自動ドアが荒い音を立てて開いたのは、午前2時を少し回った頃だった。浜田魔帆はレジ横の棚にカップ麺を並べる手を止め、顔を上げた。蛍光灯の白い光の下に、派手な柄シャツを着た男たちが4人、いや5人、どっと流れ込んでくる。先頭の男、後に小島礼太と知れる男が、棚の間を風を切って歩きながら、酒のボトルを無造作に掴んでは腕に抱えていった。
酒と煙草の混ざった匂いがレジの奥まで滲んでくる。取り巻きの一人が雑誌棚に寄りかかり、別の一人が棚の列を指で弾いて崩す。いくつかの雑誌が乾いた音を立てて床に落ちた。
「お客様、店内では…」
魔帆が言い終わる前に、小島が振り返って煙草を一本、こちらへ放ってきた。魔帆は反射的にそれを受け止めた。
「これ、あっためて。あと、そこの弁当も」
「申し訳ありません。お酒は温められません」
小島の眉が片方だけゆっくりと上がった。隣に立っていた男が、品定めするように魔帆へ顔を向ける。
「うっせえな。店員がよぉ、今、俺に指図したか」
声はまだ笑っている。だが目は笑っていなかった。ほんの一言の応答が、この男たちの間では小さな火種になるらしかった。
魔帆は落とされた雑誌を拾って棚へ戻しながら、小島の腕に視線を滑らせる。会計を済ませていない酒がもう3本も抱え込まれている。
「お会計を先にお願いできますか」
その言葉で、店の空気が変わった。
小島は缶コーヒーを棚へ叩きつけるように戻すと、レジ台に両手をついて身を乗り出した。エプロンの胸元まで顔を近づけ、低く言う。
「なあ。客が来たら先に商品出すだろ。会計なんか後でいい。そういうもんだろ、普通」
「先にレジを打たせてください。それからお渡しします」
「指図すんな。後で払うって言ってんだろ。それの何が問題なんだよ、お前」
取り巻きの一人がゆっくりと魔帆の背後へ回り込んだ。別の一人がレジカウンターの端に寄りかかる。逃げ道が一本ずつ塞がれていく。
魔帆は動かなかった。ここで怯えを見せれば、この手の男は一層図に乗る。深夜、この店にいるのは自分一人。相手は5人。カウンターの下の通報ボタンが、今はひどく遠いものに思えた。騒げばもっと悪くなる。だから魔帆はただ相手の目を見て、声を落として繰り返した。
「レジへどうぞ。先に済ませてください」
「会計だとよ。おい、うるさいんだよ。どこの店がそんなこと言うんだ? 出ていけって言いたいのか?」
「出ていけとは言っていません。ただ、先にお願いします」
小島の口元から笑みが消えた。プライドという薄い皮が、店員一人の落ち着いた声で裏返っていく。男は舌打ちをして、レジ台を平手で叩いた。乾いた音が静かな店内に跳ねた。
「金の話がしたいのか? いいぜ。じゃあ、金の話をしてやるよ」
その言葉が何を刺すのか、魔帆にはまだ分からなかった。分かっていたのは、この夜がもう静かには明けないということだけだった。
「何のお話でしょうか」
「ここのレジにいくら入ってるか知ってるか? 俺たちの手で開けてもらえば、それで済む話だ」
背後で取り巻きが嗤う。
「開けてくれりゃいいんだよ、レジ」
「レジのお金はお渡しできません」
「今夜は5人いるんだぞ。お前一人でどうにかなると思ってるのか? さっさとレジ開けりゃ終わる話だろ」
「思っていません。それでも、お渡しはできません」
「黙れ。言ってること分かってるか?」
「分かっています。それでも、今夜は私が預かっている店です」
「預かってる? 高がバイトが何を言ってんだ?」
「バイトでも、今夜この店に立っているのは私です。お金はお渡しできません」
天井の隅で、防犯カメラの小さな赤い光が瞬きもせずこちらを見ている。魔帆はその光の位置だけを胸のうちで静かに確かめた。小島の手が伸びてきたのは次の瞬間だった。胸ぐらを掴まれ、魔帆の体がレジ台の角へ押し付けられる。肩から背中を強く打ち、エプロンの結び目を乱暴に引かれた。
最初の一発は頬に来た。目の奥で光が散り、口の中に鉄の味が広がる。膝が折れ、床へ崩れる。その上から、足の動きが何度も降ってきた。魔帆は腕で頭を庇い、背を丸めてただ耐えた。声はあげなかった。それがこの男たちの燃料になると知っていた。
「まだ黙ってんのか? まだ生意気か。泣けよ、店員」
それでも声は出なかった。小島がしゃがみ込み、魔帆の髪を掴んで顔を上げさせる。頬の傷がズキズキと脈打つ。それでも瞳の奥は静かだった。
「レジの金、全部出せ。今夜の売上全部だ」
「ここにある金は、1円も出せません」
「あぁ?」
「あなたが今何をしているか、全部残っていますから」
「残ってるだったらなんだ。ここに金がある事実は変わらないだろう」
「事実は変わりません。だからこそ記録も変わりません。渡すつもりはありません」
小島の視線が一瞬天井へ走った。赤い光を見てすぐに鼻で笑う。この男には、壁の染みほどの意味しかないらしかった。
「お前、まだそんな口が聞けるのか。立場が分かってるか?」
「分かっています」
「怖いならパパでも呼べよ。え? パパに泣きつくか?」
取り巻きの笑い声が店内に反響する。魔帆は答えなかった。床に投げ出されたスマホへそっと手を伸ばす。掴まれていない左手で、画面も見ずに、指が一つの番号を押した。呼び出しの振動が、握った手のひらにだけ伝わる。短い音の後、回線が繋がった。
「駅前のコンビニに来て」
呼び出し音が、繋がったままの回線の向こうへ漏れていく。小島が引き続き嘲る。
「呼べ呼べ。パパさん出てこい」
魔帆は乱れた息を整え、顔を上げて小島の目をまっすぐに見た。
「大変なことになりますよ」
言い終えても、魔帆は瞬き一つしなかった。乱れた息が静かに落ち着いていく。声には力がこもっていた。小島は嘲笑を浮かべた顔で、これから起きることを一つも知らずに言った。
「店員の分際でよく言うぜ」
魔帆は通話を切り、時計を見た。午前2時14分。それからきっかり10分後だった。
最初に気づいたのは、外の明るさだった。深夜の駐車場に、いくつものヘッドライトが滑り込んでくる。2台、3台と、黒塗りの車が店の前を隙間なく埋めていく。エンジンが次々と切られ、重いドアの音が続けざまに響いた。窓の外を見ていた取り巻きの一人が、手にした酒を持つ手を止めたまま動かなくなった。
「な、何だ?」
隣の男も顔を向け、外の光を確かめる。
「黒塗りの車だ」
自動ドアが開く。入ってきたのは黒服の男たちだった。一人、また一人と、店の狭い通路を声もなく満たしていく。急ぐ足音もなく、上がる声もない。なのに、数えるうちに5人を超えていた。10人を超えていた。
「おい、誰だよ、こいつら」
黒服の男たちは、物音一つ立てずに店内のあらゆる間へ散らされていった。レジカウンターの横、冷蔵ケースの前、出入り口の脇。一人が立つ度に、逃げ道が一つずつ音もなく消えていく。さっきまで魔帆の逃げ道を塞いでいた取り巻きたちが、いつの間にか壁際まで後ずさっている。今度は自分たちの逃げ道を視線で探していた。
「何だよ、こいつら、何人いるんだよ」
「誰かが呼んだのか」
「お前か、店員」
「出口は塞がれてる。逃げられねえ」
「黙れ。騒ぐな」
魔帆は口を開かなかった。視線だけを、壁際まで押しやられていく男たちへ向けた。
黒服が二列に割れる。その間を、一人の初老の男がゆっくりと歩いてくる。仕立てのいい上着に、磨かれた靴。急いだ様子は微塵もない。男はまっすぐレジへ進み、床に膝をついたままの魔帆の前で足を止めた。膝をつき、娘の頬にそっと指を添える。
「遅くなった」
「大丈夫」
浜田健二は静かに立ち上がり、小島たちの方へゆっくりと向き直った。店を埋めた黒服の数に、小島の喉が鳴る。先に口を開いたのは小島の方だった。
「な、何者だ?」
「この子の父親だが。お前が呼べって言ったんだろう」
「父親って…ただ者じゃねえだろ」
「俺は総老組の組長だ」
「く、組長? 総老組って…」
総老組。この地でその三文字が何を意味するか知らぬ者は、この町に一人もいない。小島の顔から、先ほどまでの余裕が音を立てて剥がれ落ちた。組長の娘。深夜のバイト店員。その二つが男の頭の中で噛み合わないままだが、ただ血の気だけがみるみる引いていく。黒服の一人が小島の逃げ道に音もなく立った。もう一人が、崩れた棚の前を塞ぐ。取り囲むでもなく、手を上げるでもない。ただそこにあるというだけで、店中の出口が意味を失っていった。
「こ、この技も、お前か?」
「いや、その店員が生意気だったから。冗談で…金はいらねえし」
「生意気だったから、この技をつけたのか」
「そ、そういうわけじゃ」
「どういうわけだ」
小島の口がまた何かを探したが、言葉は出てこなかった。健二はその言い訳を打ち切るように、床に落ちていた魔帆のスマホを拾い上げ、汚れを袖でそっと拭いてレジ台に置く。それ以上は問い詰めなかった。健二は天井の隅を静かに見上げる。防犯カメラの赤い光が、瞬きもせずそこにある。
「今夜ここでやったこと、レジ金を要求したことも、全部撮れているだろう。暴行と強喝。どちらも映像が残っている」
「カメラなんか、そんなもん」
「逃げ場はもうない。言い訳はカメラの映像の前では意味をなさん。映像を警察へどこへ出しても構わん。こちらは一切消す理由がない」
ならば、暴力の方がはるかに恐ろしかった。魔帆はその場の温度が一段また一段と下がるのを床から感じていた。健二は壁際で身を竦める取り巻きたちにも静かに目を向ける。
「お前らもだ。今夜ここにいた顔は全部覚えた。一人残らずな」
若い男たちが、示し合わせたように俯いた。逃げようとした足が、床に縫いつけられたように動かない。
「す、すみません。俺たちはただ、小島に言われただけで…」
「言われただけでも、ここにいた。お前らも、今夜のことから逃れられん」
「俺たちは何もしてない。見てただけで」
「見ていたのも、今夜ここにいた事実に変わりはない」
返す言葉を持たない若い男たちが、ただ突っ立っていた。
「ま、待て。話が違う。こんなはずじゃ」
「違わん。お前が今夜やったことの通りだ」
「でも俺は、そんなつもりじゃ。ただちょっと脅かすだけで」
「安心しろ。逃しはせん。地獄行きだ」
「じ、地獄…」
小島の膝が、がくりと折れた。
「た、頼む。金なら払う。いくらでも払うから、見逃してくれ」
「見逃す口を、お前自身が今夜一つも作らなかった」
「今夜のことはまだ終わっていない」
魔帆は父の背中を床から見上げていた。家では決して見せない、組長としての背中だった。レジ台の端にはさっき拭われたスマホが置かれ、天井の赤い光は変わらずそこにある。たった10分で、これほど見事に立場が裏返った。店の時計は午前2時24分を指している。あの一言から、きっかり10分後のことだった。
静寂の中で、最初に口を開いたのは小島だった。声が上ずっている。さっきまで店員の胸ぐらを掴んでいた手が、今は所在なげに空中を彷徨っていた。
「ま、待てよ。組長さんだろ? 話は分かるって」
健二は答えない。その沈黙が男を一層追い詰めていく。
「こっちだって悪気があったわけじゃ」
「そうだよ。金なんかいらねえよ。冗談だって」
「ただの冗談で」
「冗談で人を痛めつけたのか」
声に僅かな低さが射した。小島の言葉が喉で詰まる。それは虚勢が剥がれた音だった。その隙に、取り巻きの何人かがじりじりと出口の方へ後ずさろうとする。黒服の視線一つで、その足が止まる。
「帰る。帰るからもう関係ない。俺たちは…」
「動くな。お前らも同じだと言ったはずだ」
「で、でも俺たちは手を出してない。帰らせてくれ」
「そこにいた。それで十分だ。逃げて、どこへ行くつもりだ?」
「す、すみません。もうしません」
小島がなおも何か言い繕おうとするが、言葉は途中で解けて崩れた。
「ま、待て。俺が悪かった。示談にしよう。示談で済む話だろ、これは」
「それを決めるのは、お前じゃない」
小島の口が開いたまま、次の言葉を見失った。
「もう聞く必要はない」
魔帆はレジ台に手をついて体を支え、ゆっくりと立ち上がる。一時間前、自分を囲んで笑っていた男たちの顔に、今は何も残っていない。健二が黒服の一人へ目をやった。
「外へ出せ。車で待たせろ」
黒服が小島と取り巻きを挟むように立ち、店の外へ静かに押し出していく。黒服が引き、自動ドアが閉まる。店内に残ったのは、崩れた棚と床に散らばった商品と、蛍光灯の白い光だけだった。さっきまで5人の男たちが満たしていた空間が、急に静かすぎるほど静かになっている。レジ台の端には魔帆のスマホが置かれたまま、防犯カメラの小さな赤い点だけがまだこちらを向いていた。
健二は娘の方へゆっくりと向き直り、頬の傷をもう一度痛ましげに見る。魔帆は乱れたエプロンの結び目を指先で直しながら、床にしゃがんで商品を拾い始めた。
「なぜ言わなかった? こんな店の、こんな時間に一人で立っているなどと」
「言えば、やめさせられると思ったから」
「やめろとは言わんだが」
「お父さんの娘だと知られたら、誰も私に普通には接してくれないでしょ」
魔帆はカップ麺を棚へ戻しながら続ける。
「ここでは、私はただの店員でいられた。それが良かったの」
「こんな目に遭ってまで、隠すことか」
「隠してたわけじゃないわ。自分の足で立っていたかっただけ」
父の前でも、その手は止まらなかった。商品を一つ、また一つと棚へ戻していく。健二はしばらく娘の横顔を見ていた。
「家には、いつも知らない人が出入りしてた」
健二は視線を娘の手元へ落とした。
「お父さんの前では、みんな声が違ったでしょう。私にだけ優しくて。でも、その優しさがどこか怖かった」
健二の喉が一度、小さく動いた。
「何に守られているのか、幼いなりに分かってしまったから。それが嫌で、外に出たかったの」
健二は何も言わなかった。
「深夜のこの店が、私にはずっと必要だったの。ここでは、誰も私が誰の娘かなんて気にしないから」
「知らなかった。お前がそんなことを考えて生きていたとは」
「話す機会がなかっただけ。お父さんも、私も」
魔帆は拾い上げたおにぎりを棚に並べ、乱れた列をつめの手つきで揃えていく。その横顔を、健二は初めて見るもののように静かに見つめていた。父と娘の間に長く横たわっていた距離が、崩れた棚の前でほんの少しだけ縮まっていた。
事の始末は、その夜のうちには終わらない。数日が過ぎるうち、小島が屯していた雑居ビルの一室から、仲間の姿が一人、また一人と消えていった。旗色を読んだ男たちが、潮が引くように離れていく。声をかけても誰も応じなくなった朝が、静かに積み重なっていった。半グレの小島に、親分の制裁は及ばない。逆らった訳でも、縁も波紋も絶縁もない。元々そういう筋の人間ですらないのだ。だが、あの夜健二が告げたけじめは、人界の作法とはまるで別のところにあった。この町の歓楽街はその多くが総老組の睨みの効く範囲にある。富も情報も、小島たちがヨタしてきた店も、健二が一言通せばそれで済む。翌日には、どの店ももう小島の一味を客としては扱わなくなっていた。
ツケは即日で閉められ、通い詰めていた店からは静かに、しかし残らず締め出された。
「うちはもう、お前らを置けない」
「あ、常連だろ。今まで通り置いてくれりゃいいんだよ」
「総老組の話だな」
「なんで関係あんだよ」
「関係があるから、出ていけ」
取り巻きの一人が壁際まで後ずさり、入り口の方へ目をやった。
「待て。話ができるだろ。昨日まで飲ませてたくせに」
「昨日までの話だ。今日からは、うちには来るな」
「帰ろ」
半グレという群れは、元々忠義で結ばれていない。旨みが消えれば、それまでの関係だった。金の流れ込む先を絶たれた男たちは、後悔もなく小島から離れていった。
後日、店の休憩室で健二は魔帆に短く告げた。
「店・飲み屋・雀荘。あいつらが使っていた店を全部通した。俺の睨みが効く範囲でな」
「どういう形でですか?」
「波紋とか絶縁とか、そういう話ではなく。あいつらには置き手は及ばん。忠義のある筋の人間じゃない。だから、組の作法ではなく、この町で使える顔を潰した。場所がなくなれば、人も離れる。旨みで集まった群れは、旨味が消えれば終わりだ。仲間ももう、潮が引いた」
魔帆は小さく頷いた。それ以上は聞かなかった。
制裁の本当の柱は、しかし、力ではなかった。数日後、小島の元へ一通の書留郵便が届いた。差出人は浜田魔帆の代理人弁護士。封を切ると、内容証明郵便が出てきた。中身は傷害と強喝未遂に対する損害賠償の請求だった。顔の打撲と肋骨の亀裂骨折で全治2週間と記された診断書、治療にかかった費用の実費、あの夜の暴行が与えた精神的苦痛への慰謝料。算定の根拠と共に、1円単位まで記されていた。請求総額は180万円。曖昧な言葉はどこにもなかった。あるのは事実と数字と、それを裏付ける証拠だけだった。
後日、店の事務室で弁護士が魔帆に請求の道筋を淡々と説明した。
「請求総額は180万円です」
「180万ですか?」
「傷害と強喝未遂、それぞれに根拠があります。診断書、治療実費、慰謝料、全て合わせて1円単位まで出しました。相手が拒否した場合は、まずは内容証明で正式に求めます。応じなければ、示談の席を設けます。示談でも動かなければ、訴訟です。どの段階でも、結論は変わりません」
「防犯映像は保存できていますか?」
「全て保存済みです。あの夜の一部始終が残っています。角度も時刻も」
「胸ぐらを掴んだところも、体が床に沈んだところも、レジを要求するあの声も、時刻付きで記録されています。言い逃れの余地はありません」
あの夜、天井の隅で赤く光っていたあの光。小島が壁の染みほどの意味もないと思っていたそれが、今や動かぬ証拠として一部始終を記録に残していた。魔帆が胸のうちで静かに確かめたあの位置が、ここへ実を結んだ。
健二がゆっくりと魔帆の方へ顔を向けた。
「この町で生きていけなくしてれば、それでいい」
「はい」
「あとは俺がやる。お前は店に立て」
「店に立ちます」
事務室に、短い沈黙が落ちた。
屯する店を失い、仲間を失い、そして事実だけを冷徹に並べた一枚の書面を突きつけられて、小島は自分が一体何を敵に回してしまったのかをようやく肌で理解し始めていた。だが、追い詰められた男がそのまま素直に膝を折るとは限らない。逃げ場を失ったその時こそ、この手の人間は一番愚かな一手を打つものだった。
反撃は、それから数週間後にやってくる。小島は金も居場所も仲間も失って、それでもなお失ったものの原因を自分の外にばかり探していた。ある夜、店の駐車場側の外壁に、赤いスプレーで大きく書かれた中傷が残された。入り口の正面ではない。レジに立っていても、自動ドアの向こうを見ていても、その面は見えない。その夜のうちに、ネットにも書き込みが湧いた。
「組長の娘だ」「危ないから近づくな」
魔帆の顔写真まで、本人に無断で貼り付けられていた。小島本人が手を下したのではない。金で誰かを雇い、その手を使った卑劣な嫌がらせだった。
朝、魔帆がゴミ袋を持って駐車場側へ回ったところで、外壁の赤い文字が目に入った。胸の底で何かが冷たく疼く。震える手を一度だけ強く握りしめた。足音が近づく。店長だった。
「何だこれ」
「誰か、分からないです」
「スプレーかよ。店の壁に。他に何かあるか?」
「ネットにも出てます。書き込みと、私の写真」
「警察呼ぶか」
「先にカメラ見ましょう。駐車場側の」
「おう。裏に行くぞ」
店の裏手のモニター前。駐車場側の外壁を映していた。店長が映像を巻き戻す。画面の左上に日付が、小さく刻まれたままになっている。
「駐車場側の、やつだ。壁も映ってるぞ」
「出てます」
夜中、スプレーを振る影が外壁の前を横切る。数字はその瞬間の時刻をそのまま残していた。
「夜中じゃねえか。映像を保存する」
「ネットの書き込みも、いつ投稿したか出てます」
「分かった。弁護士に渡す分は、俺が用意する」
あの夜と同じだった。カメラは嘘をつかない。翌日、魔帆は駐車場の映像データとネット中傷の記録を全て持って、弁護士事務所へ向かった。
「駐車場側のカメラですね。日時が残っています。中傷の投稿日時も、そのまま残っています。プロバイダーへ発信者情報の開示請求を出します。警察への被害届と告訴を、並行して進めます」
「この影は、誰か分かりますか?」
「顔まではっきりしない。まずは開示と告訴です」
「お願いします」
「進めます。名誉毀損です。あの夜の件の上に積み上がります」
調べの先で、送金の履歴と依頼の痕跡が揃った。線は、小島へ向かう。小島が自ら積み上げた事実そのものが、男を追い詰める側へと静かに回っていた。今度は、総老組の力すらいらない。事務所を出た後、魔帆は店へ戻った。落書きを消そう。朝までかかってもいい。冷たい水で、駐車場側の外壁を二人で拭き続けた。ひび割れた指先に水が沁みる。それでも手は止めなかった。この店は自分の居場所だった。誰にも壊させはしない。その一心だけが、魔帆を動かしている。
全てが動き出したのは、それからだった。警察が動いた。あの夜の防犯映像。全治2週間の診断書。そして小島自身が残した嫌がらせの痕跡。動かせる証拠が3点、手元に揃っていた。傷害と強喝未遂の被害届は正式に受理され、処理番号が記された一枚の紙が魔帆の手元に残った。
「被害届を受理しました。これが受理番号です」
「ありがとうございます」
「映像に診断書、それから駐車場側の被害記録まで、全部処理の要件を満たしています」
魔帆は、紙の角を指で一度だけなぞった。
後日、小島は警察の取調べに呼び出された。取調べ室の椅子に座らされ、机の上のモニターに、あの夜の店内が映る。
「誰の指示で手を出した?」
「店員が生意気だったから」
「映像がある。胸ぐらを掴んでいるところも、レジを要求している声も、時刻が全部残っている。その言い分は、映像の前では通りません」
小島の口が開いたまま、次の言葉を見失った。
「映像が全て記録しています。あなた自身の声と、あなた自身の手が何をしたか、逐一ごとに残っています」
あの夜、「怖いならパパを呼べ」と笑った男が、今度は自分の声と自分の手を映像の前で、一つずつ事実として突きつけられていく。取り巻きの姿はそこにもなかった。強がりの入り込む隙間は、もうどこにもなかった。取調べの末、背後で手錠の金属音が落ちる。
内容証明の後、小島側は当初のらりくらりと言い逃れを重ねた。だが、防犯映像という動かぬ証拠の前に、抗う術は何ひとつ残されていなかった。示談交渉の席で、賠償額はほぼ請求通りに固まる。
「示談額は180万円です」
「分かりました」
「まず一部を振り込み、残りは分割です。相手側に一括で用意できる額ではないためです。まず、示談金の一部を振り込み、残りは毎月決めた額で続きます」
「それで構いません」
後日、魔帆が通帳を開くと、一行の数字が記されていた。治療費、慰謝料、嫌がらせによる損害の分まで。派手さのない数字だった。それでも魔帆はしばらく黙ってその数字を見つめた。息を一度、ゆっくりと吐く。指でその一行を、一度だけなぞる。
逮捕と前後して、町の金融も小島を吐き出しにかかった。「組長の娘に手を出した半グレ」という事実は、この町の金融の網の目を伝って静かに広がっていった。
「小島様の口座の利用を停止させていただきます」
「ふざけんな。金が引き出せねえってことか」
「はい」
「俺が何をした?」
「その件については、ご説明いたしかねます」
代理人弁護士は、損害賠償請求の保全として、小島側の資産に仮差し押さえを申し立てた。
「審査が通りませんでした」
「理由を言えよ。金ならある」
「お答えできません」
どこの会社も同じことを言う。
「おかしいだろう」
「それ以上は、ご案内できかねます」
新しく借りようとした部屋は、どこも審査で跳ねられた。「組長に目をつけられた」という二文字が一度張り付けば、半グレの小島にはそれを剥がす手立てがなかった。暴力団のような後ろ盾がない分、かばってくれる者もどこにもいない。口座に残っていたわずかな金銭さえ全て消えた。居場所も、仲間も、大きく見せていた名前も、働いていた場も、住む部屋も、この町で通じていた顔も。一つ失うたびに、次の一つが崩れていく。組織を持たない気楽さが、こういう時にはそのまま無力さに変わった。
店の休憩室では、制裁はすべてのものとして、一つずつ確かな形になって並んでいた。処理番号の記された紙。全治2週間の診断書。1円単位まで記された内容証明。通帳に刻まれた振り込みの一行。どれにも派手さはない。だが、そのどれもがあの夜の理不尽をもう決して覆すことのできない事実として、世に刻みつけていた。
「拳で返せば、こっちも同じ穴の狢だ。だが、事実は嘘をつかん。お前は正しいやり方で、あの男に勝ったんだ」
魔帆は頷かなかった。視線だけが、通帳の一行から窓の外の店の明かりへ移る。静かな夜だった。レジカウンターの向こうに、いつもと変わらない蛍光灯の白い光がある。その夜は確かに、彼女の元へ帰ってきた。
小島が屯していた雑居ビルの一室は、翌月には別の借り手に変わっていた。ドアに貼られていた派手なステッカーは剥がされ、廊下に転がっていた酒の空き缶も、いつの間にか片付けられている。あの夜の映像に顔の残っていた取り巻きたちは、親に突き添われて頭を下げに来た。小島ではなく、その親たちの方が多かった。強喝未遂と傷害で立件された小島に手を差し伸べる仲間はいなかった。かつて兄貴と呼んで慕っていた若い連中で、今彼に頭を下げる者は一人もいない。小島は名の知れたこの町を離れ、隣県で日雇いの仕事を探した。知り合いもなく、頼れる名前もない土地の工事現場の土のうに立つ日が続いている。魔帆へ支払う賠償金の残りは、自分の稼ぎから少しずつ払い続けた。示談で固まった残額を、1円も減らせないまま。毎月の振り込みのたびに通帳の数字が減り、最後の一行が消えるまで、それは続いた。虚勢で張っていた看板だけが、後には何も残らなかった。
深夜2時を過ぎる頃、その店はまた一番静かになる。魔帆は今夜もレジ横の段ボールからカップ麺を取り出し、棚の列を一つずつ揃えていた。前面を手前に。賞味期限の古いものを前へ。頬の傷は、もうどこにも残っていない。表の通りをトラックが抜け、窓ガラスがわずかに震える。入り口の自動ドアが開き、いつもの運転手が入ってきた。
「いつもの」
「はい」
缶コーヒーを一本、温めるでもなく差し出す。
「ありがとうな」
「気をつけて」
自動ドアが閉まり、エンジン音が遠ざかっていく。蛍光灯の白い光だけが、また静かに棚を照らしていた。
父とは、時々電話で話すようになった。仕事の話は、どちらからもしない。
「変わりないか?」
「変わりないです」
その短い往復が、今の二人の距離だった。それで、十分だった。



