雪の降る商店街で、藤堂順は足を止めた。聞き覚えのある声が、焼きたてのベビーカステラの屋台から聞こえてきたのだ。死んだはずの妻、桜井はずきの声だった。
屋台の前に立つ女性は、古びたダウンジャケットにエプロンをつけ、背中に一人、抱っこ紐で前に一人、双子を背負っていた。女性は順を見ても、ただ「いらっしゃいませ」と微笑むだけだった。順が「はずき」と呼びかけても、女性は首をかしげる。
「お客様、人違いだと思います。私は鈴木み子です」
順は呆然とした。女性の目には、見知らぬ人を見る警戒心だけがあった。しかし、子供たちの目元、そして鼻の先にある小さなほくろ。それは順の遺伝と瓜二つだった。順は、財布の中にしまってあった私立探偵の名刺を思い出した。
3年前、はずきは事故で死んだと聞かされた。遺体も見せてもらえず、葬儀も知らされないまま。しかし、今、彼女は生きている。なぜ自分を覚えていないのか。あの子供たちは一体誰なのか。順は、真実を調べることを決意した。
あの日の出会いから、順の回想が始まる。5年前、順は父の会社で専務に昇進したばかりだった。深夜のオフィスで書類を片付けていると、新人社員の桜井はずきがコーヒーを差し出してきた。「専務もですよ」と微笑む彼女に、順は次第に惹かれていった。
2人は交際を経て結婚した。順の父で会長の安造も、はずきを気に入っていた。しかし、義母である稽古が突然倒れ、子宮がんで亡くなってしまう。その介護をしていたのが、あ部花よという女性だった。そして、49日が明けた直後、安造会長は花よと再婚すると発表した。
花よはすぐに本性を現した。はずきの料理を「元々何もない家の出の人は家事が上手だって聞いてたけど、あなたは違うみたいね」と嘲笑う。順がたしなめても、花よは「冗談よ」と笑ってごまかすだけだった。
花よには共犯者がいた。会社の財務担当の木村達夫だ。2人は密かに会社の金を横領し、安造会長の薬に体力を奪う薬物を混ぜ始めた。そして、はずきが会社の内部監査資料を整理していると、不正を発見してしまう。月に数千万円もの金が、正体不明の口座に送金されていたのだ。総額は10億円を超えていた。しかも、安造会長の署名が偽造されていることにも気づいた。
はずきは証拠をUSBにコピーし、知り合いの筆跡鑑定士に鑑定を依頼した。「偽造の確率100%だ」という結果が返ってきた。そしてある夜、会社に残っていたはずきは、会長室から花よと木村の声を聞いてしまう。「嫁は確実に始末しないと」「濡れ衣を着せて追い出しましょう」。はずきは震える手で、その会話をスマホに録音した。
しかし、翌日、状況は一変した。会社の社内ネットワークに、はずきが横領しているという匿名の書き込みが流れた。緊急役員会に呼び出されたはずきは、自分名義の裏金口座や、ホテルで男性と会う合成写真を突きつけられた。はずきは「これは偽造よ! 私じゃない!」と叫んだが、誰も信じなかった。
そこへ順が入ってきた。はずきは「信じて」と懇願したが、順は顔を背けた。証拠があまりにも明白に見えたからだ。はずきはUSBの中の証拠を提示しようとしたが、誰かにすり替えられて空になっていた。絶望的な表情で、はずきは会議室を飛び出した。家に残っていた元ファイルをメモリーカードにコピーし、順が初めてプレゼントしてくれた熊のぬいぐるみの綿の中に隠した。
翌日、順ははずきに離婚を告げた。「信じて」と泣き叫ぶはずきの腕を、順は振り払った。3日後、はずきは家を追い出されることになった。荷物は小さなカバン一つだけ。着替えと財布、そして熊のぬいぐるみ。はずきはタクシーで実家に向かうことにした。しかし、その夜、木村は花よに報告していた。「はずきが家を出ました。何かを持っているはずです」花よは部下2人に追跡を命じた。
タクシーを降り、実家までの路地を歩くはずきに、暗闇から男2人が襲いかかった。カバンを奪おうとしたのだ。はずきは必死に逃げたが、階段で足を滑らせ、頭を強く打って転落してしまった。駆け寄った父の正一が、血まみれの娘を小さな診療所に連れて行った。
そこで、はずきは妊娠していることが判明した。しかも双子だった。数日後、目を覚ましたはずきは、自分が誰なのかも、結婚していたことも、妊娠していることも、すべて忘れていた。極度のトラウマによる記憶喪失だった。正一は娘に「お前の名前はみ子だ。鈴木み子だ」と伝えた。そして、知り合いのいない田舎町へ引っ越し、新しい人生を始めた。6ヶ月後、み子は双子の男の子を産んだ。一人は先天性の前速という呼吸器の病気で、一生管理が必要だった。
一方東京では、花よが偽造した死亡診断書を持って順の元を訪れた。「はずさんが事故で亡くなったそうよ」順は一晩泣き続けた。
それから3年。み子は父の正一と一緒に、双子を育てながらベビーカステラの屋台を営んでいた。そして、あの雪の日、順と再会したのだ。
順は私立探偵に調査を依頼した。報告書には、妻が別の名前で生きていること、双子の父親の情報が確認できないことが記されていた。順は毎日のように遠くからみ子を見守った。幼い双子を背負い、車椅子の父を押して病院に通う姿。薬局で咳き込む子供のために薬を買う姿。ガスボンベを一人で運ぼうとして転ぶ姿。順は拳を握りしめた。「俺が、俺が信じなかったから」
ある日、順はついに正一の家を訪ねた。「真実を教えてください」しかし正一は激怒した。「妻だと? 今更妻だと? お前のせいで娘は!」その瞬間、正一は激しい咳込みに見舞われ、吐血して倒れてしまった。順はすぐに病院へ運んだ。診断は「胃がんの末期」。余命は数日だった。
駆けつけたみ子の前で、正一は最後の告白を始めた。3年前のあの夜、はずきが誰かに追われていたこと。階段から転落して記憶を失ったこと。新しい名前を与えたこと。そして順を指さして「あの男はお前の夫だ。双子の父親だ」と告げた。
み子は混乱した。しかし、正一は順の手を握り、「頼む。わしの子たちを守ってやってくれ」と言い残して息を引き取った。
葬儀の後、順は探偵に再調査を依頼した。病院の記録、監視カメラの映像。そして、はずきを追った2人の男たちが、木村達夫名義の法人カードで報酬を受け取っていたことを突き止めた。さらに、順の母・稽古が死亡した際、血液から異常な薬物濃度が検出されていたこと。父・安造の血液からも、微量の毒物が継続的に検出されていたことが判明した。すべての黒幕は、あ部花よだった。
しかし、順は知らなかった。書斎の壁時計の裏に盗聴器が仕掛けられていたことを。花よはすべての会話を録音されていた。逆上した花よは、共犯者の木村に命じた。「あの女と子供たちを捕まえるのよ!」
その夜、み子の家に黒服の男2人が押し入った。「静かにしろ。静かにしていれば命だけは助けてやる」男の一人が子供たちの部屋へ向かった。その瞬間、み子の頭の中で、何かが弾けた。3年前のあの夜。暗闇の中で追いかけられた記憶。階段から突き落とされた記憶。血まみれの夜。すべてがフラッシュバックした。「私は……桜井はずき!」
そこへ順が駆けつけた。男たちと格闘し、肩に鉄パイプの一撃を受けたが、警察が到着し、男たちは逮捕された。「誰の指示だ?」「あ部花よです。金で雇われました」
はずきは順の腕の中で涙を流した。「記憶が戻りました。あの時、子供たちを奪われそうになって、すべて思い出したの」順は深く頭を下げた。「すまない。本当にすまない。君を信じなかった」
はずきは急いでタンスの上に手を伸ばし、埃をかぶった熊のぬいぐるみを取り出した。縫い目をほどくと、中から小さなメモリーカードが出てきた。「ここに全部あるの。あの人たちの不正の証拠。録音も書類も鑑定結果も」
その時、順の携帯が鳴った。「社長、大変です! 緊急役員会が招集されました。議題は社長の解任案です」花よは追い詰められ、最後の賭けに出たのだ。順は肩の血を押さえながら立ち上がった。「行くぞ。今行かなければ、すべて終わる」「私も行くわ」はずきはメモリーカードを固く握りしめた。
会社の大会議室。花よが正面に座っていた。順が血の滲む肩で入ってくると、役員たちがざわめいた。その時、会議室のドアが再び開いた。安造会長が、自分の足で歩いて入ってきたのだ。花よの顔色が変わった。「どうしてあなたが……」「今回の役員会は私も参加する」安造会長は冷たく言った。
順はメモリーカードをパソコンに差し込んだ。スクリーンに、3年前に録音された音声ファイルが流れた。「今月の流出額は10億円です」「よくやったわ。でも嫁が邪魔ね」「あの子、確実に対処しないと」役員たちの顔色が変わる。さらに、偽造された署名の鑑定結果、裏金口座の資料が次々と映し出された。安造会長は青ざめた。「お前がやったことなのか? 私の最初の妻も、お前の仕業なのか?」
順が最後の書類を広げた。「これは父さんの血液検査の結果です。この3年間、微量の毒物が検出されていました」会議室は凍りついた。その時、警察官たちが入ってきた。「綾部花よさん、木村達夫さん。殺人、殺人未遂、業務上横領の容疑で逮捕します」花よは手錠をかけられながら叫んだ。「覚えてなさい! ただじゃおかないから!」
裁判の結果、花よには無期懲役、木村には懲役15年の判決が言い渡された。法廷はマスコミで埋め尽くされ、大手メディアは大々的に報じた。
数日後、はずきは病院を訪れた。薬物投与の後遺症で弱っている安造会長に会うためだ。「お父様、許してください」「いや、許してくれのは私の方だ。あの女に騙されて、君をこんなに苦しませてしまった」安造会長は涙を流しながら、双子を抱きしめた。「こんなに可愛い子たちがいたとは」
はずきは裁判所で、鈴木道子から桜井はずきへの名前の変更が認められた。3年間、他人の名前で生きてきた彼女が、ようやく自分の名前を取り戻した。そして、双子の戸籍には、父親として藤堂順の名が記された。
順とはずきは、正一の墓前に立った。「お父さん、もう全部終わったよ。あの人たち、みんな捕まったから」はずきは声を震わせた。「お父さんが守ってくれたから、ここまで来られた。ありがとう」
はずきは父の名前で財団を設立した。一人親家庭や虐待被害者を支援する「桜井正一財団」だ。順が副理事長を務めた。そして、前速持ちの息子のために、自然素材で作られた、空気清浄システム付きの特別な家を建てた。「私たちの子供たちが、ここで健康に育ってほしい」はずきは設計図を見つめながら言った。順が肩を抱き寄せる。「そうなるさ。僕たちが守ってあげるから」
夏になり、双子は幼稚園に入園した。初めて父親と手をつないで登園する日。「お父さん、幼稚園って面白い?」「ああ、すごく面白いぞ。友達もたくさん作ってな」順が子供の手を固く握った。はずきも隣で一緒に歩く。「行ってらっしゃい。2人とも」
リビングの本棚には、古びた熊のぬいぐるみが置かれていた。すべての真実を隠してきた、私たちの始まりであり希望であったあのぬいぐるみ。3年前、雪の降る商店街から始まった物語。その雪は、今、新しい始まりを祝福しているかのようだった。



