退職金6000万もらったし、目標達成。お前は用済み。離婚だ。
その瞬間、時が止まったように感じた。私はただ信吾の目をじっと見つめていた。乾いた笑いを浮かべながら、彼は机の上に封筒をポンと置いた。
緑色の紙が封筒からちらりと覗いている。
「ほらよ、さっさとサインしてくれよ。」
まるで勝者が敗者に情けをかけるような口ぶりだ。離婚届。封筒から紙を取り出し、内容を確認する。すでに彼の名前と印鑑はしっかりと記入されていた。
「俺のおかげでお前も社長になれたんだろ。感謝しろよ。」
私は小さく笑い、深く深呼吸をする。そして顔を上げ、微笑みを浮かべた。
「いいの?やった。」
「え?」
その表情が崩れたのは一瞬だった。
「なんでそんなに嬉しそうなんだよ。お前、泣くとこじゃないの?」
「ねえ、信吾。私も離婚を言い出すタイミングを見計らっていたの。あなたが先に切り出してくれて助かったわ。感謝してるわ。あなたから離婚を言ってくれて。」
私はすらすらとペンを走らせ、迷いなく署名を終えた。筆圧は強く、文字は歪みなく整っていた。
「これで晴れて自由ね。やっと心の鎖が外れた気がする。」
「待てよ。話が違う。そんな反応、もっと悔しがれよ。」
私は封筒をしまい立ち上がる。信吾は私の反応がよほど意外だったのか、その場に立ち尽くしている。あれだけ威張っていた男が、今や声も出せず目を泳がせている。
「じゃあね。私は次の会議があるから。元夫さん。」
私は颯爽と社長室を後にした。
私の名前はマキ。大学の経営学部で出会った信吾は、私にとって初めての恋人だった。彼は明るく社交的で、いつも周りに人が集まっている。私は真面目で地味な性格だったから、そんな彼に引かれたのかもしれない。
「マキ、今日の講義さぼって遊びに行こうぜ。」
「だめよ。ちゃんと出席しないと単位が取れないでしょ。」
そんなやり取りを繰り返しながら、私たちは恋人同士になっていく。卒業後、私は父が経営する会社に就職することが決まっていた。一方、信吾は就職活動を全くせず、毎日遊び放題だった。
「信吾、そろそろ就職先を決めないと。」
「まだ焦る必要ないだろう。人生は長いんだから。」
彼の楽観的な態度に、私は不安を感じ始めていた。
そんな時、信吾の父親である弁護士の渋谷明さんが息子に最後通告を突きつける。
「信吾、お前がこのまま定職につかないなら勘当する。」
「え、父さん本気で言ってるの?」
「当たり前だ。もう我慢の限界だ。」
勘当を宣言された信吾は、慌てた顔で私の元へやってきた。
「マキ、助けてくれ。俺、行くところがないんだ。」
「どうしたの?そんなに慌てて。」
「親父に勘当されちゃった。マキの会社で働かせてもらえないかな?」
彼の必死な姿に、私は父に相談することにする。父は優しい人だったから、信吾を受け入れてくれた。そして信吾は婿養子という形で私と結婚することになる。私は彼を支えられると信じていたのだ。しかし、それが大きな間違いだったことに、この時はまだ気づいていなかった。
結婚後、私は仕事に今まで以上に打ち込むようになった。朝は誰よりも早く出社し、夜は最後まで残って企画書を作成する。営業部での実績を積み重ね、新規プロジェクトも次々と成功させていく。取引先からの信頼も熱くなり、指名で仕事の依頼が来ることも増えた。
「マキ、今月の売上も好調だな。お前は本当に頼りになる。」
「ありがとうございます。まだまだ勉強中ですが、頑張ります。」
父の期待に答えたいという思いが私の原動力になっていた。
一方、信吾は入社当初から問題行動が目立ち始める。彼は社長の娘婿という立場を振りかざし、先輩社員にも横柄な態度を取るようになった。
朝の定例会議でも信吾の態度は目に余るものがある。
「おい、これコピーしといてくれよ。」
「川上さん、それは自分でやってください。」
周囲の社員たちは呆れた表情で信吾を見つめていた。彼はまるで会社を自分の所有物のように勘違いしている。そんな光景を目撃するたびに、私の胸は痛んだ。
やがて社員たちからの苦情が私の元に届き始める。
「マキさん、申し訳ないんだけど、信吾君の態度について相談があって。」
「すみません。どんなことでしょうか?」
営業部長は困った表情で、信吾の問題行動を一つ一つ説明した。会議中のスマホいじり、資料作成の押し付け、取引先訪問のサボり。私は頭を下げて謝罪し、信吾に注意することを約束した。しかし心の中では、彼への失望感が募っていく。
その夜、私は信吾に向き合って話をする。
「信吾、会社での態度について聞いたわ。もっと真面目に仕事に取り組んでくれない?」
「なんだよ、急に。俺は俺のやり方でやってるだけだ。」
彼は不機嫌そうに私から目をそらした。テレビのバラエティ番組の音だけが重い空気の中に響いている。
「でも、周りの人たちが困っているのよ。取引先への訪問もサボっているって聞いたけど。」
「細かいことでガタガタ言うなよ。俺は社長の娘婿なんだぞ。」
彼の言葉に、私は深いため息をついた。このままではいけないと思い、私は義父の明さんに相談することにする。
明さんの事務所は都心の高層ビルにあった。重厚な革張りのソファーに座り、私は現状を説明した。
「なるほど。相変わらずか。あいつは昔から甘やかされて育ったからな。」
「お父さん、どうしたらいいでしょうか?」
明さんは眉間にしわを寄せ、しばらく考え込んでいる。その表情から、信吾への失望が見て取れる。
「私から説教しておこう。それでもダメなら、もっと厳しい措置を取る。」
数日後、明さんは信吾を呼び出して厳しく叱責した。
「お前は何を考えているんだ?会社は遊び場じゃない。」
「わかりましたよ、父さん。」
信吾の返事は明らかに上の空だった。明さんの怒りはさらに増していく。
「本当に分かっているのか?これ以上迷惑をかけるなら、私にも考えがある。」
「はい、はい。分かったって。」
しかし、信吾の態度は一向に改善されなかった。相変わらず遅刻は続き、仕事も適当にこなすだけ。私は社員たちに頭を下げ続ける日々が続いた。営業会議では信吾の欠席が常態化していた。総務部からは彼の勤怠管理について苦言が寄せられる。経理部からは経費の不適切な使用について報告が上がってきた。私は一つ一つの問題に対処しながら、夫への愛情が覚めていくのを感じていた。
そんな中、私たちに大きな転機が訪れる。ある朝、父が急性心不全で倒れ、帰らぬ人となってしまったのだ。
「お父さん……まだやり残したことがたくさんあったはずなのに。」
病院の霊安室で、私は父の冷たくなった手を握りしめた。葬儀には多くの社員や取引先が参列し、父の人柄を偲んだ。参列者の涙を見て、父がどれだけ愛されていたかを改めて実感する。
そして父の遺言により、私が二代目社長に就任することが発表される。
「故人の遺言により、牧野様が後継者として指名されています。」
私は社員たちの前で父の意思を継ぐことを誓った。
私の社長就任は、信吾にとって大きな衝撃だったようだ。彼は婿養子である自分が当然社長になるものと思い込んでいた。
「なんでマキが社長なんだよ。俺が婿養子だろ。」
「お父さんの遺言だから。それに実績を見れば当然の判断よ。」
信吾は不満そうに舌打ちをした。その日から彼の態度はさらに悪化していく。無断欠勤が増え、出社しても仕事をせずにスマホゲームに興じる始末だ。私は社長として、妻としてどう対処すべきか悩んだ。
ある日、無断欠勤が一週間続いた時、義父の明さんが会社を訪れた。
「マキさん、信吾はどうしている?」
「申し訳ありません。一週間も無断欠勤が続いています。」
明さんの顔は怒りで真っ赤になった。息子の情けない姿に、弁護士としての冷静さも失っているようだ。
「あいつは本当に救いようがない。私からも厳しく言っておく。」
しかし、信吾は義父の忠告も完全に無視。それどころか、義父からの電話にも出なくなった。
私は堪りかねて、信吾を社長室に呼び出した。
「なんだよ。偉そうに社長室なんかに呼び出して。」
彼は不機嫌そうに椅子に座り、足を組んだ。その態度に私の怒りは頂点に達した。
「信吾、いい加減にして。社会人としての自覚を持ってほしいの。」
「はっ、お前に説教される筋合いはないね。」
「私は社長としてあなたに注意しているのよ。」
信吾は鼻で笑い立ち上がった。そしてポケットから封筒を取り出す。
「だったらやめてやるよ。これ、辞表。」
「本気で言っているの?」
「当たり前だろ。他人に指図されたくないんでね。」
彼は辞表を私の机に叩きつけた。その瞬間、私は夫への最後の愛情も消え去ったことを感じた。
総務部で退職手続きを進める中、信吾の退職金が計算される。勤続年数と役職を考慮して、6000万円という金額が提示された。私は複雑な思いでその書類にサインをした。父の会社からこれだけの金額が出ていくことに胸が痛む。しかし、これで信吾との縁が切れるなら安いものかもしれない。
退職金を受け取った信吾は、翌日私の前に現れた。
「退職金6000万もらったし、目標達成だな。」
「そう、良かったわね。」
すると信吾はもう一つの封筒を取り出した。見覚えのある緑色の用紙が覗いている。
「これで全部終わりだ。お前は用済み。離婚だ。」
「離婚届け?」
「そうだよ。俺にはもっとふさわしい女がいるんでね。」
彼は勝ち誇った顔で私を見下した。その表情には私への侮辱と優越感が満ちている。私は離婚届けを手に取り、内容を確認した。すでに信吾の署名と印鑑が押されている。
「本当にいいの?」
「当たり前だろ。さっさとサインしろよ。」
私は深呼吸をして顔を上げた。そして満面の笑みを浮かべる。
「いいの?やった。」
「え?」
私は嬉しそうに離婚届けにサインをした。筆圧も強く、迷いのない署名だ。
「これで晴れて自由ね。本当にありがとう。」
「ちょっと待て。なんでそんなに嬉しそうなんだよ。」
彼の顔から血の気が引いていく。予想外の反応に完全に動揺しているようだ。
「だって、ずっと離婚したかったもの。でもあなたから言い出してくれて助かったわ。」
「嘘だろ?お前、俺のことが好きだったはずじゃ。」
「昔はね。でも今は違うの。むしろ感謝しているわ。」
私は離婚届けを封筒に入れ、鞄にしまった。明日にでも役所に提出するつもりだ。
「待てよ。話が違う。」
「何が違うの?離婚したいって言ったのはあなたでしょ。」
信吾は茫然と立ち尽くしていた。自分の思い通りにならない現実に、頭が追いついていないようだ。
「じゃあ、私は仕事があるから。元気でね。」
私は颯爽と社長室を出ていった。背後で信吾が何か叫んでいたが、もう聞く必要はない。
離婚届けを提出してから数日後、私は義父の法律事務所に向かった。都心の高層ビル最上階にある事務所は、重厚感のある内装で統一されている。会議室にはすでに義父の明さんが書類を広げて待っていた。彼の表情はいつもの温厚なものとは違い、毅然とした弁護士の顔になっている。
「マキさん、今日は財産分与について話し合いましょう。」
「はい、お願いします。」
しばらくすると、ドアが勢いよく開いた。信吾が不機嫌そうな顔で入ってくる。
「なんだよ。こんなところに呼び出して。」
「座りなさい。大事な話がある。」
信吾はしぶしぶ椅子に腰を下ろした。まだこの重大さに気づいていないようだ。私は冷静に手元の書類を確認する。
「それでは、財産分与について説明します。」
「財産分与?何それ?」
彼の無知さに、私は内心呆れた。離婚について何も調べていなかったらしい。
「離婚する際、婚姻期間中に築いた財産を夫婦で分け合うことです。」
「はあ。俺たちに共有財産なんてないだろう。」
明さんはゆっくりと書類をめくった。その一枚一枚が、信吾の運命を左右することになる。
「信吾、信吾が受け取った退職金6000万円も財産分与の対象になる。」
「はあ?冗談だろ。」
信吾の顔からみるみる血の気が引いていく。彼は慌てて立ち上がり、机を叩いた。
「退職金は俺のものだ。お前には関係ないだろう。」
「関係あるわよ。婚姻期間中の財産だもの。」
信吾は私を睨みつけた。その目には怒りと焦りが混在している。
「信吾、落ち着きなさい。法律の話をしているんだ。」
「だって、俺が働いて稼いだ金だぞ。」
明さんはため息をついた。息子の愚かさに、親として失望しているようだ。
「退職金も、夫婦の協力で形成された財産と見なされるんだ。」
「協力?マキが何を協力したって言うんだよ。」
私は静かに口を開いた。感情を抑え、事実だけを淡々と述べる。
「あなたが会社をサボっている間、私が謝罪して回ったわ。あなたの失敗の後始末もした。」
「それとこれとは関係ないだろう。」
「大いに関係ある。妻の内助の功があってこそ、夫は仕事を続けられるんだ。」
信吾は顔面蒼白になった。椅子に崩れ落ちるように座り、頭を抱える。
「嘘だ。そんなの聞いてない。」
「知らなかったでは済まされない。これが法律だ。」
私は書類を取り出し、信吾の前に置いた。そこには財産分与の詳細な計算が記されている。
「退職金の半分、3000万円を請求させていただきます。」
「3000万?ふざけるな。」
彼の叫び声が会議室に響いた。しかし、私も義父も動じない。
「これは一般的な計算方法だ。むしろ少ない方だと思うが。」
「少ない?冗談じゃない。」
信吾の額には大粒の汗が浮かんでいた。頭の中では必死に計算をしているのだろう。
「どうしたの?顔色が悪いわよ。」
「うるさい。考えさせろ。」
彼は震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。何かを確認しているようだが、その表情はますます曇っていく。
「何か問題でもあるのか?」
「いや、その……ちょっと待ってくれ。」
私には彼が何を恐れているのか分かっていた。きっともう退職金を使い込んでしまったのだろう。案の定、信吾は口ごもりながら言った。
「実は……もう一部使っちゃって。」
「使った?何に使ったんだ?」
信吾は観念したように肩を落とした。その姿は、先ほどまでの威勢の良さが嘘のようだ。
「フェラーリを買ったんだ。現金で。」
「フェラーリ?」
「ああ。4000万円のやつ。」
会議室に重い沈黙が流れた。義父は眉間にしわを寄せ、深いため息をついた。
「4000万円も使ったのか。」
「だって、もう全額俺のものだと思ってたんだよ。」
彼の言い訳はあまりにも幼稚だった。私は呆れながらも冷静さを保つ。
「残りは2000万円しかないってこと?」
「いや、その他にも少し買って……」
「他にも?一体いくら残っているんだ?」
信吾は顔を伏せたまま、ぼそぼそと答えた。彼の声はかすかで、泣くような小ささだった。
「1500万くらい。」
「たった数日で4500万円も使ったの?」
「時計とかスーツとか、必要なものを買っただけだ。」
「必要なもの」という言葉に、私は失笑した。高級車に高級時計が、本当に必要だったのだろうか。
信吾は本当に愚かだ。
「父さん、助けてくれよ。」
信吾は突然、義父にすがりついた。まるで子供のように必死の形相で頼み込む。
「父さんが弁護士なんだから、なんとかしてくれるだろう。俺の弁護をしてくれよ。財産分与を減らす方法があるはずだ。」
義父は冷たい目で息子を見下ろした。その視線には一片の情もない。
「断る。」
「え?なんでだよ。親子だろ?」
「私はすでにマキさんの弁護を引き受けている。」
信吾の顔が絶望に歪んだ。最後の頼みの綱だった父親にも見放されたのだ。
「そんな……どうしてマキの味方をするんだ?」
「当然だろう。マキさんは正当な権利を主張しているだけだ。それに、信吾には何度も忠告したはずだ。」
「忠告って何だよ。」
「仕事を真面目にしろ。妻を大切にしろと。」
信吾は歯ぎしりをした。悔しさと怒りで顔を真っ赤にしている。
「だからって、実の息子を見捨てるのか?」
「見捨てたのは信吾の方だ。私の忠告を全て無視したじゃないか。」
義父の言葉は冷静だが的確だった。信吾は反論できず、うつむくだけだ。
「信吾、自分で選んだ道の結果を受け入れなさい。」
「でも、金がないんだよ。どうすればいいんだ?」
「フェラーリを売却すれば、ある程度は穴埋めできるだろう。」
「せっかく買った車を売るなんて。」
彼の未練がましい態度に、私は呆れた。まだ現実を受け入れられないらしい。
「それとも、分割払いで支払ってもらうことも可能よ。」
「分割?」
「ええ。でも、利息はつけさせてもらうわ。」
信吾は頭を抱えた。どちらを選んでも、大きな損失は避けられない。
「信吾、別の弁護士を探した方がいい。私からの助言はこれが最後だ。」
「父さん……」
「もう『父さん』と呼ぶな。君とは親子の縁を切る。」
義父の決定的な言葉に、信吾は凍りついた。勘当に続いて、完全な絶縁を宣言されたのだ。信吾は力なくだらりとしている。その姿は敗北者そのものだった。
「じゃあ、俺はもう帰らせてもらうよ。」
そう言ってこの場を去ろうとする信吾を、私は呼び止める。
「待ちなさい。」
「なんだよ。財産分与だけで終わりだろ。」
「いいえ、まだ続きがあるわ。」
信吾は嫌な予感がしたのか、顔を引きつらせた。私は新しい書類を取り出し、机の上に広げる。
「実は、あなたが離婚を切り出した本当の理由を知ってるの。」
「何のことだ?」
彼は動揺を隠そうとしたが、明らかに挙動不審だった。目が泳ぎ、額には汗が浮かんでいる。
「大森里絵さん。という女性をご存知よね。」
「し、知らない。誰だそれ?」
「嘘をつくな。証拠があるんだろ、マキさん。」
私は写真を取り出した。信吾と若い女性が親密に寄り添う姿が映っている。
「彼女は地下アイドルをしている24歳の女性ね。」
「そ、それがどうした?」
「あなたと不倫関係にあることも把握しているわ。」
信吾の顔から完全に血の気が失せた。まさか証拠を掴まれているとは思わなかったのだろう。
「マキさんは探偵を雇って、君の行動を調査していたんだ。」
「探偵だと?」
私は探偵からの報告書を開いた。そこには信吾と里絵の関係が克明に記録されている。
「高級ホテルでのデート、プレゼントの購入履歴。全て記録があるわ。それに、彼女との不法行為は慰謝料請求の対象になるの。」
「そ、それはプライバシーの侵害だろう。」
信吾が喚くが、すかさず義父が割って入る。
「不貞行為の証拠集めは、正当な権利の範囲内だ。」
私は冷静に次の書類を取り出した。
「それから、里絵さんについての詳細な調査結果だ。大森里絵、本名はリエ。月収は10万円程度。」
「それが何だって言うんだ?」
「彼女があなたに近づいた理由は、お金目当てだったようね。」
信吾は言葉を失った。まさか愛人の素性まで調べられているとは、予想外だったらしい。
「SNSでの発言も興味深いわ。『カモゲット』って自慢していたそうよ。」
「嘘だ。」
「本当よ。スクリーンショットもあるから、見る?」
信吾は首を横に振った。もはや言い逃れができないことを悟ったようだ。
「浮気の件でも、慰謝料を請求させていただきます。」
「慰謝料?いくらだ?」
「300万円。相場を考慮した金額よ。」
信吾は椅子から転げ落ちそうになった。財産分与に加えて、さらなる支払いが発生するとは思わなかったのだろう。
「これも当然の請求だ。不貞行為は立派な離婚原因だからね。」
「300万なんて払えるわけない。」
「でも、里絵さんにも請求できるのよ。知ってた?」
信吾の顔が歪んだ。愛人にまで被害が及ぶことを恐れているようだ。
「ただ、あなたが全額支払うなら、彼女への請求は控えるわ。」
「脅迫か。」
「違う。これは交渉だ。」
未だに被害者面する信吾に、義父は冷静に言う。
私は次の爆弾を投下する準備をした。最も重要な書類を取り出す。
「それから、もう一つ重要な件があるの。」
「ま、まだあるのか。」
そう言う彼の声を無視して、私は会社の経理資料を広げた。
「あなた、会社の事業資金から800万円を使い込んでいたわよね。」
「何を言っているんだ?」
「経理部の調査で判明したの。架空の出張費や交際費での水増し請求。」
信吾は激しく首を振った。しかし、その動きは明らかに動揺している。
「全て証拠があるわ。領収書の偽造まで確認済みよ。」
「そ、それは……」
「業務上横領は、立派な犯罪だ。」
「犯罪?」
「ええ。刑事告訴することも可能なのよ。」
信吾の顔はもはや土色になっていた。震える手でテーブルの縁を掴んでいる。
「でも、全額返金してくれるなら、告訴は見送るわ。」
「800万も、どうやって……」
「それも分割で構わないわ。当然のことでしょ?」
信吾は頭を抱えて、うめき声をあげた。信吾は突然立ち上がり、トイレに駆け込んだ。吐き気を催したらしく、苦しそうな声が聞こえてくる。
「情けない奴だ。」
「お父さん……申し訳ありません。」
数分後、青白い顔で信吾が戻ってきた。シャツは汗でびっしりと濡れている。
「父さん、お願いだ。助けてくれ。」
「何度も言っただろう。私はマキさんの弁護士だ。」
「でも、俺は息子だろ。」
彼は必死に義父にすがりついた。みっともなく床に膝をついている。
「立ちなさい。見苦しい。」
「お願いします。もう一度だけチャンスを。」
義父は冷たく息子を見下ろした。そこにはもはや親子の情はない。
「君は知らないだろうが、私はマキさんの会社の顧問弁護士でもある。」
「顧問弁護士?」
「そうだ。つまり、会社の利益を守る立場にあるということだ。」
信吾は絶望的な表情を浮かべた。父親が完全に敵側についたことを理解したのだ。
「じゃあ、俺はどうすればいいんだ?」
「自分で弁護士を探しなさい。」
私と義父はそのまま会議室を後にした。信吾の嗚咽が廊下まで聞こえてくる。
その後、信吾は必死に弁護士を探し回った。しかし、名の知れた弁護士事務所はどこも彼の依頼を断った。理由は明白だった。勝ち目のない案件に関わりたくないのだ。
信吾は焦りと絶望の中、インターネットで弁護士を検索した。そして派手な広告を出している事務所を見つける。「離婚問題解決率99%」という謳い文句に飛びついたのだ。しかし、それがさらなる悪夢の始まりだった。
弁護士と名乗る男は、脂ぎった顔でニヤニヤと笑っている。
「なるほど。財産分与に慰謝料。横領の件もあるんですね。」
「なんとかしてくれますか?」
信吾は祈るように頼み込む。
「もちろんです。ただし、着手金が必要です。」
「着手金?いくらですか?」
弁護士は電卓を叩き、法外な金額を提示した。
「相談料だけで50万円。着手金は200万円だという。複雑な案件ですからね。でも私に任せれば大丈夫です。」
「本当に勝てますか?」
「勝てますよ。相手の要求を半分以下にできます。」
信吾は藁にもすがる思いで契約書にサインした。貯金を崩し、なんとか費用を工面する。この弁護士は悪質な悪徳弁護士だったのだ。
着手金を受け取ると、ほとんど仕事をしなくなった。電話をしても繋がらず、メールの返信もない。たまに連絡が取れても、「調査中です」の一点張りだ。裁判の準備も全く進まず、書類の作成すらまともにできていない。それどころか、追加費用を次々と請求してきた。
「証拠収集費用が必要です。100万円お願いします。」
「もう金がないんです。」
「じゃあ、これ以上は動けませんね。」
信吾は完全に騙されていることに気づいた。しかし、もう後戻りはできない。すでに多額の費用を支払ってしまったのだ。
私の方は、義父が完璧な準備を整えていた。証拠書類は整理され、法的な論点も明確だ。
「マキさん、必ず勝訴します。安心してください。」
「ありがとうございます。」
信吾は孤立無援の状態で裁判に臨むことになった。まともな弁護活動もなく、ただ時間だけが過ぎていく。悪徳弁護士に騙され、財産も失いつつある信吾。彼の転落はもはや止まることを知らなかった。
裁判の日、信吾は一人で法廷に現れた。悪徳弁護士は結局姿を見せなかった。
「被告代理人は欠席ですか?」
「すみません。連絡が取れなくて。」
一方、私の隣には義父がしっかりと座っている。完璧な準備で、淡々と主張を述べていく。
判決は予想通り、私の完全勝訴だった。
「財産分与として3000万円、慰謝料300万円、横領金800万円の返還を命じる。」
信吾は判決を震える手で受け取った。合計4100万円という法外な金額に、腰が抜けそうになっている。フェラーリを売却しても、到底足りない金額だった。しかもローンが残っているため、売却益はさらに少なくなる。悪徳弁護士に騙し取られた費用も戻ってこない。信吾は完全に行き詰まった。
結局、彼は自己破産を申請することになった。すると、金目当てだった里絵もあっさりと彼を捨てた。
「お金もない男なんて、最悪。じゃあね。」
「待ってくれ、リエ。」
彼女は振り返ることもなく、新しい標的を探しに行った。
一方、私は財産分与で得た資金を会社の発展に投資した。新たな設備投資と優秀な人材の確保により、事業は急成長を遂げる。特に海外進出プロジェクトが大成功を収めた。アジア各国に拠点を設立し、売上は前年比300%を達成する。
「社長、今期の利益は過去最高を更新しました。」
「みんなの頑張りのおかげよ。ボーナスも弾むわ。」
社員たちの士気も高く、会社は活気に満ちている。父が残してくれた会社を、さらに大きく成長させることができた。
それから2年後のある秋のこと。会社の正面玄関に、やつれた男が立っていた。
「すみません。どちら様ですか?」
「社長に合わせてくれ。俺は元夫だ。」
髪はボサボサで、服もすり切れている。かつての威厳はもはやどこにもない。私は仕方なく、応接室で彼と対面した。
「マキ、久しぶりだな。」
「何の用?」
信吾は卑屈な笑みを浮かべた。その表情には、かつての傲慢さは微塵もない。
「実は……もう一度やり直したいんだ。」
「は?」
「本当は俺がいなくて寂しかったんだろ。」
私は呆れて、思わず笑ってしまった。どこまで自分に都合が良く考えているのだろうか。
「あなた、本気で言っているの?」
「俺も反省したんだ。今度こそ真面目に働くから。」
私は無言で左手を差し出した。薬指にはダイヤモンドの指輪が輝いている。
「私、来月再婚するの。素敵な人と出会えたから。」
「嘘だろ?」
「本当よ。彼は誠実で優しくて、仕事も真面目な人。」
信吾は膝から崩れ落ちた。目の焦点は定まらず、口をパクパクと動かすばかりで、何も言葉になっていない。きっと、都合のいい未来を最後まで信じていたのだろう。最後の希望も断たれ、完全に打ちのめされている。
「もう二度と来ないで。次は警察を呼ぶから。」
静かに、けれどはっきりと告げる。これが私からの最後通告だ。私は迷いなく立ち上がり、応接室のドアを開け、信吾を追い出した。
「さよなら。」
結局、信吾は一人、古びたアパートで酒と借金にまみれた生活を送っているらしい。他人を見下し、甘え、利用するだけの人生の付けが、彼に帰ってきたというわけだ。
けれど、私はもう彼の人生に関心はない。哀れみすら感じない。明日からはまた、新しい生活が始まる。気を使わず、遠慮せず、愛されることを疑わずに過ごせる日々。やっと私にも、ちゃんと幸せになっていい人生が始まるのだ。私は過去を振り返ることなく、輝かしい未来へと歩いていく。



