「母さん、もう一生そこに入院してればいいよ。帰ってこなくていいから」…

「母さん、もう一生そこに入院してればいいよ。帰ってこなくていいから」...

病院のベッドで点滴を受けながら、私は震える手でスマートフォンを耳に当てた。息子の誠一から久しぶりの電話だった。入院して二週間、連絡がめっきり減っていただけに、その声が聞けただけで嬉しかった。

「母さん、もう一生そこに入院してればいいよ。帰ってこなくていいから」

心臓が止まったような気がした。聞き間違いかと思った。

「え、誠一、今なんて言ったの?」

「聞こえなかったの? 母さんの部屋、もう片付けたから。荷物は全部処分したよ」

息子の声に、ぬくもりは一切なかった。まるで他人事のように淡々としていた。

頭が真っ白になる中、背後から聞こえてきた声が私をさらに奈落の底へ突き落とした。

「あら、お母さん、もう行っちゃったの?」

声の主は、嫁の彩子だった。

「うちの両親が来月から同居することになったんです。お母さんの部屋、ちょうど開いてよかったわ」

彩子の高笑いが白い天井に響き渡った。私の手からスマートフォンが滑り落ちた。心電図のアラームが鳴り響き、看護師が駆け込んでくる足音が遠くに聞こえた。

私は岡田文子、六十八歳。二十六歳で美容師免許を取得してから、四十二年間、はさみ一本で生きてきた。夫を早くに亡くし、女手一つで息子を育て上げた。朝五時に起き、夜十時まで立ち仕事。手は薬品で荒れ、腰は悲鳴をあげていたが、それでも休まなかった。誠一に苦労させたくない。その一心だった。

誠一の教育費は総額一千万円。大学の入学金も、一人暮らしの仕送りも、全て美容室の売上から出した。結婚式で「母さんのおかげで今の俺がある」と涙を流してくれた息子の顔を、今でも忘れられない。家を買う時は、貯金を崩して八百万円の頭金も援助した。三ヶ月前、過労で倒れて救急搬送された時も、誠一は真っ先に駆けつけてくれた。「母さん、今まで無理させてごめん。ゆっくり休んで」と手を握ってくれた。

でも、それから二週間後。彼の態度は急変した。電話もつながらなくなった。そして今日、入院中の私に投げつけられた、あまりにも残酷な言葉。

四十二年間、息子のために生きてきた私の人生は、一体何だったのか。

翌朝、担当の看護師・田中さんが、申し訳なさそうな顔で病室にやってきた。

「岡田さん、ちょっとお話が」

その表情を見て、嫌な予感が胸を締めつけた。

「実は昨日、息子さんがいらっしゃって、お母様の貴重品を全部持ち出されたんです。通帳も印鑑も。私たちも止めようとしたんですけど、『母の代理人だ』と言われて」

血の気が引いていくのを感じた。あの通帳には、四十二年間コツコツ貯めた一千五百万円が入っているはずだった。震える手で銀行に電話をかけると、予想していた最悪の事態が確認された。

「ご自身で全額、引き出されています」

膝から力が抜け、ベッドに崩れ落ちた。

三日後、今度は病院の事務員がやってきた。

「岡田様、入院費のお支払いの件なんですが」

「息子が手続きしてくれているはずですが」

事務員は困った顔で首を横に振った。

「息子さんは、『母は認知症が進んでいてお金の管理ができない』とおっしゃって、支払いを拒否されています。でも岡田さん、全然そんなことありませんよね。主治医の先生も、単なる過労だと診断されていますし」

認知症? 私は言葉を失った。確かに六十八歳という年齢ではあるが、頭はしっかりしている。美容師として、今でも複雑なカットやパーマの技術を完璧にこなせるのに。

一週間が過ぎた頃、隣のベッドに入院してきた佐藤さんという女性が、恐る恐る声をかけてきた。

「あの、岡田さん。聞くつもりはなかったんですけど、昨日廊下で息子さんの電話が聞こえてしまって」

佐藤さんの顔は青ざめていた。

「息子さん、誰かと話してて、『母はもう長くない。今のうちに相続の準備をしている』って。それから『生命保険の受け取り人も俺に変更済みだ』って言ってました」

私は慌てて保険会社に確認すると、確かに受け取り人が息子に変更されていた。私の知らないうちに。

さらに衝撃的な事実が判明したのは、その三日後だった。四十年の親友・みち子が見舞いに来た時のこと。

「ふみ子、顔色が悪いわね。何かあったの?」

我慢しきれず、私は全てを打ち明けた。みち子の顔がみるみる青ざめていく。

「それだけじゃないのよ、ふみ子」

みち子は言いづらそうに続けた。

「あなたの美容室ね、不動産屋が売却の相談してるのを見たの。『母はもう店をやらないから』って」

四十二年間、朝から晩まで立ち続けた私の店。常連客との思い出が詰まった、私の人生そのもの。それを勝手に売ろうとしている。

「それから、彩子さんがあちこちで言いふらしてるわ。『お母さんは認知症で、退院したら施設に入れる』って。近所の人たちも、信じかけてる」

もう涙も出なかった。ただ、底知れない怒りだけが体の奥底から湧き上がってきた。

その夜、廊下を歩いていると、偶然にも息子夫婦の会話が聞こえてきた。個室の扉が少し開いていたのだ。

「あのばあさん、まだ生きてるの?」 彩子の声だった。

「しぶといよな。早くいなくなればいいのに」 息子の返事に、全身の血が凍りついた。

「葬式代ももったいないわ。直葬でいいわよね」

「ああ、骨も適当に散骨すればいい」

二人の笑い声が、暗い廊下に響いた。怒りと悔しさと、深い悲しみで全身が震えた。

翌朝、みち子が再び見舞いに来てくれた。しかし、その表情はさらに深刻だった。

「ふみ子、座って聞いて。もっと大変なことが分かったの」

みち子はスマートフォンを取り出した。画面には私の美容室の外観写真が映っている。

「昨日、あなたの店の前を通ったら、もう『売却済み』の看板が立ってたの。それで不動産屋に確認したら……」

みち子の声が震えている。

「売買契約書に、あなたの実印が押されてたって。でも筆跡は明らかに違うのよ。これ、文書偽造じゃない?」

四十二年前、必死に開業した美容室。手を薬品で荒らしながら働き続けた場所。私の人生の証が、偽造された書類で奪われようとしている。売却代金は三千万円。そのお金は、息子の口座に振り込まれることになっているという。

「それから、ふみ子の家のことなんだけど」

私は美容室とは別に、亡き夫から相続した一軒家を持っていた。築三十年だが、手入れを欠かさず大切に住んできた家だ。

「息子さん、その家も売りに出してるわ。『母は施設に入るから不要だ』って。近所の山田さんから聞いたの」

もはや言葉も出なかった。ただ天井を見つめることしかできなかった。その時、廊下から足音が聞こえてきた。息子と彩子だ。みち子がさっと身を隠し、二人の会話に耳を済ませた。

「施設の手続き、済ませてきたわよ」 彩子の得意げな声。

「一番安いところでしょう?」

「当然よ。月八万の相部屋。どうせ長くないんだから、それで十分」

息子の冷たい返事に、心臓が締めつけられた。

「でも、母さんが拒否したらどうする?」

「認知症の診断書があるじゃない。偽造だけど、医者のハンコもあるし完璧よ。成年後見人の申請も済ませたわ」

偽造の診断書に、成年後見人。私の人権を完全に奪うつもりなのか。

「それにしても、あのばあさんの貯金、意外とあったわね。一千五百万か。俺たちの老後資金にはちょうどいい」

「美容室の売却と家を売れば、合計五千万以上になるわね」

二人の笑い声が、病室にまで響いてきた。みち子が震え声でささやいた。

「ふみ子、これは犯罪よ。警察に……」

しかし、その時さらに恐ろしい会話が聞こえてきた。

「ねえ、お母さんの生命保険、いくらだっけ?」

「死亡保険金は二千万。でも入院給付金もあるんだ」

「じゃあ、できるだけ長く入院させておきましょう。給付金もらい続けて、最後に死亡保険金へ」

彩子の言葉に、背筋が凍った。

「でも、病院も無限に入院させてくれないだろ」

「大丈夫よ。主治医の先生、お金でなんとかなりそうな感じだったし、適当に病名つけてもらえばいいのよ」

みち子の顔は怒りで真っ赤になっていた。

「ふみ子、許せない。こんなの、人間のすることじゃない」

二人の足音が遠ざかっていくのを確認してから、みち子は立ち上がった。

「私、証拠を集めるわ。ふみ子は何も心配しないで」

その夜、看護師の田中さんがそっと耳打ちしてきた。

「岡田さん、気をつけてください。息子さんに何か渡しているのを見ました。封筒みたいなもの」

私の不安は的中した。翌日、主治医が病室にやってきた。今までとは違う、よそよそしい態度だ。

「岡田さん、検査の結果、ちょっと心配な数値が出ていまして。長期入院が必要かもしれません」

「先生、私は過労で倒れただけですよね。もう体力も回復してます」

医師は目を合わせようとしない。

「いや、その精神的な面でも心配が……」

「認知症ということにしたいんですか?」

私の直球の質問に、医師は顔を真っ赤にして出ていった。

その後、病室に見覚えのないスーツ姿の女性が入ってきた。

「岡田文子さんですね。私、市役所の高齢者支援課のものです」

差し出された名刺を見て、また息子の仕業だと分かった。

「息子さんからお母様の件でご相談がありまして。施設入所の手続きを……」

「結構です。私は自分の足で生きていきます」

女性は困った顔をした。

「でも、息子さんによると認知症が進んでいるとか……」

「私は認知症ではありません。これから証明します」

窓の外を見ると、息子と彩子が病院の駐車場で話していた。二人とも、ニヤニヤと笑っている。きっと私という邪魔者を排除できることを喜んでいるのだろう。四十二年間、息子のために生きてきた私。でも、息子にとって私はもはや金づるでしかない。それどころか、早く死んでほしい存在。涙が一筋、頬を伝った。でも、それは悲しみの涙ではなかった。怒りの涙であり、決意の涙だった。

その瞬間、私は決意した。もう我慢はしないと。

病室で一人になると、私は古い手帳を取り出した。これは四十二年間の美容師人生で培った、最も大切な財産だ。顧客リストがびっしりと書き込まれている。政界の大物夫人、有名女優、一流企業の女性社長。皆さん、二十年、三十年と通い続けてくださった方々だ。

まず、弁護士である坂木原敏子さんに連絡を取った。彼女は三十年の常連客で、家族問題のスペシャリストだ。

「ふみ子さん、入院中だって聞いたけど大丈夫?」

私は古い友に全てを打ち明けた。通帳の不正引き出し、生命保険の受け取り人変更、美容室と家の売却、そして偽造された認知症の診断書のこと。電話の向こうで、坂木原さんの息を飲む音が聞こえた。

「なんてこと? ふみ子さん、これは立派な犯罪よ。詐欺、文書偽造、横領。すぐに告訴の準備をしましょう」

「でも、息子を訴えるなんて……」

私が躊躇していると、坂木原さんは力強く言った。

「ふみ子さん、あなたは四十二年間、誰よりも真面目に生きてきた。その人生を踏みにじる権利は、息子さんにもありません」

次に連絡したのは、不動産会社を経営する相沢雅子さん。彼女も二十五年のお客様だ。

「ふみ子さんの美容室が売りに出てるって聞いて、おかしいと思ってたの。本人に確認しようと思ってたところよ」

私が事情を説明すると、相沢さんはすぐに動いてくれた。

「売買契約の無効を主張しましょう。それから、ふみ子さん、一つ聞きたいことがあるの。亡きご主人から相続した土地、まだお持ち?」

「ええ、郊外の土地のことですか? 草ぼうぼうで、固定資産税を払うだけの……」

相沢さんは興奮した声で遮った。

「ふみ子さん、あの土地、今すごいことになってるのよ」

私は驚いた。あの土地は夫が三十年前に「いつか値上がりする」と言って買った。当時は誰も見向きもしない場所だった。

「新しい商業施設の建設予定地に隣接してるの。今なら三億円以上で売れるわよ」

三億円。私は耳を疑った。息子も彩子も、この土地の存在を知らない。夫の遺品の中にひっそりと残されていた権利書。私だけが大切に保管していた。

さらに、銀行員の常連客・中村洋子さんからも重要な情報が入った。

「ふみ子さん、実は特別な定期預金があるでしょう。二十年前に組んだ定期預金、当時のキャンペーン金利で解約すれば八百万円になるはずです」

これも息子は知らない口座だった。

「それから、もう一つ。息子さんが引き出した一千五百万円ですが、銀行の防犯カメラに全て記録されています。本人確認書類も、偽造の疑いがあります」

証拠は揃いつつあった。病室で計画を練っていると、みち子が駆け込んできた。

「ふみ子、大ニュース! あなたのお客様たちが、すごいことを計画してるわよ」

みち子の説明によると、私の常連客たちが集まって「ふみ子さんを守る会」を結成したという。

「皆さん、ふみ子さんが理不尽な目に合ってることに怒ってるの。『恩返しをしたい』って」

涙があふれた。四十二年間、真心を込めて接してきたお客様たちが、今度は私を助けようとしてくださっている。

坂木原弁護士から、具体的な戦略が送られてきた。まず成年後見人の申請を阻止する。次に、不正に引き出されたお金の返還請求。応じなければ刑事告訴。美容室の売却も、文書偽造で無効にできる。

「それから、ふみ子さん。退院後の住まいは心配しないで。私のマンションの空き部屋を使ってください」

中村さんからも連絡が入った。

「ふみ子さんの隠し口座のお金と土地の売却益があれば、もう息子さんに頼る必要はありませんよ」

最後に、最も驚くべき申し出があった。元外交官夫人の竹内澄子さんからだ。

「ふみ子さん、私の港区の家で専属の美容師として働いてくださらない? 住み込みで年収八百万円でどうかしら」

断る理由はなかった。

夜、一人で病室の窓から夜景を見つめた。明日は退院だ。息子と彩子は、私を施設に入れるつもりでいるだろう。でも、もうそんなシナリオには従わない。手帳を握りしめ、私はつぶやいた。

「四十二年間の信頼は、裏切らない」

ついに決行の時が来た。退院の朝、病院のロビーに息子夫婦が現れた。二人とも、勝ち誇った表情をしている。

「母さん、迎えに来たよ」

誠一の声は、まるで荷物を引き取りに来たかのように事務的だった。

「施設の車が外で待ってるから、さっさと行きましょう」

彩子は私を見下すような目つきでせかす。私は落ち着いた声で答えた。

「結構です。私には行く場所がありますから」

二人の顔が一瞬、凍りついた。

「何言ってるの? 母さんは認知症で……」

「認知症?」

私は用意していた書類を取り出した。

「これは三日前に受けた認知機能検査の結果です。満点でしたよ。三つの病院で検査を受けましたが、全て正常。主治医の診断書もあります」

誠一の顔が青ざめていく。

「それから、これは弁護士からの通知書です。不正に引き出した一千五百万円、一週間以内に返還しなさい。応じなければ、詐欺罪と窃盗罪で刑事告訴します」

彩子がかん高い声をあげた。

「な、何を証拠に!」

「銀行の防犯カメラに、全て記録されています。本人確認書類の偽造も判明しています」

私は次の書類を見せた。

「美容室の売買契約は、文書偽造により無効です。すでに裁判所に申し立てをしました。売却代金三千万円も返還していただきます」

誠一は声を荒げて抗議した。

「母さん、俺は息子だぞ!」

「息子?」

私は冷たく微笑んだ。

「『一生入院してろ』と言ったのは誰でしたっけ? 『早くいなくなればいい』と言ったのは?」

二人の顔が真っ白になった。

「全部録音してあります。看護師の田中さんが、たまたま廊下で録音していたそうです。これも立派な証拠になりますね」

その時、ロビーに坂木原弁護士が入ってきた。きりっとしたスーツ姿で、威圧感がある。

「岡田誠一さん、岡田彩子さんですね。私はふみ子さんの代理人弁護士の坂木原です」

坂木原さんは、分厚い書類の束を二人に突きつけた。

「これは損害賠償請求書です。精神的苦痛に対する慰謝料五百万円、不当引き出しによる返還請求一千五百万円、文書偽造による損害三千万円。合計五千万円を請求します」

彩子が悲鳴をあげた。

「そんなお金、あるわけないでしょう!」

「では、財産差し押さえの手続きを取らせていただきます。給与、預金、不動産、全て対象です」

誠一は膝から崩れ落ちそうになった。

「母さん、待ってくれ。話し合おう」

「話し合い?」

私は首を横に振った。

「もう遅いです。私はこれから、新しい人生を始めます」

そう言って、私は病院を後にした。タクシーに乗り込む私を、息子夫婦は呆然と見送ることしかできなかった。

一週間後、内容証明郵便が息子の自宅に届いたようだ。みち子が教えてくれた。

「誠一さん、会社にまで電話してきたらしいわよ。『母さん許してくれ』って泣いてたって」

私は携帯の着信拒否設定を確認した。もう、あの冷たい声を聞く必要はない。

二週間後、いよいよ新生活の始まり。竹内さんの港区の豪邸は、想像以上に素晴らしいものだった。

「ふみ子さん、この部屋を使ってください。南向きで、庭も見えるでしょう」

与えられた部屋は、息子の家の三倍はある広さだった。専用のバスルームもある。

「それから、ここがあなたのプライベートサロンです」

案内された部屋には、最新の美容機器が揃っていた。

「私の友人たちも、ふみ子さんの腕を楽しみにしているの。住み込みで年収八百万円。社会保険完備。どうかしら?」

私は深く頭を下げた。

「ありがたく、お受けします」

その頃、誠一の状況は悲惨なものになっていた。会社では親不孝者として有名になり、左遷されたそうだ。取引先からも「信用できない」と避けられているとか。彩子も近所で「鬼嫁」として噂になり、ママ友からも総スカンだという。

さらに、土地の売却が完了した。

「ふみ子さん、三億二千万円で売れました!」

相沢さんの興奮した声が電話から聞こえてくる。これでもう、誰にも頼る必要はない。むしろ、一生優雅に暮らせる資産ができた。

一ヶ月後、息子から一通の手紙が届いた。坂木原弁護士経由で転送されてきたものだ。

「母さん、本当にごめんなさい。俺が間違っていました。彩子と離婚することになりました。義理の両親も出ていきました。今はワンルームで一人暮らしです。どうか、もう一度だけ会ってください」

私は手紙を読み終えると、そっと暖炉にくべた。

みち子が訪ねてきた時、こう言った。

「誠一さん、本当に後悔してるみたいよ。一度くらい……」

「みち子。私は四十二年間、息子のために生きてきました。でも、息子は私をお荷物と呼び、『早く死ね』と言った。もう、親子ではありません」

その夜、竹内さんの友人たちとのディナーパーティーがあった。

「ふみ子さんの腕は素晴らしいわ。うちでも専属でお願いしたいくらい」

皆さんの褒め言葉に、私の心は温かくなった。

ある日、港区の高級百貨店で買い物をしていると、偶然にも誠一と出会った。やつれた息子は、私を見るなり駆け寄ってきた。

「母さん、やっと会えた!」

私は冷静に言った。

「どちら様ですか?」

「母さん、俺だよ。誠一だよ」

「ああ、『お荷物は一生入院してろ』と言った方ですね」

誠一の顔が歪んだ。

「本当にごめん。許してくれ」

「許す許さないの問題ではありません。あなたは私という母を捨てた。私もあなたという息子を捨てました。それだけのことです」

立ち去ろうとする私の腕を、誠一が掴んだ。

「待って! 金に困ってるんだ。少しでいいから!」

私は振り返った。

「お金ですか? でも、あなたは私から一千五百万円を盗みましたよね。それで足りないんですか?」

「返還請求で、全部返したから!」

「そうですか。でも、私はもう、他人にお金を貸す余裕はありません」

「他人? 俺は息子だよ!」

私は最後にはっきりと言った。

「いいえ。あなたはもう、私の息子ではありません。あなたがそう決めたんです」

そして、私は高級百貨店を後にした。振り返ることは、二度となかった。

あれから三ヶ月が経った。港区の豪邸での生活は、想像以上に充実している。朝は庭園を眺めながら優雅にコーヒーを飲み、午前中は竹内さんのヘアセットから始まる。

「澄子さん、今日も素敵に仕上げてくださってありがとう」

竹内さんの笑顔が、私の一日を明るくしてくれる。午後はプライベートサロンで、VIPのお客様たちを迎える。

「ふみ子さんにやってもらうと、十歳は若返るわ」

「四十二年の技術は、やはり違いますね」

お客様たちの言葉が、私の誇りを取り戻してくれた。

ある日、みち子から連絡があった。

「ふみ子、聞いて。誠一さんの現状なんだけど……」

みち子の話によると、誠一の転落は想像以上だった。左遷された部署でも問題を起こし、ついに会社を解雇されたそうだ。彩子との離婚も成立し、慰謝料で借金まで背負ったとか。今はコンビニでバイトしてるらしい。ワンルームの家賃も払えず、もうすぐ追い出されるという。

私は静かに答えた。

「そうですか」

「ふみ子、本当にそれでいいの?」

「みち子。私は四十二年間、全てを捧げました。でも、息子は私が一番弱っている時に私を捨てた。入院中の母親に『一生入院してろ』と言い、『早くいなくなればいい』と笑った。これは、彼自身が選んだ道です」

みち子は黙り込んだ。その後、彩子の両親からも連絡があったそうだ。坂木原弁護士が対応してくれた。

「息子夫婦が大変なことになっている。なんとか片付けてやってくれ」と泣きついてきたが、お断りした。当然だ。あの人たちも、息子夫婦と一緒になって私を侮辱したのだから。

ある週末、竹内さんが提案してくれた。

「ふみ子さん、私の別荘に行きましょう。軽井沢なんだけど、とても静かでいいところよ」

別荘は森に囲まれた、素晴らしい場所にあった。

「ここでゆっくり休んでください。ふみ子さんは頑張りすぎたから」

テラスでお茶を飲みながら、私は初めて心から解放された気持ちになった。

「竹内さん、私、今とても幸せです」

「それは良かった。ふみ子さんは、幸せになる権利があるのよ」

帰宅後、驚くべきニュースが飛び込んできた。誠一が私の住所を突き止めて、豪邸の前に来ていたという。警備員が止めたそうだが、三時間も居座っていたとか。

「お母さんに合わせてください。お願いします」

泣き叫ぶ息子の姿を、防犯カメラで見た。髪はぼさぼさで、服もよれよれ。かつての面影はない。でも、私の心は動かなかった。あの時、私も同じように苦しかった。それなのに、息子は私を見捨てた。

竹内さんが優しく言った。

「ふみ子さん、過去は変えられません。でも、未来は自分で作れます」

その通りだった。私には新しい家族ができていた。竹内さんをはじめ、サロンのお客様たち、支援してくださった方々。血は繋がっていなくても、心で繋がっている人たち。

先日、坂木原弁護士から最終報告があった。

「全ての法的手続きが完了しました。ふみ子さんの財産は、完全に守られています」

それから、坂木原さんは一枚の写真を見せてくれた。私の美容室だ。

「無事に取り戻せました。今は賃貸に出していますが、月三十万円の家賃収入になります」

四十二年間の城が、今も私を支えてくれている。

夜、豪邸の自室で日記を書いた。

「六十八歳にして、私は本当の自由を手に入れた。息子を失ったのではない。偽物の愛を手放しただけ。今、私の周りには本物の愛がある。四十二年間磨いた技術と、誠実に築いてきた人間関係が、私を救ってくれた」

最後に、こう締めくくった。

「理不尽に屈しないことを、私は証明した。我慢することが美徳ではない。時には毅然として戦うことも必要だ。自分の尊厳は、自分で守らなければならない」

今、私は毎日鏡を見るたびに思う。よく頑張ったね、ふみ子。自分を褒めてあげられる。それが本当の勝利なのかもしれない。

息子のことは、もう過去の話だ。私には輝かしい未来が待っている。三億二千万円の資産、年収八百万円の仕事、素晴らしい住環境。そして何より、私を大切にしてくれる人たち。

六十八歳からの再出発。それは、人生で最も美しい章の始まりだった。

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