モニターに映る複雑に絡み合った血管の三次元画像。俺はその症例を淡々と解説していく。全国の大学病院から送られてくる難症例。俺の言葉に医師たちが一斉にメモを取る。
俺の名前は佐々木守。35歳。心臓血管外科医だ。大学病院で難症例の診断と術式設計を担当している。俺の書いた論文は国内外の医学誌に掲載され、ある特殊な手術法は俺の名前で呼ばれることもある。
ただ、俺は執刀しない。できないのだ。
術式設計が終わり、廊下を歩いていると若い医師たちの声が聞こえた。「結局机上の天才だよな」「論文だけの医者って患者からしたらどうなんだろうな」
聞こえないふりをして歩き続けた。反論する言葉を持っていなかったからだ。彼らの言うことはすべて正しい。
翌日の公開カンファレンス。百人近い医師や看護師が集まる中、外科部長の綾瀬大介が俺を見据えた。結果がすべての男だ。
「男性スタンフォードA型。すでに心内に出血があり、緊急手術の適応です。鬼鵞を伴うやり方が標準ですが、本症例では私が以前提示した方法を用いるのが最も成功率が高いと考えます」
説明が終わると綾瀬部長が口元に薄い笑みを浮かべた。
「佐々木先生、あなたが考えた術式だ。だったらあなたが執刀しなさい」
会場の空気が凍りつく。俺は手元の資料を握る指に力が入るのを感じた。
「綾瀬先生、私は執刀医としての立場にはありません」
「またそれですか? あなたはいつまで逃げ続けるつもりなんですか?」
俺は答えられなかった。喉の奥が渇いて声が出ない。
「いいですか? 患者を救えない外科医に存在価値はないんです。論文を何本書こうが、机の上で何を語ろうが、メスを握らない人間は外科医じゃない」
突き刺さるような言葉だった。反論できない自分が情けなかった。
カンファレンスが終わり、廊下の片隅で壁に手をついていると、藤崎裕子先生が近づいてきた。五十歳。俺が研修医の頃から母親のように見守ってくれている人だ。
「顔色が悪いわよ」
「すみません」
「情けなくなんかない。あなたはちゃんと毎日患者さんのことを考えてる。それは私が一番よく知ってるから」
彼女は俺の隣に並んで静かに続けた。
「あなたはまだ自分を許していないだけなのよ。あの日のことを十年も一人で抱えて」
「あの患者さんは私の判断が遅れたから亡くなったんです。何度言われてもそれは変わりません」
「守くん、違うのよ。本当は違う」
藤崎先生はそれ以上言わなかった。その横顔がいつもより少し寂しげに見えた。
その夜、医局長の太田次郎から呼び出された。亡き父の親友であり戦友でもある人だ。太田医局長は机の上の小さな木箱を見つめていた。
「守、座りなさい」
医局長は木箱を俺の方に差し出した。蓋を開けると中には一本のメスが入っていた。古びた柄には長年使い込まれた跡がある。それを見た瞬間、息が止まった。
「これは父の…」
「ああ、お父さんが現役の頃ずっと手元に置いていたものだ。亡くなる前に私に預けていった」
父も心臓外科医だった。俺が十二歳の時、過労で倒れそのまま帰ってこなかった。父が握っていたメスを目の前にするのは初めてのことだった。
「守。お前のお父さんはな、お前が医者になると言い出した日、私にこう言った。『あいつは俺よりずっと優しい医者になる』ってな」
「これはまだお前には渡せない。自分の意思で目の前の患者を救いたいと心から思えた時、その時がお前の本当の出発点だ」
俺はメスを見つめたまま何も答えられなかった。父のメス、父の言葉、医局長の信頼。すべてが胸を締めつけて息ができなかった。
午後三時を過ぎた頃、救急搬入口のサイレンが立て続けに鳴った。複数台が同時に駆け込んでくる音だ。俺は救急外来へ走った。
ストレッチャーが二台、廊下を勢いよく押されてくる。乗せられているのは小さな体だった。小学校低学年くらいの男の子が二人。酸素マスクの下で唇が紫色になっている。
「大型トラックとの衝突事故です。後部座席に兄弟二人。兄は意識あり。問題は弟のほうです」
弟のストレッチャーが目の前を通り過ぎた時、心電図モニターの波形が乱れているのが見えた。血圧が下がり始めている。
CT画像が映し出された瞬間、俺は息を呑んだ。大血管損傷。損傷が広がっている。このままでは一時間も持たない。
「佐々木先生、これは従来の遮断と修復では間に合いません」
俺は画像を食い入るように見つめた。損傷部位の血管の走り方。それを見ているうちに、ある術式の図が頭の中に浮かび上がった。三年前、俺自身が論文に書いた術式だ。極めて難しいが、この子を救えるのはおそらくその方法だけ。そして、それを実際に執刀したことがある医師は日本国内に誰もいない。
頭の奥がしんと冷たくなった。待合室の方から女性の悲鳴のような声が聞こえてきた。母親だ。息子はどこですかと震える声で繰り返している。その後ろで、点眼をつけた兄が車椅子に乗せられて運ばれてきていた。兄は弟の名前を呼んでいた。
少しして医局長室に呼ばれた。太田医局長と綾瀬部長、藤崎先生が立っている。机の上には弟の画像と検査データが広げられていた。
「守、君の術式しかない。君がやるしかないんだ」
「医局長、それは私には…」
「先生、もう議論している時間はない。やるかやらないか、それだけです」
俺は画像を見つめたまま立ち尽くした。心臓が早鐘のように打っている。手のひらに汗が滲んだ。頭の中では手順が完璧に組み上がっている。どこを切開し、どこを遮断し、何分で縫合するか。すべて見えている。それなのに足が動かない。
「できません。私には執刀する資格がありません」
「佐々木先生!」
綾瀬部長が机を叩いた。書類が跳ねて床に落ちる。
「あの子はあなたが書いた論文の術式じゃないと助からないんですよ。あなたが逃げればあの子は死ぬ。分かっているんですか?」
「だからこそ私ではいけないんです。失敗したら私は…」
「失敗を恐れて何もしない人間に外科医を名乗る資格はない」
俺は何も言い返せなかった。綾瀬部長は書類を拾い上げると、強い口調で言った。
「もう待てない。私が別の方法で執刀します。成功率は低いが、何もしないよりはマシだ」
綾瀬部長は手術室へ向かって出ていった。俺はその場から動けなかった。藤崎先生が静かに俺の前に立った。手には古いファイルが抱えられている。
「守くん、これを見てちょうだい」
「これは…」
「十年後の患者さんの記録よ。あなたに見せていなかった当時の指示書と看護記録の原本」
俺は震える手でファイルを受け取り、ページをめくった。そこには当時の上司の医師が出した指示がはっきりと残されていた。俺がおかしいと思って進言した内容に対して、上司がそのまま様子を見ろと指示している。俺はその指示に従い、結果として処置が遅れた。記録には、上司の判断が誤っていたことを示す注釈が追記されていた。
「あなたの判断は最初から正しかったの。間違っていたのは上の指示よ。これは病院の調査でも後で明らかになったことなの」
「でも藤崎先生、指示に従ったのは私です。最終的にあの患者さんを救えなかったのは私の手の中で起きた出来事です」
「守くん」
「俺の手が遅れたから助けられなかったんです。それはどんな記録があっても変えられない」
藤崎先生は悲しげな目で俺を見つめた。俺はファイルをきつく握りしめた。それでも足は手術室に向かなかった。
廊下を歩いていると、ナースステーションのモニターに弟のバイタルが映し出されていた。血圧がさらに下がっている。時間がない。誰よりも俺がそれを分かっていた。待合室の前を通りかかった時、声が聞こえた。
「お母さん、泣かないで。たるは絶対に大丈夫だから。さっきだって僕の手をぎゅってしてくれたんだ」
俺は足を止めた。ガラス越しに、車椅子の兄が自分も痛いはずなのに母親の手を握りしめているのが見えた。母親は両手で顔を覆って肩を震わせている。
「先生方にお願いするしかないのよ」
「お母さん、たるをお願いしますって何度でも頭を下げるから。僕も一緒にお願いするよ。たるはまだ五歳なんだもん」
俺はその場から動けなくなった。あの兄弟を救えるのは俺しかいない。頭では分かっている。手も頭の中の術式も全て準備はできている。それでも足が震えて動かないのだ。
太田医局長が静かに俺の隣に立っていた。
「守。医者は失敗しない人間じゃないんだ」
「医局長…」
「失敗してももう一度患者の前に立てる人間だ。そういう人間だけが医者を続けていける」
「私にはその勇気がありません」
「お前の手で救えるかもしれないんだぞ。今踏み出さなかったら、お前は一生自分を許せないままだ」
俺は唇を噛んだ。胸の奥で何かがぐらぐらと揺れている。それでも十年前のあの患者の顔がよぎる。冷たくなっていく手の感触が蘇る。
手術室の方から、綾瀬部長が手術着姿で出てくるのが見えた。表情が険しい。執刀が思うように進んでいないのがその顔から伝わってきた。病院全体が重く沈んだ空気に包まれていた。
その時だった。救急搬入口の方から走ってくる足音が聞こえた。慌ただしく強い靴音。看護師たちがざわめいている。聞き覚えのある声が廊下の向こうから飛んできた。
「患者さんはどこ? どこにいるの?」
俺は顔を上げた。旅装姿のままの女性が息を切らして駆け込んでくる。焼けた肌にまっすぐな目。黒いリュックを背負ったまま人をかき分けて走ってくる。俺は息を呑んだ。
姉だ。世界の各地の紛争地域で心臓外科医として走り続けている、俺の姉。佐々木歩。
姉は息を切らしたまま俺の前まで歩み寄ってきた。五年ぶりに見る顔だった。最後に会ったのはアジアの医療支援に向かう前夜。あの時よりも肌は焼け、目元には小さな皺が増えている。それでもまっすぐな目だけは子供の頃と変わっていなかった。
「守。状況は機内で医局長から聞いた。画像も転送してもらったわ」
「姉さん、どうしてここに」
「あなたが論文に書いた術式の症例が出たって聞いて、最初の便に飛び乗ったの。乗り継ぎ三回、間に合ってよかった」
姉はリュックを下ろし、廊下の壁に持たれかかると、はあと長い息を吐いた。それから俺の顔を覗き込んだ。
「守。私が第一助手に入る。執刀はあなたよ」
「姉さん、俺は…」
「最後まで聞いて。私は世界中の現場を見てきた。爆撃の中で手術器具もない場所で、それでも目の前の心臓を動かさなきゃいけない場面を何度も見てきた。その度に思ってたの。守ならどうするだろう。守ならどの血管をどう繋ぐだろうって」
姉の目が少し赤くなっていた。
「あなたの頭の中にある術式は、世界中の心臓外科医が欲しがってる宝物なの。それをあなた自身が一番過小評価してる」
「お父さんが亡くなる前にね、私に言ったの。『守には人を救う手がある。いつかその手で必ず誰かを救う日が来る』って。お父さんはずっとあなたを信じてた。私もずっと信じてた」
姉は俺の右手を自分の両手で包み込んだ。姉の手は世界中の患者を救ってきた手だった。傷だらけで節くれ立っていた。それでいて温かかった。
「あなた一人で背負わなくていい。私が隣にいる。失敗したら私も一緒に責任を取る。だから行こう」
俺は姉の手の感触をただじっと受け止めていた。胸の奥で、十年間閉ざしてきた扉がきしむ音を立てて動き始めていた。
太田医局長が静かに俺の前に立った。手にはあの木箱があった。蓋を開け、父のメスを俺に差し出した。
「守。今だ。お前の出発点は今だ」
俺はメスを見つめた。父の手の跡が染み込んだ柄。姉が包んでくれた手の温かさ。待合室で母親の手を握っていたあの兄の声。その全てが俺の中で一つになっていく気がした。
「医局長、やらせてください。私が執刀します」
声は震えていた。それでも初めて自分の口から出た言葉だった。
手術室に入ると、綾瀬部長が振り返った。思うように進んでいないのは彼の額の汗を見れば分かった。俺は深く頭を下げた。
「綾瀬先生、交代させてください。私のやり方で最後までやらせてください」
綾瀬部長はふっと肩の力を抜き、執刀医の位置から一歩下がった。
「佐々木先生、あなたがその言葉を言うのを、私はずっと待っていたんだ」
「先生、私が第二助手に入ります。指示を出してください」
俺は手を消毒し、ガウンを着た。父のメスは器械台には乗せなかった。胸ポケットの上から、手術衣の上にお守りのように忍ばせた。第一助手の位置に姉が立った。麻酔科医の向こうに藤崎先生がいた。藤崎先生はマスクの上の目だけで俺に頷いた。俺も頷き返した。
「では、始めます。バイタルお願いします」
「血圧七十二の四十。輸血準備できています」
「分岐のバイパスから入ります。一時遮断、十秒前から数えます」
頭の中の図面が目の前の心臓と重なっていく。損傷部位は画像で見たよりもさらに広がっていた。それでも俺の手は震えなかった。姉の指が絶妙なタイミングで視野を作ってくれる。言葉はほとんどいらなかった。俺が次に何を求めるか、姉は全て先回りしていた。
途中、血圧が大きく下がる場面が二度あった。その度に藤崎先生の落ち着いた声が俺を引き戻した。
「守くん、大丈夫? あなたの手元、ちゃんと見えてる」
最後の遮断を解除する瞬間、俺は短く息を吸った。血液が流れ、心拍が整っていく。姉がマスクの中で小さく息を漏らすのが聞こえた。
「繋がった」
綾瀬部長が深く息を吐いた。
手術が終わり、俺はガウンを脱いだ。全身が自分のものではないみたいに重かった。待合室の前まで歩いていくと、母親と車椅子の兄がこちらを見上げた。
「弟さんの手術は無事に終わりました。これからしばらくICUで経過を見ますが、命の峠は超えたと思います」
母親は声にならない声を漏らした。両手で口を覆い、何度も何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、先生。本当にありがとうございます」
兄が車椅子の上で小さな手を一生懸命に伸ばしてきた。俺は膝をつき、その手を握った。
「先生、たるのこと助けてくれてありがとう」
「お兄ちゃんがずっとそばで励ましてくれたからだよ」
兄はこくんと頷いた。その目から大粒の涙がこぼれた。俺の目にも涙が伝うのを感じた。廊下の奥で太田医局長がこちらを見ていた。その目尻が少し光っていた。医局長は何も言わず、ゆっくりと頭を下げた。俺も深く頭を下げ返した。
その夜、自室で俺は父のメスを取り出して見つめていた。扉が小さく叩かれ、姉がコーヒーを二つ持って入ってきた。
「お父さん、喜んでると思うよ」
「姉さん、俺まだ怖いよ。次の手術もその次も、ずっと怖い気がする」
「いいのよ、怖くて。怖いと思える人だけが患者さんの命をちゃんと重く扱えるの。お父さんもずっと怖がってた人だったから」
姉は俺の隣に座り、コーヒーを差し出した。窓の外では街の明かりが静かにまたたいていた。



