テーブルに置かれた名札を見た瞬間、俺は自分の目を疑った。そこには「鼻水垂れ男」と書かれていたのだ。
きっとこれは、初めての両家顔合わせの時に俺が花粉症で鼻をかんでいたことを揶揄したものだろう。つまり、仕掛けたのは柴原夫妻に違いない。
あまりの出来事に俺は呆然とするしかなかった。そんな俺の傷ついた心をさらにえぐったのは、柴原を始めとする香織さんの一族の笑い声だ。中には涙を流しながら大笑いしている者までいる。
他人を侮辱しておいて、一体何がそんなにおかしいというのだろう。
俺の名前は宮京介。今年で45歳になる。どこにでもいるようなおっさんだ。
俺には10歳年下の弟がいる。名前は正也。俺たちは両親を交通事故で早くに亡くしてから、兄弟二人三脚でどうにかやってきた。年が離れているぶん、俺は兄であると同時に父親のような存在でもあった。喧嘩も数えきれないほどしたが、すぐに仲直りしたものだ。いや、兄弟で力を合わせなければ生きていくことすら難しい時もあったのだ。
反抗期を過ぎた頃には、正也は立派な青年になっていた。弱い立場の人には優しく、理不尽な権力には立ち向かう。それは俺が幼い頃から教えてきたことだった。そんな俺の教えを守り続けた正也は、誰からも好かれる大人に成長した。国家試験に合格した正也は、長年の夢だった弁護士になった。
それから10数年の月日が流れた。その間に正也は立派な弁護士に成長し、俺は高校時代から付き合っていたエミと結婚した。エミは温厚な性格で、俺の心をいつも癒してくれる存在だ。
ある日、正也から連絡が来た。話したいことがあるという。俺は正也を自宅に招き、エミが作ってくれたディナーを囲みながら話を聞くことにした。
正也は緊張した面持ちで「兄ちゃん、俺、結婚しようと思うんだ」と言った。その言葉を聞いた瞬間、嬉しさのあまり俺の目から涙が溢れ出た。急に泣き出した俺を見て、正也はどうしていいのか分からずあたふたしていた。そんな俺たち兄弟の様子に、エミは微笑みながら「ちょっとしっかりしてよ」と俺の背中を軽く叩いた。
何日か後、正也は結婚相手の香織さんを紹介してくれた。話を聞くと、彼女は椎名銀行の頭取の娘だという。椎名銀行は日本ではそこそこ名の知れた銀行で、性格もきっちりしている香織さんなら正也を任せても安心だと思った。俺は目の前で愛し合う二人を心から祝福しようと決めた。
それから間もなく、両家の顔合わせが行われた。その日は花粉症の症状がひどく、俺は鼻をかんでばかりいた。香織さんの両親である椎名銀行の頭取・柴原とその妻が苦笑いしていたのをぼんやりと覚えている。
顔合わせの後、正也と香織さんは無事に入籍した。そして入籍から数ヶ月経った今日、俺は正也たちの結婚式にエミと共に出席していた。大事な弟の晴れ舞台になぜか緊張している俺を、エミは冗談を言っては笑わせてくれている。本当にできた妻だ。
会場に到着し、受付を済ませて席を探す。しかしなかなか見つからない。二人でキョロキョロしていると、式場のスタッフが席表を見ながら誘導してくれた。ようやく席に座れると思った次の瞬間、俺は自分の目を疑った。俺が座る席のテーブルに置かれた名札に「鼻水垂れ男」と書かれていたのだ。
そうか、これは顔合わせの時に俺が鼻ばかりかんでいたのを揶揄したものだ。つまり犯人は柴原夫妻だ。俺は呆然とするばかりだった。
そんな俺の心をさらに傷つけたのは、柴原を始めとする香織さん側の一族の笑い声だった。信じられないことに、涙を流しながら大笑いしている者までいる。
エミはうろたえている俺に「大丈夫」と優しく声をかけてくれた。俺はその言葉でなんとか気を取り直し、グラスを手に取って柴原の元へ向かった。
「これは一体どういうことですか?説明してください」
俺は声を少しだけ荒げた。柴原はニヤニヤと笑いながら言った。
「どういうことって?その札に書いてあるまんまだよ。顔合わせの時にあんたが鼻水を垂らしてたのは事実なんだから、何も間違ったことなんて書いてないだろ」
「確かに私はあの時花粉症で鼻をかんでいました。でも、だからと言ってこんな華やかな席でわざわざ言いふらす必要はないでしょう」
だが柴原は聞く耳を持たない。気持ちの悪い笑みを浮かべるばかりだ。しかも立ちが悪いのは柴原だけではない。奴の妻も周りの親族たちも、完全に見下した目で俺を見ているのだ。
俺は何か悪いことをしたわけではない。それなのに、どうしてこんな屈辱的な思いをしなければならないのか。心は不満でいっぱいになった。しかし、今日は正也の結婚式だ。弟の晴れ舞台に泥を塗るような真似だけは絶対にしたくない。そう思うと、俺はいつも以上に我慢強くなれた。
俺が必死に耐えているのをいいことに、柴原は俺たち兄弟に関するありもしないことをベラベラと喋り始めた。俺たちに両親がいないことを、面白くもないジョークを交えて話すその姿は、下品としか言いようがない。兄弟二人三脚で頑張ってきた俺たちの努力を、こけにされているように感じた。
一生懸命生きてきた人間を馬鹿にできる権利なんて、この世の誰にもない。それは子供でも分かるくらい簡単なことだ。しかし残念ながら、そのことを柴原もそしてこいつの親族一同も、ちっとも知らないらしい。
柴原の俺に対する攻撃は止めどなく続いた。
「弁護士の弟はともかく、あんたはどっかの聞いたこともない会社の窓際サラリーマンなんだろ。はっきり言って、うちの一族は超一流だから不釣り合いなんだよね。親戚付き合いは遠慮させてもらうから、そのつもりでな」
俺はその言葉に呆れて声も出ない。
「あ、言っとくけど、貧乏だからって金の無心とかしないでくれよ。いくら銀行の頭取だからって、こっちはあんたみたいな貧乏人に貸す金なんて一円もないから」
俺は金に困ったことなんて一度もない。こいつが勝手に俺を貧乏だと決めつけているだけだ。柴原は凄まじい偏見の持ち主らしい。
俺はふと隣のエミを見た。いつも笑顔を絶やさない彼女の顔は、いつになく厳しいものになっていた。俺の視線に気づいたエミは「もうこの人たちとは何を話しても無駄ね」と呟いた。そして、これまで見たことのないような厳しい表情で俺に言った。
「ねえ、あなた。こんな人非人がやってるような下品な会社は潰す」
「だな」
俺は短く答えて頷いた。それを聞いた柴原はまだ俺たちのことを嘲笑っている。
「おいおい、あんたのところの嫁さん、頭大丈夫か?俺は椎名銀行の頭取だぞ。ちょっとやそっとで潰せるようなその辺の弱小企業とは訳が違うんだよ」
こいつはかなり勘違いしているようだ。別に椎名銀行は日本の中央銀行でも何でもない。そんな存在がこの世から消えたところで、この国の経済に影響はないだろう。なくなったらなくなったで、利用者たちは別の銀行を使うだけだ。そう思った俺は思わずフッと吹き出してしまった。柴原は面食らったような顔をしている。
とにかく今日はこれ以上揉め事を起こしたくない。そう考えた俺は、柴原が何か言ってくる前に自分の席に戻った。そして正也たちの結婚式を見届けた。
式の間、俺は柴原から受けた仕打ちのせいで、居心地の悪い思いをずっとしていた。
それから数日後の休日のことだ。俺はエミと自宅でのんびりしていた。すると家のインターホンが鳴った。モニターに映っていたのは、あの柴原だった。柴原は、モニター越しでも分かるくらいうろたえた様子で言った。
「おい、一体どういうことだ。今すぐ説明してくれ」
説明して欲しいのはこちらの方だ。俺は柴原が何を言っているのかさっぱり分からない。仕方なく、俺とエミは柴原を家に上げることにした。
リビングに通された柴原の顔色は真っ青だった。血の気が引いたような顔色だ。
柴原は俺たち夫婦にこう言った。
「支店の人間も含めて、うちの銀行員たちが全員、あの最大手のチェダーバンクに引き抜かれたとさっき報告を受けたんだ。どうやら『宮』って人間が関わっているらしいとも聞かされた。もしかして…あんたの仕業なのか?」
「その推測は少しだけ間違ってますね。今回の件に関与しているのは私だけではありません。ここにいる妻も関わっています」
「銀行員を全員引き抜かれたら、うちは銀行として機能しなくなってしまうじゃないか。というか、こんなことが本当にできるなんて…そもそもあんたら一体何者なんだ!」
俺は柴原の疑問に丁寧に答えてやることにした。
「だって私は、チェダーバンクの頭取ですから」
その言葉に目を丸くする柴原に対し、俺はさらに続けた。
「ちなみに妻はチェダーバンクの副頭取です。まあ、金融業界に生きる人間なら、私たちの顔と名前くらいはご存知ですよね」
そう、俺たちはチェダーバンクのトップとナンバー2なのだ。チェダーバンクは日本で最も大きな銀行で、組織としての規模は柴原が務める椎名銀行など比べ物にならないほど大きい。俺たちの素性を何ひとつ知らなかったらしい柴原は、まさに開いた口が塞がらない状態だった。俺たちは結構メディアにも取り上げられ、その道では有名人だったりするのだが、こいつは勉強不足だったらしい。
エミはそんな柴原に対して言った。
「この間の結婚式での、うちの夫に対する振る舞いは決して許すことなんてできませんから。それで今回、こういう行動を取らせていただきました」
柴原は「あわわわわ…」と言葉にならない声をあげている。どうやら自分が窮地に立たされていることをようやく悟ったらしい。
柴原はエミが出してくれたお茶を一気に飲み干した。あまりの勢いに噎せてしまっている。バカなやつだ。俺はこの情けない男をじっと観察した。
息を整えた柴原は、やっとのことで言葉を発した。
「そ、そんな…それならそうと、顔合わせの時にどうしてそのことを教えてくれなかったんだ。あんた、会社員だって言ってたじゃないか!」
俺はケロッとした顔のまま答えた。
「別に嘘なんてついてませんよ。うちの銀行は株式会社ですから。椎名銀行だってそうでしょ」
「俺が言いたいのはそういうことじゃなくてだな…」
柴原はイライラしながら言った。そして次の瞬間、とんでもない行動に出た。奴は俺の胸ぐらをぐっと掴んだのだ。
「やめてください。みっともないですよ!」
エミが声を荒げるが、柴原に届くことはない。
「チェダーバンクだかなんだか知らねえが、おちょくりやがって!」
柴原は大声をあげると、握り拳を作って俺の顔面目がけて殴りかかってきた。しかし、俺の反射神経は昔から良い。素早くその攻撃をかわした。空振りした柴原の拳は、近くの窓に激突。その衝撃で窓は無惨にもひび割れてしまった。
「ちょっと、なんてことをするんですか!他人の家の窓を破壊するなんて、大人のやることじゃありませんよ。今すぐここで弁償してください」
まだ怒りに支配されている柴原は、反抗的な態度を取った。
「窓ガラスくらい、いくらでも弁償してやるぜ。この野郎。大手の銀行の頭取だからって偉そうにしてんじゃねえぞ」
このままこいつと同じ土俵でやり合っても拉致が明かない。そう思った俺は、ゆっくりと深呼吸した。
冷静さを取り戻した俺は、柴原にこう要求した。
「それでは、今すぐ10億円支払ってください」
その金額を聞いた時の柴原の表情は、今思い出しても思わず吹き出してしまうほどだった。
「じ、10億円だと?こんなバカな…高が窓だろうが。そんなに高いわけないだろうが!」
俺は泰然とした態度で答えた。
「確かに窓ガラス自体は高級品でも数十万円ですけどね。でも、私があなたに請求しているのは修理代金だけではありません」
俺は言葉を続ける。
「あなたはたった今、私を殴ろうとした。このことが世間にバレたら、あなたは一巻の終わりです。その口止め料も含まれているんですよ。それなら10億なんて安いもんでしょう」
俺の言葉を受けて、柴原は自分がやってしまったことの重大さにようやく気がついたらしい。脱力したかのように、その場にペタンと座り込んでしまった。
「頼む…どうかこのことは内密にしてくれ…」
「それはこれからあなたが10億円支払うかどうか次第ですよ」
俺は冷たく言い放った。その言葉を聞いた柴原は、がっくりと俯いて膝を抱える。そしてシクシクと涙を流しながら「もう終わりだ…」と独り言った。
その後、チェダーバンクに銀行員を全員引き抜かれたことで、椎名銀行は銀行として立ち行かなくなり、苦しい状況に陥ったそうだ。今回の責任を取って、柴原は頭取を辞職した。いや、役員たちに責任を追求されて、仕方なく辞職に至ったと言った方が正しいだろう。
柴原はそれなりの貯金はあったが、俺から10億円を請求されている以上、新たな仕事を探さないわけにはいかない。柴原だけでなく、一緒に暮らす妻もまた一気に苦しい生活を強いられることになった。
余裕のない生活が影響したのか、次第に柴原夫妻は喧嘩ばかりするようになり、愛想を尽かした妻は離婚届を置いて出ていってしまったらしい。
一方、俺はと言えば相変わらずの毎日だ。チェダーバンクの頭取として忙しく働いている。まあ、忙しいと言っても副頭取のエミに比べたら大したことないのだが。本当に彼女は素晴らしいキャリアウーマンだ。我が妻ながら尊敬してしまう。
結婚式での騒動を知った香織さんは、申し訳なさそうに何度も深々と頭を下げてくれた。どうやら全ては柴原の仕業であり、彼女は何も知らなかったらしい。今回の件を重く見た香織さんは、しばらく両親や親族と距離を取ることにしたとも明かしてくれた。
香織さんがまともな感覚を持っていたことが、何より嬉しい。
俺はこれからも、妻はもちろん弟夫婦のことも大事にしながら、仕事に励んでいきたいと思う。



