目の前を走っていた車が、何の変哲もない道で急に止まった。僕は避けきれず、そのまま車の後ろにぶつかって、自転車ごと転んでしまった。立ち上がると、自転車の車輪は完全に歪んでいた。幸い体に大きな痛みはなかったが、あのスピードでは修理に出しても直らないかもしれない。
辺りを見回しても、急ブレーキをかける理由になるものは何もなかった。信号も横断歩道もない。飛び出してくるものもない。そう思っていると、黒塗りの高級車からいかにもヤクザ然とした男が降りてきた。
「どこに目つけとんだ。俺の車にぶつかってきたな。どう落とし前つけてくれるんだ?」
男は凄んでいた。僕は怖くなって、急にブレーキをかけたのはそちらだと主張したが、男は「俺が悪いとでも言いたいのか」と怒鳴り、僕の様子をじろじろと見て言った。
「学生でバイトだろ。デリバリーのやつか。俺は砂糖組の下場ってんだ。この車、組長の大事な車だ。へこみも傷も派手についた。パーツごと交換になる。そうだな…1億だ。1億払えば許してやるぜ。」
まだ学生の僕に1億円など払えるはずがない。そう言うと、下場は闇金から借りればいいとか、ちゃんと稼げる店を紹介してやるとか言い出した。これはおかしいと思ったが、怖くて、家族や学校やバイト先に迷惑をかけてはいけないと思い、警察を呼ぼうとした。すると、下場は僕の腕を掴んでねじり上げた。
「いいか、警察は呼ぶな。こっちはヤクザだ。命に関わることになるぞ。」
僕はすっかり縮み上がってしまった。すると下場が言った。
「金を用意できるなら、身内に連絡してもいいぞ。親でも親戚でも何でもいい。1億すぐに準備できるならな。」
僕は思い出した。祖母なら何とかしてくれるかもしれない。祖母に電話をすると、祖母は意外なほど落ち着いていた。
「あらあら、それは大変だね。佐藤組の下場?知らない名前だわね。今どこにいるの?分かったわ。すぐに行くから。下場って人には、銀行によるから少し待っていてと伝えなさい。」
電話を終えると、下場は「ババアは来るのか」と待ちきれない様子だった。約5分後、黒塗りの高級車が1台、また1台と現れ、気づけば100台近くの車が下場を取り囲んでいた。そこから現れたのは、祖母だった。
「待たせたわね、はずき。怖い思いをしたわね。」
下場は慌てて「何だこの車は」と声を上げるが、祖母は悠然と微笑んで言った。
「佐藤組の下場さんと言いましたわね。そちらがヤクザを名乗るなら、私も名乗らせていただきますわ。私は大山組の組長、大山と言います。」
下場の顔が一瞬で青ざめた。大山組といえば、日本でも有数の大組織の名前だった。
「お前が急ブレーキをかけて私の孫を事故に巻き込み、怪我をさせ、自転車を壊した。その上1億円を請求した。その落とし前はつけてもらいますよ。修理費や慰謝料で、締めて1億円でどうかしら?」
下場は逃げようとしたが、大男たちに囲まれ、その場に崩れ落ちた。
祖母はそのまま佐藤組の事務所に向かった。組長に事情を話すと、組長は顔を真っ赤にして怒った。
「下場のやつ…運転手を任せているが、まさか片付け相手に1億なんて吹っかけていたとは。こちらには修理の書類がきちんと残っている。1億になったことは一度もない。」
そこへ、下場が何食わぬ顔で事務所に戻ってきた。事情に気づいた下場は土下座し、これまで修理費と偽ってかなりの金額を巻き上げていた事実を洗いざらい白状した。佐藤組の組長はため息をつき、怒りを込めて言った。
「いいか、下場。お前は大山組に1億、佐藤組に1億、合計2億を支払うんだ。支払えないなら、マグロ漁船か、タコ部屋に放り込んでやる。」
下場は「申し訳ありませんでした」と泣きながら謝った。これで話は終わったかに見えた。
しかし、下場は黙ってはいなかった。今度は僕が大学から帰る途中、待ち伏せしていたのだ。
「よう姉ちゃん。久しぶりだな。あの時の傷だろ。半額の5000万はお前が払う義務があるんじゃないか?」
「あの事故は下場さんが急ブレーキをかけたのが原因です。それに、また私に因縁をつけたって、祖母や佐藤組の組長さんが知ったらどうなるか分かりますよね。」
下場は舌打ちをし、「今日のことはババアに言うんじゃねえぞ」と捨て台詞を残して去っていった。だが、下場はまだ諦めていなかった。
その翌日、僕はバイト先のデリバリーサービスの本部に新しい自転車の登録書類を提出しに行った。社長は、事故のことを気遣いながら書類を受け取り、「2、3日休んで、それでも大丈夫そうなら仕事に出てほしい」と言ってくれた。会社を出てしばらく歩いていると、スマホが鳴った。見ると、社長からだった。
「柳田君、大変なんだ。下場とか名乗るヤクザがうちに来て、『お前のバイトが俺の車を傷つけて逃げた。会社として責任を取れ、2億払え』って暴れてるんだ。君の名前も出しているようだが…。」
僕はすぐに会社へ向かい、祖母にも連絡した。会社に着くと、下場は鉄パイプを振り回し、テーブルや観葉植物を倒しながら怒鳴っていた。
「いいか、2億。損害賠償に修理費に慰謝料。全部込めて2億を払え!」
「下場さん、落ち着いてください。このまま暴れたら、組長さんにまた迷惑がかかりますよ。それに、私が一人でここに来たと思っていますか?」
僕がそう言うと、同時に会社の前に黒塗りの高級車が止まり、祖母と佐藤組の組長が降りてきた。下場の顔が真っ青になる。
「一度ならず二度までも、俺の顔に泥を塗ったな。うちは片付け相手に手を出すなと言っているだろうが。」
組長はそう言うと、下場を車に連れて行くよう命じた。下場は両方の部下に腕を掴まれ、そのまま連れ去られていった。
「こうなったら、あの男には2億を働いて返してもらわないといけないわね。きっともうはずきと会うことはないと思うわ。佐藤組も監視にするって言っていたもの。」
祖母はニコニコと笑いながら言ったが、その目はヤクザの組長そのものだった。
その後、下場は組に連れ去られ、徹底的な制裁を受けた。もともと信用のない下っ端ヤクザだった上、一般人に手を出し、当たり屋の真似で巻き上げた金を自分の懐に入れていたことが周囲に知られ、すっかり信頼を失った。今は4億の借金を返すために、部下に監視されながら非常にきつい仕事をさせられているという。制裁の結果、体が不自由になってしまったらしいが、具体的な仕事の内容や体の状態は「聞かない方がいい」と祖母に言われた。
一方、僕はバイトをやめるつもりで辞表を提出した。会社に迷惑をかけてしまった上、僕がヤクザの親類だと知れてしまったからだ。しかし、社長は意外にも笑顔で止めてくれた。
「待ってよ、はずきさん。早まらないでくれ。確かに君がヤクザの家系だってのは驚きだったけど、今回の件は君のせいじゃないだろう。助けに来てくれたのも君だ。それに君は真面目でよく働いてくれる。よかったら、このまま続けてくれないか?」
僕は頭を下げ、今日もデリバリーのバイトを続けている。優しい社長と仲間たちに囲まれて、勉強とバイトの両立に励んでいる。



