銀行の融資担当者は、工場を見渡すなり、私の計画書を引き裂いた。従業員たちの目の前で。
「ボロ工場への3000万の融資はキャンセルで」
私は若林、46歳。父から受け継いだ町工場の2代目社長だ。大手自動車メーカーの製造ラインに組み込まれる部品の加工を手がけている。求められるのは、0. 01ミリ以下の誤差も許されない精密な加工技術だ。
工場を継いだ翌年から、私は父が40年かけて築いた技術を改良するため、新技術の開発に着手した。日中は通常業務をこなし、夜は自作の機械を調整しながら実験を繰り返す日々。思い通りの結果が出ず、徹夜になることもあったが、開発を諦めようとは思わなかった。
そして昨年、ようやく理想の加工技術にたどり着いた。独自の接合工程を体系化したもので、同じ精度をより短いサイクルで量産できる。特許も取得した。設備を増強すれば、従来の2倍の受注が可能になる。ただし、新たな設備投資として3000万円が必要だった。
私は取引銀行に提出する融資計画書を作り、10年以上担当してくれていた石口に提出した。
「御社の実績とこの特許技術があれば、審査も問題なく通るでしょう」
石口は計画書を丁寧にめくりながらそう言った。その言葉に、私は十分な手応えを感じた。
だが、翌週、事態は急変する。石口が持病の悪化で入院が必要になったというのだ。
「融資の件は後任に引き継ぎますので、ご安心ください」
入院直前に石口はそう連絡してきたが、10年以上やり取りしてきた相手が変わることに、私は不安を拭いきれなかった。
後任の担当者から連絡が来たのは、石口の入院から1週間後のことだ。根本と名乗るその担当者は、近日中に融資の件を相談したいので、私の工場を訪問したいとのことだった。
その話しぶりに、私はさらに不安になる。電話の声はまるで自動音声のように感情がなく、顧客に対する丁寧さも感じられないものだったからだ。
訪問当日、根本は工場に着くなり作業場に目を向けた。
「こんな工場で、部品の精密加工などできるんですか?」
従業員たちを一人ひとり見回すように視線を動かし、声を必要以上に張って、聞こえよがしに続ける。まるでこの空間全体を値踏みするかのような立ち振る舞いだった。
彼の目に映るのは、何十年も経った建物と、20年近く経つ加工機械だろう。確かに、新しい設備とは言えない。だが、根本が見えていないのは、その機械が何を生み出してきたかだ。
従業員たちは作業を止め、不安げに根本を見つめている。根本はそんな視線など気にせず、平坦な口調で言った。
「これで3000万の融資などと、よく言えたものだ」
私は根本に声をかけた。
「こちらへどうぞ。会議室で改めてご説明します」
根本は鼻を鳴らして首を振った。
「結構です。どうせすぐ終わります。ここで構いません」
根本はそう言って、その場を動こうとしない。従業員たちがチラチラとこちらに目をやっている。根本は構わず鞄の中から書類を取り出した。石口に預けたはずの融資計画書だ。
その時、工場の入り口に人影が現れた。28年来の取引先で、調達部長を務める小島だ。翌月の品について確認したいという連絡が、前日に入っていた。
「お取り込み中でしたか?」
小島は入り口で足を止めた。私は小島に一言、少し待っていてくださいと伝える。根本は小島には目もくれず、計画書を手にしたまま続けた。
「財務諸表は一応拝見しましたよ。売上規模、設備の状況。いずれも3000万の融資に見合うものではありません」
「しかし、特許があります。その技術があれば――」
私が口を開くと、根本は即座に遮った。
「どんなご立派な特許なのかは知りませんが、それで経営が安定するわけではないですよね」
その物言いで、根本の判断はこの工場に足を踏み入れた瞬間からすでに固まっていたのだと悟った。計画書の中身など、最初から読む気がなかったのだ。
根本はそのまま計画書を両手でゆっくりと引き裂いた。一度では足りないとでも言うように、もう一度。破れた紙片が作業場の床に落ちた。入り口の小島が息を飲むのが見えた。
「ボロ工場への3000万の融資はキャンセルで」
根本はそれだけ吐き捨てると、来た時と同じ足取りで工場を出ていく。私は動けなかった。
頭の中に、あの計画書の最後のページが浮かんだ。父が40年かけて磨き上げた技術を、私がさらに前へ進めるための計画だった。結果が出なくて、夜中に一人で機械に向かい続けたあの日々。ここで働き続けてくれている職人たちの顔。そのすべてが、今、床の上に無惨に散らばっている。
従業員たちが動きを止めていた。みんな床の紙片を見ている。それが一番きつかった。工場と見下され、従業員たちの心まで破られたように感じた。
一部始終を見ていた小島が、静かに歩み寄ってくる。
「若林さん、今のは一体……」
私は融資を断られたと、小島に率直に話した。
「そうでしたか」
小島はそう話してから顎に手を当て、しばらく思案してから、意味深な笑みを浮かべていった。
「いいですね、若林さん。これは天気かもしれませんよ」
「え?」
私は思わず聞き返した。小島は続けた。
「銀行の融資などなくても、あなたの技術を生かす道があります」
その言葉の意味を、私はすぐには飲み込めなかった。しかし、その言葉に私は顔を上げ、小島を事務所へ案内した。
向かい合って椅子に腰を下ろすと、小島は静かに切り出した。
「若林さん、御社が特許を取得したのは去年の秋でしたね」
「そうです」
「特許公報に御社の技術が載った時、私はすぐに中身を読みました。あの接合工程の仕組みを見て、これはうちが求めていたものだと直感しました」
特許公報とは、特許取得後に国が公開する技術文書だ。内容は誰でも閲覧できる。取引先の設計者や部品の調達担当が目を通すことは珍しくない。
「うちの工場では、新型品ラインを立ち上げます。御社の特許技術で加工した部品をそこに組み込めば、製造コストを大幅に削減できる見込みがある。その精度と量産体制の両方を満たせるのは、若林さんの工場だけです」
私は黙って続きを聞いた。
「若林さんから以前、設備投資のために銀行へ融資を申し込んでいるとお聞きしていました。そのことがあったので、私から先に話を持ち込むのは筋が違うと思い、待っていたんです。ただ、今日ここで起きたことを見て、話してもいい段階だと判断しました」
根本が計画書を引き裂いた場面と、あの言葉が脳裏に蘇る。小島はその一部始終を、目の前で見ていたのだ。
「率直に言わせていただきます。銀行が知らぬ顔をするなら、うちが直接出資させていただきたい。金額は変わりません。3000万です」
私は小島の顔を見る。はったりではなく、これまでと何ら変わりない取引担当者としての目だった。私は率直に聞いた。
「条件を聞かせてください」
小島は続けた。
「一つは、設備の仕様をうちと共同で決めること。新型品ラインに必要なスペックがあるので、そこだけ合わせていただきたい。もう一つは、御社の特許技術の独占契約です。他社には一切使用を認めない。その代わり、こちらは市場相場を大きく上回る使用料を継続的にお支払いします。うちにとっては独占的に使えることで競合との差別化が図れる。若林さんには特許から安定した収益の柱ができる。双方の利害が一致するはずです」
賭けでも義理でもなく、事業として成立する取引だった。
「工場の運営には口を出さないということですか?」
「もちろんです。この工場はあくまで若林さんのものです」
私は少し考えた。小島は父の代から28年にわたって取引を担当している。その間、小島から不当な単価引き下げや納期の短縮を要求されたことは一度もない。うちの工場にとって最も信頼できる取引相手と言っていい。その小島からの提案なのだ。
「2週間以内に回答いただければ、こちらも動けます」
小島は立ち上がりながらそう言った。
「受けます」
私は迷いなくそう告げた。28年間、理不尽な要求を一度もしてこなかった男だ。この人間の言葉を信じない理由が、私にはなかった。
小島は表情を変えずに言った。
「では、私は早速社に戻り、調達部門を始め関係各所に今話したことの承認を得る段取りを進めます。その後、詳細を詰めましょう」
玄関まで送ると、小島は振り返らずに車に乗り込んだ。私は心の中で確認する。融資はキャンセルされても、この工場を失うわけではないのだと。
小島との正式な資本提携契約が締結されたのは、それから10日後のことだった。設備仕様を共同で決めることと、特許技術に関する独占が定められた。また、相場を上回る継続的な使用料の支払いと、設備導入に対し3000万円の出資も決まる。
早速、翌週から設備の選定が始まる。小島の会社から生産技術担当が工場を訪れ、新型品ラインに必要なスペックを私と二人で洗い出す。最終的に精密加工機2台と検査装置1台の導入で合意した。これが揃えば、月産能力は従来の2倍を超える計算になる。機械の搬入は3週間後に決まった。
大型トラックが工場の前に止まり、重機を使って設備が下ろされていく。その様子を従業員たちが眺めていた。
「社長、これで設備が充実しますね」
入社して5年になる若い従業員がそう言った。驚きよりも期待に近い声だった。融資計画書に記していた仕様とほぼ同等の設備が、今、工場の作業場に据えられている。
据え付けが終わると、次の課題に入った。特許技術を量産体制で安定させるには、各工程の手順を誰でも再現できる形に整理する必要がある。職人たちと1か月かけてその作業を進め、主要工程の手順書が形になった。その後、試作品の加工を行い、部品メーカー側が求める精度の基準に達していることを確認する。これで量産体制の入り口に立った。
設備の稼働が本格化してきた頃、石口から連絡が来た。長く職場を離れていた、後任の融資担当だ。
「先週から職場に復帰しました」
石口の声はどこか重く、硬い。
「体調の方は戻られましたか?」
「はい。それより若林さん、復帰してすぐに融資の引き継ぎ資料を確認しまして……」
言葉が一瞬止まった。
「御社への融資案件が打ち切りになっていましたね。私が入院している間に」
怒りと悔しさが混在したような、複雑な声が聞こえてくる。
「入院する直前にご安心くださいと申し上げたにも関わらず、若林さんの期待を裏切る形になってしまい、誠に申し訳ありません」
「石口さんのせいではありません」
私がそう言うと、石口は聞いてきた。
「資金の問題は、その後どうなったのでしょうか?」
私は28年の取引先から出資を受け、設備を導入し、量産体制に入ったと告げた。
「そうでしたか。それは良かったです」
石口はそう言って、少し間を置いた。
「若林さんにお伝えしたいことがあります。復帰してすぐ、私の方から上の者に融資をキャンセルした経緯を調査してもらうよう依頼しました。すでに社内で調査が始まっています。詳しくはまだ申し上げられませんが、それだけはお伝えしておくべきだと判断しました」
私はすぐに察しがつく。石口は、私に言った言葉に責任を取ろうとしているのだ。しかし、その調査の結果がどうなろうと、今の私には関係ない。私はもう、別の道を歩き始めているのだ。
「わかりました」
それだけ答えて、電話を切った。
工場の作業場では、搬入から1か月を過ぎた設備が低い駆動音を立て、若い職人が加工機のモニターを確認しながら作業を進めている。根本が破った融資計画書の紙が散った場所に、新しい設備が何事もなかったかのように動き続けている。
小島の会社への最初の納品から3か月が経つ。研修の連絡は毎回滞りなく届いた。加工部品の質の高さを褒める小島の一言が、毎回添えられている。最初の頃、私は数字を確認するたびに胸を撫で下ろしていた。それも今では、当然の作業になっている。
石口から再度の電話があったのは、小島から3回目の発注が届いた頃だった。
「若林さん、社内の調査が一区切りしました。ご報告させてください」
石口の声は、前回の電話より落ち着いている。
「根本が引き継ぎ資料をほとんど確認していなかったことが、正式に確認されました」
私は何も返さず、石口の続きを待つ。
「根本は若林さんの融資計画書も、私が作成した技術評価の資料も、まともに参照していなかったことが判明しました。融資の可否を記録する書類にも、判断の根拠が何も記載されていませんでした」
「それはつまり、財務諸表だけを見て融資のキャンセルを決めたということですか?」
「そういうことになります。社内では、特許取得済みの有望案件を適切な審査なく打ち切ったと判断しています」
私は黙って聞いた。この工場はすでに動いている。銀行の調査がどうなろうと、今の私には関係のない話だ。
「それから、若林さんと……融資課長の瀬沢から改めてご挨拶に伺いたいという申し出がありました。根本も同行するとのことです」
私は少し考えてから、訪問の申し出を受けた。
2日後、工場に2人が訪れる。会議室に通すと、年配の方が名乗りながら深く頭を下げた。
「融資課長の瀬沢と申します。この度は、平行の対応により多大なご迷惑をおかけしました」
瀬沢は椅子を断り、私の前に腰を下ろした。根本はその隣に座り、正面を向いたまま動かない。かつてこの工場の作業場を眺めながら「これで3000万などとよく言えたものだ」と吐き捨てた男が、今は私の前で沈黙している。
「ここにいる根本が引き継ぎ資料を十分に確認せず、御社の融資の申し込みを断ったことは、明らかに不手際でした。心よりお詫び申し上げます」
瀬沢が深く頭を下げると、根本もそれに習う。瀬沢は私に向き直って言った。
「改めて、融資のお取引をご検討いただけないでしょうか? 条件は当初の計画書を基に、ご要望に沿う形でご用意いたします」
作業場の方から、設備の低い駆動音がかすかに届く。私は深く息を吸った。瀬沢の申し出の意味は理解できる。謝罪であり、提案であり、関係の修復を図るものだ。だが、私には今から言わなければならないことがある。
私は瀬沢を見据えて言った。
「瀬沢課長。御社では根本さんが私の融資を断った経緯を調査したと聞いていますが、根本さんがその際、私に何を言ったかご存知ですか?」
その瞬間、根本の肩が一瞬、小刻みに上下した。瀬沢は申し訳なさそうに答えた。
「それは……根本が何を言ったかまでは、確認しておりません」
「そうですか。『ボロ工場への3000万の融資はキャンセルで』――根本さん、あなたは私にそうおっしゃいましたよね」
私はそう言って、根本に視線を向ける。
「確かにあなたの目から見れば、私の工場はボロかもしれません。しかし、融資というのは今の工場の姿ではなく、我々の持つ技術とその可能性を判断の基準にするのではないのですか?」
根本は私に目を合わせず、おずおずと口を開いた。
「……この工場の古さだけを見て、判断してしまいました」
瀬沢が半ば呆れた目で根本を一瞥し、ため息をつく。私は根本から目をそらさずに続けた。
「そう判断されるなら、仕方ありません。しかし、私の提出した融資計画書まで破り捨てる必要はなかったのではありませんか?」
根本は口をつぐみ、俯くことしかできない。瀬沢は目に怒りを灯して根本を睨んだ。私は追求の手を緩めない。工場で真面目に働く従業員たちの顔を一人ひとり思い浮かべ、根本が融資計画書を引き裂いた時に感じたであろう怒りや不安を代弁するつもりで言い放つ。
「根本さん、あなたは融資を断っただけじゃない。私の工場と、そこで働く従業員たちを侮辱した。あなたにその自覚はありますか?」
気づけば感情が高ぶり、いつの間にか立ち上がっていた。先に声をあげたのは瀬沢だった。
「若林さん、誠に申し訳ありません。根本の非をどうかお許しください」
瀬沢は語気を強めた。
「根本、若林さんに精一杯の誠意を見せろ」
弾かれたように根本は立ち上がり、私に向かって深く頭を下げた。気づけば、会議室の全員が立ち上がっている。
私は呼吸を整え、瀬沢に対した。
「瀬沢課長、先ほどの融資の打診がありましたが、改めてお断りさせていただきます。もう御社に頼るつもりも、その必要もないので」
「……わかりました」
「話は終わりました。お引き取りください」
私はそう言って、2人を出口へ誘導する。瀬沢と根本は再び頭を下げ、踵を返した。
2人を見送り、工場に目を向け直すと、従業員たちと目が合う。私はそれぞれの顔に、安堵が浮かんでいるのを確認するのだった。
数週間後、石口から電話が届いた。根本が融資係から一般の窓口業務へ異動になったという。融資案件を適切な審査なく打ち切った事実が、社内の査定に正式に反映された結果だと、石口は少し安堵したような、それでいてまだ申し訳なさの残る声で教えてくれた。
それを聞いても、私の胸に波立つものはなかった。
工場では今日も設備が低く唸りながら動いている。小島の会社との取引は、その後も順調に続いている。発注量は当初の見込みを上回り、工場の生産能力はほぼ上限近くに達している。
先月、小島から直接電話があった。
「若林さん、来月も引き続きよろしくお願いします。量の上積みが可能かご検討いただけますか?」
私は即座に答えた。
「設備次第になりますね。前向きに検討します」
小島は短く笑って、電話を切った。
技術の価値を認めるかどうかは、他人の判断に委ねるものではない。自分が積み上げてきたものを、自分の手で証明する。それがこの工場の、これからも変わらない歩み方だと、私は信じている。



