「お前、犯罪者の妹にはこんな貧乏臭い名刺入れがお似合いだ」
大阪部長が放ったその言葉を、吉田は何も言わずに受け止めた。ただ、ゴミ箱に投げ捨てられた古びた黒い名刺入れを拾い上げ、袖口で丁寧に汚れを拭った。その手は、かすかに震えていた。
あれから3年。彼女はこの名刺入れを決して手放さなかった。角は擦り切れ、留め金も歪んでいる。それでも、その中にしまわれた一枚の名刺が、彼女がここに来た本当の理由だった。
吉田さお、29歳。派遣社員として大江商事の営業部に配属されたのは、4月のことだった。もの静かな印象の女性で、デスクに案内されると古いボールペンで伝票に丁寧な字を書き始めた。数字に強く、判断が早い。同僚たちは「新人にしては熱心すぎる」と影で噂した。
営業部長の大阪は、最初から彼女に興味を示さなかった。
「派遣なんて、電話と伝票整理ができれば十分だ」
そう周囲に漏らしていた。
経理の関根は隣の席で、人当たりの柔らかい女性だった。入社してすぐに吉田に声をかけた。
「吉田さん、覚えるのは早いね」
「ありがとうございます。前職で多少、数字を扱う仕事をしていたので」
吉田は短く答えた。それ以上は語らなかった。
昼休みに関根が定食屋に誘うと、吉田は少しだけ表情を緩めた。
「休みの日は何してるの?」
「本を読んだり、家族のところに顔を出したり。特別なことは何も」
「真面目だね。私なんて寝てるだけだよ」
吉田は促されて小さく笑った。その笑顔は、会社で見せるものより少しだけ柔らかかった。
配属から2週間後、吉田は初めての商談に同行することになった。相手は相模製作所の専務、藤堂正一。業界でも名の知れた大口取引先だった。大阪部長が同席するはずだったが、急な会議で遅れることになり、吉田が一人で応対することになった。
「今日は大阪部長がご一緒できず、私一人での説明となります。ご不便をおかけして申し訳ございません」
吉田は資料を丁寧に並べ、淡々と説明を始めた。数字の根拠、納期の見通し、想定されるリスク。一つ一つを簡潔に、しかし漏れなく伝えていく。
藤堂は驚いたように吉田を見た。
「派遣の方が、そこまで考えて提案を?」
吉田は静かに微笑んだだけだった。
「吉田さん、この業界は長いんですか?」
「いえ、まだ日が浅いです。ただ、数字と向き合うのは嫌いではありません」
藤堂は少し笑い、吉田の手元のボールペンに視線を落とした。
「そのペン、随分と古いものを使われていますね」
「大切な人からもらったものなので」
藤堂はそれ以上聞かず、何かを思い当たるように口をつぐんだ。
商談は成功した。藤堂は次の契約について、吉田を個人の窓口として希望すると言い出した。派遣社員の個人指名は、この会社では前例がなかった。
会社に戻った吉田に、大阪は何も言えなかった。
「ああ、決まったのか。まあ、俺が今まで築いてきた関係があったからな」
そう言い残して戻っていった。
翌日、関根が何気なく話しかけた。
「吉田さん、ご家族は?」
「兄が一人います。少し体を悪くして、今は療養中です」
吉田は小さく頷くだけで、それ以上は語らなかった。
ある取引先で些細なトラブルが起きた。入力ミスにより納期に間に合わない事態が発生したのだ。担当していた若手社員が青ざめる中、吉田は静かに動いた。翌朝には解決策を取引先に提示していた。
「助かりました、吉田さん。正直、もう契約は打ち切りかと思っていました」
「当然のことをしたまでです」
この一件は社内でも小さな評判になった。一方で大阪は別の取引先との商談で、些細な言い違いから相手を怒らせてしまい、契約打ち切りの一歩手前まで進んだ。
その夜、吉田は一人で契約書の控えを見直していた。3ヶ月という短い期間の中で担当した案件は12件。そのうち9件が、彼女個人への信頼によって成立していた。数字は誰の目にも明らかだった。だが、それを正しく評価する者は、この会社には一人もいなかった。
翌月、本社で開かれた四半期の報告会。大阪は壇上に立ち、堂々とした様子でスライドを進めていく。
「藤堂社との大型契約。これは私が長年築いてきた信頼関係の賜物です。今期の営業部の数字を大きく押し上げる要因となりました」
会場から拍手が起きた。
「素晴らしい実績ですね、大阪部長」
大阪は得意げに胸を張った。
「ありがとうございます。これも部下たちの頑張りのおかげです」
「部下」という一言だけで、吉田の名前は消された。
報告会が終わり、廊下に出たところで関根が追いついてきた。
「吉田さん、あれ、吉田さんが取ってきた契約だよね。なんで大阪部長が自分の手柄みたいに言うんですか?」
「派遣ですから」
「そんな言い方しないでよ」
「でも、ありがとうございます、関根さん。本当に大丈夫です」
関根はそれ以上何も言えなかった。
その週末、大阪は人事部に呼ばれた。次期役員候補として名前が上がっていることを告げられた。
「藤堂の件は大きいですね。部長からさらに上のポストも視野に入ってきますよ」
「当然です。私がいなければ、あの契約は取れませんでしたから」
家に帰った大阪は、妻に長々とその話をした。
「今度、役員になるかもしれない。俺の実力がようやく認められた」
妻は嬉しそうに頷いた。
「あなたなら当然よ。ずっと頑張ってきたんだから」
翌日の朝、大阪は吉田に近づき、コピー用紙の束を突き出した。
「吉田、これ会議資料100部しといて。ついでにお茶も用意しといてくれ」
「かしこまりました」
吉田はコピーとお茶の準備を黙々とこなし、評価対象にも名前は上がらなかった。
忘年会では端の席に追いやられ、大阪は神座で酒を飲みながら笑いかけた。
「派遣なんだから、まあこの辺で十分だろ」
大阪はそう言って部下たちの笑いを取った。誰も反論しなかった。
隣に座った若手社員が気まずそうに小声で話しかけてきた。
「吉田さん、すみません」
「こんな席で大丈夫です」
酒が進むにつれ、大阪はさらに声を張り上げた。
「うちの営業部はな、正社員が引っ張っていくもんなんだよ。派遣は補助でいいんだ。何年働こうが、派遣は所詮、部外者だからな」
会場の空気が少し重くなった。関根は眉をひそめたが、何も言わなかった。吉田はグラスを静かに置き、席を立った。
「お手洗いに行ってきます」
吉田が席を外している間、関根は隣の同僚に小声で言った。
「吉田さん、本当によくできる子なのにもったいないよね、あんな扱い」
同僚は頷きながらも、それ以上は何も言わなかった。
忘年会から数日後、大阪は月の営業成績表を見て舌打ちをした。吉田の数字が、自分の直属の部下の誰よりも高かったからだ。大阪はその日、部下たちを集めて言った。
「数字だけが全てじゃない。営業は人間関係が命だ。派遣にそれが分かるはずがない」
その場にいた誰もが何も言わなかった。ただ心の中では、誰もがそれが強がりだと分かっていた。
ある日の午後、吉田が来客対応で席を外していた。大阪はたまたま吉田のデスクの近くを通りかかり、カバンの口が少し開いているのに気づいた。中に見慣れない黒い革製のものが見えた。大阪は興味本位でカバンの中を覗き込み、あの古びた黒い名刺入れを取り出した。
「なんだこれ? 安物じゃないか」
大阪は無造作にそれを手のひらで弄った。
そこへ吉田が戻ってきた。大阪の手にある名刺入れを見た瞬間、その足が止まった。
「それは、お返しください」
吉田の声はいつもより低かった。
大阪はにやりと笑い、名刺入れを高く掲げた。
「こんなボロボロのもの、まだ使ってるのか? 今時名刺入れなんて、スマホがあれば十分だろ」
大阪はふと名刺入れの蓋に小さく刻まれた文字に気づいた。それを読み上げ、首をかしげた。
「川井…。彼氏の忘れ物か?」
大阪の目が細くなった。
「ああ、そういえば聞いたことがあるな。うちの元社員に、同じ苗字の横領犯がいたな。あれから何年経つか」
吉田の表情が、初めてわずかに動いた。それまで崩れることのなかった穏やかさに、かすかなひびが入った。
「まさか、お前、あいつの妹か?」
大阪は名刺入れをゴミ箱に向かって放り投げた。乾いた音を立てて、名刺入れがゴミ箱の底に落ちた。周囲の社員たちは気まずそうに目をそらした。誰も拾おうとはしなかった。
吉田は静かにゴミ箱に歩み寄り、名刺入れを拾い上げた。袖口で丁寧に汚れを拭っていく。その手は、かすかに震えていた。
関根がそっと近づき、吉田の背中に手を添えた。
「吉田さん、大丈夫?」
「大丈夫です。ただ、大事なものなので」
関根はそれ以上聞かなかった。だが、吉田の指先がまだかすかに震えていることに気づいていた。
その夜、吉田は洗面所で名刺入れを拭き直し、しばらく目を閉じていた。
数週間後、相模製作所との懇親の席が設けられた。大阪は幹事役として、吉田を含む営業部の数名を引き連れていた。藤堂も同席していた。
座敷に案内されると、大阪は上座に腰を下ろし、早速酒を注文した。
「藤堂さん、今日はゆっくりやりましょう」
酒が進むにつれ、大阪の口はどんどん軽くなっていった。
「藤堂さん、うちとの取引、今後もよろしくお願いしますよ。裏では色々とやってますからね」
藤堂は静かに盃を傾けながら、大阪の話に耳を傾けていた。表情には出さないが、その目はどこか冷静だった。
大阪は声を潜めるふりをしながら、実際には周囲に聞こえる声で続けた。
「発注の数字なんて、後からいくらでも調整できるんです。昔からうちのやり方でしてね。書類を一枚差し替えるだけで、誰も気づきませんから」
同席していた若手社員がぎこちなく笑ってごまかそうとした。
「部長、その話は…」
「何言ってんだ? これも営業のテクニックだろ? 数字は作るもんだ。結果さえ出せればいいんだよ」
藤堂の表情が、わずかに固くなった。
大阪はさらに続けた。
「そういえば、昔うちにいた社員が一人、これで痛い目を見ましてね。真面目すぎたのか、根性が悪かったのか。まあ、うまく処理はしましたけどね」
座敷に一瞬の沈黙が流れた。吉田は隣で静かにグラスを傾けていた。その顔に表情はなかった。ただ、テーブルの下で膝の上の手が固く握られていた。
藤堂は何も言わず、テーブルの下でそっとスマートフォンを操作した。ボイスメモのアイコンが、赤く点滅していた。
「大阪さん、その話、詳しく聞かせていただけますか?」
「いや、大したことじゃないですよ。ただの昔話です」
大阪はグラスを傾け、上機嫌に笑った。
その後も大阪は上機嫌で語り続けた。自分が何を口にしたか、気づいていなかった。
その翌日、本社から連絡が入った。営業部の業績について、来月臨時の監査を行うという通知だった。理由は明かされなかった。
大阪は通知を一瞥し、鼻で笑った。
「うちの数字は問題ない。むしろ褒められるくらいだ」
関根は不安そうに吉田に耳打ちした。
「吉田さん、なんだか嫌な予感がする」
「大丈夫です。心配いりません」
その言葉には、いつもとは違う確信のようなものが込められていた。関根はそれに気づかなかった。
そして、その日が来た。3ヶ月間の契約期間が満了する日だった。
吉田は一番早く大阪のデスクに向かった。
「一身上の都合で、本日をもって退職させていただきます。長い間、お世話になりました」
大阪は書類から顔も上げず、鼻で笑った。
「まあ、派遣なんだから、いつでも代わりはいるさ。次も探しておくよ」
吉田は深く一礼し、自分のデスクに戻った。引き出しの中身を丁寧に整理し、手荷物をダンボールに詰めていく。ボールペンを胸ポケットにしまい、名刺入れを鞄の奥にそっと入れた。
関根が心配そうに近づいてきた。
「吉田さん、本当にやめちゃうの?」
「はい。関根さん、色々とありがとうございました。優しくしていただいて、嬉しかったです」
関根は少し涙ぐみながら吉田の手を握った。
「吉田さんみたいな人が、もっとちゃんと評価されるべきなのに」
吉田は何も答えず、ただ頭を下げた。ダンボールを抱え、フロアを見渡した。誰も声をかけてこない。それでも吉田の足取りに迷いはなかった。
「では、失礼いたします」
吉田はそれだけ言うと頭を下げ、フロアを出ていった。誰も引き止めなかった。エレベーターの扉が閉まる瞬間、吉田は小さく息をついた。
その数分後、大阪のスマートフォンが鳴った。相手は相模製作所の藤堂からだった。大阪は口元を緩めながら電話に出た。
「もしもし、藤堂さん。いつも世話になってます」
「吉田さんが担当を外れると伺いました。今後の契約は、一旦見直しをさせていただきたく思います」
大阪の言葉を遮るように、藤堂が言った。大阪の顔から見るみる血の気が引いていった。
「藤堂さん、それはどういう…。吉田はただの派遣ですよ。契約には関係のない話だと思いますが」
「大阪部長。私は吉田さんを信頼して契約を続けていたんです。あなたではありません。今回の件、正式な書面で改めてご連絡します」
電話が切れた。大阪は呆然とスマートフォンを見つめた。しばらくして慌てて吉田に電話をかけたが、つながらなかった。何度かけても同じだった。
大阪は資料を漁ったが、吉田抜きで成立した案件はほとんどなかった。この3ヶ月の成果の大半に、吉田さおという名前が絡んでいたことに、初めて気づいた。額に汗を浮かべ、窓の外を見つめたまま動けなかった。
その日の午後、取引先に次々電話をかけたが、返事はどこも同じだった。
「吉田さんが窓口ではなくなったのですね。それなら、少し検討させてください」
自分の実績だと思っていたものが、音を立てて崩れていく感覚だった。
夕方、関根が大阪のデスクに近づいた。
「部長、吉田さんの連絡先は…」
「今、それどころじゃない」
関根は何も言わず自分の席に戻り、そして小さくつぶやいた。
「バチが当たったのかもね」
大阪は一晩かけて弁明の筋書きを組み立て、数日後、本社の会議室に呼び出された。
指定された会議室に入ると、大阪の足が止まった。長テーブルに本社の役員たちが並んでいた。その中には、吉田の姿があった。大阪の顔がこわばった。
「なぜ、こいつがここに…」
「大阪部長。相模製作所より契約見直しのご連絡をいただいております。その経緯について、ご説明いただけますか?」
大阪は昨夜組み立てた筋書き通りに、言葉を選びながら答えた。
「これはおそらく、個人的な感情が絡んでいるものと思われます。実はそこにいる吉田という契約社員の兄は、以前当社で横領事件を起こした人物です。犯罪者の妹が、私怨で取引先を動かした可能性が…」
会議室に重い沈黙が流れた。役員たちの視線が吉田に集まった。
吉田は静かに立ち上がった。表情に動揺はなかった。
「大阪部長のおっしゃる通り、私の兄はかつて当社で横領の実行犯とされました。ですが、それが事実かどうかは、これから明らかになります」
吉田は鞄から古びた黒い名刺入れを取り出した。大阪の目がその名刺入れに釘付けになった。あの時ゴミ箱に投げられたものだった。
吉田は名刺入れを開いた。中から出てきたのは、一枚の名刺だった。役員の一人がそれを受け取り、目を通した。
「弁護士、川井…?」
会議室が一瞬静まった。
「お前、弁護士なのか? なんでうちに派遣で…」
「兄の名誉を回復するためです。3年前、当社で横領事件があったと記録されています。実行犯とされたのは営業部の川井、私の兄です。3ヶ月前、藤堂様には兄の件と、退職時に契約を見直していただきたい旨だけお伝えしていました」
藤堂が頷いた。役員たちの視線が、今度はそちらに向いた。会議室の空気が凍りついた。
吉田はもう一枚、書類を取り出した。
「これは相模製作所の藤堂からお預かりした録音データの写しです。大阪部長、あなたが先日懇親の席でおっしゃっていましたね。『書類を一枚差し替えるだけで誰も気づかない』と。横領を隠すのも、同じやり方だったと」
大阪の顔が真っ青に変わっていった。
「そんな、あれはただの…」
大阪が言い終わる前に、会議室のドアが開いた。藤堂が静かに入ってきた。
「大阪部長。私は昔、川井さんに世話になりました。彼が濡れ衣を着せられて会社を追われた時、私は何もできませんでした。ずっと、それを悔んでいました」
藤堂は深く頭を下げた。
「吉田さん。いや、川井さん。何もできなかった詫びです。この録音、正式に提出させていただきます」
藤堂は懐からもう一つの資料を取り出した。
「3年前の発注伝票も、こちらで独自に調べ直しました。当時川井さんが担当していた案件の一部は、実際には大阪部長が指示を出していたものだと判明しています。私も、10年前に川井さんに深夜まで付き合って救われた恩があります。恩を返せないまま彼が追われたと聞き、ずっと後悔していました」
役員たちがざわついた。大阪は言葉を失い、椅子から立ち上がりかけて、そのまま崩れるように座り込んだ。
「大阪部長。これはもはや社内だけの問題では済まされません」
大阪は何も言い返せなかった。ただ、汗が次々と落ちていた。
しばらくして、大阪は声を絞り出した。
「待ってくれ。これは何かの間違いだ。俺は会社のために…」
「会社のためではなく、ご自身のためだったのではないですか。キックバックのデータ、大阪部長名義の別口座の存在は、すでに確認されています」
大阪の顔から完全に色が消えた。別口座に振り込まれた金額の大半は、高級腕時計や海外旅行、個人的な飲食に当てられていた。
「弁護士として、この件は正式に告発させていただきます。刑事・民事、両方の手続きを進めます」
会議室に、それ以上の言葉は必要なかった。数十分後、大阪は総務部の人間に連れられ、会議室を後にした。振り返ることもできず、ただうつむいたまま廊下を歩いていった。その背中を、誰も見送らなかった。
「川井先生。この度は大変失礼いたしました。会社として正式に調査委員会を立ち上げます。全面的に協力させていただきます」
「よろしくお願いいたします」
会議室を出る吉田に、藤堂が声をかけた。
「川井さん。兄さんはお元気ですか?」
「まだ療養中です。ですが、今日のことを話せば、きっと少しは前を向けると思います」
「本当に申し訳なかった」
「藤堂さんが動いてくださらなければ、ここまでたどり着けませんでした。ありがとうございます」
その後、大阪は懲戒解雇の手続きが進む中、必死に社内の人脈を頼ろうとした。長年可愛がってきたはずの部下たちに、次々と連絡を入れた。
「村井、頼む。俺ははめられたんだ。お前は知ってるだろう。俺がどれだけこの会社に貢献してきたか。証言してくれないか」
電話の向こうの村井はしばらく沈黙した後、静かに答えた。
「すみません、部長。俺には妻も子供もいます。巻き込まれたくありません」
大阪は次々と連絡先をたどった。だが帰ってくる答えはどれも同じだった。かつて酒を注いでいた部下たちは、誰一人として大阪の味方をしなかった。
「大阪部長には昔から数字を作れと言われていました。逆らえる空気ではありませんでした」
大阪は最後まで、自分が悪いとは思っていなかった。
その夜、吉田は名刺入れの隠しポケットから兄の字のメモを見つけ、翌日調査委員会に提出した。
数週間後、大江商事は臨時の取締役会を開き、大阪の懲戒解雇を決定した。裏キックバックの全貌が明らかになり、過去5年間で8000万円を超える不正な利益供与が確認された。大阪は書類送検され、刑事事件として捜査が進められることになった。取引先の多くが契約の見直しを申し出た。かつて神座に座った男の周りから、一人一人と人が離れていった。
数ヶ月後、大阪の初公判が開かれた。傍聴席にかつての部下は一人もおらず、検察官が5年間の不正を淡々と読み上げた。証拠の発注書には、当時の大阪の筆跡が残されていた。
裁判官が被告人に最後の発言を求め、大阪は絞り出すように言った。
「反省しています。ただ、一つだけ言わせてください。私は川井君に恨みがあったわけじゃない。ただ、自分が可愛かっただけです」
判決は懲役2年、執行猶予4年。傍聴席の吉田に、勝ち誇る感情はなかった。
大阪は腕時計を外し、法廷を後にした。川井の懲戒処分は取り消された。大江商事の営業部には新しい部長が着任した。関根は経理から営業部の主任へと移動になった。かつて誰も座らなかった端の席には、今は誰でも自由に座れるようになっている。
関根は時々、吉田という名前を思い出した。同僚に聞かれることがあった。
「あの人、今はどうしてるんだろうね」
「きっと、どこかで誰かを助けてると思う」
数日後、吉田の元に関根からメッセージが届いた。
「吉田さん、ニュース見たよ。本当にお疲れ様。今度、お茶でもしない?」
吉田は少し微笑み、返信を送った。
「是非。今度は本当の名前で、ゆっくりお話しさせてください」
その少し前、兄は療養先の病室で、大江商事の元部長が書類送検されたニュースを見ていた。何年も前に奪われたはずのものが、静かに戻ってくる気配を感じていた。
数週間後、吉田は兄の病室を訪れていた。以前より随分と痩せていたが、その目にかすかな光が戻っていた。
「兄さん」
吉田はボールペンと名刺入れをそっと差し出した。兄はそれを受け取り、指先でゆっくりとなぞった。手のひらの上で、古い革の感触を確かめるように。
「これ、ずっと持っていてくれたのか」
「『捨てろ』って言われたこともあったけど」
吉田は小さく笑った。目尻にしわが寄った。
「捨てなくてよかったな」
吉田も微笑んだ。それ以上、言葉は必要なかった。
兄は名刺入れを開き、中の名刺をじっと見つめた。
「弁護士、川井…」
その文字を何度も指でなぞった。
「お前がこんなに頑張ってるって、俺、全然知らなかった」
「知らせるつもりはなかったから。知ったら、兄さんが無理に元気なふりをすると思って」
兄が笑みを浮かべた。
「バレてたか」
しばらくの沈黙の後、兄が静かに口を開いた。
「お前が弁護士になったの、俺のためだったんだろ」
「兄さんのためだけじゃない。誰かが同じ目に遭わないように。そのためでもある」
兄は頷いた。
「そうか」
吉田は兄の隣に椅子を寄せ、その横顔をただ見つめていた。二人の間に流れる時間は、これまでのどんな時よりも穏やかだった。
数ヶ月後、吉田は法律事務所のデスクで、新しい依頼人の資料に目を通していた。窓の外には見慣れた東京の街並みが広がっている。デスクの上には、あのボールペンの代わりに新しいボールペンが置かれていた。名刺入れはもう、鞄の奥に隠す必要はなかった。
同僚が声をかけた。
「川井さん。次の依頼も、また似たような案件みたいですよ」
「分かりました」
派遣先で理不尽な扱いを受ける人の相談が、増えていた。一件ずつ、丁寧に向き合う。それが、吉田のやり方だった。



