「おいおい、汚い格好でここまで来るなよ」――朝7時に現場へ集合し、5時間も待たされた挙句、契約書を叩きつけてそう言われたのは、小さな工務店の社長だと舐められていた俺。でも昨日まで現場に立っていた古参の職人たちは、俺が大手建設グループの役員であり、この28億円プロジェクトの施工承認権限を持つ人物だとは知らない。今すぐ名刺を出せば空気は一変する。だが俺はそれをせず、ただ黙ってコーヒーをすすってい…

「おいおい、汚い格好でここまで来るなよ」――朝7時に現場へ集合し、5時間も待たされた挙句、契約書を叩きつけてそう言われたのは、小さな工務店の社長だと舐められていた俺。でも昨日まで現場に立っていた古参の職人たちは、俺が大手建設グループの役員であり、この28億円プロジェクトの施工承認権限を持つ人物だとは知らない。今すぐ名刺を出せば空気は一変する。だが俺はそれをせず、ただ黙ってコーヒーをすすってい...

午前7時、現場に到着した俺たちは、やることもなくコーヒーをすするだけだった。担当者の三橋が俺を見るなり、手で追い払うように言った。「おいおい、汚い格好でここまで来るなよ。」

俺は苦笑いを浮かべたが、腹の底では苦いものが込み上げていた。大工として現場に立っていた頃から、こういう扱いは腐るほど見てきた。今すぐ名刺の一枚でも出せば、この空気は一変する。だが、それをやらないと決めているのは俺自身だ。

俺の名前は森田、45歳。一級建築士の資格を持ち、少数精鋭の工務店を経営している。だが、それだけが俺の顔じゃない。実は業界でも有数の大手建築メーカーの役員でもある。そのグループ全体を束ねる会長の小谷さんは、俺に大工の色褪せない技術を教えてくれた恩師だ。

小谷さんの会社は、20年以上前は職人の腕こそピカイチだったが、経営は大赤字だった。潰れかけていたその技術を残すため、俺はITを使った集客や、思考プロセスの改革を徹底的に叩き込んだ。その結果、地元の超大型ショッピングモールの建設案件を勝ち取った。あの時、小谷さんは涙を流して喜んでくれた。そこから会社は急成長し、今や業界を牽引する巨大グループとなった。

そんな俺が今日入っている現場は、中堅メーカーが仕切るショッピングモールの建設現場だ。待てども待てども担当者が来ないので、事務所まで探しに行ったのが運の尽きだった。三橋という50代の担当者は、先日の打ち合わせでも妙にこちらを見下してくるような印象だった。大手にはペコペコするくせに、俺たちみたいな小さな工務店には横柄だ。

「本日の最終確認をさせていただきたく。」

「ああ、俺は忙しいんだ。そんなもん後にしてくれ。」

「ですが、確認していただかないと作業が何もできません。契約期限は5時間後ですから、なるべく早くお願いします。」

俺がそう念を押しても、三橋は「まあそう焦るなって。うちのやり方ってもんがあるんでね」と含みのある言い方をし、俺と目も合わせずにわざとらしくスマホで電話を始めた。集合時間を7時に指定したのは三橋自身なのに、俺たちは無駄な時間を過ごすことになった。

休憩所で職人たちとコーヒーを飲んでいると、若手の一人が「森田さん、いくら何でも失礼すぎませんか?俺たち今日のために早朝から来てるのに」と怒りをあらわにした。一方で、30年も現場に立ってきた古参の職人は黙って窓の外を見ているだけだった。どちらの気持ちも痛いほどわかる。本当は俺の一存で今すぐこの現場から職人たちを解放してやることもできる。だが、それをすればこの案件そのものが揺らぎかねない。

三橋が電話をしながらその近くにドカッと座った。「さすが社長。よろしくお願いします」とペコペコしている。相手は大手メーカーの社長なのだろう。俺たちの方をちらりと見ては視線をそらして電話を続ける。「社長のおかげで私がこの28億円規模のプロジェクトの責任者ですよ。え?出世街道真っ暗ですって?いやあ、困ったなあ」とヘラヘラしている。本当に何も分かっていない。俺は呆れを通り越して哀れみさえ覚えた。

このショッピングモールは特殊な大空間構造を採用している。柱と梁の接合部にかかる荷重を分散させる特許工法がなければ、広い無柱空間を安全に支えることはできない。手順を一つ間違えれば天井の崩落にもつながりかねない。足場の組み方、資材の搬入経路、作業員の配置確認まで細かく管理された体制でなければ承認は降りないのだ。その確信部分を安全に施工できる特許技術を持っているのは、俺たちが属する小谷さんの大手グループだけだった。

三橋は俺のことを、大手から回されてきた使い捨ての下請けとしか思っていないのだろう。だが実際は違う。今日の正午までに俺が現場の安全と管理体制を確認し、グループ役員として施工承認の判を押すこと。これが三橋の会社が28億円の本契約を結ぶための絶対条件だったのだ。俺たちが現場の環境が劣悪だと判断して手を引けば、特許工法の提供はストップする。そうなれば28億円のプロジェクト自体が頓挫し、三橋の会社は契約違反で巨額の違約金を払うことになる。

そんな自社の運命を握る重要人物が目の前にいるとも知らず、三橋は電話の向こうの社長にごまをすり続けている。この時点で既に集合から2時間が経過しても、俺たちは暇を持て余すだけだった。

電話を終えた三橋が俺たちを無視して席を立とうとしたので、俺はきっぱり言った。

「三橋さん、我々は7時から待機しています。すでに2時間が経過していますので、こちらの確認を今すぐさせてください。ここで暇を持て余しているのは我々にとって時間の無駄です。」

すると三橋は俺を睨みつけ、「お前らみたいな下請けが俺に指図するのか?冗談じゃない。お前らは使われるだけの下受けだろ」と言い、休憩所の椅子を蹴って行ってしまった。

流石にこの状況をどうにかしたいと思い、俺は小谷さんに連絡を入れた。「分かった。契約期限は今日の正午だ。申し訳ないが、近くの喫茶店にでも行って三橋さんからの連絡を待ってくれないか」と言われたので、指示に従うことにした。だが結局、3時間経っても連絡は来ず、時計の針は正午を指した。

俺は事務所まで移動し、三橋を呼び出した。だが三橋は無視している。俺はため息をつき、三橋の目の前まで行って契約書を叩きつけた。

「正午になりました。契約期限が過ぎたので、この28億円規模の契約は中止しますね。」

すると三橋は「お前らが抜けたところで、別の下請けがいるだけだろ。バカが」と笑う。俺は時計を指さした。

「集合時間は7時です。5時間も無視し続けるってどういうことですか?我々でないとできない技術なので呼ばれてるんですよね。あなたがすぐに確認してくれていれば、今日の作業はとっくに終わっています。それをこんなに放置して、何様のつもりですか?」

話している間に俺の口調はどんどん強くなってしまった。三橋は鼻で笑う。

「何様だって?お前の方こそ下請けの分際でその態度は何だ?お前らでないとできない?そんなことないだろ。朝から呼び出して指示しなかったのは、私への忠誠を試したんだよ。昨日来ていた下請けは昼飯も食わずに夕方まで待ってたぞ。お前らは不合格だ。もう帰ってもらって構わない。」

「は?忠誠?」

俺は思わず鸚鵡返しをする。三橋は得意げに言った。

「これだけ大きな現場だ。手抜き工事をされたらたまったもんじゃないからな。私はこうして忠誠心のある下請けだけを残すようにしているんだよ。」

俺は呆れ返り、「そうですか。では失礼します」と背を向けた。「もったいないね。お前みたいな小さな工務店をこんな大きなプロジェクトに呼んでやったっていうのに」という三橋の馬鹿にしたような声が響いたが、俺は一切振り向かずその場を去った。

翌朝、俺はいつもの作業着ではなく、きちんとしたネイビーの高級スーツに身を包み、小谷さんの乗る黒塗りの車の後部座席に揺られていた。隣に座る小谷さんがスマホの画面を見ながら苦笑いを浮かべる。

「森田君、三橋さんの会社の社長から昨日の夜から私の携帯に100件以上着信が入っているよ。『28億円の施工承認が降りないのは何かの手違いでしょうか』とね。」

俺は昨日のことを思い出しながら、「手違いではありませんよ。担当者の忠誠テストに落選しただけです」と答えた。小谷さんは「そりゃ重罪だなあ」と楽しそうに笑った。

「笑い事じゃないですよ。5時間ですよ。5時間。」

俺が反論すると、ちょうど目的地に着いた。車が到着したのは昨日俺たちが5時間も待たされた建設現場だった。案内されたプレハブ事務所のドアを開けると、地獄のような光景が広がっている。

「お前、一体どういうことだ?」

そう怒鳴られているのは三橋だ。怒り狂っているのはその社長のようだ。三橋は昨日まであれほど威張り散らしていた態度とは打って変わって、見ていても分かるほど顔面蒼白で、ひたすら謝り続けている。

「社長、落ち着いてください。28億円の契約なら昨日の夕方に本部に書類を送りました。大手グループからの最終承認を待つだけで…」

「その承認が降りてないから、俺はここにいるんだよ!」

社長は三橋の胸倉を掴まんばかりに詰め寄る。

「今朝、グループ会長の小谷様から直接連絡があったんだ。『現場の責任者に致命的な人徳の欠如が見られるため、我が社の特許施工技術の提供は取りやめる。したがって、28億円のプロジェクト本契約は破棄撤回する』とな。」

社長が続けて怒鳴り散らすが、止められる者が誰もいない。

「そんな特許技術が使えなかったら、この工期に間に合わず、うちの会社は巨額の違約金で倒産してしまいます。」

とますます青ざめる三橋。「だから言ってるだろうが、馬鹿者!お前、昨日の現場で一体何をしたんだ!」と社長は怒鳴る。

俺と小谷さんは顔を見合わせてため息をついた。三橋の狼狽ぶりは遠目からでも一目で分かるほどだった。俺たちはそこに足を踏み入れる。

「失礼します。朝から賑やかですね、社長。」

小谷さんの声を聞いた瞬間、社長がこちらを向いて驚いた。

「小谷会長、なぜこんな現場にわざわざ?わざわざご足労をいただき申し訳ありません。そちらの様子を確認してから私の方から伺うと思っていたのですが…」

その時、ようやく顔を上げた三橋の視線が俺を捉えた。

「お前、昨日の生意気な下請け大工じゃないか。昨日とは違いスーツ姿ということは、俺に謝罪に来たんだな。ほら、会長に説明してくれ。俺はお前らを試しただけで、追い払うつもりは…」

その言葉を遮ったのは社長だった。

「黙れ、三橋!」

社長が三橋の頭を叩き飛ばす。「お前、この方を誰だと思っているんだ?え?」

三橋がポカンと口を開ける。俺は胸ポケットから名刺入れを取り出し、すっと三橋の目の前に突き出した。そこには「取締役 技術最高責任者」という肩書きと俺の名前が書いてある。三橋の目は見開かれ、名刺と俺の顔を何度も往復する。

「取締役…?小さな工務店の社長だろ。昨日だって、汚い作業着だったし…」

「ここで俺が嘘をついているとでも思ってるんですか?」

そう言うと、小谷さんが口を挟んだ。

「森田君は我が社の優秀な人材でしてね。役員になってからも、勘が鈍ると嫌だから、現場に置いてくれないと役員なんて引き受けないと私に言ったんだよ。」

「何年前のこと言ってるんですか?」と俺も照れ笑いをした。

次の瞬間、空気が一転する。小谷さんのにこやかな笑顔がすっと消え、鋭い声で言い放った。

「私は森田君に絶大な信頼を置いている。昨日も契約期限を無視し、下請けだと馬鹿にする現場責任者だったとのことで、我が社の協力を破棄することにした。森田君が首を縦に振らない限り、覆ることはないんだよ。」

三橋の顔から血の気が引いていく。

「え、いや、少々お待ちを。私、社長には貢献してきたはずですし、ここは一つお手柔らかに…」

と今度は社長の方にすり寄ろうとするが、社長はもう三橋を見ようともしなかった。俺は続けた。

「昨日は施工前の最終確認と、あなたとの最終合意のために伺いました。ですが三橋さん、あなたは7時に俺たちを呼び出しておきながら、5時間も放置した。契約期限の正午になっても確認すら拒み、『俺への忠誠を試した』と言った。本当にくだらない。職人を軽視する人間に、我が社の重要な技術を任せられるとお思いですか?」

ようやく立場を理解した三橋は「あ、あの、あれは冗談で…」と言い訳を始める。俺は鼻で笑ってやった。

「冗談で我々の時間を5時間も奪ったんですね。」

その瞬間、社長が三橋の頭を掴み、土下座をさせた。社長も頭を下げる。

「申し訳ございません!三橋は即刻解雇します。ですから、どうかこのプロジェクトだけは…」

だが、俺はそれに応じない。

「現場の責任者は、いわば会社の代表ですよね。三橋さんを責任者にしたのは御社の責任。三橋さんが口にした言葉は御社の言葉だと思っています。代わりはいくらでもいる。そう言われましたので、どうぞその代わりの業者を探して、28億円の現場を完成させてください。見つかればの話ですけどね。」

「そこはなんとか…」と土下座する三橋と、絶望の表情で立ち尽くす社長。その静まり返った事務所で、小谷さんが俺の肩をポンと叩いた。

「いやあ、決めたね、森田君。昔から君を怒らせると一番恐ろしい。」

「まあ、言ってることはえぐいですが、俺はただ真面目に汗を流す職人たちが報われる現場を守りたかっただけですよ。」

そう言うと、小谷さんが頷く。

「分かっているさ。よし、この28億円のプロジェクトは、信頼できる別のゼネコンに組み直して発注しよう。もちろん君の工務店に最高の施工を頼むよ。」

「お任せください、会長。」

俺は大きく頷き、小谷さんと笑いながら事務所を出た。

その後、三橋の会社は多額の損害賠償が発生し、傾いていく。三橋本人も個人への損害賠償も相当なものらしい。「自業自得ですね。まだああいう人間がいることが驚きですよ」と俺がため息をつくと、小谷さんは「そうだな。我々も常に誠実であれと言っているが、念のため定期的な現場調査を頼んだよ」と言った。

俺たちは小さな会社から始まった。だからこそ、現場の苦しみも知っている。会社が大きくなったとはいえ、現場が一番。それは変わらない。小谷さんの意向で、うちの会社は必ず現場で働いてからでないと出世できないようになっている。正しい判断だ。

しばらくして、うちの事務所に三橋が現れた。また嫌味でも言いに来たのかと思ったが、「私を雇ってもらえませんか」という。「同業はどこも雇ってくれなくて」とげっそりしていた。当たり前である。俺は言った。

「どうしてうちで雇ってもらえると思ったのか、教えてもらえますか?あなたを雇ったところで何のメリットもないんですけど。むしろデメリットですよね。お引き取りください。」

再び絶望の表情で、そのまま帰っていった。その後のことは誰も知らない。

例の28億円の現場は業者を変え、順調に進んでいる。俺たちの技術を活用し、もうすぐ完成を迎える。完成できるのは、現場の職人の力があるからだ。完成するその瞬間が、たまらなく楽しい。俺はこれからも現場第一主義で頑張っていこうと思う。

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