さんはどこか別の会社に就職したようで、詳しいことは分からない。

私はアイさんと現場長の新しい会社に勤め出し、毎日楽しく働くことができている。これからも人との縁を大切に、私は真面目に生きていきたいと思う。

【灯油】

「最近ストーブの調子が悪いのよね」

世間話の最中、兄嫁がそんな話題を切り出した。「どういうストーブのですか?」私がそう聞くと、兄嫁は頷く。「何か変なものでも入れたんじゃないですか?」私はできるだけ意味深な表情をして、ニヤリと笑った。

私の名前はマユミ。46歳。夫と子供たちの4人で暮らしている専業主婦だ。私には2つ年上の兄がいて、兄は1年ほど前に結婚した。兄はこの年になるまで独身だったから、結婚には興味なんてないのだろうと思っていたけど、上司の知り合いの娘さんという人を紹介されたらしく、そのまま結婚した。兄嫁になった人は兄より1つ年上だそう。印象は、世間話が好きでよく喋る人。特に好きでも嫌いでもないので、当たり障りのない付き合いをしている。今までは家が離れていたので、それでもよかった。

しかし、兄からこんな電話がある。「今度、仕事の都合でそっちに戻ることになったんだ。マユミたちの近くで家を探そうと思うんだけど、協力してもらえないかな」不動産屋で働いている夫にそのことを話すと、すぐに兄の要望を聞き、条件に合う物件を探してきてくれた。うちの近くに気に入る物件があったそうで、兄夫婦とはご近所さんになった。徒歩5分の距離で、私がパートに行く時の道にあるマンションだから、朝早く出て夜遅く帰ってくる兄はともかく、兄嫁とはよく顔を合わせる。

すると、今まで知らなかった顔を知るようになった。兄嫁は自分は話すのが好きなくせに、人の話は聞かない。例えば、この辺りはゴミ捨てのルールが厳しく、最初にそれを教えたのに、「ゴミを回収してもらえなかった」と言ってくることが増えた。「最初に言ったのに」と言うと「そんなの聞いてない。教えてくれればよかったのに」と言われる。それに、兄夫婦は車を持っていなくて「買い物をしたいから、車を出してくれ」と言われることもあった。

兄嫁にしてみれば、知らない土地に来て知り合いもいないだろうからと最初は要求を聞いていたけど、あまりに頻繁すぎる。でも、1度そうしてしまったものを今更「やっぱり嫌だ」とは言いづらく、しかもアポなしで家に来て、私が行くと言うまで帰らないこともあり、どう断ったらいいのやら。夫や兄に相談することも考えたが、さすがにそれは兄嫁がかわいそうだろうと、なんとか我慢している状態だ。

そんな中、季節は冬になり、うちでは灯油ストーブを出した。兄嫁がいつも通りアポなしでやってくる。午前中、夫は仕事、子供たちは学校なので、私しかいない。兄嫁は灯油を買いに行きたいから車を出してほしいと頼んできた。「マユミさんのところは車もあるし、灯油を買いに行くのも楽でいいわね」頼み事をしているのか、嫌味を言っているのかよくわからないが、私はこれからパートに出るところだ。

「ごめんなさい。パートに行く時間なので、今は無理です」なるべく丁寧に断ったつもりだけど、兄嫁は怒り出した。「じゃあ、私に凍えろって言うの。もう灯油がないのよ」そう言って灯油タンクを私に突き出してくる。うちはいつも近くのガソリンスタンドで灯油を買っているけど、そういえば灯油の配達サービスもあると聞いたことがある。それを兄嫁に伝えると「そういうのって割高でしょ。どこでやってるの? いくらなの?」と質問攻めにしてきた。私は使ったことがないから分からないと言うと「無責任だ」とまた怒る。

もう家を出る時間になるのに、兄嫁は1歩も引かない。私は仕方なく、うちにストックしてあった灯油を分けてあげることにした。この辺りに回って灯油タンクを出し、兄嫁の持ってきたタンクに移してあげる。すると兄嫁はさっきまでの怒りはどこへやら。「なんだ。ストックがあるならあるって言ってくれればいいじゃない。じゃ、ありがたくもらっていくわね」と上機嫌になり帰っていった。

今思えば、これが間違いだったんだ。

それ以来、物置きに置いてある灯油が、思ったよりも減っていることがある。最初は私の勘違いだと思っていたけど、どうやらそうでもなさそう。夫がストーブに移したのかと思っていたけど、夫は首をかしげるし、うちの灯油はどこへ消えているのやら。思いつくのはただ1つ、兄嫁の存在だ。昨年まではこんなことはなかったし、おかしくなったのは兄嫁に灯油を分けてあげてからだ。それに、あれ以降、兄嫁が「灯油を買いに行きたいから車を出せ」と言ってこない。

私は兄夫婦がうちにご飯を食べに来た時に、さりげなく兄に聞いた。「そういえば、灯油ストーブ使わなくなったの?」兄は「ん? なんで? 使ってるよ?」と不思議そうにする。「そうなの? 最近、灯油を買いたいから車に乗せてくれって言われないから」言葉を濁しながら私が言うと、兄嫁が会話を遮る。「マユミさんに教えてもらった配達サービスを使うことにしたの」兄嫁がそう言うと、兄が不思議そうな顔をした。「配達とかネット通販とか、嫌いじゃなかったっけ?」兄嫁は慌てる様子もなく言う。「でも、灯油なんて重いんだから、そういうのは使ってもいいわよね。ちょっと割高だけど、利用価値はあると思うわ」

兄嫁の言ってることはまともだ。「そうなんですか。ちなみにどこで買ってるんですか? うちは車があっても買いに行くのもなかなか面倒だから、そんなにいいのならうちも利用してみたいし」私は感心したように言い、兄嫁の回答を待つと。兄嫁は「えっと、なんて名前だったかしら。スマホで調べたから、よく分かってなくて」と少し挙動不審になる。それを聞いた兄は「珍しいな。自分でそういうの調べるの苦手だろ。いつも俺に頼んでくるのに、俺はそんな話一切聞いてないし」と言うと、兄嫁は視線をそらしながら笑った。「あなたは仕事で忙しそうだし、頼めなかっただけ。私にだってそれくらい調べられるわよ」兄嫁はそう言うといきなり話題を転換したので、その話はそれで終わってしまった。でも、いい情報を得られたと私は思っている。

それから数日後、ストーブが灯油切れの警告音を発したので、私は物置きまで灯油を取りに行った。そこでまた異変に気づく。また灯油が減ってる。昨日、パートに行く前に確認したから、勘違いではない。私がパートに行ってから帰ってくるまで、うちには誰もいなかった。灯油を盗もうと思えば、できなくはない。でも物置きには鍵をかけているし、どういうことだろう。とはいえ、このままにしておくのも気に障る。

1週間後、パートの帰り道に兄嫁にあった。挨拶だけして通りすぎようと思ったけど、兄嫁はわざわざ話しかけてくる。「最近、ストーブの調子が悪いのよね」「どういうストーブのですか?」私がそう聞くと、兄嫁は頷いたので、私はニヤリと笑った。「何か変なものでも入れたんじゃないですか?」

自分の一番悪い顔をしていたと思う。演技なんてしたことないけど、気分は探偵。意味深な顔をして兄嫁を見ると、兄嫁は慌てた様子で「変なものって、どういうこと」と言ってきた。私はなるべく表情を崩さず言う。「ストーブの故障なら、メーカーに電話でもしてみたらどうです? でも、灯油ストーブって自分で給油するじゃないですか。だから、例えば灯油がなくて、代わりに変なものを入れたとか」

兄嫁は落ち着きがないが、私は続ける。「ああ、でも灯油は配達サービスで購入してるんでしたっけ? そうしたら、その業者が悪いかもしれませんよね。どこのお店でしたっけ? そこのホームセンター。私、あのお店知り合いいるんで、文句言ってきますよ」

返答を待たずに早口で言うと、兄嫁は慌てて私を止めてきた。「うん。大丈夫。もしかしたらストーブの故障かもしれないし、もう1度確認してみるわね。ありがとう」「でも、ストーブなんて間違った使い方したら火災になりかねないし、危ないですよ。私、後で兄に電話する用事があるので、伝えておきましょうか」そう言うと、兄嫁は固まってしまった。「あの人、今仕事で忙しいって言ってるし。メーカーに電話するくらい私にもできるから大丈夫。心配しないで。ありがとう。引き止めてしまってごめんなさい」と早口で言う。

話好きな兄嫁から「引き止めてごめんなさい」なんて言葉が出てくるとは、驚きだ。何か自分にやましいことでもあるのだろうか。まあ、やましいことがあるのは十分に分かっているけど。だったら、ストーブの話なんて振ってこなければいいのに。兄嫁はまだこの辺に知り合いもあまりいないだろうし、私に会うと深く考えずに世間話をしてしまうんだろうな。ちょっと抜けてるし、悪いことをするには向かない人だ。

実は、この間お隣の奥さんから、うちの物置きに兄嫁がいたと証言があった。お隣の奥さんはうちに兄夫婦が来ているのも知っているし、兄嫁の顔も認識していたようだ。その証言があったのは、やっぱり私がパートに出てうちに誰もいない時間帯だった。兄嫁は愛想よく挨拶をしたそうで、お隣の奥さんも何も疑問に思っていない。私は話を聞くだけでごまかしたけど、これでうちの灯油を持っていった犯人が兄嫁だと確信した。

これまでも兄嫁はうちの家の中にあるものを持っていくことがあって、私はだんだん不満が溜まっている。家族旅行に行った時に買った高いワインとか、お中元でもらった缶詰とか、近所の方にもらった野菜とか。うちに上がり込むと目ざとく見つけて「これいいわね。お裾分けしてちょうだい」と言って持っていく。私も半ば諦めていたところがあり、ちゃんと止めなかったのも悪いけど、そろそろこらしめてやろうと思い始めた。

私はうちで使う灯油が入ったタンクを一時的に家の中に置く。そして、使い切った灯油タンクの中に水を入れて、物置きに置いた。さすがに水なら無臭だし、気づくだろう。私が気づいているということを、兄嫁が分かってくれればいい。監視カメラを仕掛けることも考えたけど、身内の犯行にそこまでやるかというのと、何よりこんなことにお金をかけるのが嫌でやめた。

でも、今日の兄嫁の話を聞く限り、水だと気づかずに盗み出し、ストーブに入れたということだろうか。もしかしたら本当にストーブの調子が悪いだけかもしれないけど、兄嫁は私の表情で悟るようだし、これで盗みがなくなれば、このことは水に流そう。そう思っていると、私の携帯が鳴った。兄嫁からだ。

「マユミさん、助けて。火が」

わけが分からず兄嫁を落ち着かせようとしたが、埒が明かない。どうやら火事のようだ。私はスマホで119に電話をしながら、兄嫁の家に大急ぎで向かった。家に着くと、焦げた匂いが鼻をつく。玄関を開けて中に入るとなんとストーブが燃えている。兄嫁は泣きながらその場に座り込んでいるので、慌てて立たせて外に連れ出した。そこへタイミングよく消防車が到着。火はすぐに消し止められ、大事にはならなかった。

兄嫁をうちに連れて行って話を聞く。「ストーブを直そうと思ったのよ。メーカーに聞いてもなんだかよくわからなくて、見に行くなら出張料がかかるとか言うし、配送料も自己負担だって言うの。だから、自分で何とかしてみようと思って」つまり兄嫁はストーブを自分で直したくて分解しようとしたようだ。結局分からないし、元にも戻せないし、そこでなぜか転倒してしまい、ストーブから出火したということらしい。

私はその言葉にため息をついた。「だからストーブは危ないって言いましたよね。どうして自分で?」少なくとも私には、兄嫁がそういった知識があるようには見えない。大火事にならなかっただけ良かっただろう。私のため息をよそに、兄嫁は勝手に喋り出した。「そもそも、あなたが言うタンクに変なものなんて入れるから悪いのよ。それがこの結果じゃない」

私は兄嫁の態度に驚き、思わず目を丸くしてしまうが、兄嫁は続ける。「自分たちも使う灯油なのに、変なものを入れるなんて頭おかしいんじゃないの? 一体何を入れたのよ。この家の物置きの灯油を持っていただけなのよ」

兄嫁は相当混乱しているのだろう。全部自爆している。「あの、もしかして、うちの物置きに入っていたのを灯油だと思ったんですか?」「そうよ。だって前にそこから灯油を分けてもらったでしょ。ここからうちまでは大した距離じゃないし、気軽に取りに来られるもの」。私はあまりの自爆ぶりに驚きながらも、最大の疑問点を投げかける。「物置きの鍵が閉まってたと思うんですけど、どうやって鍵を?」「ああ、そんなの、そこから持ち出したわよ」

兄嫁が指したのは、リビングの棚の方向だ。私は驚いてその棚の中を開けた。物置きの鍵のスペアを入れていたことを思い出したのだ。探してみると、そこにあるはずのスペアキーがない。「でも、私ですら忘れていたスペアキーの存在を、どうしてご存知だったんですか?」「だって、この間、そこから旦那さんが出してたわよ」

私はポカンとなった。きっと私が鍵を持っていた時に、夫が物置きを開けたかったのだろう。だけど、いくら何でもそれを勝手に持っていくって。兄嫁と話をしていると、仕事先から慌てて帰ってきた兄がうちに来た。「大丈夫か? 何があったんだ?」私が説明しようとすると、兄嫁が私を遮って話し出す。「ここの物置きから持ってきた灯油がおかしかったのよ。おかげでストーブが燃えたの。私は何も悪くないわよ」

一方的な兄嫁の言い分に兄は混乱しているようなので、私は最初から説明してあげた。「うちの物置きから灯油を盗んでいたらしいの。最近、灯油の減り方がおかしいから、少し前にタンクの中身を水に入れ替えたのよね。さすがに気づくと思ったけど、気づかずにそれも盗んで、ストーブに入れちゃったみたい。ストーブが壊れたと思って自分で修理しようとして、出火したんだって」

兄は口をあんぐりと開けている。「灯油を盗むなんて」兄嫁は悪びれもせずに答える。「親戚なんだから、それくらいいいじゃない。目くじら立てられるほどのことではないわ」それが兄嫁の本心なのか、テンパって気が動転しているからか、分からなかったが、私はとにかく頭に来た。「身内だからって盗んでいいわけないでしょ。灯油もそうだけど、物置きの鍵も盗んでるんだからね。それに、今までうちから勝手に持っていっている食材やお金、この前なんて買っておいた食器も持って帰ったわよね」

家族4人分の食器を買って、後で洗ってしまおうと思っていたのに、その間に兄嫁がいつも通り訪問してきて、帰った後には無くなっていた。またかと思っていたけど、灯油の件があったから、それが兄の家にあれば盗んだ証拠が増えると思って放置していた。私は兄に食器の画像を見せると、兄は頷いて「この前からこの食器使ってるな」と言った。「違うのよ。これはもらったの」兄嫁は慌てて取り繕おうとしているが、今までの行いを聞いた兄は兄嫁を責め始める。「他に何を盗んだんだ? お前がそんなことするとは思わなかったよ。今まで盗んだものを全部教えろ」

兄嫁は顔色を変えて言い訳を始めるが、私も兄も引かない。「今認めないなら、警察に通報してもいいのよ。今のうちに自白した方が身のためだと思うけどね」すると、ついに兄嫁は降参。「ごめんなさい」と頭を下げた。ストーブの件で混乱していた兄嫁は、全て自白した後にようやく冷静になったようで、自分でばらしたことの重大さに気づいて青ざめている。

その後、今まで盗んだと兄嫁が言ったものが確認された。もちろん食材やお酒はもう食べてしまっていたので、その辺りは私や夫の記憶に頼り、およその金額を請求。そのお金と、盗難届を出さない代わりにいくらかの示談金をもらった。兄が一度立て替えることになったけど、兄嫁に自力で返させることを条件としたので、専業主婦をしていた兄嫁は慌てて仕事を探し働き始めたそうだ。清掃のパートをしているそうで、たまに私の働いているスーパーにも来る。あれだけ話好きだった兄嫁が、気まずそうに視線をそらして去っていってしまった。

あれ以降、我が家の灯油が減ることも、家のものがなくなることもなく、快適な生活に戻っている。

【旅館】

「だから、予約は入ってないって言ってるじゃないですか」

この度、母が定年退職を迎えたので、お祝いのために予約をした宿での、支配人からの言葉だ。「え? しっかり予約は取ってあります」と予約の画面を見せる私に、支配人は「それは偽造じゃないですか? 今、こう言って泊まりに来る人が多いんですよ。予約は隣の潰れかけの民宿では?」とニヤニヤしながら言い放つ。しかし、この後、母はボソリと呟いた。

「この旅館、終わったわね」

私の名前はナナコ。40歳の専業主婦。同年の夫と、今年小学生になる娘と4歳の息子。そして私の母と5人で、幸せに暮らしている。父は私が幼い頃に病気で亡くなったと母から聞いていた。私には父の記憶はほぼなかったが、祖父母がいつも近くにいてくれたからか、片親で寂しいなどと考えたことは全くない。

私の母は、私を育てながら一生懸命働いてくれた。そして今年、40年以上勤めてきた小学校の仕事を定年退職する。これまで母と夫の長期休暇がなかなか合わなかったため、5人で旅行したことがなかった。母が退職したら、夫の長期休暇に合わせて旅行に行くことができる。だが、母が退職したばかりの頃は春休みで卒業旅行などが多く、夫はなかなか休みが取れないという。それというのも、夫は旅行会社勤務で、世間の人が休みの時は忙しいのだ。

しかし、ゴールデンウィークには母のためにと3日だけ休みを取ってくれた夫。母が昔から行きたがっていた高級旅館に予約を入れていた。子供たちも「あと何回寝たら温泉とお正月」と待ちわびるかのように楽しみにしている。母もずっと憧れだった旅館に行けることを喜んでくれた。家族それぞれが楽しみにしていた旅行。それがまさかとんでもない旅行になることを、この時はまだ誰も知らない。

時は流れ、旅行前日を迎え、着替えや荷物などの最終チェックをし、玄関に旅行カバンを並べる。そのまま寝室へ行き、眠りに着こうとするが、「明日から2泊3日、存分に楽しもうな。まず、あそこによって」などと夫は旅行が楽しみなのか布団の中からずっと話しかけてきた。翌日は夫が車を出してくれて、目的の温泉街に行く予定だ。

「こんなにはしゃいだら、余計テンションが上がって眠れなくなるよ」私ははしゃぐ夫を可愛いなと思いながら、寝るように促した。夫は「早く明日にならないかな」とまだ1人でもごもご言っているので、私は夫に少しでも早く眠ってもらおうと、YouTubeで睡眠を促す音楽を流した。すると夫には効果的面。本当に寝る人もいるんだと感心しながら、眠りに着いた。実は私は音があると眠れないので、私には残念ながら効果がなかったのだ。

翌朝、9時に家を出発する予定だったので、私は6時に起きようとセットしていた目覚まし時計を止め、ベッドの隣を見た。すると、滅多に私よりも早く起きることのない夫の姿がない。昨夜の夫のテンションに釣られた私は、寝ぼけまなこを擦りながらリビングへ向かった。リビングでは、髭剃り、髪型もセットし、すでに着替えも済ませている夫がコーヒーを入れていた。驚いた私は目を丸くする。

「おはよう、ナナコ。ナナコもコーヒー飲むだろ? お母さんも起きたら飲むかな? そろそろ起きてくるよね」夫は朝からテンション高め。「ああ、うん。ありがとう。お母さんも6時くらいに起きて準備するって言ってたから、そろそろ起きてくると思うけど」と我に返り、こんな返答しかできなかった。その後すぐに母も起きてきて、夫が入れたコーヒーに口をつける。

私は子供たちを7時には起こそうとしていたのだが、2人とも6時半を回った頃に自力で起きてきたのだ。これまで夏休みのラジオ体操くらいしか自力で早起きしなかったのに、子供たちはそこまで温泉旅行を楽しみにしていたのかと改めて思った。そして、あまりにも準備が早く終わりすぎ、子供にせかされたこともあり、当初の出発予定時刻より1時間も早く出発することになった。朝食も取らずに、旅の道すがら朝食を取りつつ向かうことに。何度も途中の道の駅により、トイレ休憩や、気が早いがお土産を見ていた。

走行していると、旅館のチェックイン時間が近づいてきたので、私たちはこの日1番のメインとなる高級旅館に到着。車から荷物を下ろし、子供たちも自分の荷物を持ち、フロントへと向かう。フロントでは受付の方が「いらっしゃいませ」と声をかけてくれる。そこで私は「こんにちは。本日から2泊3日でお世話になります」と名前を告げ、チェックイン手続きをしようとした。すると、何やらスタッフの方は顔色を変え、奥のスタッフルームらしいところに入っていったのだ。そして戻ってきたスタッフは、先ほどとは別人だった。私たちはその人物から、とんでもないことを告げられる。

「このホテルの支配人を務めております。この度はわざわざお越しいただいたのですが、お客様のご予約は入っておりません」

深々と頭を下げ、謝罪の言葉を述べていた。あまりに突然のことで、私の思考が停止したのだ。支配人という男が頭を下げていたが、私には広角が上がっているのが分かった。予約が入っていないという支配人に向かい、私は「え、どういうことですか? 私たちはしっかり予約をしましたよ」と反論しても、支配人の男には伝わっていないようだ。「だから、予約は入ってないって言ってるじゃないですか」と機嫌を悪くしている様子で声が大きくなる。

「そこまで言うなら、これ見てくださいよ。しっかり予約は取ってありますよね」予約の画面を見せながら詰め寄った。だがあろうことか、支配人の男はこんなことを言い出したのだ。「それは偽造じゃないですか。今、こういうのが多いんですよ。予約は隣の潰れかけの民宿では?」と笑い、手をヒラヒラ振りながらスタッフルームへと戻っていった。

悔しかったが、私はこれ以上何も言えなくて、下を向いて俯いていた。するとその後、母は受付から消えていく支配人に聞こえるか聞こえないかほどの声で「この旅館、終わったわね」と笑い出したのだ。そして母が「仕方ないから、ここから出ましょう」と孫たちの手を引き、旅館を後にした。私は母に「ごめん。こんな予定じゃなかったのに」と謝ったのだが、母は笑顔でこう言ったのだ。「何言ってるのよ。それよりも、これからどうするか考えましょう」

私たちのやり取りを見て夫は「とりあえず一度車に戻ろう」と言っている。子供たちもお泊まりできない不安を顔に現しているのが伝わってくる。車に戻り、周辺で泊まれるところがないか片っ端から電話していくかと思ったが、時期はゴールデンウィーク。どこのホテルも満室だろう。そんな時に、ふとホテルの支配人が言い捨てていた言葉を思い出した。「隣の民宿」。そう言われて、隣ってどこだろうと思い辺りを見回すが、そのような建物はなかったのだ。そこで「知名」と「民宿」で検索してみることにすると、1件だけがヒット。私は恐る恐る電話をして、「満室だったらどうしよう」と不安に駆られながらも「本日、そちらに宿泊することはできますか」と聞いてみる。

旅館の主人は、とても快く引き受けてくれた。それから車を民宿へと走らせた。ホテルの支配人は「隣」と言っていたが、その場所から車で10分は離れている。ぱっと見、目立った看板など出ていない民家だった。しかし、よくよく見ると玄関前にしっかりと「民宿」と記載されていた。民宿の前には広い空き地があり、そこが駐車場になっている。急遽の宿泊だったにも関わらず、家族全員分の豪勢な夕飯を準備してくれていた。

夕飯をいただき、お風呂も源泉掛け流し式で、旅館と同じ温泉だった。母は「あそこの旅館に断られてよかったわ。こっちの方がアットホームだし。民宿だけど、部屋数も多いし綺麗だし、料理も美味しいし、旅館となんら変わりないじゃない」と絶賛している。それを聞いた民宿のご主人が「ありがとうございます。こちらは民宿と謳っていますが、事業の届けでは民宿ではなくて旅館業としているんですよ」とニコニコしながら教えてくれた。そして、図々しくも明日ももう1泊させてもらえるか聞いた私たちに、また心よく「どうぞ。何でもしてくださいね」と言ってくれた。

お礼を言って、部屋で家族5人くつろいでいると、私のスマホでゲームをしていた娘が、私に電話を差し出したのだ。どうしたのかと思ったら、着信が何度も来ていて、ゲームどころではなかったようだ。電話番号を確認すると、先ほど追い出された高級旅館からの電話だった。しかも全て留守番電話にメッセージが残っていたので、確認することに。そこには支配人から電話がかかってきている。「もしもし、ナナコちゃん。戻ってきてくれ。頼むから、今すぐ来てくれよ」最初の留守電はこれだった。私の名前に「ちゃん」付けされていて、鳥肌が立った。次に入っていた留守電には「ナナコちゃん、俺だよ。俺、タクだよ。お願いだ。君たちが戻ってきてくれないと、親父に首にされそうなんだ」と留守電に入っている。

もう夜も遅いし、お酒も飲んだ後だ。車で10分かかるところになんて行く気はさらさらなかったので、電話で確認をすることにした。旅館に電話をすると、まずは受付スタッフが出たので、電話が来ていたことを確認すると、電話口の声が変わる。「ナナコちゃん、俺だよ。覚えてない? ほら、高校の時」と支配人のタクに変わっていた。私は今の今までタクという人物をすっかり忘れていたのだ。

タクは大学のゼミで1年だけ一緒になったことがある先輩。確か親が旅館のオーナーをしていると、当時から自慢をしていた。「今、どこにいるの? 泊まるところがなくて大変だろ。うちのスイートルームが空いてるから、そこに泊まってくれよ」と。タクはこれまでと違い、突然畏まるように話しかけてくるが、私は「すでにあなたが紹介してくれた民宿に宿泊しているので、泊まるところは心配されなくても大丈夫よ」と冷たく突き放すことにした。しかし、この男はちょっとやそっとのことでは諦めないようだ。「俺がそっちに行くから、俺の話を聞いてくれ」と電話口でも構わず懇願してきたので、私は民宿の方に迷惑がかかるからと断った。しかし、タクは夜中にも関わらず押しかけてきたようだ。ただ、民宿のご主人が「こんな夜中に訪ねてくるとは何事だ」と追い返してくれていたらしい。それは次の日の朝食時に聞いた。「余計なことをしたかな」と、ずっと早く確認したかったようだ。もちろん、余計なことは何ひとつない。どちらかと言うと、こちらが迷惑をかけてしまい、申し訳なく思った。

朝食を食べた後は、2日目の目的地に向かった。民宿の前で待ち伏せをされているかと思いビクビクしていたが、民宿に突撃されることはなかった。前日のみの突撃で、落ち着いているとは思えないような留守電の入り方。行動中もいつも気を張って、子供たちが危ない目に合わないように、大人の誰かが必ず子供のそばにいるようにした。そこに、再度タクから電話が入ったのだ。あまりにもしつこいため、子供たちは夫に任せて、私と母はタクの旅館に向かった。

旅館に到着すると、タクが土下座をして謝っている。「突然、何ですか? 昨日とまるで態度が違うじゃないですか」と、この場にいるのも嫌だという態度で言い放った。それに対してのタクの言葉は「本当に申し訳ありません。まさか君のお母様が教育委員会の方だったなんて」。実は私の母は普通の校長ではなく、教育委員会などでも働いていて、地元では一目置かれる存在なのだ。

なぜこのようなことが起きたのか聞くと、タクは私が大学時代の後輩だと気づき、「母子家庭の貧乏人が来た」と思い、わざと予約が入っていないことにしていたという。私は路頭に迷うかのような扱いをされ、イライラしており、すぐさまSNSに「高級旅館にやられた」ことに対しての愚痴を載せたのだ。その時の私は、事実だけを感情のままに書いていたと思う。私たちを追い出した後、すぐに旅館に突然苦情の電話が何件も入り、タクは私に電話をしてきたようだった。その苦情電話とは、主に学校関係者からで、「この旅館の大元であるグループ会社に、そちらのスタッフの教育がなっていない。今後一切、修学旅行などでもいつもお世話になっていたホテルは、他のホテルさんに変えさせていただきます」などだった。タクは私の母が教育現場での有名人だと知り、謝って撤収してもらおうと思ったという。そこで私が電話に出るまで、何度も連絡してきていたようだ。

ちなみに、私のブログは、母が以前職場関係者に「うちの娘のブログ」を自慢していたため、母の友人たちや校長仲間がよく見てくれている。タクは母がSNSの騒動を流したと思っているようだが、母は機械音痴。パソコンは何とか最低限ができることになったのだが、今回の書き込みについては完全に私だった。それを知らないタクは、母にブログの訂正を頼んでいた。私はそれを見て、声をあげて笑ってしまう。「これ書いたの私よ。母は機械音痴なもので」と説明している間、母がカラ系を取り出し「私じゃないわよ。失礼しちゃうわ」と笑顔でからかっている。母の笑顔ほど怖いものはない。「私の娘を舐めないでちょうだい。ところで、なんで勝手に貧乏だと思ったの?」と母は真剣な眼差しでタクに詰め寄っている。「え、いいや。ボロボロの車に乗る人たちは、隣の潰れかけの民宿でいいと思って」とタクの声が震えていた。

確かに、私たちが乗ってきたのはコンパクトカーの代車で、随分とボロかった。家にあるミニバンが事故に巻き込まれ、ちょうど代車を借りていたからだ。そのコンパクトカーを見て、タクは高級車に乗れない貧乏人だと思ったようだ。そこへ年配の男性がやってきた。「そんなわけあるか。お客様はどんな方だってお客様だと、何度言ったら分かるんだ。まさか、これまでにも同じような接客をしてきたんじゃないだろうね」と顔を怖ばらせている。タクはその男性から目をそらす。顔がそっくりだから、きっとタクの父親なのだろう。それを見たオーナーはタクに激昂し怒鳴っていたが、タクは負けじと反論している。「だ、だって、こいつ母子家庭なんですよ。女1人じゃ、貧乏に決まってます。そんな奴が、このような品格のある高級旅館を使うなんて」

タクの言葉を遮るように、オーナーが「このバカ息子。うちの旅館の品格を損なっているのは、お前のような差別をする人間だ。お前は首だ」と言い放っていた。オーナーさんはとても優しい方だったが、怒ると怖い。どうしてこんなしっかりした人から、タクのような人間が育ったのか不思議でならない。

私は「今、私たちは旅行中なので、これで失礼します。楽しい時間をこれ以上、無駄な時間で潰されたくありません」と母を連れてその場を後にした。オーナーとタクはまだ何か言い争っていたが、あろうことか話をしていたのがロビーの一角。しかもチェックインする人が増える時間だったので、何事かとその場を通る人は2人を見ていた。

その後、旅館で差別をしていたスタッフが他にもいたということで、応変な態度を取っていたスタッフは全員一斉解雇した。しかし、私のブログを見た人たちからも「本当にそうだった」とか「過去に私もされたことがある」という人も出てきて、その旅館の口コミが最悪に。しばらくして、この旅館は経営不振に陥り閉館。さらには他の地域にあるグループ旅館やホテルの評判もどんどん落ちていったという。

その代わりというわけではないが、旅館の評判が落ちるのと反比例して、隣の民宿が大繁盛。私がブログに民宿のことを載せていたことをきっかけに、客が戻ってきたからだ。民宿の主人は「あなたが書いてくれた記事のおかげで、涙が出るほど嬉しかった。この宿が生き返ったよ。ありがとう」と言い、私に感謝をしてくれた。さらには、高級旅館と契約をしていた旅行会社が次々と民宿との契約をしようと営業をかけていたようだが、旅行会社との契約は、夫が務める旅行会社と専属契約をしてくれたのだ。また、私たち家族はこの民宿が気に入り、それからも年に1、2回は通っている。

ブログを書いている私は、改めてネットの威力って怖いなと実感した。今までも実際のことしか書いてこなかったが、今後も一層注意を払って、より良い記事を書いていきたいと思う。

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