両親が交通事故で亡くなったのは、俺が中学3年の冬だった。弟のかけるは小学校に上がったばかりで、誰かの助けがなければ何もできない年齢だった。親戚は悪い人たちではなかった。俺たちの不幸を一緒に嘆いてもくれた。でも、どの家庭も15歳と7歳の二人を引き取ることはできない事情があった。
だから俺は高校進学をやめた。春から地元の建設会社で土木作業員として働き始めた。同級生が高校で青春を送っている横で、朝から夕方まで汗を流して働くのは大変だった。周囲からは学力が低いから働いているんだろうと疑われ、惨めな思いもした。でも、弟を見守って育てることの方が大事だった。弟に寂しい思いをさせたくなかった。なるべく普通の子供として生活させてやりたかった。
毎日仕事が終わったら、不慣れながら家事をこなし、夜は弟の勉強を見た。時間のすべてを弟に注いできた。その甲斐があって、弟は学業優秀な青年に育った。中学、高校、大学と順当に進学し、そして就職した。賢くて真面目な弟は、俺の人生の誇りだ。大学進学のときに援助してくれた親戚からも「お兄ちゃんが頑張ったから、かける君もまっすぐ育ったんだよ」と言われて、鼻が高かった。
そんな弟がある日、一人の女性を家に連れてきた。大企業の社長の娘だそうだ。確かに品がいいし、賢そうだった。身分違いの恋なんて今時使わない言葉だが、俺たち家族の境遇を思うと、弟と彼女の交際はまさにそんな感じだった。俺は彼女の上品な雰囲気に気後れしてしまった。女っ気のない家で育ったから、女性をもてなす経験なんて皆無で、かなり緊張した。
とはいえ、こちらが神経を使って接待した甲斐があって、彼女は感謝してくれた。俺にも彼氏の兄として丁寧に接してくれた。こんな素敵な人が弟の妻になってくれるのかと思うと、弟が羨ましかったほどだ。絶対に幸せになってほしいと思ったし、義理の妹を弟と同じくらい大切にしていきたいと思った。最初のうちは。
それから何度か彼女は俺の家に来た。狭い家に居心地悪そうにしていることもあったが、基本的には機嫌よく振る舞っていた。我が家に馴染んでくれたのかと、俺は勝手に嬉しくなっていた。それを裏付けるように、弟と彼女の結婚が決まったから、なおさら安心して嬉しかった。
結婚式の一週間前の日曜日。仕事は休みで家でのんびりしていたら、彼女から直接電話がかかってきた。電話越しでもわかるほど、声は弟の前とはまったく違っていて、機嫌が悪そうだった。
「お兄さん。来週の私とかけるの結婚式なんですけれど、来ないでくれませんか」
「どういうことだ」
驚く俺をよそに、彼女は続けた。
「私の家はそこそこ格式のある家なんです。かけるは育ちなんて関係なく優秀だし、かっこいいからまだわかりますけれど。お兄さんみたいな学歴もない、職業もお粗末な人が、今後我が家の身内になるのはちょっと困るというか。私だけならまだしも、パパやママに惨めな思いをさせるわけにはいかないんですよ」
言葉を濁すことなく、はっきりと言われた。弟は彼女の竹を割ったような性格を好きだと言っていたが、俺にはただただ残酷だった。
「兄弟の縁を切ることは法律的にもできないので諦めますけれど、せめていないふりをしていただきたいんです。結婚式に参列しないで、家族の顔合わせに参加しないでほしい。それだけです。やっていただけますか。私とかけるの明るい未来のためにも」
彼女のことはともかく、弟の明るい未来のためと言われては、俺は否定できなかった。だって俺はこれまで弟の幸せのために生きてきたのだ。ここに来てその方針を覆すような真似はできない。たとえその結果、弟の晴れの日に同席できなかったとしても。
「君の言うことはわかる。俺だって今まで生きていて、学歴や職業のことで何も言われなかったわけじゃないからな。俺が欠席することがかけると君のためになるなら、当日は欠席するよ」
「ええ、くれぐれもよろしくお願いしますね」
俺が折れると、彼女の機嫌はようやく戻ったようで、聞き慣れた明るい声で別れを告げて通話を切った。
電話を切ると、一気に疲れが押し寄せてきた。畳の上にしゃがみ込んでしまう。あんなことを言われて、悔しくないわけがない。むしろ弟の妻になる相手にすら、自分のことをそんな風に思われているという事実が悲しかった。何より辛いのは、弟の結婚式に参加できないことだ。両親の分まで、家族四人で祝いたいと思っていたのに。
でも否定できなかった。実際、学歴は高くないし、職業だって誇れるものじゃない。勉強する道を諦めたのは自分だ。だから悪いのはむしろ俺なんだ。弟の幸せに水を差しているのは、俺の方なんだ。
激しい自己嫌悪に陥りながら、その日を憂鬱な気持ちで過ごした。何も手につかず、一日中ぼんやりしていると、仕事が終わった弟が帰ってきた。夕食を食べながら、結婚式の食事の話、新婚旅行のこと、その後の生活のことなどを楽しそうに話してくれる。でも、あんなことを言われた後だから、俺は何も言い出せなかった。
「兄さん、どうした。具合が悪いのか」
心配した弟が顔を覗き込んできた。なんて言えばいいのか悩んだ。頭の出来がいいわけじゃない俺は、嘘も下手だ。だからこういう時ははっきり言うようにしている。でも、自分の口から弟の妻になる女性のことを悪く言いたくなかった。でも、弟からも彼女と同じことを言われたら、俺だって諦めがつく。潔く欠席しようと思える。
だから弟から嫌われる覚悟を決め、正直に全部話した。彼女から、俺のような人に誇れる生き方をしていない人間は結婚式に出席しないでほしいと言われたのだと。お前も同じように思っているなら、はっきりそう言ってくれ。俺はお前に迷惑だと思われるのが一番辛いから、お前が俺に参加するなと言うなら、喜んでそうすると。
すると弟は、心の底から怒っている声で言った。
「僕がそんなことを言うと思っているのか。たった二人の家族に、そんなひどいことを思うわけがない」
吼えるようにそう言ってから、少し落ち着いた。何かを思いついたような顔をして、言った。
「兄さん、あいつの言う通り、結婚式には来ないでくれないかな。家で僕が帰ってくるのを待っていてほしい。頼むよ」
「え、どういうことだ」
衝撃的な言葉だったが、続くかけるの言葉で、何らかの考えがあってのことだと理解した。
「ひどいことを言う人の祝いの場なんかに、顔を出す必要はないってことだよ、兄さん」
結婚式当日。俺は来るなと言われたものの、やっぱり心配だった。弟にとって俺は唯一家族と呼べる存在だ。親族の顔合わせで問題やいざこざが起きていないか、どうしても気になってしまう。だから一応スーツを着て、こっそり式場に足を運んだ。
だが、弟たちの会場はやけに静かだった。不思議に思いながら近くをうろうろしていたスタッフに、声をかけた。
「あの、遅刻してしまって。今どの辺りまで進んでいますか」
するとスタッフはこう答えた。
「新郎様のご親族が誰一人まだいらしていなくて、式を始められないんです」
弟の控え室に案内してもらい、俺は弟に問いかけた。
「かける、おじさんたちが来ていないんだって」
「兄さん、そうだよ。僕が来なくていいって言ったんだ」
「どうしてそんな急に来るななんて」
「おじさんやおばさんに、兄さんが言われたことを話したら、『じゃあ俺たちも、必要な時に何もしてやれなかった。恥ずかしい身内だから、式に行くのをやめる』って言うから。だから今日は誰も来ないよ。僕も、もったいないから飯だけ食って帰ろうと思う」
そんなめちゃくちゃな。動揺を隠しきれなかった。そんな嫌がらせみたいなことを、親戚全員を巻き込んでする必要なんてないじゃないか。何よりかけるにとっては晴れの日だろう。どうしてそんなことをしようと思い付いたのだろう。
俺が黙っていると、かけるは俺を安心させるように話してくれた。
「彼女のことは愛していたけれど、僕の誇りである兄さんにひどいことを言うのは、絶対に許せない。親戚のおじさんたちも同じ気持ちだよ。あいつが兄さんを家族だと思えないって言うなら、僕だってあいつの家族にはなれない。婚約は解消しようと思う」
偶然だろう、かけるがそこまで言い切った辺りで、一人の女性が部屋に飛び込んできた。花嫁姿の彼女だった。
「ちょっと、いつまで待たせるの。もうとっくに開始時間を過ぎているのに」
うろたえる彼女に、かけるは平然と言い放った。
「少なくとも僕の親族は誰も来ないよ。ここにいる兄さんは、この結婚式に来たわけじゃない。ただ僕に会いに来てくれただけの人だ。結婚式は食事だけ食べて解散しよう。で、お前とは結婚はできない。婚約をなかったことにさせてほしい」
「そんなの無理よ。結婚式をドタキャンだなんて。恥をかかされた」
顔を真っ赤にして怒る彼女に、かけるの態度は冷淡だった。
「お前、兄さんにひどいことを言ったようだな。僕たち家族の事情は前に話しただろう。それを知っている上で、兄さんを悲しませるようなことを言ったんだ。それも僕がいない隙を狙ってだ。随分と姑息なことをするものだな。最初はかなり驚いたけれど、お前は確かにそういうことを考えそうな奴だ。人間を経歴の良し悪しでしか見られないんだろう。僕も、お前の言う『ダメな人間』に育てられたダメ人間でね。だから、自分の家族を大切にしてくれない女性と結婚することはできないんだよ」
彼女は泣き出してしまった。
「迷惑なのは本当のことよ。だって社長令嬢の旦那の家族が、中卒で土木でしか働けないなんて見苦しくて、どこにも紹介できないじゃない」
俺はここまで言われて黙っているのかと、自分に問いかけた。弟が怒ってくれて、味方をしてくれている。俺が黙って引き下がったら、弟がバカみたいじゃないか。これは俺と彼女の問題だ。
確かに彼女の言うことはその通りかもしれない。でも俺は俺なりに一生懸命生きてきた。それを何も知らない人から馬鹿にされたら、たまったものじゃない。
「俺は確かに賢くない。人に誇れる経歴もないよ。でも、そんなものがなくても、大切な家族を守るために強く生きてきたつもりだ。君に俺の生き方を否定する資格はない」
ヒステリックな泣き声と俺の大声に、彼女の親族や式場のスタッフが集まってきた。彼女の暴言を耳に入れたことになる。彼女の親は、彼女の言葉で何が起こっているのかおおよその察しがついたのか、弟と俺に向かって頭を下げてきた。
「ようやく結婚にこぎつけたのに、お前はまたそんなことを言って。やっと親の手を離れると思って安心していたのに」
彼女の父親が頭を抱えて彼女を叱る。
「大変申し訳ございません。甘やかしすぎた親の責任もあります。心からお詫びしますので、どうかこの子を許してやってください」
母親は、せっかく綺麗な着物を着ているのに、恥ずかしそうな申し訳なさそうな顔で、俺と弟に向かって頭を下げていた。参列者である彼女の友人たちも、彼女の新郎家族への暴言はさすがに目に余ると思ったのだろう。助け舟を出す者も、割って入ってくる者もいなかった。ただ呆れたように彼女を眺めていた。彼女も、自分の言ったことによって周りがどういう反応をしているのか、あるいは自分が招いた最悪な状況をようやく理解したのか、もう何も言えなくなっていた。
「僕は両親が亡くなった時七歳だったけれど、中学を出てからすぐに働き始めた兄さんが、いろんなことを我慢して働いてくれていることを知っていた。誰にでも真似できる生き方じゃない。同じ立場だったとしても、僕には絶対できていなかったと思う。それに学歴があったってできるとは限らない生き方だ。七歳でも分かったことなのに、お前はそれすら分からなかった。お前は七歳以下の子供だ。子供とは結婚できないし、したくない。だから婚約は破棄させてもらう。もう顔も見たくない」
そう言った後、かけるは彼女の両親に丁寧に謝り、スタッフに突然のキャンセルを謝っていた。とても丁寧に物静かに謝っていたものの、これは逆に主張を一切変えるつもりはないという意思表示でもある。人生における最大のターニングポイントの一つである結婚を、自らの行いで破綻させてしまった彼女は、呆然とした顔でそれを眺めていた。
「あなたにも、こういう時叱ってくれたり、かばってくれたりする家族がちゃんといるじゃないですか。俺の弟もね、あなたとの電話の話をした時、俺よりも怒ってくれたんです。学歴や職業ももちろん大事ですけれど、俺にとっては弟の方がそんなものよりずっと大事だと改めて分かりました。だからあなたのような人と結婚しないと言い切ってくれて、今は少し安心していますよ」
彼女はまた泣いた。もうそれくらいしかできることがないのだろう。こうして結婚式は、始まる前にお開きになったのだった。
その後、弟は本当に彼女との婚約を破棄した。婚姻届をまだ出していなかったこともあり、手続きすることも何もなかったようで、あっという間に彼女と縁を切ってしまった。それから参列者の誰かが当時の現場を撮影した画像をネット上に拡散してしまったため、彼女と彼女の家族は会社でも立場がなくなってしまったらしい。恋愛も結婚もできないだろう。こんな彼女にはきっといい薬だ。結婚式のキャンセル料は彼女側が全額負担してくれたとかけるは言う。当然といえば当然だ。めちゃくちゃにしたのは彼女の方なのだから。
俺は弟に感謝している。自分のことであんなに怒ってくれる人間を、他に知らない。家族だからというだけでなく、人として尊敬してくれているのだなと、こんなきっかけだが改めて知ることができた。この事件を経て、怪我の功名というやつなのか、兄弟の絆が一層深まったような気がする。親がいないなりに大切に育ててきた弟が、立派な人間に成長してくれて、俺は本当に誇らしい。
そして弟に背中を押され、俺は兼ねてより考えていた高卒認定試験の勉強を始めることにした。一年後、無事に試験に合格した俺は仕事を変えた。今までと全く違う業種だけれど、新しいことを学ぶのは楽しい。仕事に励んでいるうちに、俺には人生初の恋人もできた。もちろん彼女は、俺と俺の大切な家族をちゃんと大切にしてくれる女性だ。今度家に呼んで、弟のことを紹介するつもりだ。俺の自慢の弟なんだと。



