朝の忙しいキッチンの音が、電話の向こうから聞こえてきた。牛乳の場所を探す妻の声、保育園の連絡を確認する声、泣き出す子供。5年間、一度も電話をしなかった男が、公衆電話ボックスから古い7桁の番号を押した。息子が電話に出た。「もしもし、誰ですか?」5年ぶりに聞く声は低くなっていた。唇が動いた。「俺だ」と。その瞬間、向こうが黙った。何を言うつもりだったのかも分からない。保証人のこと?それとも、ただ声…

朝の忙しいキッチンの音が、電話の向こうから聞こえてきた。牛乳の場所を探す妻の声、保育園の連絡を確認する声、泣き出す子供。5年間、一度も電話をしなかった男が、公衆電話ボックスから古い7桁の番号を押した。息子が電話に出た。「もしもし、誰ですか?」5年ぶりに聞く声は低くなっていた。唇が動いた。「俺だ」と。その瞬間、向こうが黙った。何を言うつもりだったのかも分からない。保証人のこと?それとも、ただ声...

午前5時10分。松崎公平は布団の中で目を閉じたまま、雨音を聞いていた。6月の雨は容赦なく窓を叩き続ける。彼は68歳。千葉県の海沿いの町の団地で、ひっそりと暮らしていた。

定年まで埼玉の会社に勤め、妻を亡くしてからは独りだった。息子の譲二は結婚して妻の姓を名乗り、今は横浜に住んでいる。5年前、息子が家を買う時に金のことで揉めた。それ以来、電話も会うこともなかった。

彼は夜の男だった。スーパーの夜間倉庫で週5日働く。午後11時から翌朝7時まで、検品と仕分け、補充の仕事。静かで誰とも話さない。それが彼には合っていた。

木曜日の夜明け前。勤務が終わった松崎は、コンビニで見切り品の幕の内弁当を買った。半額シールが貼られた弁当を手に、団地へ歩く。郵便受けを開けると、白い封筒が挟まっていた。右上に太い赤いスタンプ。差出人は「市営住宅管理局」。

部屋に戻り、茶ブ台の前に座って封筒を開けた。

中には通知書が入っていた。保証人である元同僚の坂口が先月亡くなった。孤独死対策の法改正により、保証人を親族に更新する義務が生じた。期限は15日以内。更新がなければ賃貸契約を解除する手続きに移行する。

脇に小さく書かれた文字。「民間保証会社の利用も可能。費用が発生します」

松崎はゆっくりと息を吐いた。親族と言えば、息子しかいない。5年間、顔も見ていない息子だ。

彼は通知書を正確な折り目で三つ折りにし、引き出しに入れた。そして何もせず、雨音を聞いていた。

5日が過ぎた。6月18日、倉庫で新しい商品が大量に届いた。同じシフトには、21歳の桑原というアルバイトがいた。髪を明るく染めた男だ。作業は遅く、ミスが多い。

松崎が積まれたケースを支えていると、桑原が通り過ぎながら言った。

「ちゃんと積んどけよ。俺が積んだのに倒れたみたいじゃないか」

松崎は何も言わなかった。ミスを直しても、申し訳なさのない「すみません」が返ってくるだけだ。そして、誰に言うともなく呟くのを聞いた。

「年寄りって細かいよな」

聞こえないふりをした。この職場で感情を出してはいけない。長年の経験が教えていた。

翌朝、荷物をまとめずに歩いていると、雨の中に古い公衆電話ボックスが立っていた。足が止まった。

彼は携帯電話を持っている。しかし、発信履歴が残ることが嫌だった。公衆電話なら番号は表示されない。ボックスに入り、10円玉を4枚入れて、7桁の番号を押した。

5年間一度もかけなかったが、忘れたことはなかった。呼び出し音が3回目で、電話が繋がった。

「もしもし。誰ですか?」

譲二の声だった。低くなっていた。背後で子供の声や食器の音がする。朝の忙しい台所の音が聞こえた。

松崎は唇を動かした。声を出した。

「俺だ」

1、2秒の沈黙。

「え?…」

「いや。なでもない。掛け間違えた」

そう言って、電話を切った。返金された10円玉を拾い、ポケットに入れた。

しばらく動けなかった。世界は動き続け、自分はその外側に立っている。そう感じた。涙は出なかった。

10日目の朝、松崎は区役所へ行った。残り5日。1人で出来ることをやるなら、行政の窓口しかなかった。押入れからグレーのジャケットを出した。

窓口の女性職員は事務的だった。保証人の更新が必要だと説明され、解決策は二つあると言われた。

「民間の保証会社をご利用いただく方法です。一般的には初回で15万円前後かかります」

15万円。彼の通帳の残高は5万円を少し超えていた。

「低所得者向けの支援はありませんか?」

「住民税非課税世帯であれば補助制度がございます。ただし、親族の方が経済的支援を行えない状況であることを証明していただく必要があります」

証明には、息子の署名と捺印が必要だった。どの道も、息子のところへ繋がっていた。

松崎は「分かりました」と立ち上がった。その瞬間、右肘が机の上の湯飲みに当たった。湯飲みが床に落ち、茶が広がった。乾いた音が響き、待合いスペースの人々の視線が一斉にこちらを向いた。

「大丈夫ですよ。お気になさらず」

女性職員は穏やかに言ったが、もう拭き始めていた。松崎は何もできず、ただ立ち尽くしていた。床に広がる茶の中に自分が映っているような気がした。

残り3日。

区役所から帰った夜、松崎は延長申請書を書いた。1週間の延長が認められれば、期限は7月5日になる。だが根本的な問題は何も変わらない。

働くしかなかった。倉庫の主人に頼んで、昼の補充作業も入れてもらった。1日2回の勤務。夜11時から朝7時まで倉庫で働き、2時間横になり、また10時に出勤する。眠れる時間に眠れなかった。

12日目の昼、売場で卵を補充していた。加護台車に5段積まれた卵のトレー。床の継ぎ目に車輪が引っかかり、台車が止まった。反動で一番上のトレーが滑り落ちた。

乾いた鈍い音。10個入りのトレーが5つ、床に叩きつけられた。卵50個。黄身が飛び散り、殻の破片が白身の中に混じった。

周囲の客が振り返った。売場主任の田中が来た。40代半ばの男だ。怒鳴らなかった。低い抑えた声で言った。

「これどうなってんすか?昼間の補充に入ってもらってからもう3回目ですよ。卵1個いくらか、ちゃんと計算してもらえますか?」

「年配の方に来てもらうのはいいんですけどね。もう少し動きを早くしてもらえませんかね。集中して仕事してもらわないと」

言葉は落ち着いていた。感情的でもなかった。だからこそ、一つ一つがはっきりと届いた。反論できる部分は何もなかった。田中は正しかった。正しいことを丁寧に言われた。それが一番、どこにも持って行けなかった。

14日目、家に帰るとドアに紙が貼ってあった。「契約解除の準備を開始する」という通知だった。延長申請が受理されたこと、最終期限が7月5日であることも書かれていた。

松崎は紙を剥がし、部屋に入った。電気をつけなかった。暗い部屋で携帯電話を取り出した。電話帳を開いた。登録件数は少ない。

「柴田譲二」。息子の名前だった。

その名前を見ていると、視界が歪んだ。気づいた時には頬を伝うものがあった。68年分が溜まって、今日、静かに滲み出しているような。そんな感じだった。

そして7月5日が来た。

前の晩、松崎は全部の荷物をまとめた。スーパーのバックヤードからもらってきたダンボール箱3つ。衣類、台所道具、通帳と印鑑と保険書類。それだけだった。茶ブ台もテレビもカーテンも置いていく。

引き出しの中の封筒も全部、ゴミ袋に入れた。捨てた。ゴミ袋の口を結んで、玄関の脇に置いた。

朝、管理会社に電話した。退去の旨と、荷物と残置物の件。鍵は郵便受けに入れろと言われた。

部屋の中を一周した。廊下のドアを閉め、鍵を郵便受けの口から落とした。金属の小さな音がした。

団地の敷地を抜けると、公園があった。朝の早い時間で誰もいない。反対側から若い家族が来た。30代前後の夫婦と、小学生くらいの女の子。黄色いランドセルを背負い、水色の傘を自分でさしている。父親が何か言って笑った。

その笑い声だけが、朝の空気に短く響いて消えた。

駅まで20分。代車に積んだ箱は重かった。切符を買い、エスカレーターに乗り、ホームに立った。電車を待つ間、ポケットの携帯電話が気になった。

3日前の夜。着信があった。「柴田譲二」。4つ目の仕事の帰り道、ポケットの中で携帯が震えた。名前を確認して、そのまま震えが止まるのを待った。留守番電話のランプは点滅していたが、再生しなかった。

ホームのベンチに座って、再生ボタンを押した。機械音声が23秒と言った。雑音の後、息子の声がした。

「あの、俺です。先週知らない番号から電話があって、多分父さんだと思って。何かあったなら電話してください。こちらからもかけます。以上です」

「以上です」。報告を締めくくるような言い方だった。感情を抑えた言い方だった。しかし、その前に少し迷っているような間があった。

電車の接近を知らせるアナウンスが流れた。松崎は携帯画面を見た。「柴田譲二」という名前。

掛け直せば繋がるかもしれない。保証人のことを言えば、息子が何か動いてくれるかもしれない。「かもしれない」が重なって、その先に家があるかもしれない。

電車がホームに滑り込んだ。風が吹いて、ウインドブレーカーの裾がはためいた。

朝、公園で通りすぎた家族が頭に浮かんだ。あの朝、譲二はどうしているだろう。会社へ行くはずだ。朝の台所で牛乳の場所を確認していた声。あの朝のように、そこへ電話をかけるのか。

5年間、沈黙を守ってきた自分が、金の話で連絡してくる。そういう形で、息子の朝の台所に自分が入り込む。

電車の扉が開いた。乗客が降りてくる。松崎は携帯電話を見た。「柴田譲二」。

ゆっくりと操作した。着信履歴を開き、名前を選んだ。メニューから「削除」を選んだ。確認画面。「この連絡先を削除しますか?」「はい」

電話帳を開いた。名前を選び、もう一度「削除」。画面から名前が消えた。

携帯電話を閉じ、ポケットに戻した。立ち上がり、ダンボール箱を抱えた。1つを抱え、1つを脇に挟み、1つを手で持った。体勢を確かめてから、電車の扉に向かって歩いた。

ブザーが鳴り始めた。松崎は電車に乗り込んだ。扉が閉まった。

車内は混んでいた。周囲に人の体温があった。誰も松崎を見なかった。窓の外にホームが流れていき、駅の屋根が終わって外の空が広がった。熱い雲の下を、電車は走り始めた。

乗り換えの駅まで20分。終点まであと40分。電車はカーブに差しかかり、車体が傾いた。足元のダンボール箱がわずかにずれた。松崎は片足でそれを軽く抑えた。

窓の外の景色が変わり続ける。彼はそれを見続けた。どこかへ向かっているのか、どこかから離れているのか。もう区別はしなかった。

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