イヤホンから流れてきた夫の声に、私は手に持っていた麦茶のグラスを静かに見つめた。冷たくなったそのグラスの中で、氷がかちりと音を立てた。『あの女、いつ追い出そうか。もう顔を見るのもうんざりだ』。長年連れ添った妻に向ける言葉ではなかった。そして、次の声に私は背筋が凍った。『そうね。でも慎重にやらないと、慰謝料なんて払いたくないでしょう』。その声の主は、高校時代から三十年間、どんな悩みも打ち明けてきた唯一の親友、直子だった。私は怒鳴ることも、泣き叫ぶこともできなかった。ただ、震える手を握りしめながら、窓の外に広がる夕暮れを見つめていた。
『母さんも直子ちゃんのこと、すっかり気に入ってるしな。あんな貧乏臭い奴より、実家が資産家の直子さんの方がずっといいって、毎日言ってるよ』。『本当に優しいわよね。私、絶対にいいお嫁さんになるわ』。楽しげな二人の笑い声が、耳の奥で響き続けた。私はこの時、悲しみよりも先に、あまりの滑稽さに背筋が冷たくなるのを感じた。夫と義母は、直子の実家が資産家だと信じ込んでいる。そして私を家から追い出し、直子を迎え入れようとしている。けれど、彼らは一つだけ大きな勘違いをしていた。私はただの哀れな妻ではない。
私の手元には、小さなボイスレコーダーと一緒に、一枚の紙が置かれている。銀行の個室で受け取った、厳重な封印がされた書類。宝くじ高額当選証明書。そこに記された金額は、九億円だった。夫も、義母も、そして親友の直子も、この時まだ誰も知らなかった。自分たちが嘲笑っている女が、彼らの想像もつかないほどの財力を手に入れていることを。
事の始まりは、ほんの数日前のことだった。私は買い物のついでに買った宝くじが、九億円に当選していることに気づいた。手が震え、呼吸が乱れた。すぐに夫に電話をしようとした。一緒に喜びを分かち合い、これからの老後の不安が全て消えたことを伝えたかった。義母との同居生活も、これで少しは楽になるかもしれない。そんな甘い期待を抱いていた。けれど、電話をかける直前に、私はふと手を止めた。最近の夫の態度がずっと気になっていたからだ。休日の度にゴルフだと称して出かける夫。帰ってくると、どこか甘い香水の匂いがした。直子も、なぜか最近になって機嫌が良く、私への嫌味が減っていた。まるで、私という存在がもうすぐ消えると分かっているかのような、奇妙な余裕を感じていた。
もし夫が浮気をしていたら。その疑念が、九億円という大金を前にして、私の心を冷たくした。もし本当のことを話せば、夫は喜んで私を抱きしめるだろう。けれど、それは私を愛しているからではなく、お金を愛しているからだ。私は確信が欲しかった。夫が本当に私を裏切っていないか。もし裏切っているなら、九億円の存在を明かすわけにはいかない。そこで私は、間違っても親友の直子に相談してしまったのだ。『最近、浩司の帰りが遅くて、浮気してないか不安なの』。カフェで向かい合った直子は、真剣な顔になって話を聞いてくれた。『じゃあ、私が少し誘惑して試してあげようか。あなたのためなら、悪者になってもいいわよ』。直子はそう言って、いたずらっぽくウインクをした。私はその提案に甘えてしまった。直子なら、夫も心を許さないだろうと高を括っていた。そして、それは大きな間違いだった。
直子からの報告は、数日後の電話であった。『まゆみ、安心して。浩司さん、食事には来てくれたけど、私の誘いには全然乗らなかったわ。妻を愛してるからって、きっぱり断られたのよ』。電話の向こうの声は、とても明るく、優しさに満ちていた。私はほっと胸を撫で下ろした。夫を疑った自分を恥じ、九億円の当選を打ち明けようと決心した。しかし、その夜。私は夫が脱ぎ捨てたスーツのポケットから、見慣れないレシートを見つけてしまった。高級なフレンチレストランの領収書。日付は、直子が夫を試してくれたと言っていた日だった。金額は、五万円を超えていた。ただの食事なら、こんな金額にはならない。さらに、領収書の裏には、口紅の跡がくっきりとついていた。直子がいつもつけている、ローズピンクの口紅と同じ色だった。私の心に、冷たい影が落ちた。もしかして、直子は嘘をついているのではないか。私はその疑いを晴らすため、夫の車の助手席の下に、小さなボイスレコーダーを忍ばせた。自分がひどい妻だという罪悪感はあった。ただ、安心したかっただけなのだ。
そして翌日の夜、回収したレコーダーから聞こえてきたのが、あの冒頭の会話だった。彼らは、私が直子に誘惑を頼んだことすら、笑い話のネタにしていた。『まゆみったら、バカよね。私に夫を誘惑してなんて言うんだから。本当、笑いをこらえるのが大変だったよ』。『俺たちが三年前から付き合ってることも知らないで』。三年前。その言葉が、私の胸を鋭くえぐった。出来心ではない。彼らは三年間も、私を騙し続けていたのだ。私の親友の顔をして、私の夫の顔をして。私はレコーダーのスイッチを切った。部屋の中は、静寂に包まれていた。キッチンからは、夕食のカレーの匂いがする。私は彼らのために、毎日食事を作ってきた。義母の嫌みに耐え、夫の機嫌を取り、家族を守ってきたつもりだった。その全てが、踏みにじられていた。悲しみより先に、静かな怒りが全身を満たしていくのを感じた。テーブルの上の、宝くじ高額当選証明書。私はそれを丁寧に折りたたみ、財布の奥深くへとしまった。誰にも言わない。絶対に。彼らが私をゴミのように捨てようとしているのなら、私は彼らを、その身と欲の海に沈めてやろう。慰謝料も財産分与も、一円も渡さない。完全に地獄に突き落とすまで、私は黙っていると決めた。
玄関のドアが開く音がした。夫が帰ってきたのだ。『おい、まゆみ、いるか』。いつもより少し甘えた声だった。私は深呼吸をして立ち上がった。顔の筋肉を動かし、いつも通りの従順な妻の表情を作る。『お帰りなさい』。リビングに入ってきた夫は、スーツの上着をソファに放り投げた。その後ろから、義母が足音を立てて歩いてきた。二人とも、どこかそわそわしている。隠しきれない優越感が、顔に張り付いていた。『まゆみさん、ちょっと座りなさい』。義母が顎でテーブルの前の椅子をしゃくった。夫は腕を組み、私を見下ろしている。『大事な話があるんだ』。夫はそう言って、内ポケットから一枚の紙を取り出した。テーブルの上に置かれたそれを見て、私は心の中で静かに微笑んだ。緑色の縁取りがされた紙。離婚届だった。夫の欄には、すでに署名と判が押されていた。ついに彼らが動いたのだ。私から全てを奪い、新しい人生を始めるつもりなのでしょう。けれど、この時の夫も義母もまだ気づいていない。自分たちが今、自ら地獄への扉を開けたことに。
『まゆみさん、これ、どういうことですか?』私はできるだけ声を震わせ、動揺しているように見せかけた。戸惑い、傷つき、すがる哀れな妻。彼らが望んでいる私の姿を、忠実に演じなければならない。夫は腕を組んだまま、ため息をついた。『どういうことも何もない。そのままの意味だ。もうお前とは夫婦としてやっていけない』。『どうして急に?私、何か悪いことをしましたか?』『急じゃないさ』。夫は冷たく言い放った。『前からずっと考えてたんだ。お前は気が利かないし、母さんへの態度も冷たい。この家にはもう、お前の居場所はないんだよ』。横から義母が口を挟んできた。『そうよ。あなたは長男の嫁としての自覚が足りなすぎるわ。浩司は毎日必死で働いているのに、あなたは家でゴロゴロしているだけじゃないの。私だってもう限界なのよ』。私が家でゴロゴロしている?義母の言葉に、私は心の中で嘲笑した。毎朝早起きして義母の朝食を作り、夫の弁当を用意し、広い家の中を掃除し、パートにも出ていた。このパート代さえ、義母のお小遣いとして月に数万円は消えていた。けれど、ここで反論しても意味はない。『そんな…お義母さん、私はずっとこの家のために…』私は視線を落とし、両手で膝を強く握りしめた。『言い訳は聞きたくない』。夫が声を荒げた。『とにかく、俺の決意は固い。さっさとサインしてくれ』。『財産分与とか、そういう面倒なことはなしよ。慰謝料なんて払う筋合いはないんだからね』。義母が、まるで汚いものでも見るような目で私を睨みつけた。慰謝料なし、財産分与なし。身一つで追い出すつもりだということは、レコーダーの会話で分かっていた。彼らにとって私は、一日も早く処分したい粗大ゴミなのでしょう。『少し考えさせてください。…すぐには、受け入れられません』。私は顔を覆い、か細い声で絞り出した。『情けないな』。夫は舌打ちをし、離婚届をテーブルに叩きつけた。『一週間だ。一週間以内にサインしろ。それ以上は待たないからな』。夫はそう言い捨てると、寝室へと消えていった。義母も、『さっさと出て行ってくれれば、すっきりするわ』とつぶやきながら、自分の部屋へ戻っていった。
一人残されたリビングで、私はテーブルの上の離婚届を見つめた。夫の欄の署名には、少しの迷いも感じられない。私はゆっくりと顔を上げた。涙は一滴も出なかった。胸の奥にあるのは、冷え切った氷のような感情だった。二十八年間、私はこの男のために生きてきた。彼が仕事で失敗して落ち込んでいた時も、義母が勝手に借金を作って騒ぎを起こした時も、私は必死に彼を支え、家族を守ってきた。それが、こんな紙切れ一枚で終わる。しかも、三年間も親友と不倫をした挙げ句、私を無一文で放り出そうとしている。私は立ち上がり、自分のバッグから財布を取り出した。中に入っている、折りたたまれた紙の感触を確かめる。宝くじ高額当選証明書、九億円。もし私が今日、この紙を見せていたら、どうなっていただろうか?夫はすぐさま離婚届を破り捨て、私に土下座して謝っただろう。義母も手のひらを返し、『本当はあなたのことが大好きだったのよ』とへつらったはずだ。けれど、そんな偽りの愛情にも、価値はない。私は九億円を、彼らに一円も渡さない。このお金は、これまでの私の苦労に対する、神様からの退職金だ。
翌日、私はいつものように朝食の準備をした。夫と義母は、私が泣きはらした顔で起きてくると思っていたのだろう。私が無表情で味噌汁をよそっているのを見て、少し気まずそうに目をそらした。『一週間だからな』。夫は出がけに、念を押すように言った。私は小さく頷いた。夫が出勤し、義母がデイサービスへ出かけた後、私はすぐに行動を開始した。まずは証拠集めだ。ボイスレコーダーの声だけでは、証拠として弱い。直子が夫と不倫関係にあるという、確実な証拠が必要だった。私は夫の書斎に入った。普段は『俺の領域に入るな』と禁じられている部屋だ。机の引き出しは鍵がかかっていたが、夫がいつも鍵を隠す場所を知っていた。本棚の裏側にある、小さな箱の中だ。鍵を開け、引き出しの中を探る。給与明細、年金手帳、古い手紙。そして、一番奥から見慣れない銀行の通帳が出てきた。私に生活費を渡している口座とは別の、夫の個人口座のようだ。表紙をめくり、最近の取引履歴を確認した。そこには、毎月のように振り込まれている記録があった。名義は、佐々木直子。直子の口座からだ。金額は、三万円の時もあれば、十万円の時もあった。なぜ直子が夫にお金を振り込んでいるのか。さらに、引き落としの記録を見て、私の手は止まった。クレジットカードサービスからの引き落とし額が、毎月三十万円を超えていたのだ。夫の給料から考えて、異常な額だ。私は急いでスマホを取り出し、通帳のページを全て写真に撮った。直子から夫への振り込み。そして、夫の異常なカード出費。この二つが意味するものは何なのか。直子の実家は資産家だと、夫は言っていた。夫も、直子の金目当てで付き合っている部分があるのだろう。けれど、資産家の娘が、なぜ中途半端な金額を毎月振り込んでいるのか。三十万ものカードの支払いは、何に使われているのか。疑念が渦巻く中、私のスマホが鳴った。画面には、直子の文字。私は深呼吸をして、電話に出た。『もしもし。まゆみ?元気?』明るく弾むような声だった。昨日、夫と『いつ追い出そうか』と笑っていた女の声だ。『ええ、元気よ。どうしたの?』私はできるだけ普段通りの声を装った。『最近会ってないから、ランチでもどうかなと思って。まゆみ、最近浩司さんとどう?まだ怪しい感じ?』腹の底が煮えくり返る思いだった。自分が不倫相手のくせに、よくこんなことが言えるものだ。けれど、私は一呼吸置いて、弱々しく言った。『それが…昨日、浩司さんから離婚届を渡されたの』。電話の向こうで、一瞬の沈黙があった。おそらく直子は心の中で、ガッツポーズをしたことだろう。『え、嘘でしょう?浩司さんが、どうして?』驚いたふりをする直子の演技に、私は吐き気がした。『分からないわ。ただ、慰謝料も財産分与もなしで、すぐに出ていけって』。『ひどい。浩司さん。そんなこと言うなんて』。直子は同調するような声を上げた。『でも、まゆみ。そんな不利な条件でサインしちゃダメよ。絶対に戦うべきよ』。その言葉に、私は確信した。彼女は私を焚きつけているのだ。私が抵抗すればするほど、夫は私を疎ましく思い、離婚への意思を固くする。そして泥沼の争いになれば、私は疲れ果てて、最後には何もかも諦めて家を出るだろう。彼女はそんな筋書きを描いているに違いない。『でも…私、もう疲れたの』。私は泣きそうな声を作った。『争う気力なんてないわ。もう浩司さんの言う通りにしようかと思って』。『え、本当に?慰謝料ゼロで?』直子の声が、思わず高くなった。隠しきれない喜びが漏れていた。『うん。…ねえ、直子』。私はわざとらしくため息をついた。『私、少し実家に帰ろうと思うの。頭を冷やしたいから。だから、しばらく浩司さんのこと、直子に様子を見ててもらえないかな』。『ええ、私が?』『うん。直子なら浩司さんも警戒しないと思うし、私がいなくなった後、彼がどうしているか、少しだけ見ておいて欲しいの。お願いできる?』これは罠だった。私が家を開ければ、二人は必ず油断する。私の目を気にすることなく、堂々と会うようになるだろう。証拠を集める絶好のチャンスだ。『分かったわ。まゆみの頼みだもの。私、浩司さんの様子、しっかり見張っておくからね』。『ありがとう。直子だけが頼りよ』。電話を切った後、私は吐き気を催し、トイレに駆け込んだ。自分の親友だった女に、こんな演技をしなければならない自分が、情けなくて悔しかった。けれど、涙を流している暇はない。
翌日、私は実家に帰ると置き手紙を残し、家を出た。向かった先は、実家ではない。駅前にある、こじんまりとしたビジネスホテルだ。ここを拠点にして、私は彼らの真実を全て暴き出す。そして、その日の午後。私はもう一つの行動を起こした。夫の通帳にあった、あの奇妙な入出金記録。その謎を解くために、私は一人の人物に会いに行った。それは、夫と同じ会社に務めている、昔からの知り合いの男性だった。彼の口から語られた事実は、私の想像をはるかに超えるおぞましいものだった。
『浩司のやつ、会社で少しお金を借りて回ってるんだよ』。待ち合わせた駅前の古い喫茶店。夫の同期であり、家族ぐるみの付き合いがあった誠さんは、コーヒーカップを両手で包み込むようにして言った。誠さんは昔から口が固く、真面目な人だ。だからこそ、私は彼を頼った。『浩司さんが、お金を借りている?』私は思わず聞き返した。夫の会社は中堅だが、給料は決して悪くない。家のローンもボーナス払いで計画的に返済している。借金をする理由など、どこにもないはずだった。誠さんは周囲を少し気にしながら、声を潜めた。『奥さんには言わない約束だったんだが…浩司、最近やけに羽振りが良くてね。高級な時計を買ったり、外車を見るためにディーラーに通ったりしてるんだ』。『外車…』『ああ。それで、資金繰りが少し厳しいからって、俺にも十万円貸してくれって言ってきてね。断ったんだけど、他の何人かからは借りてるみたいだ』。私は昨夜見た夫の通帳を思い出した。毎月三十万円以上のカードの引き落とし。そして、直子からの謎の入金。『理由は言っていましたか?』私が尋ねると、誠さんはため息をついた。『近々、今の会社をやめて独立するって豪語してるんだよ。しかも、共同経営者になる予定の女性が、大企業の社長令嬢で資産家だって』。『資産家の女性…』『その女性の資産の凍結が解除されたら、数千万円が手に入るとか、そんなことを言ってたな』。私は息を呑んだ。資産家の女性。間違いなく、直子のことだ。直子の実家は、確かに昔は少し裕福だった。地元の小さな工場を経営していたはずだ。けれど、大企業の社長令嬢などという話は、完全な嘘だ。『その女性のために、今は浩司が立て替えているらしい。口座が凍結されているから、一時的な生活費や独立のための準備金を、浩司のカードで払わせているんだとか。いずれ倍になって帰ってくるから、安い投資だと笑っていたよ』。点と点が、少しずつ繋がり始めた。直子は資産家を装い、夫からお金を巻き上げているのだ。通帳にあった数万円の入金は、おそらく夫を信用させるための餌のようなものだろう。夫は直子が本物の資産家だと信じ込み、自分のクレジットカードを彼女に使わせている。そしていずれ手に入る直子の資産を当てにして、私を捨て、新しい人生を始めようとしている。なんて愚かで滑稽な男なのだろう。長年連れ添った妻を捨て、親友の嘘に踊らされているなんて。『奥さん、浩司は何かトラブルに巻き込まれているんじゃないですか?』誠さんが心配そうに私を見た。『ええ、少し。でも、大丈夫です。私が何とかしますから』私は頭を下げ、喫茶店を出た。外は冷たい風が吹いていた。私の心は、その風よりも冷え切っていた。夫への未練など、すでに一かけらも残っていない。
ビジネスホテルに戻った私は、ベッドに腰を下ろした。スマホを取り出し、夫の車に仕掛けたGPSアプリを開く。画面の上の小さな赤い点は、夫の会社ではなく、見知らぬマンションを指していた。おそらく、直子が住んでいる部屋だろう。私は昨夜回収したボイスレコーダーの代わりに、もう一つの小さな録音機を、夫のバッグの底に縫い込んでいた。その日の夜、ホテルで一人、私はイヤホンを耳に押し込んだ。バッグの中の録音機が拾った音声が、リアルタイムで私の耳に届く。『浩司さん、まゆみ、本当に実家に帰ったの?』直子の甘えたような声だった。『ああ、置き手紙があったからな。俺の条件を飲んで、家を出る準備をしてるんだろう。これでやっと、俺たちも堂々と会えるな』。夫の嬉しそうな声。グラスが触れ合う、軽やかな音が聞こえた。『お義母様も喜んでたわ。まゆみがいなくなったから。明日から、私が家事をお手伝いに行くことになったのよ』。『本当か?母さんも、直子が来てくれたら大助かりだよ。まゆみの作った飯は、味が薄くてまずかったからな』。私は目を閉じた。私が毎日、夫の高血圧を気遣って塩分を控えていたことを『まずい』と笑っている。その事実が、静かに私の心から感情を奪っていく。『ところで、直子。あの、お父さんの口座の凍結は、いつ頃解除されそうなんだ?』夫の声が、少しだけ遠慮がちに変わった。『もうすぐよ。弁護士の先生が動いてくれているから。ごめんね、浩司さん。私のカードが使えないせいで、色々立て替えてもらっちゃって』。『いや、いいんだ。俺たちの将来のための投資だからな。ただ、少しカードの引き落としがきつくて、同僚にも少し借りてる状態なんだ』。夫の言葉に、直子は軽く笑った。『大丈夫よ。来月には、お父さんの遺産が全部私に入ってくるから。そうしたら、浩司さんの借金なんて一瞬で返せるし、会社もすぐに立ち上げられるわ』。遺産?私は眉をひそめた。直子のお父さんは、十年前に亡くなっている。当時の葬儀には、私も参列した。小さな工場は倒産し、借金だけが残ったと、直子自身が泣きながら私に語っていたはずだ。それなのに、遺産?凍結された口座?全てが出まかせだった。直子は夫を完全に騙し切っているのだ。そして夫も、自分の欲のせいで、その見え透いた嘘に気づかないふりをしている。『そうか。なら安心だな。早くまゆみと縁を切って、直子と一緒になりたいよ』。『私もよ。浩司さん』。イヤホンから聞こえる二人の笑い声が、ひどく不快に感じられた。
翌朝、私のスマホに、義母から電話がかかってきた。『ちょっと、いつまで実家にいるつもりなの?』電話に出るなり、義母のヒステリックな声が響いた。『あなたがいないせいで、家のことが何も回らないじゃないの。さっさと帰ってきて、自分の荷物をまとめなさいよ』。『すみません、お義母さん。もう少しだけ…』私が弱々しく答えていると、電話の奥から別の声が聞こえた。『お義母様、この古いお茶碗、捨ててしまってもいいですか?』直子の声だった。『ああ、直子さん、いいわよ。そんな安物は捨ててちょうだい。直子さんが選んでくれた、素敵な食器があるものね』。義母の声が、一瞬で猫撫で声に変わった。私のいない家で、直子がすでに嫁の顔をして入り込んでいる。私の大切にしていたものを、次々と捨てている。『お義母さん、今、直子がいるんですか?』私はわざと尋ねた。『ええ、そうよ。直子さんが、あなたの代わりに私の世話をしてくれているの。実家が資産家なのに、本当に気立てのいいお嬢さんだわ。あなたとは大違いね』。義母は勝ち誇ったように言った。『そうですか。…あの、来週の日曜日は、親族の集まりがあるのよ。その時に、浩司が親戚みんなに直子さんを紹介するって言ってるわ。だから、あなたはそれまでに荷物を全部まとめて、さっさと出ていきなさい。慰謝料の話なんて出したら、承知しないからね』。一方的に電話が切れた。ツーツーという電子音が、静かなホテルの部屋に響く。親族の集まり、来週の日曜日。それは、義父の七回忌の法事のことだ。親戚が集まるその席で、私を追い出し、直子を新しい妻として紹介する。夫と義母は、そんな計画を立てているようだ。親戚たちの前で私に恥をかかせ、文句を言わさず離婚届にサインさせるつもりなのだろう。私はベッドの上に放り出したスマホを見つめた。彼らは完全に勝ったつもりでいる。私が何も知らず、ただ泣き寝入りして家を出ていくと信じて疑わない。けれど、私は黙って引き下がるつもりはない。直子が資産家ではないという証拠。彼女が夫からお金を騙し取っているという事実。それを完全に裏付けるものがあったら、彼らは一瞬で地獄に突き落とされる。そのためには、直子の本当の生活を調べる必要があった。
私はホテルを出て、電車に乗った。向かったのは、直子が住んでいると言っていた住所ではなく、彼女の実家があった場所だ。工場はとっくに人手に渡っているはずだが、何か手がかりがあるかもしれない。そう思って、私は古い記憶を頼りに、その町を訪れた。駅からバスに乗り、寂れた商店街を抜ける。かつて直子の家の工場があった場所には、すでに新しいパートが建っていた。私はその隣にある、古いタバコ屋に目を向けた。番をしているのは、年の頃の老婦人だった。昔からここで店をやっている人なら、何か知っているかもしれない。私は買い物をするふりをして、老婦人に声をかけた。『あの、すみません。昔、この向かいに佐々木さんの工場がありましたよね。娘さんの直子さんと、高校の同級生だったんですが』。老婦人は私の顔を見て、しわくちゃの目を細めた。『ああ、佐々木さんのところの直子ちゃんね。知ってるわよ。かわいそうにね』。『かわいそう、ですか?』老婦人は、周囲を気にするように声を落とした。そして、その口から語られた言葉は、私の予想をはるかに超える絶望的な事実だった。
『遺産なんて、あるわけないじゃないの』。老婦人は、呆れたようにため息をついた。私は、握りしめたままの缶のお茶を置いて、その言葉に静かに耳を傾けた。『佐々木さんのところね、お父さんが亡くなった時に、大きな借金だけが残ったのよ。工場も人手に渡って、直子ちゃんはその借金を押し付けられたの。夜逃げみたいにいなくなってから、もう何年も帰ってきてないわ』。老婦人は、声をさらに潜めた。『この前もね、黒いスーツを着た、感じの悪い男たちが、直子ちゃんを探しに来たのよ。どこかでまたお金を借りて、逃げているんじゃないかね。本当に、かわいそうな子だよ』。大企業の社長令嬢?凍結された口座?数千万円の遺産?直子が夫に語っていた来歴は、全てが完全な嘘だった。彼女は実家が資産家なのではなく、多額の借金に追われる身だったのだ。その借金の返済や、自分の生活費を稼ぐために、夫を利用している。夫は『資産家の令嬢』という言葉に目がくらみ、自ら進んでお金を貢いでいるのだ。
私は老婦人に深くお礼を言い、教えてもらった住所へ向かった。そこは、直子が親戚のふりをして郵便物を受け取っているという、隣町のアパートだった。電車とバスを乗り継いでたどり着いたその場所は、夫が想像しているような高級マンションなどではなかった。外壁の塗装がぽろぽろと剥がれ落ち、鉄の階段が赤く錆びついた、今にも取り壊されそうな古いアパートだ。一階の一番奥の部屋。表札の場所には、マジックで『佐々木』と書かれたガムテープが乱暴に貼られていた。郵便受けからは、大量の封筒がはみ出している。私は近づき、その封筒の文字を確認した。ほとんどが赤い字で、『督促状』や『最終警告』と書かれたものだった。消費者金融からの手紙もあった。私はスマホを取り出し、その郵便受けを写真に収めた。シャッター音が、静かな廊下に響いた。これが、夫が信奉している女の本当の姿だ。この写真一枚で、夫の夢は無惨に打ち砕かれるだろう。
その足で、私は久しぶりに自宅へ向かった。日曜日に行われる義父の七回忌の法事に出席するための喪服と、私の実印を取りに帰る必要があったからだ。夫は会社へ行き、義母はデイサービスに行っている時間帯を選んだ。誰にも会わずに、必要なものだけを持ち出すつもりだった。玄関の鍵を開け、中に入った瞬間、私は思わず息を止めた。家の中は、ひどく散らかっていた。『直子さんが家事をしてくれている』と義母は自慢していたが、全て嘘だ。キッチンのシンクには、油で汚れたお皿やグラスが山積みになっていた。リビングのテーブルには、夫と直子が飲んだと思われる空のワインボトル。ゴミ箱からは、デリバリーのピザの箱が溢れ、嫌な匂いを放っている。私が毎日雑巾がけをして磨き上げていた家は、たった数日で薄汚れた空間に変わっていた。私はため息をつき、寝室のクローゼットへ向かった。奥にしまってある喪服を取り出し、次に貴重品を入れている引き出しを開けた。自分の実印と通帳を確認するためだ。その時、隣に置いてある夫のアクセサリーケースに、目が止まった。蓋が、だらしなく開いたままになっている。中を覗き込んで、私は眉をひそめた。ケースの中は、空っぽだったのだ。夫が大切にしていた高級腕時計も、指輪もない。そして、何より私の胸を締めつけたのは、一つのネクタイピンが消えていたことだった。これは、私の父が、結婚の挨拶に来た夫に送ってくれたものだ。『浩司君、娘を頼むよ。これは私のお守りだ』。そう言って父が渡した金色のネクタイピン。夫は『一生大切にします』と父に深く頭を下げていた。ケースの隅に、丸められた小さな紙切れが落ちていた。私はそれを拾い上げ、皺を伸ばして広げた。近所の質屋のレシートだった。日付はほんの三日前。品物の欄には、時計とともに『金製ネクタイピン』と書かれている。買取金額は、合わせて十万円だった。私の指が、小刻みに震え始めた。悲しいのではない。あまりの怒りに、血液が冷たくなるのを感じた。直子の嘘を信じ込み、彼女の借金を返すために、夫は父の形見まで質に入れたのだ。私の大切な思い出を、たった十万円という薄汚い金に変えて、直子に渡した。怒鳴りたい衝動を、私は必死に飲み込んだ。この男に情けをかける必要など、微塵もない。彼らは私の心を、土足で踏みにじった。だから私も、彼らの人生を完全に終わらせる。
私はこの質屋のレシートをスマホで撮影し、元の場所に戻した。その時だった。ガチャリと、玄関のドアが開く音がした。『ああ、お義母さんの相手も疲れるわね』。聞き慣れた、だるそうな直子の声だった。どうやら義母のデイサービスを見送った後、抜け駆けして戻ってきたようだ。私は音を立てないように、寝室のドアの影に立った。足音がリビングへと近づいてくる。『あれ、鍵、開いてたっけ?』直子がリビングに入り、そのまま寝室の方へ顔を向けた。目が合った。直子は一瞬、びくっと肩を震わせた。しかし、すぐに余裕のある笑顔を作った。『あら、まゆみ。実家に帰っていたんじゃないの?』まるでこの家の主人のような、見下すような口調だった。私はゆっくりと寝室から出た。『法事の着替えを取りに来ただけよ。直子こそ、どうしてここに?』『お義母様に頼まれたのよ。まゆみが家事を放り出して出ていったから、私が代わりにやってあげてるの。浩司さんも、私の手料理を喜んでくれてるわ』。シンクに積まれたデリバリーのゴミを見ながら、私は心の中で冷たく笑った。ふと、直子の胸元に光るものが見えた。美しい真珠のネックレス。それは、私が法事のためにつけようと思っていた、亡き母から譲り受けた大切なものだった。勝手に私の引き出しを物色し、自分のものにしている。『返して』と叫びたくなるのを、私はぐっとこらえた。ここで騒ぎを起こせば、彼らを油断させるという計画が崩れてしまう。あのネックレスは、後で必ず、高い代償とともに返させます。『そう。お義母さんと浩司さんを、よろしくね』。私は感情を消した声でそう言うと、喪服の入ったバッグを持ち、玄関へ向かった。背後で、直子が鼻で笑う音が聞こえた。『安心して。浩司さんのことは、私がちゃんと面倒を見るから。あなたみたいに、貧乏臭くて愛想の効かない妻とは違うのよ』。私は振り返らなかった。直子は完全に自分が勝者だと思い込んでいる。けれど彼女は気づいていなかった。私が持ち出したバッグの中には、彼らを地獄に突き落とすための、全ての証拠がすでに揃い始めていることに。ドアを閉め、私は古びたアパートの階段を降りた。背中越しに聞こえた直子の笑い声が、いつまでも耳の奥にこびりついている。私の母が残した大切な真珠のネックレス。それを盗み出し、平然と身につけていた親友。父の形見を、わずかな金のために質に入れた夫。彼らは私の過去も、家族との温かい思い出も、全てを汚していく。けれど、今の私には立ち止まって泣く時間はない。
私はまっすぐ、駅前の大きな銀行へと向かった。夫が私の名義のわずかな貯金まで狙う前に、全てを安全な場所へ移すためだ。そして何より、私には確認しなければならないものがあった。銀行の個室に通され、私は新しい通帳を受け取った。行員の女性が、少し緊張した面持ちで深くお辞儀をした。私は一人になり、ゆっくりと通帳のページを開いた。そこには、九億円という数字が、しっかりと刻まれていた。何度もゼロが並んだその数字を指でなぞると、冷たかった指先に、少しだけ熱が戻るのを感じた。これだけの圧倒的な数字が、私を守ってくれる。夫や直子がどんなに私を見下し、無一文で追い出そうとしても、私にはこの盾がある。通帳をバッグの奥深くにしまい、私はホテルへ戻った。
そして、ついに決戦の日曜日がやってきた。義父の七回忌の法事は、夫の実家近くの古いお寺で行われた。私はホテルで黒い喪服に着替え、少し早めにお寺の控え室へ向かった。襖を開けて部屋に入ると、すでに親族の何人かが集まっていた。私が足を踏み入れた瞬間、部屋の空気が一瞬で凍りついた。誰も私に挨拶をしない。ひそひそと、不自然な囁き声だけが波のように広がっていった。『本当に来たのね。もうすぐ家を追い出されるんでしょう』。親族たちは皆、夫と義母から嘘の噂を聞かされているようだった。私が家事を放棄して実家に帰り、夫を困らせている悪い妻だという噂だ。私は視線を床に落とし、部屋の一番隅にある席に静かに座った。しばらくして、廊下から大きな笑い声が聞こえてきた。襖が開き、夫と義母が部屋に入ってきた。そして、その後ろには、ぴったりと寄り添うように、直子が立っていた。親族だけの法事の席に、赤の他人である直子が堂々と参加している。直子の胸元には、あの日と同じ、私の母の真珠のネックレスが光っていた。喪服も、どこか高級なブランド物のように見える。おそらくそれも、夫のカードで買ったのだろう。夫は部屋の中を見渡し、私の姿を見つけると、一瞬だけ、嘲るように笑った。
夫は親族たちの中央に進み出ると、少し自慢げに声を張り上げた。『皆さん、今日は集まってくれてありがとうございます。実は、今日、皆さんに紹介したい人がいます』。夫が直子の背中に手を添え、前へ押し出した。『こちらは、佐々木直子さんです。俺の、新しいパートナーになる人です』。親族たちの間に、どよめきが走った。まだ離婚届すら提出されていないのに、親族の集まりで不倫相手を紹介したのだ。異常な光景だった。さっそく義母が、満面の笑みで親族たちに説明を始めた。『直子さんはね、とても立派な資産家のお嬢さんなのよ。気立ても良くて、私のことも、本当の母親みたいに大切にしてくれるの』。義母の言葉に、親族たちの目の色が変わった。『資産家』という言葉の魔力だ。数人の叔母たちが、手のひらを返したように直子にすり寄り始めた。『まあ、本当に素敵なお嬢さん。浩司君にはもったいないくらいね』。直子は恥ずかしそうに手を当てながら、親族たちに上品に頭を下げていた。私はただ黙って、その狂った光景を見ていた。膝の上に置いた手が、小刻みに震える。すると、義母が突然、私の方を振り返った。親族全員の冷たい視線が、一斉に私に突き刺さった。義母は、汚い虫でも見るような目で私を見下ろし、こう言った。『まゆみさん、あなたにはもう、この家に何の価値もないのよ。直子さんの足元にも及ばないわ』。長い罵倒ではなかった。けれど、その短い一言は、鋭い刃物のように私の胸の奥を深くえぐった。二十八年間、私がこの家のために尽くしてきた時間は、何だったのだろうか?義母が体を壊して入院した時、毎日着替えを持って通ったのは私だ。夫が仕事で失敗して酒に溺れた時、夜通し話を聞いて支えたのも私だ。その全ての苦労が、『何の価値もない』という一言で消された。私は言い返すことができなかった。ただ、畳の上に視線を落とし、唇を強く噛みしめた。血が滲むほど噛みしめて、涙をこらえた。ここで泣き叫べば、彼らを喜ばせるだけだ。私は深く深呼吸をして、顔を上げた。夫は完全に勝ったつもりで、私を見下ろしている。直子も、哀れむような悲しい表情を作りながら、その目は勝利に満ちていた。親族の中には、夫の叔父である誠さんのように、気まずそうに目をそらす者もいたが、誰も私を弁護しようとはしなかった。
読経が始まり、本堂でお経が読まれている間も、私はじっと沈黙を守り続けた。背中を丸め、哀れな妻を演じ続けた。彼らを油断させるためには、この屈辱にも耐えなければならない。しかし、読経の終わりに、小さな異変が生まれた。お斎が終わり、親族たちが順番にご仏前を渡す時間になった時のことだ。直子が、とても分厚い封筒を取り出し、得意げに義母に手渡した。『お義母様、ご仏前のために、少しですが、使ってください』。義母は目を見開き、『まあ、こんなにたくさん。さすが直子さんね』と大げさに喜んだ。親族たちも、その封筒の分厚さに、感嘆のため息を漏らした。しかし、私は、直子がバッグから封筒を取り出した瞬間、あるものを見てしまった。直子の、少し開いたままの黒いバッグの中。そこに、見覚えのある茶色い革の財布が入っていた。これは、夫がいつも持ち歩いている財布だ。なぜ、夫の財布が、直子のバッグの中にあるのか?答えは、一つしかない。あの分厚いご仏前の中身は、直子の実家のお金ではない。夫の財布から抜き取ったお金か、あるいは夫のカードでキャッシングしたお金だ。資産家を気取りながら、実際は夫に借金をさせ、その金で義母にご機嫌取りをしているだけなのだ。夫はそんなことにも気づかず、直子がすごいだろうと、晴れがましく親族を見渡している。その滑稽さに、私は心の中で静かに笑った。彼らは、自分たちで自分の首を絞めているのだ。私は、次に進むべき時が来たと確信した。
法事が無事に終わり、親族たちがお寺の駐車場へと向かう中、私は一人で本堂の裏手に回り、誰にも見られないようにスマホを取り出した。これ以上の証拠集めは必要ない。直子が夫の財布を持っていたこと。それは、彼女が夫の資金を完全に食い物にしている証拠だ。そろそろ、静かな反撃を始める時だ。私は連絡先の中から、ある人物の電話番号をタップした。それは、数日前に相談の予約を入れていた、頼りになる弁護士の田中先生だ。『もしもし。お世話になります。佐藤です』。電話の向こうから、落ち着いた低い声が聞こえてきた。私は彼に、これまでの経緯と、録音データ、写真などの証拠が揃ったことを伝えた。『分かりました。戦えますよ』。田中先生の力強い言葉に、私の肩の力が少しだけ抜けた。そして、最後に、私はもう一つ大切なことを伝えた。『先生。実は、私、宝くじで九億円、当選しているんです』。私がその言葉を口にした瞬間、いつも冷静な田中先生が、息を飲む音が、電話の向こうからはっきりと聞こえた。『奥さん、それは、今後の作戦が大きく変わりますよ』。先生の言葉の意味を確かめるため、翌日の朝、私は田中先生の法律事務所を訪れた。
静かで落ち着いた応接室。私はテーブルの上に、これまでに集めた全ての証拠を並べた。夫の車に仕掛けたボイスレコーダーの音声データ。直子の本当の住まいである、古びたアパートの写真。私の父の形見だったネクタイピンが売られた、質屋のレシート。そして、夫がすでに署名と押印を済ませた、緑色の離婚届だ。田中先生は、一つ一つの資料にじっくりと目を通した。最後に離婚届を手に取ると、小さく息をついた。『浩司さんは、ご丁寧に、特記事項の欄に“慰謝料なし、財産分与なし”と、自筆で書いていますね』。『はい。私を無一文で追い出すために、彼自身が書いたものです』。『なるほど。本来、宝くじの当選金は、個人の特有財産と見なされることが多く、離婚時の財産分与の対象にはなりにくいものです。しかし、裁判になれば、相手が無理な主張をしてきて、解決まで長引くリスクがありました』。田中先生は離婚届をテーブルに置き、私をまっすぐに見た。『しかし、この離婚届があれば、話は別です。彼自身が“財産分与は一切しない”と明記し、自ら署名している。さらに、彼らが不倫をしている確実な証拠もある。もし後になって当選金の存在を知り、彼が“やっぱり財産を半分よこせ”と騒ぎ立てても、法的に彼を守るものは何もありません』。私は膝の上で、両手を強く握りしめた。夫は、私を落とし入れようとして書いたその言葉で、自分自身の退路を完全に断っていたのだ。自分がどれほど愚かなミスを犯したか、彼はまだ気づいていない。『この、直子という女性は、非常に悪質ですね』。田中先生は古びたアパートの写真を見ながら、眉をひそめた。『資産家の令嬢を装い、浩司さんから多額の金銭を引き出している。典型的な、詐欺師の手口です。浩司さんは彼女の嘘を信じ込み、あなたのお父様の大切な形見まで質に入れて、彼女にお金を貢いでいる』。父のネクタイピンのことを言われ、私の胸の奥がちくりと痛んだ。けれど、涙は出ない。悲しみはすでに乾き切り、冷たい決断だけが残されていた。『先生。私は、彼らに、一円も渡すつもりはありません』。私は、自分の声が驚くほど冷静であることに気づいていた。『私を家から追い出し、別の女性を迎え入れようとしたこと。そのために、私の家族との思い出まで売り飛ばしたこと。全てに、きちんと落とし前をつけてもらいます』。『分かりました。法的な準備は、私が全て整えます』。田中先生は力強く頷いてくれた。『ただし、彼らが自ら離婚届を提出するように仕向けるのが一番です。彼らが完全に勝ったと思い込んでいるうちに、手続きを終わらせてしまいましょう』。
事務所を出た後、私はまっすぐに銀行へと向かった。大きな反撃に出る前に、一つだけやっておかなければならないことがあったからだ。これまで、あの家の水道、電気、ガスの光熱費は、全て私の口座から引き落とされていた。義母が毎日通っている、高額なデイサービスの費用も同じだ。夫は『俺の給料は家のローンと貯金に回す』と言って、自分の口座を私には触らせなかった。そのため、日々の生活費の多くは、私がスーパーのパートで稼いだわずかなお金から支払われていたのだ。私は窓口の椅子に座り、行員の女性に自分の通帳と印鑑を差し出した。『この口座に設定されている、自動振替を、全て停止してください』。行員の女性は、少し驚いたような顔をした。『全てですか?光熱費や、施設の支払いも含まれていますが、よろしいですか?支払いが滞ると、サービスが停止されてしまう可能性があります』。『はい。構いません。私は、もうその家には住んでいませんので』。私が静かにそう答えると、行員の女性は少し気の毒そうな目を向け、手続きを進めてくれた。書類にサインをしながら、私の心は驚くほど軽く、晴れやかだった。これが、私からの小さな反撃の始まりだ。私は家を追い出され、『何の価値もない』と蔑まれた。ならば、私がこれまでどれだけあの家を支えてきたか、身をもって知ってもらえばいい。資産家の直子がいるのなら、彼女の豊富な資金で支払えばいいだけの話だ。
夕方、私はビジネスホテルに戻った。コンビニで買った小さなお弁当をテーブルに広げ、温かいお茶を入れる。一人で食べる質素な食事だが、義母の嫌みを聞きながら食べる豪華な夕食よりも、ずっと美味しく感じられた。夜の八時を過ぎた頃、テーブルの上に置いていた私のスマホが激しく震え始めた。画面には、夫の文字が表示されている。LINEのメッセージが、立て続けに送られてきた。『おい、どういうことだ?デイサービスから俺の携帯に電話がかかってきたぞ。支払いの引き落としがエラーになってるって』。『今月の電気代も、振込用紙が届いた。お前、口座の金を引き上げたのか?』画面の向こうで、夫が顔を真っ赤にして怒鳴り散らしている姿が目に浮かぶ。いつもなら、私はすぐに謝りの電話を入れ、銀行へ走っていただろう。けれど、今の私は、ただ冷たい画面を見つめるだけだ。私はゆっくりと文字を打ち込んだ。『私はもう、その家には何の価値もない人間です。離婚届にサインをして出ていけと言われた以上、私が支払う義務はありません。これからの生活費は、資産家である直子さんにお願いしてください。彼女なら、すぐに支払ってくれるはずです』。送信ボタンを押した。数秒後、メッセージの横に『既読』の文字がついた。それきり、夫からの返信は途絶えた。怒りに震えているのか。それとも、直子に支払いを頼もうと、必死に言い訳を考えているのか。どちらにせよ、彼が窮地に追い詰められたことだけは確かだ。胸の奥に、小さな満足感が広がった。当たり前だと思っていた日常が、少しずつ崩れていく。彼らは今、その足音が近づいていることに、ようやく気づき始めたはずだ。
私がスマホをテーブルに置こうとした、その時だった。再び画面が光り、着信音が鳴った。今度はLINEではなく、電話だ。画面に表示されたのは、見知らぬ電話番号。少し迷いましたが、私は通話ボタンを押して、耳に当てた。『もしもし。まゆみさんですか?』聞こえてきたのは、低く、少しためらうような、年配の男性の声だった。『はい。佐藤ですが、どちら様でしょうか?』『夜分に申し訳ない。浩司の叔父の、誠です。先日の法事の時は、何も声をかけられなくて、本当にすまなかった』。法事の席で、ただ一人だけ気まずそうに目をそらしていた、誠おじさんだった。親族の中でも温厚で、昔から私のことを気遣ってくれている人だ。『誠おじさん。いえ、気にしないでください。それより、どうされたんですか?』電話の向こうで、誠おじさんが息を飲む音が聞こえた。『実はな。どうしても、まゆみさんに伝えておかなければならないことがあって、電話したんだ』。誠おじさんの声は、ひどく緊張していた。『法事の席で、浩司が紹介した、あの女性。直子さんと言ったね』。『はい。佐々木直子です』。『やはりそうか。まゆみさん、落ち着いて聞いてほしい。あの女性は、浩司が思っているような人間じゃない』。私は息を飲んだ。『あの女性の顔を見て、私はずっと、どこかで会ったことがある、と考えていたんだ。そして、思い出した。十年ほど前、私の知り合いの会社を計画的に倒産に追い込み、社長から数千万円を騙し取って逃げた女がいる。その時の女の顔と、あの直子という女性の顔が、全く同じなんだよ』。部屋の空気が、一瞬で冷たく張り詰めた。ただの借金まみれの嘘つきだと思っていた親友。しかし、彼女の背後には、もっと深く、黒い闇が広がっていたのだ。『彼女は、昔、別の名前を名乗っていたはずだ。まゆみさん、浩司は今、とんでもない相手に利用されている』。点と点が、はっきりと繋がった夜だった。彼らは、自分たちで引き寄せた破滅に向かって、全速力で走っている。
『計画倒産?数千万円を騙し取った?』誠おじさんの言葉が、ホテルの静かな部屋に重く響いた。私はスマホを握る手に、ぐっと力を込めた。『ああ。あの女は当時、別の偽名を使って、社長に取り入り、会社の資金を勝手に動かしていたんだ。社長が気づいた時には手遅れで、会社は多額の借金を抱えて倒産した。女は姿を消した。あの顔、あの声、絶対に間違いない』。誠おじさんの声は、恐怖と怒りで震えていた。私は背筋に、氷のような冷たいものが走るのを感じた。直子は、ただの見栄っ張りな嘘つきではなかった。他人の人生に介入し、財産をしゃぶり尽くして破滅させる、プロの詐欺師だったのだ。そして今、その毒牙は、夫の浩司と、あの家全体に向けられている。『まゆみさん、すぐに浩司に真実を話して、目を覚まさせないと。あの家も、土地も、全てあの女に奪われてしまうぞ。浩司のやつ、完全に騙されている』。誠おじさんは、必死に訴えかけた。親族として、甥が破滅していくのを見過ごせないのだろう。けれど、私は静かに首を振った。電話越しでも、私の冷たい決意が、誠おじさんに伝わったはずだ。『誠おじさん、教えてくれて、本当にありがとうございます。でも、浩司さんに真実を話すつもりは、ありません』。『え?どうして?』『彼は、私を家から無一文で追い出すために、自ら離婚届を突きつけてきました。私の亡き父の形見まで質に入れて、あの女性に貢いでいるんです。彼が自分で選んだ道です。私は、もうあの人を助けません』。電話の向こうで、誠おじさんが息を飲む音がした。少しの沈黙の後。『…そうか。すまない。まゆみさんが、そこまで苦しんでいたとは、気づかなかった。浩司は、取り返しのつかないことをしたんだな』。深く悲しむ声が聞こえた。私は誠おじさんに再度お礼を言い、電話を切った。直子が詐欺師であるなら、残された時間は長くない。彼女は夫から限界までお金を絞り取った後、ある日必ず姿を消す。その前に、私と浩司の離婚を完全に成立させる必要があった。浩司が直子に騙されたと気づき、泣きついてくる前に、彼との縁を完全に切り捨てるのだ。
翌朝、私はバッグから一枚の紙を取り出した。あの、緑色の縁取りがされた離婚届だ。夫の欄には、すでに乱暴な筆致で署名と押印がされている。私はホテルの小さな机に向かい、ペンを握った。そして、自分の欄に、ゆっくりと名前を書き込んだ。手が震えることは、なかった。むしろ、名前を書くごとに、二十八年間の思い込みが、一つずつ外れていくような、不思議な解放感があった。印鑑を取り出し、赤い朱肉をつけて、しっかりと押す。特記事項に書かれた『慰謝料なし、財産分与なし』という、夫の文字をなぞるように見つめた。私を地獄に落とすはずだったこの言葉が、今は私と、九億円を完全に守る、最強の盾になる。宝くじの当選金は特有財産と見なされることが多いが、これで法的な隙も完全になくなった。
その日の午後、私はイヤホンを耳に押し込んだ。夫のバッグに仕掛けた録音機から、現在のあの家の様子を聞くためだ。光熱費の引き落としを止めたことで、彼らの生活はどうなっているのか。『クソっ、ガスまで止まりやがった。まゆみのやつ、本当に生活費の口座を空にしやがったんだ』。夫の苛立った怒鳴り声が聞こえてきた。『浩司、どうするのよ。これじゃあ、お風呂にも入れないし、ご飯も作れないじゃないの。デイサービスの支払いも、待ってもらっているのに』。義母の情けない声も続く。体面を何よりも気にする義母にとって、支払いが滞ることは、最大の屈辱だろう。そこに、直子の甘く優しい声が重なった。『浩司さん、お義母様、ごめんなさいね。私がいるのに、こんな苦労をかけてしまって』。『いいや、直子のせいじゃない。全部、まゆみの嫌がらせだ。あいつ、絶対に許さない』。夫はすぐに直子をかばった。『でもね、浩司さん。実は、今日、弁護士の先生から連絡があったの。お父さんの遺産の、凍結が、来週には解除されるって』。その言葉に、夫と義母の歓声が上がった。『本当か?直子!』『ええ。これ、その証明書よ。海外の銀行からの書類だから、英語なんだけど、ここにサインがあるでしょう』。紙が、かさかさとなる音が聞こえた。おそらく直子が、適当にパソコンで作った偽造書類を見せているのだろう。英語が読めない夫と義母は、それを見ただけで、完全に騙されている。『すごいわ、直子さん。これでやっと、あの貧乏臭いまゆみの顔を見なくて済むのね』。義母は、嬉しそうにはしゃいでいるようだ。ただ、直子の声が、とても申し訳なさそうに震え始めた。『…でも、解除の最終手続きの手数料として、あと二百万円だけ、必要なの。私のカードはまだ止められているし、どうしようかと思って…』。見えた罠だった。最後の大金を絞り取り、逃げるための準備だ。少しだけ、夫がためらう気配があった。『二百万か…。俺の貯金はもうないし、カードも限度額がいっぱいだぞ。会社の奴らにも、もうこれ以上は借りられない』。『そうよね。ごめんなさい。私、なんとか別の方法を考えるわ』。『ちょっと待ちなさい』。口を挟んだのは、義母だった。『浩司、この家を担保にして、銀行でお金を借りられないの?来週には遺産が入るんでしょう。数千万も入るなら、二百万なんて、すぐに返せるじゃないの』。私は、イヤホンの奥で、義母の恐ろしい強欲さに、寒気を覚えた。自分たちの老後の住まいすら、目先の女の嘘のために差し出そうというのですか。欲に目がくらんだ人間は、ここまで愚かになれるのか。『家を担保に…そうだな。俺名義の家だし、すぐに手続きできるかもしれない』。夫も、完全に直子の見えない資産に心を奪われていた。『本当にいいの?浩司さん、お義母様。私、一生かけて、お二人に恩返しするわ』。直子の涙声の裏にある、歪んだ笑顔が、はっきりと目に浮かんだ。『直子のためだ。明日、すぐに銀行へ行って、相談してくるよ』。この決意に満ちた声を聞きながら、私は冷たく微笑んだ。どうぞ、勝手に破滅への道を突き進んでいきなさい。家を担保にして借金を作れば、浩司の人生は完全に終わる。直子が遺産など持っていないと気づいた時には、彼には膨大な借金と、家を失う恐怖だけが残るのだ。
私は、書き上げた離婚届を、茶封筒に入れた。宛先は、市役所の戸籍課だ。浩司に渡して提出させるよりも、私が直接郵送した方が確実だ。私は封筒に切手を貼り、ホテルの部屋を出た。外は少し冷たい風が吹いていたが、私の足取りは、驚くほど軽やかだった。駅前の赤いポストの前に立ち、私はその封筒を、静かに投函した。『かしゃん』という、小さな音が響いた。それが、私の二十八年間の結婚生活が、完全に終わった音だった。これで、私は自由だ。彼らがこれからどんな地獄を見ようと、私には一切関係ない。しかし、この時の浩司はまだ知らなかった。明日、お金を借りるために向かった銀行の窓口で、彼が予想もしなかった事態が起きること。そして、彼が完璧だと思っていた計画が、音を立てて崩れ始めること。
翌朝、ホテルの窓から差し込む朝日で、私は目を覚ました。昨日、ポストに投函した離婚届は、今日の午前中には市役所に届き、正式に受理されるはずだ。コーヒーを入れながら、私はスマホの録音アプリを開いた。今日も、夫のバッグに仕掛けたレコーダーが、リアルタイムで音声を拾っている。『ああ、俺だ。今、銀行の待合室にいる』。夫の慌てた声が聞こえた。どうやら、直子に電話をしているようだ。『今から融資の相談だ。家の名義は俺だし、ローンも残り少ないから、二百万くらい、すぐに降りるさ』。『ありがとう、浩司さん。これで、私のお父さんの遺産が手に入るわ。全部、浩司さんのおかげよ』。直子の甘い声に、夫は得意げに笑っている。電話を切った後、今度は私のスマホが鳴った。画面には、夫の文字。私は通話ボタンを押した。『おい、まゆみ。お前、離婚届はどうした?さっさとサインして送れと言っただろう』。相変わらず、高圧的で横暴な態度だ。『ええ、もう送ったわ。手続きは、今にでも終わるはずよ』。私が静かに答えると、夫は少し驚いたようだったが、すぐに勝ち誇ったような笑い声をあげた。『そうか。案外素直だな。まあ、無一文で追い出されるんだ。慎ましいアパートでも探しておけ。俺はこれから、直子の何千万という遺産で、お前には想像もつかないような贅沢な暮らしをするんだ。絶対に、泣きついてくるなよ』。一方的に、電話が切れた。私は、くすっと笑ってしまった。本当に、滑稽な男だ。彼が贅沢な暮らしを夢見ているその場所が、すでに足元から崩れ落ちていることも知らずに。
再び、イヤホンから、銀行での音声が聞こえてきた。『佐藤様、お待たせいたしました。融資担当の山田です』。落ち着いた、銀行員の男性の声がした。夫は、自信満々に話し始めた。『家の権利書を持ってきました。担保にして、二百万円借りたいんです。すぐに返せるあてがあるので、手続きを急いでもらえますか?』『融資でございますか。では、まずは佐藤様の信用情報を確認させていただきますね』。しばらく、キーボードを叩く音だけが響いた。そして、担当者の声が、急に冷たく、事務的なものに変わった。『佐藤様。誠に申し上げにくいのですが、こちらの融資は、お受けすることができません』。『はあ?どうしてですか?持ち家ですよ。担保としては十分でしょう』。夫が声を荒げるのが分かった。『申し訳ございません。こちらをご覧ください』。紙が机の上に置かれる音がした。『佐藤様の現在の信用情報です。先月から、複数のクレジットカードの支払いが滞っております。さらに、消費者金融数社から、合計で三百万円の借り入れがございますね。これらは全て、限度額いっぱいで、返済が遅延している状態です』。夫が、息を飲む音が聞こえた。直子のために使っていたカードの支払いが滞っていたことは知っていたが、消費者金融から三百万も借りていたとは。直子に独立資金の準備などとせかされ、自分名義で借金を重ねていたのだろう。『このような多重債務で、かつ返済が滞っている状態では、家を担保にしても、審査を通すことは不可能です。むしろ、このままでは、ご自宅が差し押さえられる可能性もございます』。担当者の冷静な言葉が、夫の幻想を、木っ端微塵に打ち砕いた。『そ、そんなバカな!俺は来週には、数千万円が入るんだぞ!』夫の焦った声が、待合室に響いたが、担当者は『お引き取りください』と繰り返すだけだった。銀行を追い出された夫は、荒い息を吐きながら、直子に電話をかけた。『直子、ダメだった。銀行で金を貸してもらえなかった。クレジットカードや、消費者金融の借金が多すぎて、審査に落ちたんだ』。『え、嘘でしょう?浩司さん…』直子の声が、一瞬だけ、鋭く低くなった。計画が狂ったことへの苛立ちが、漏れたのだろう。『どうしよう、直子。俺、もう、どこからも金なんか…』『浩司さん、落ち着いて』。直子はすぐに、いつもの甘い声に戻った。『大丈夫よ。銀行がダメなら、別で借りればいいじゃない。私、少し審査が甘い金融会社を知ってるわ。そこなら、すぐに二百万円、貸してくれるはずよ。利息は少し高いかもしれないけど、来週遺産が入ったら、私がすぐに全額返してあげるから』。直子が提案したのは、いわゆる闇金、あるいはそれに近い悪徳業者だった。『で、でも、そんなところで借りたら…』『浩司さん、私を見捨てるの?二百万円払えなかったら、遺産は全部没収されちゃうのよ。そうしたら、私たちの結婚も、新しい会社も、全部、無駄になっちゃう』。直子が、泣きまねを始めた。『わ、分かった。借りる、借りるから、泣かないでくれ。お前の言う通り、来週には全額返せるんだから、何の問題もないよ』。夫は、完全に直子の穴の底へと落ちていった。自分の家が差し押さえられる危機にあることすら忘れ、見えない遺産という幻想に、溺れていった。
私はイヤホンを外し、深く息を吐いた。夫がどこで、どれだけ借金をしようと、私にはもう関係ない。ちょうどその時、私のスマホに、メールの通知が届いた。市役所に務めている、私の学生時代の友人からだ。事前に、離婚届が提出されたら連絡をくれるように頼んでおいたのだ。『まゆみ、おめでとう。手続きが終わったよ。正式に受理されたからね。これからは自由だよ。お疲れ様』。その短いメッセージを読んだ瞬間、私の肩から、二十八年分の重い荷物が、ふっと消え去るのを感じた。私はもう、佐藤まゆみではない。夫の借金も、義母の嫌みも、あの家のローンも、全ては私と無関係になった。私はバッグから通帳を取り出し、九億円の数字を、再び眺めた。このお金は、全て、私だけのものだ。裏切り者たちに、一円も渡ることなく、私は完全に彼らから切り離された。さて、残るは、真実の暴露だけだ。夫は今日、怪しい業者から二百万円を借りて、直子に渡すだろう。直子はそれを受け取った後、いつ姿を消すか。明日の夜は、夫と義母が親族を招いて、直子を正式な婚約者としてお披露目する食事会が予定されていた。そこで、全てを終わらせる。私は喪服を片付け、代わりに落ち着いた色のスーツを用意した。私の反撃の舞台は、もう整っている。
けれど、この時の直子はまだ気づいていなかった。彼女が完璧に騙しているつもりの相手の影に、彼女自身の過去を知る人物が迫っていることに。『ここに、実印を押してください』。イヤホンの奥から、低くしゃがれた男の声が聞こえた。私は、ホテルの窓際で、静かに目を閉じた。『はい。これでいいですか?』夫の声は、ひどくか細かった。裏社会の金融業者から、法定外の利息で二百万円を借りる契約。担保は、私たちの家だ。夫がその書類にサインし、実印を押した瞬間、それは彼が自分の人生を、完全に悪魔に売り渡した、静かな署名だった。『浩司さん、ありがとう』。その日の夕方。二百万円の札束の入った紙袋を渡された直子は、大げさに喜ぶ声をあげた。『これで、お父さんの遺産が確実に手に入るわ。全部、浩司さんのおかげよ』。『ああ。俺も、少し冷や汗をかいたよ。金利が、とんでもなく高くてね』。『大丈夫よ。来週には数千万円が入るんだから、利息ごと、すぐに返せるわ』。直子の甘い声に、夫はすっかりご満悦のようだった。『そうだな。明日の親族の食事会で、皆に正式にお前を紹介する。まゆみのやつがいない、清々した席で、俺たちの新しい門出を祝おう』。けれど、私は知っている。直子は、明日のお披露目会など、出るつもりはない。この二百万円を持って、今夜中にでも姿を消すつもりだ。遺産など、最初から存在しないのだから。彼女にとって夫は、もう金の切れ目が縁の切れ目だ。残された家族を捨てて、彼女は次の標的を探しに行くのだろう。しかし、私はそれを許さない。
翌日の午前中、私は田中先生の事務所にいた。応接には、昨日電話をくれた誠おじさんの姿もあった。誠おじさんの隣には、もう一人、白髪の初老の男性が座っていた。『まゆみさん。彼が、私が話していた知り合いの、木村さんだ』。誠おじさんが紹介してくれた。木村さんは、深い皺が刻まれた顔で、私に静かに頭を下げた。『…十年ぶりだな。林みいや、今は佐々木直子と名乗っているのか』。男性の言葉に、直子はビクッと肩を跳ねさせた。ガチガチと、歯のなる音が、私の立っている場所まで聞こえてきた。直子は後ずさりしようとしたが、和子さんがその腕を強く押さえつけ、逃げるのを許さない。『だ、誰ですか?私、あなたなんて知りません』。直子は震える声で、必死にごまかそうとした。しかし、男性は静かに首を振った。『忘れたとは言わせない。君に会社を潰され、妻を亡くした、私の顔を』。男性はそう言うと、持っていた古い茶封筒から、一枚の書類を取り出した。そして、それを、親族たちが囲むテーブルの中央、浩司の目の前に置いた。『私は、十年前に、この女に騙された、木村というものです』。木村さんは、親族たちに向かって、静かに頭を下げた。『この女は、資産家の令嬢などではありません。投資家の娘と偽って私に近づき、巧みな話術で通帳や実印を預かり、数千万円の会社資金を横領して、逃げた詐欺師です』。親族たちの間に、信じられないものを見るような空気が広がった。『詐欺師?じゃあ、資産家って話は、全部嘘だったの?』親族の数人が、囁き合った。浩司は、テーブルの上に置かれた書類を見つめた。そこには、十年前の、少し若い直子の顔写真が、はっきりと貼られていた。『嘘だ。そんなの嘘だ!』浩司が、狂ったように叫んだ。『直子、違うよな?お前は本当に資産家で、来週には、お父さんの遺産が数千万入ってくるんだろう?だから俺は、家を担保にしてまで…』浩司は、直子にすがりつくように、手を伸ばした。しかし、直子は浩司と目を合わせようとしない。ただ両手で顔を覆い、『違う、違う』と、壊れた機械のように繰り返すだけだった。その様子を見て、義母が顔を真っ赤にして立ち上がった。体面と見栄だけで生きてきた義母にとって、この状況は、絶対に認めたくない現実だ。『信じないわよ!直子さんは、私に素敵な真珠のネックレスや、高級なお肉をプレゼントしてくれたのよ。お金持ちに決まってるじゃない!』義母は、扇子を振り回し、木村さんを睨みつけた。『あなた、まゆみに雇われた役者でしょう。私たちを騙そうとしたって、無駄よ』。義母の滑稽な言い掛かりに、私は静かにため息をついた。
私は、一歩前に進み出ると、義母の顔をまっすぐに見つめた。『お義母さん。直子が身につけている、その真珠のネックレス。見覚えがありませんか?』私の言葉に、親族全員の視線が、直子の胸元に集中した。直子は慌てて、ネックレスを両手で隠そうとした。『それは、私の亡くなった母の形見です。私が家を開けた隙に、彼女が勝手に、私の引き出しから盗み出したものです』。『え…』義母は目を見開き、直子の胸元と、私の顔を交互に見た。『それに、あなたたちが今食べている、その豪華な食事も。浩司さんのクレジットカードで支払われたものでしょう。直子は、自分の財布から、一円も出していません。お義母さんに渡した分厚いご仏前も、浩司さんの財布から、抜き取ったお金です』。私は、残酷な真実を、一つ一つ、静かに並べていった。浩司はハッとして、自分の上着のポケットを探った。そして、財布の中身が空っぽになっていることに気づき、顔色を青ざめさせた。『直子。お前、俺の財布から…』直子は何も答えない。ただ、膝の上に抱えたバッグを、命綱のように強く握りしめているだけだった。その時、直子の隣に座っていた和子さんが、素早い動きで、そのバッグを奪い取った。『返して!それは、私の…!』直子が金切り声をあげたが、和子さんは冷たく無視して、バッグの口を開けた。そして、中に入っていた茶封筒を、引きずり出した。封筒の口からは、真新しい一万円札の束が、顔を出していた。『浩司。これ、本当に二百万円の現金が入ってるわよ。しかも、さっきから、この女のスマホ、ずっとなりっぱなしだったのよ。画面を見てご覧なさい』。和子さんが、直子のスマホを、浩司の前に突き出した。画面には、赤い文字で『最終警告』や『差し押さえ通知』というメールが、何十件も並んでいた。全て、消費者金融やカード会社からの督促状だ。『本当に、借金まみれじゃないの…』親族の叔母が、軽蔑するような声でつぶやいた。先ほどまで直子を褒め称えていた親族たちは、一瞬で、彼女を汚い虫のように見下し始めた。体面を気にする親族の集まりの中で、詐欺師の女を婚約者として紹介した浩司と義母。彼らが最も恐れていた、親族からの冷ややかな視線が、容赦なく、二人に突き刺さっていた。
浩司の足から、完全に力が抜けた。どすりと、畳の上に無様に膝をついた。『じゃあ、俺が今日、業者から借りた金は…俺の家は、どうなるんだ?』浩司の顔は、死人のように青ざめていた。見えない遺産という幻想が完全に消え去り、目の前には、違法金利の借金と、差し押さえられる家という現実だけが残された。義母も、扇子を取り落とし、口をパクパクとさせている。『どうして…直子さん、お嬢様じゃなかったの?私たちの老後は…』義母は、畳に手をつき、ぽろぽろと涙を流し始めた。それは私への謝罪の涙ではなく、自分たちの裕福な老後が消えたことへの、自己中心的な涙だった。彼らは、完全に崩れ落ちた。私が何も手を下さなくても、自らの欲と見栄のせいで、破滅の底へと落ちていったのだ。しかし、私の心の中には、まだ小さな棘が残っていた。父の形見のネクタイピンを、勝手に質に入れたこと。二十八年間の私の苦労を、鼻で笑ったこと。『浩司さん。あなたの借金は、二百万円だけではありませんよ』。私はバッグの中から、あるものを取り出した。私が畳の上に置いた、小さな紙切れ。それは、先日、私が浩司の書斎で見つけた、質屋のレシートだった。『金製ネクタイピン、買取十万円』と書かれた文字を見て、浩司の顔が、さらに引きつった。『浩司さん。あなた、直子に貢ぐお金を作るために、私の亡き父の形見まで、質に入れましたよね』。私の静かな声が、大広間に響いた。親族たちの間に、先ほどよりもさらに大きなざわめきが起こった。『嫁の親の形見を質に入れるなんて!しかも、それを不倫相手に貢ぐ金にするなんて!人間として、最低じゃないか!』親族の冷ややかな声が、次々と浩司に突き刺さる。私の父が、結婚の挨拶の時に『娘を頼む』と頭を下げて渡した、大切な思い出。それを裏切りのために売り飛ばした事実が、浩司の人間性の欠如を、完璧に証明していた。『おまけに、あなたのクレジットカードの限度額は、すでにいっぱいで、消費者金融からも、三百万円の借金がある。今日、闇金から借りた二百万円を合わせれば、あなたの借金は、五百万円を超えています』。私は、畳に突っ伏している浩司を見下ろした。『もう、どこにも、ごまかす隙間はありませんよ』。
浩司は、すがるような、そして恨むような目で、直子を見上げた。『直子。お前、俺を騙していたのか。俺が、親父の形見まで売って、借金までして作った金を、奪って逃げるつもりだったのか』。直子は、和子さんに腕を掴まれたまま、チッと小さく舌打ちをした。あの甘く優しかった声は消え、低く冷酷な本性が、露わになった。『騙される方が、バカなのよ。少し資産家のふりをして、甘い言葉をかけたら、勝手に舞い上がって、貢いできたのは、そっちじゃない。私は、無理やり、お金を出してって、一度だって頼んでないわ』。その言葉に、浩司は、雷に打たれたように固まった。三年間、私を裏切ってまで愛した親友の、それが、隠された本当の姿だった。『それに、この義母さんも、ひどいものよ』。直子は、震えている義母を嘲笑した。『自分の嫁をいびり出して、私におだてられて、右往左往して、高級肉やブランド物をもらって喜んでいたけど、それ、全部、あなたの息子の借金よ。本当に、馬鹿な親子』。直子の容赦ない毒舌に、義母は『なんてこと…』と胸を押さえ、畳の上に力なく座り込んだ。ここに、木村さんが静かに、直子の前に進み出た。『林さん。君の、その口の減らないところは、十年前と、全く変わっていないな』。直子は、木村さんを見上げ、悔しそうに顔を歪めた。『すでに、警察には、君の居場所と、過去の詐欺の証拠を提出してある。この料亭の外には、捜査員が待機しているはずだ』。その言葉を聞いた瞬間、直子の顔から、最後の血の気が引いた。『け、警察…いや、やめて!私は、ただ浩司さんが、勝手に…』『言い訳は、警察で聞いてもらおう。私の妻の無念、そして、多くの被害者の恨み。必ず、晴らさせてもらう』。木村さんの、静かで重みのある言葉に、直子は、完全に崩れ落ちるように、畳にうつ伏した。もはや、彼女に逃げ道はなかった。
直子の処遇が決まり、親族たちの冷たい視線は、再び、浩司と義母に向けられた。すると、畳に倒れ込んでいた義母が、突然、狂ったように私に向かって叫び始めた。『まゆみ!お前のせいよ!お前が、さっさとこの家を出ていかないから、こんなことになったのよ!』自分の愚かさを棚に上げ、全ての責任を私に押し付けようとする義母に、私は呆れた。『お前は、長男の嫁でしょう!浩司の借金は、夫婦で返す義務があるのよ!さあ、パートでも何でもして、今すぐ、この五百万円を返しなさい!家が差し押さえられたら、私の住む場所がなくなるじゃないの!』親族たちは、義母のあまりの滑稽で無知な言葉に、呆けて言葉を失っていた。誠おじさんが、『和子さん、いい加減にしろ!恥を知りなさい!』と怒鳴ったが、義母は泣き叫ぶのをやめない。私は怒鳴らなかった。ただ、静かに一歩前に出て、義母の目を、冷たく見つめた。『お義母さん。先ほどもお伝えしましたが、私は、今朝、離婚届を提出しました』。私の静かな声は、義母のヒステリックな叫びを、水を打ったように沈めた。『“慰謝料なし、財産分与なし”。つまり、私には、浩司さんの財産をもらう権利もなければ、彼の負債を背負う義務も、一切ないということです』。『そ、そんな…』『それに、私の口座からは、光熱費も、お義母さんのデイサービスの費用も、すでに引き落としを止めています。明日からは、ご自身のわずかな年金と、浩司さんの借金の督促状とともに、生活してください』。義母は、大きく口を開けたまま、声を出せずに震え始めた。彼女が何よりも恐れていた、貧しく、世間から冷たい目で見られる老後が、ついに現実のものとなったのだ。親族たちも、次々に席を立ち、『私たちには関係のない話だ』『二度と連絡してこないでくれ』と言い残し、広間を出ていった。浩司は、畳の上に四つん這いになりながら、私の足元にすり寄ってきた。『ま、まゆみ。悪かった。俺が間違っていた。あの女に、騙されていたんだ』。つい数日前まで、私を無一文で追い出そうと嘲笑っていた男の、あまりに惨めな姿だった。『頼む。見捨てないでくれ。あの家を差し押さえられたら、俺たちは、路頭に迷ってしまう。お前だって、あの家には、俺たちとの思い出があるだろう?』浩司の震える手が、私のスーツの裾を掴もうとした。私は無言で一歩下がり、その手を避けた。『思い出?ええ、ありますよ。毎日、お義母さんに嫌みを言われ、あなたに冷たくあしらわれ、挙句の果てに、私の親友と不倫された。最悪の思い出がね』。冷たい私の言葉に、浩司は絶望の表情を浮かべた。しかし、浩司はまだ諦めなかった。彼の目の中に、新たな欲の光が、再び宿った。『お、そうだ。お前、独身時代から、コツコツ貯めていた貯金があったよな。何百万かは、あったはずだ。その金で、とりあえず、闇金の二百万だけでも返させてくれ!夫婦だったんだから、俺を助ける義務くらい、あるだろう!』彼が最後にすがろうとしたのは、私が長年パートで貯めた、わずかな預金だった。私は、自分のバッグを、静かに持ち直した。この中には、九億円という、圧倒的な数字が刻まれた、新しい通帳が入っている。私は、必死にすがる浩司を見下ろしながら、少しだけ、口角を上げた。『そうですね。私が持っているお金について、最後に一つだけ、教えてあげます』。その言葉を聞いた、浩司の顔に、一瞬だけ、希望の光が差した。しかし、彼はまだ知らない。次に私が口にする事実が、彼に情けをかけるためのものではなく、彼を最も深い絶望のどん底に突き落とすための、最後の一撃であることを。
浩司は、畳の上に四つん這いになったまま、私の口から出る言葉を待っていた。その目には、すがりつくような卑しい期待と、浅ましい欲が張り付いている。私はゆっくりとバッグの中に手を入れると、用意していた一枚の紙を取り出した。それは、銀行の応接で受け取った、宝くじ高額当選証明書のコピーだ。私はそれを、浩司の目の前の畳の上に、静かに置いた。『私の貯金の話でしたね。少し前に、私の口座には、このお金が振り込まれています』。浩司は、震える手で、その紙を拾い上げた。最初は、何のことか分かっていないようだった。眇めた目を細め、紙に印字された数字の列を、何度も何度も、しつこく確認している。『いち、じゅう、ひゃく、せん、いちまん、じゅうまん、ひゃくまん、せんまん…く、おく、えん…』。浩司の口から、空気が抜けるような声が漏れた。『はい。先日購入した宝くじの、一等の当選金です。九億円。間違いなく、私の口座に入っています』。私の静かな声が広間に響くと、呆然としていた義母が、バッと顔を上げた。『九億円?あんた、九億円持ってるの?』義母の声が、驚きと興奮で裏返っていた。浩司の顔に、先ほどまでの絶望を塗りつぶすように、再び、狂ったような歓喜の色が浮かんだ。『すごいじゃないか、まゆみ!九億あれば、借金なんて一瞬で返せる!家だって、差し押さえられずに住めるぞ!』浩司は、畳から身を乗り出し、よだれを垂らしそうな顔で、私の足にすがりつこうとした。『俺たち、夫婦なんだから、当然、そのお金は、俺たちで使うべきだよな?まゆみ、悪かった。俺が全部、間違っていた。あの女に騙されていたんだ。俺を許してくれ!これからは、心を入れ替えて、お前を一生、大切にするから!』直子の嘘の遺産が完全に消え去った直後に現れた、本物の九億円。浩司は、自分の罪も、多額の借金も、全てを帳消しにしてくれる魔法の杖を見つけたように、必死に手を伸ばしてきた。私は、すがりつこうとする浩司の汚い手から、一歩下がって、冷たく見下ろした。『浩司さん。先ほども言いましたが、私たちは、今日の午前中をもって、正式に離婚しています』。『だから、そんなもの、すぐに取り消せばいいじゃないか!まだ間に合う!』『いいえ、間に合いません。それに、思い出してください』。私は、浩司の濁った目を見据えて言った。『あなたは、私を無一文で追い出すために、離婚届の特記事項に、ご自身の筆で“慰謝料なし、財産分与なし”と書きましたよね』。その言葉を聞いた瞬間、浩司の動きが、まるで時間が止まったかのように、ぴたりと静止した。『あの、あなたが書いた言葉が、完全に私を守ってくれました。宝くじの当選金は、元々、個人の特有財産と見なされるため、財産分与の対象にはなりにくいものです。しかし、あなたが自ら、一円も分与しないと署名してくださったおかげで、裁判になるような法的な隙すらも、完全になくなりました』。私は、わざと、ゆっくりと、はっきりとした口調で続けた。『あなたが、闇金からの借金で首が回らなくなろうと、この家を差し押さえられようと、この九億円から、あなたに渡すお金は、永遠に、一円もありません』。浩司の顔から、歓喜の色が、さっと音を立てて引いていった。目の前の瞳が大きく開き、信じられないものを見るように、私を見上げている。『あ、ああ…』言葉にならない、うめき声が、浩司の喉の奥から漏れ出した。彼は、ゆっくりと、自分の両手を見つめた。この手で、離婚届に、サインをしたのだ。自らの欲と、偽りの愛に目がくらみ、何億円という富を、この手で捨てたのだ。それも、『財産分与なし』という、自分自身で書いた文字によって。自らが掘った墓穴の深さに気づき、浩司は、全身を激しく震わせ始めた。『嘘よ!嘘よ!』義母が、畳を両手でバンバンと叩きながら、泣き叫んだ。『九億円あったら、毎日美味しいものを食べて、親戚にも自慢して、最高のおばあちゃんになれたのに!私の老後が!私の裕福な生活が!どうして、言ってくれなかったのよ、まゆみ!あんたが黙ってるから、私が勘違いしたんじゃない!』『勘違いではありませんよ、お義母さん』。私は、義母に、氷のように冷たい視線を向けた。『お義母さんは、私という人間の価値を、“お金がないから無価値だ”と判断しただけです。だから、資産家のふりをした直子に媚びへつらい、私をゴミのように捨てようとした。あなたたちが愛していたのは、家族ではなく、お金という幻だけです』。『ああ…』。義母は、胸を強く押さえ、呼吸を荒くした。後悔と絶望。そして、明日から、借金取りに追われる貧しい生活が待っているという恐怖。その全てが、重くのしかかり、義母は、ついに白目を向いて、畳の上に倒れ込んだ。気を失った義母に、もはや、かける言葉はない。私は、浩司から、完全に視線を外した。浩司は、畳に額を擦りつけ、『俺がバカだった。どうか、百万円でいいから…』と、念仏のように繰り返すだけだ。三十年来の親友だった直子は、木村さんの冷たい視線の前で、恐怖に震え、声も出せずにうずくまっている。
私は静かに振り返り、今日この場に協力してくれた人たちに向き直った。『木村さん、誠おじさん、和子さん。今日は、本当にありがとうございました』。私が深く頭を下げると、木村さんは無言で、しかし力強く頷いてくれた。誠おじさんは、『まゆみさん、これからの人生を大切にな。君は自由だ』と、温かい声をかけてくれた。和子さんも、静かに私を見送ってくれた。遠くから、パトカーのサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。直子を迎えに来た、警察の音だ。彼女の数々の詐欺行為は、これから警察の手で徹底的に暴かれ、刑務所で長い罪を償うことになるだろう。私は、九億円の通帳が入ったバッグをしっかりと抱え直し、大広間の襖を開けた。長い廊下を歩く、私の足音だけが、静かな料亭に響いている。背後からは、浩司の泣き叫ぶ声と、直子の小さな悲鳴が聞こえたが、私は、一度も振り返らなかった。料亭の重い引き戸を開けて外に出ると、夜の冷たい風が、私の火照った頬を、優しく撫でていった。先ほどまで聞こえていた、浩司の情けない泣き声は、もう、私の耳には届かない。見上げると、黒く澄んだ夜空に、冬の星が、静かに瞬いていた。これまでの二十八年間、私は夜空を見上げて、星の美しさに気づく余裕すらなかった。毎日、夫の帰りの時間を気にし、義母の嫌みに心をすり減らし、息を潜めて生きてきた。自分が我慢すれば、波風は立たない。そう、自分に言い聞かせて、感情に蓋をしてきたのだ。けれど、今、私の足取りは、驚くほど軽く、心の中は、嘘のように晴れやかだった。遠くから近づいてきたパトカーの赤い回転灯が、料亭の駐車場へと滑り込んでいくのが見えた。それが、私の過去との、完全な決別の合図だった。私は、小さく笑みを漏らし、待たせていたタクシーに乗り込んだ。
それから、一ヶ月という月日が流れた。季節は、秋から本格的な冬へと移り変わり、街を行く人々のコートも、厚くなっている。私は、田中先生の法律事務所の応接室に座り、温かい紅茶をいただいていた。向かいには、田中先生と、誠おじさんが座っている。『まゆみさん。これで、市役所や銀行など、全ての法的な手続きが完了しました』。田中先生は、いくつかの書類が入ったファイルを、私に手渡してくれた。これで、私は明日から、佐藤から、元の旧姓に戻る。あの家との縁は、完全に断たれた。誠おじさんが、少し疲れたような、しかし安心したような表情で、口を開いた。『あの夜の後、直子と名乗っていた女は、警察に連行された。複数の余罪も次々と明らかになり、長い間、刑務所から出ることはないだろうね』。おじさんの手には、小さなベルベットの箱が握られていた。『それと、これは、警察の証拠品から返却されたものだ。あの女が身につけていた、君のお母さんの形見だよ』。差し出された箱を開けると、そこには、母の真珠のネックレスが、静かに光を放っていた。私は、胸がいっぱいになり、両手でその箱を受け取った。『浩司たちのことも、少しだけ、耳に入っているよ』。誠おじさんは、ため息混じりに続けた。『浩司は、違法な業者からの借金二百万円と、膨れ上がった消費者金融の借金が返せず、すぐに家を差し押さえられたそうだ。家を失い、会社にもいられなくなり、今は、昼も夜も、過酷な肉体労働をして、借金を返すだけの、地獄のような毎日を送っている』。『義母さんは、住む場所を失い、浩司にも見捨てられ、今は、生活保護を受けながら、隙間風の吹く古いアパートで、一人で暮らしているとのことだ。まゆみが私を捨てた。まゆみのせいだと、毎日近所の人に言いふらしているようだが、誰も相手にしないそうだ』。見栄と体面だけを気にして生きてきた義母にとって、誰も見向きもしてくれない孤独な老後は、何よりも辛い罰だろう。自業自得という言葉では足りないほどの、無惨な結末だった。しかし、私の心には、同情も、憐れみも、湧かなかった。彼らは、ただ、私の人生から、完全に消え去った、哀れな他人に過ぎないからだ。
事務所を出た後、私はまっすぐ、ある場所へ向かった。浩司が、私の父のネクタイピンを売った、あの小さな質屋だ。古びたガラス戸を開けると、店番の男性が、奥から出てきた。私は、事情を話し、父の形見を買い戻したいと伝えた。『ああ、あのネクタイピンですね。ええ、まだ残っていますよ』。店番が、奥の金庫から持ってきた小さな包みを見た瞬間、私の胸の奥が、熱くなった。手渡された金色のネクタイピンは、金属の冷たさの中にも、昔と変わらない、静かな輝きを持っていた。私はそれを、両手で包み込むように握りしめた。『お父さん、ごめんなさい。取り返すのが、遅くなって…』。声に出してつぶやくと、ずっと枯れ果てていた涙が、一滴だけ、ぽつりとこぼれた。それは、悲しみの涙ではなく、大切なものを取り戻せた、安堵の涙だった。
現在、私は、都内の、セキュリティがしっかりした、日当たりの良いマンションで暮らしている。九億円という大きなお金を手に入れたが、派手な生活をするつもりはない。高級なブランド品も、目を引くような高級車も、私には必要ない。ただ、誰の顔色も伺わず、安心して眠れる、清潔な部屋があること。スーパーで、少しだけ値段の高い、新鮮な季節の果物を、ためらわずに買えること。お気に入りの紅茶を、ゆっくりと味わいながら、好きな本を読む時間を持てること。そして、何より、自分の人生を、自分のためだけに生きる自由があること。それが、私にとっての、本当の豊かさだった。朝、目覚まし時計のけたたましい音ではなく、窓から差し込む優しい太陽の光で、目を覚ます。急いで起き上がり、不機嫌な義母の朝食を作る必要は、もうない。お湯を沸かし、ゆっくりとコーヒーを入れる。部屋の中に広がる香ばしい匂いが、私の新しい一日が、平和に始まったことを教えてくれる。
数日後、私は、両親が眠るお墓を訪れた。冷たい水で墓石を綺麗に洗い、母が好きだったピンク色の花を、手向ける。お線香の煙が、冬の澄んだ空に向かって、まっすぐに昇っていった。私は、静かに手を合わせ、目を閉じた。『お父さん、お母さん。ご報告が遅くなって、ごめんなさい』。私は心の中で、浩司と離婚したこと。そして、これからは、自分の足で生きていくことを伝えた。九億円という奇跡が、私を助けてくれたこと。けれど、私を本当に救ってくれたのは、ただのお金ではなかった。自分の尊厳を取り戻すために立ち上がった、あの静かな覚悟だったのだ。『でも、もう心配しないでね。私、今、とても心穏やかだから』。目を開けると、見上げたいつもの空が、どこまでも青く晴れていた。冷たい風が吹き抜けたが、コートの胸元につけた、父のネクタイピンと、母の真珠が、私を守るように、かすかに温かく感じられた。私はもう、泣くだけの弱い女ではない。誰かの嘘や裏切りに怯えることもない。私はゆっくりと立ち上がり、前を向いて、歩き出した。私の新しい人生は、ここから、静かに、そして力強く、始まっていくのだ。



