高級フレンチレストランの個室で、結婚7周年の記念日ディナーのはずだった。なのに、夫の一哉は冷たい目で私を見据え、テーブルに離婚届を投げ出した。
「これに判を押せ。お前みたいな無能な女は、もう限界なんだよ」
その言葉で、優雅に流れていたはずのBGMさえ、耳障りな不協和音に変わった。私はただ、目の前の書類を見つめることしかできなかった。おかしい。彼の表情には、別れを告げる悲しみも罪悪感もない。どこか勝ち誇ったような、歪んだ笑みがあった。
「ねえ、聞いてるのか?早く判を押せよ」
彼は苛立たしげに指先でテーブルを叩いた。数週間前、彼がこの予約困難なレストランを手配してくれた時、私は心の底から喜んだ。最近のすれ違いを、彼なりに修復しようとしてくれているのだと信じていた。現実は、全く逆だった。
「お祝い?本気で言ってるのか?お前みたいな何もできない専業主婦と、これ以上一緒にいるメリットが俺にあると思うか?」
「私が何もできないって…家のことは全部私がやってきたじゃない。あなたのお母さんの介護の手伝いだって、毎日通って…」
「うるさい。そんなの誰にでもできる。俺は会社の次期社長なんだ。俺の妻になる女は、もっと花があって、俺のステータスを引き上げてくれるような女じゃなきゃダメなんだよ」
一哉は義父が経営する中堅商社、大通貿易の取締役だ。結婚当初は優しかった。だが、役職が上がるにつれ、彼の態度は傲慢になっていった。
「実はな、もう新しい相手がいるんだ。取引先の社長の娘だよ。お前とは育ちも教養も天と地ほど違う本物のお嬢様だ。彼女と結婚すれば、会社の業績もさらに飛躍する。親父も大賛成してくれてる」
義両親も、それを公認しているという。私は頭が真っ白になった。7年間、義母の嫌味に耐え、無理な要求に笑顔で応えてきた。それでも、いつか本当の家族として認めてもらえると信じていた。だが、彼らにとって私は、都合の良い家政婦以下の存在だったのだ。
「慰謝料なら払ってやる。どうせお前の実家は油まみれの街工場で、貯金なんてないんだろう。さっさと判を押せ。彼女が俺の帰りを待ってるんだ」
そして、彼は最も残酷な言葉を吐いた。
「お前は本当に愚かな女だな。結婚して7年、子供の一人も産めない役立たずのくせに。俺に捨てられたら、お前なんてただのゴミ同然だぞ」
子供に恵まれなかったのは、私の責任ではない。病院で検査を受けた結果、問題があったのは彼の方だった。しかし、彼はその事実を絶対に認めようとせず、全て私のせいにしてきた。彼の言葉を聞いた瞬間、私の中の最後の温かい感情は消え去った。
「分かったわ。判を押せばいいのね」
私は震えを押し殺し、ペンを手に取り、離婚届の妻の欄に自分の名前を書き、判を押した。瞬間、彼は勝ち誇ったように書類を奪い取った。
「は、これでやっと自由だ。明日の朝一番で役所に出してやるよ」彼は高笑いし、私を粗末に扱った。
私はハンドバッグから静かにスマートフォンを取り出し、ある人物に電話をかけた。呼び出し音が静かな個室に響く。
「父様、私です。ええ、終わりました。彼は今、離婚届を受け取ったところです」
その瞬間、一哉の笑い声が止まった。しかし、すぐにまた鼻で笑った。
「なんだ、今の芝居は?お前の貧乏な親父に泣きついてるのか?笑わせるなよ。あんなボロ工場の親父に何ができるっていうんだ」
電話の向こうから、低く落ち着いた父の声が聞こえた。「そうか。よく決断したな、美咲。今まで本当によく耐えた。もう十分だ。あとはこちらで全て引き受ける。明日の朝一番で動く」
通話を切り、私は席を立った。一哉はまだ嘲るように言った。「帝国物産との婚約発表が明日あるんだ。お前みたいな貧乏神が消えてくれて清々するよ」
彼は知らない。私の父が興した会社が、今や世界中に展開する巨大企業グループ「神崎ホールディングス」であることを。そして、私がその創業者の一人娘であることを。
7年間、私は自分の正体を隠し、普通の家庭の温かさを求めて耐えてきた。だが、それはただの幻想だった。彼らは私を、何も持たない貧乏な女だと見下し続けた。
私はため息をつき、財布から一万円札を数枚テーブルに置いた。「これで足りるわね。じゃあ、さようなら」
レストランを出ると、迎えの車が待っていた。運転手が慌てて降りてきて、深く一礼しながら後部座席のドアを開ける。
「お嬢様、お迎えに上がりました。会長がお待ちです」
翌朝、私は大通貿易の本社ビルへ向かった。義父から、亡き母の形見の指輪を返して欲しければ来いと、一方的な呼び出しを受けたのだ。社長室に入ると、そこには義両親、一哉、そして彼の新しい婚約者らしき派手な若い女がいた。彼女は帝国物産の社長令嬢、レナというらしい。
「ああ、本当に来たのね。この貧乏臭い女。指輪を返して欲しければ、まずはこれにサインしなさい」
義父がテーブルに滑らせてきたのは、分厚い制約書だった。慰謝料や財産分与の放棄、そして今後一切の情報漏洩を禁じる内容。つまり、私を無一文で追い出し、会社の不正について口を封じるためのものだった。
私は拒否した。すると、レナが優雅な仕草で立ち上がり、私に近づいてきた。「初めまして、美咲さん。あなたが一哉さんを縛りつけていた可哀想な奥様ね。かわいそうだから、最後に最高のニュースを教えてあげるわ。私のお腹の中には、もう一哉さんの赤ちゃんがいるのよ」
その言葉に、義両親たちは歓喜の声をあげた。一哉も照れ臭そうに笑っている。しかし、私は衝撃を受けていた。なぜなら、結婚3年目に彼の精密検査を受けた結果、一哉は完全に生殖能力がないと診断されていたからだ。
つまり、彼女のお腹の子は、絶対に一哉の子ではない。私は、彼の「優秀な遺伝子」という言葉に込み上げてくる笑いを必死に抑えながら、ただ静かに彼らを見つめていた。
その後もレナは私の母の形見の指輪をゴミ箱に投げ捨てた。私の中の静かな怒りは、ついに臨界点に達した。
「一哉さん、最後に一つだけ言っておきます。このレナさんのお腹の子、本当にあなたの子だと信じているんですか?」
私はそう言い放った。その瞬間、一哉の顔から笑みが消え、青ざめて、すぐに真っ赤になった。彼は隠し続けてきたコンプレックスを突かれたのだ。激昂した彼が私に殴りかかろうとした、まさにその時だった。
社長室のドアが壊れんばかりの勢いで開け放たれた。顔面を蒼白にさせた秘書が飛び込んできた。
「社長、大変です!東京第一銀行の頭取と、神崎ホールディングスの役員の方々が突然お見えになりました!」
一哉も義両親も、一瞬にして凍りついた。私は心の中で静かにカウントダウンを始めた。さあ、地獄の幕が開く。
社長室に入ってきたのは、初老の銀行頭取と、鋭い目つきの男たち。彼らこそ、神崎ホールディングスの最高幹部たちだった。義父は慌ててへりくだったが、彼らは挨拶に答えず、冷ややかな視線を部屋に向けた。義父は私を指差した。
「お、申し訳ございません!今すぐこの薄汚い女をつまみ出しますので!」一哉は私の腕を乱暴に掴んだ。「てめえ、邪魔だ!さっさと出て行け!」
その時、それまで沈黙を守っていた銀行頭取が静かに、そして恐ろしいほどの威厳を込めて口を開いた。
「その方から、今すぐ汚い手を離せ」
そして、神崎グループの幹部たちが一斉に動き、一哉たちを突き飛ばした。その後、彼らは私に向かって、床に額がつくほどの勢いで深々と頭を下げた。
「お嬢様、お助けするのが遅くなり、誠に申し訳ございません」
その場にいた全員が、自分の耳を疑った。一哉は口をパクパクさせながら、私を見ている。
私は静かに口を開いた。「私の父は、小さな町工場から世界的な企業を作り上げたの。結婚の挨拶の時、あなたたちは古い工場の写真だけを見せられて、私のことを油まみれの貧乏な女だと思い込んだ。父は、あなたたちが肩書きやお金で人を見下す人間かどうか、試していたのよ」
「そして、見事に罠にかかったというわけね」
さらに続けた。「大通貿易がここ数年で急成長したのは、彼の営業センスじゃない。私が父に頼んで、神崎グループからの大型案件を下請けに回してあげていたからよ」
その告白に、一哉は頭を抱えた。義母は「嘘よ!」と叫んだが、一喝されて黙るしかなかった。ところが、まだ空気を読めない女が一人いた。レナだ。
「ちょっと!何様のつもり?あんたが神崎の令嬢だろうが関係ないわ。私は帝国物産の社長令嬢よ。今すぐ父に電話して、あなたたち全員潰してやる!」
彼女が電話をかけると、電話の向こうから血を吐くような父親の絶叫が聞こえてきた。
「レナ!終わった!帝国物産は今日で完全に倒産だ!神崎グループから全ての取引を打ち切られた!」
レナの手からスマートフォンが滑り落ちた。義父は白目を向いてソファに倒れ込み、一哉は震え始めた。
そして、私は最後の一撃を加えた。
「一哉さん、あなた、レナさんのお腹の子が本当に自分の子だと思っているの?残念だけど、あなた自身に生殖能力はないのよ。あなたを病院に行かせたのは私。診断結果は『完全な生殖不能』だったわ」
一哉は激昂し、私に掴みかかろうとした。しかし、その時、私は「あなたに現実を教えるために、今日はもう一人特別なお客様を呼んであるの」と言い、部屋の隅にいた青年を呼んだ。彼は一哉の部下、田中だった。
田中は震える声で告白した。「課長…レナさんのお腹の子は…僕の子です」
大画面には、レナと田中の生々しいメッセージやホテルの写真が映し出された。一哉は絶望の表情を浮かべ、レナは開き直って罵り合いを始めた。
そこに刑事たちが現れ、一哉と義父を業務上横領と詐欺の容疑で逮捕した。そして、レナは会社の資金を不正送金した容疑で逮捕された。
さらに、追い打ちをかけるように、私は宣言した。
「この大通貿易という会社は、今日この瞬間をもって、神崎ホールディングスの完全子会社になりました。そして、その筆頭株主であり、新しいオーナー社長に就任するのは、私よ」
義父が知らないうちに、彼の担保に入っていた株は、私の個人資産によって買い集められていたのだ。
「それから、一哉さん。あなたが今朝まで住んでいたあのマンション、先月、管理会社ごと私が買い取ったわ。今夜からあなたのご両親はホームレスね」
義母は失神した。一哉はその場に崩れ落ちた。
私はこの物語を、新しく生まれ変わった会社の社長室で終える。かつて私を侮辱した者たちは、皆、自らの過ちの代償を払った。私はもう、誰にも止められない。これは、神崎美咲という一人の女性が、真の自由を手に入れた物語の始まりなのだ。



