「本当にごめんなさい。お母さん。チケットの手配ミスでお誕生日の旅行は中止になっちゃいました。」
スマートフォンの画面越しに届いた嫁、ゆりからのメッセージ。68歳の誕生日はこうして、あっけなく静かな一日へと変わった。
「仕事が忙しいから仕方ないわ。琢間によろしくね。」
そう返信を打ちながらも、胸の奥には言いようのない寂しさが募っていく。ところが数時間後、何気なく開いたSNSが私の平穏を音を立てて壊した。
「お母様とグアム。最高に幸せな休日です。」
画面の中で、息子の琢磨と嫁のゆり、そして華やかなドレスに身を包んだゆりの母親が、青い海を背景に満面の笑みを浮かべている。私という存在が最初からなかったかのように、鮮やかに。ああ、そういうことだったのね。手配ミスという言葉の裏に隠された残酷な悪意が、冷たく心に突き刺さる。
震える指先で画面を見つめるうちに、悲しみは静かな怒りへと姿を変えていった。
――お祝いは、私自身の手で盛大に執り行いましょう。
喫茶店のカウンターで一人、私は誰にも邪魔されない計画を静かに描き始めた。
夫を亡くして以来、私はこの小さな喫茶店を必死に守り続けてきた。学生時代の琢磨は「母さん、僕のためにそこまでしなくていいよ」と私の手を握って言ってくれた。けれど、あの子の将来のためなら、どんな苦労も厭わないと心に決めていた。
大学の学費として用意した800万円。結婚後に家を建てたいと言い出した時には、蓄えの中から500万円を頭金として差し出した。「本当に助かるよ。お母さん、たくまさんも感謝しています。」結婚したばかりの頃、ゆりはそう言って何度も頭を下げてくれたものだ。
あの子たちが幸せなら、自分の老後資金が少し心細くなっても構わない。それが親としての喜びだと、自分に言い聞かせてきた。孫ができたら、私にできることは何でもしてあげたい。そんな夢を抱きながら、低賃金で働き、一円単位の節約を重ねてきた。
注いできた愛情も、惜しみなく与えたお金も、全ては家族の絆を深めるための投資だと信じて疑わなかった。今の冷たい仕打ちを受けるまでは。
――あの子たちの笑顔だけが、私の生きる糧だった。
グアムから帰国した息子夫婦が店に姿を現したのは、それから数日後のことだった。日焼けした肌を誇らしげに見せつけながら、悪びれる様子もなくカウンター席に陣取る。
「母さん、コーヒー3つね。あ、お母さんも一緒だから。」
琢磨が当然のように注文を口にする。その後ろには、大きなブランド物の袋をいくつも抱えたゆりと、その母親であるみつ子の姿があった。みつ子は私の顔を見るなり、わざとらしくため息をついて見せた。
「直美さん、お誕生日は残念でしたわね。手配ミスだなんて、今の若い人はうっかりしていて困っちゃうわ。おかげで私が代わりに連れて行ってもらったのよ。」
申し訳なさそうな言葉とは裏腹に、その瞳には優越感が溢れていた。ゆりはその隣で、免税店で購入したという高価なネックレスを自慢げに眺めている。
「お母さん、これたくまさんに買ってもらったんです。本当は手配ミスの埋め合わせにお母さんに何か買うつもりだったみたいですけど、予算がなくなっちゃって。」
クスクスと笑いながら話すゆりの言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。私が援助した500万円で立てた家に住み、苦労して出した学費で得た給料で、実の親を差し置いて嫁の親に贅沢をさせている。その矛盾に、息子は気づく様子すらない。
「母さん、そんなに怒るなよ。ゆりのお母さんは現役でバリバリ働いていて、年金も僕たちより多いんだ。たまには親孝行させてあげないと角が立つだろ。」
琢磨の言葉は、まるで私が稼ぎのない価値の低い存在であると言わんばかりだった。さらに、ゆりが追い打ちをかけるように衝撃的な提案を口にした。
「ところで、この店のことなんですけど。お母さんももう若くないですし、一人で切り盛りするのは大変でしょう。認知症とかになってからじゃ遅いと思うんです。今のうちにここを畳んで、土地を売ったお金で私たちのローンの残りを一括返済しませんか?」
あまりに身勝手な提案に目眩がしそうになった。この店は、夫と共に守り抜き、地域の人々に愛されてきた私の人生そのものだ。それを自分たちの借金を消すための道具として差し出せというのか。
「時代遅れの喫茶店を続けるより、施設で過ごす方がお母さんのためですよ。お荷物になってからでは、私たちも助けてあげられませんから。」
ゆりの言葉に、琢磨までもが深く頷いた。彼らにとって、私はもう尊敬すべき親ではない。使い潰された財布の存在に過ぎないのだと、その時確信した。
「母さん、ゆりの言う通りだよ。僕たちの将来のためにも、前向きに考えてくれよな。」
親の愛を無限の財布と勘違いし、私の尊厳を平然と踏みにじる姿。その瞬間、私の中で何か温かいものが完全に冷めていく音が聞こえた。かつて幼い琢磨の寝顔を見ながら「この子のために生きよう」と誓ったあの日の決意は、今この時、静かにそして残酷に終わりを告げた。
「ええ、よくわかったわ。あなたたちの考える将来に、私がどれほど必要とされているのか。その答えを、これからじっくりと出させてもらうわね。」
私の言葉の真意に気づくことなく、三人は満足げにコーヒーを飲み干した。
――怒りが頂点に達した時、人は驚くほど冷静になれるものですね。
私は彼女のSNSに投稿され続けている贅沢な日常の証拠、過去の援助の記録、そしてみつ子が抱えているある秘密について、徹底的に調べ上げる決意を固めた。
「ゆりさん、SNSの更新、これからも楽しみにしているわね。あなたの幸せそうな姿が、何よりの証拠になるのだから。」
心の中で嘲笑を浮かべながら、私は優雅に、けれど確実に彼らを逃げ場のない奈落へと誘うための招待状を書き始めた。家族という名の鎖を断ち捨て、一人の人間として彼らに本当の責任というものを教えてあげるために。
閉店後の静まり返った店内で、私はカウンターに置かれた古い通帳を眺めていた。そこには琢磨が幼い頃から積み立ててきた記録や、住宅援助のために引き出した大きな金額の履歴が刻まれている。親子の絆を信じて疑わなかった日々の証は、今では虚しい数字の羅列にしか見えなかった。
「母さん、まだ起きてた?ちょうど良かった。これ、判を押しておいてよ。」
足音もなく現れた琢磨が、一通の書類を差し出した。それはこの喫茶店の土地建物を息子名義に変更し、売却の委任をするための同意書だった。昼間の会話は単なる打診ではなく、すでに彼らの中で決定事項として進められていたのだ。
「どうして、そんなに急ぐの?この店はお父さんと私が命を懸けて守ってきた場所なのよ。」
震える声で問いかける私を、琢磨はひどく面倒臭そうに一瞥した。
「命を懸けてって、大げさだよ。ただの古い喫茶店じゃないか。それより、ゆりのお母さんの借金が大変なんだ。グアム旅行も、実は見栄を張るための借金だったらしくてさ。ゆりが泣いて頼むんだよ。助けてあげられるのは、僕たちしかいないって。」
息子の口から出た言葉は、私の耳を疑わせるものだった。自分の親が人生を捧げて築いた店を奪い、その金を義母の見栄と浪費で作った借金の返済に当てるというのだ。
「私の生活はどうなるの?ここを売ったら、私はどこへ行けばいいの?」
「お母さん、そんなに心配しなくても。ゆりのお母さんのアパートに同居させてもらうように話をつけてあるから。狭いけど、一人よりは寂しくないでしょう。」
琢磨の言葉に、隣から現れたゆりが誇らしげな笑みを浮かべて付け加えた。
「そうですよ、お母さん。私のお母様も、家事を手伝ってくれる人がいれば助かるっておっしゃっています。掃除や洗濯、三食の支度をしてくだされば、居候させてあげてもいいって。お母さん、家事だけは得意ですものね。」
それは、親としての尊厳を完全に否定し、私を無償の家政婦として売り飛ばすという宣告に他ならなかった。あんなに尽くしてきた息子が、嫁の言いなりになって実の母親を他人のように扱う姿。その冷徹な瞳には、かつて私に向けられていた温かな光は欠片も残っていない。
「たくま、あなたは本気で言っているの?私を、あちらのお母様の身の回りのお世話係にするつもりなのね。」
「お世話係だなんて、人聞きが悪いな。助け合いだよ。母さんはもうお荷物なんだから、少しは家族の役に立とうと思ってよ。あちらのお母様は現役時代、社会に貢献してきた立派な人なんだ。母さんみたいに小さな店に引きこもっていた人とは、格が違うんだよ。」
その瞬間、私の中で何かが決定的に壊れ、同時に何かが鋭く研ぎ澄まされる感覚を覚えた。悲しみは一瞬で消え去り、代わりに冷たく燃えるような決意が全身を駆け巡る。
「ああ、そう。……格が違うのね。よくわかったわ。」
私は震える手を隠すように、書類を静かに受け取った。すぐには判を押せないけれど、預かっておくわ。あなたたちの本心がどこにあるのか、この胸にしっかりと刻み込ませてもらったから。
「早くしてくれよ。来月には決済を済ませたいんだからさ。」
吐き捨てるように言って、二人は自分たちの家へと消えていった。暗闇の中に一人残された私は、窓の外に広がる夜空を見上げた。あの子たちが私のことをお荷物と呼び、その存在を否定したこの夜を、私は一生忘れないだろう。
――お荷物には、お荷物なりの戦い方があるのよ。
私は店の奥にある金庫を開け、一通の古い封筒を取り出した。それはかつて琢磨に住宅資金を貸し付けた際、念のためにと作成し、公正証書として役場に預けていた借用証書の控えだった。当時は万一の時にあの子の立場を守るための保険のつもりだったが、まさかこれを使う日が来るとは。
ゆりさん、あなたは知らないでしょうね。あなたが今住んでいるその豪華なマンションの権利の一部が、すでに私の手の中にあるということを。
そして私は、もう一人の味方に連絡を入れた。ゆりの母親、みつ子の浪費癖を以前から怪しんでいた、近所の情報通の友人だ。彼女から得た情報は、想像以上に彼らを窮地に追い込む切り札となるものだった。
――裏切りは、もう取り返しがつかない。息子が私を捨てたように、私もまた「母親」という役割をここで捨てることにした。これからは、自分の尊厳を守るための一人の女性として、徹底的に、そして優雅に彼らに報いを受けてもらうつもりだ。
さあ、お誕生日の本当のパーティーを始めましょうか。私は静かに、けれど確かな足取りで、復讐という名の舞台装置を整え始めた。朝が来れば、彼らが信じている輝かしい未来が砂の城のように崩れ去ることも知らずに。
冷たい雨が窓を叩く夜、私はカウンターで一人、一通の借用証書を広げていた。琢間に500万円を援助した際に作成していた、大切な書類だ。もしもの時にあの子の立場を守るためのお守りのつもりだったが、まさか自分を守るための武器として使う日が来るとは、皮肉なものだ。
「お母さん、まだそんな古い書類を眺めているんですか?早く売却の判を押してくださいね。」
家に来ていたゆりが、鼻で笑いながら通り過ぎようとした。私はその背中に向かって、静かに、けれど力強い声で語りかけた。
「ゆりさん、少しお話があるの。お母様のみつ子さんのことなのだけれど。」
その名前を出した瞬間、ゆりの足がピタリと止まった。彼女が振り返った時の顔には、隠しきれない動揺が走っている。私はあらかじめ調べておいたみつ子の本当の事情を、一つずつ穏やかな口調で紐解いていった。
「みつ子さん、グアムでブランド品をたくさん買われていたけれど、実はカードの支払いが滞っているそうね。あちらこちらで借金を重ねて、今のマンションの家賃も数ヶ月分滞納しているとか。」
「何を根拠に、そんな出鱈目を……」
「出鱈目かどうかは、この資料を見れば分かることよ。私の古い友人が、あちらのマンションの管理会社で働いていてね。ゆりさん、あなたたちは私をお荷物だと言ったけれど、本当にお荷物なのはどちらかしら。」
ゆりの顔から血の気が引いていくのが分かった。彼女たちがこの店を売らせようとしていた真の目的は、自分たちのローンのためだけではない。みつ子の莫大な借金を片付けさせるためだったのだ。
「あなたにも伝えておくわ。この店を売ったお金を宛てにするのは勝手だけれど、その前に私に返すべきものがあるわよね。この借用証書に記載された500万円。利息を含めて、即刻、全額返済してもらうわ。」
「ちょっと、何を言ってるんだよ!親子だろ?あれはもらったお金じゃないか!」
近くで会話を聞いていた琢磨が、顔を真っ赤にして叫んだ。私はそんな息子を、冷徹な一人の経営者の目で見つめ返した。
「親子だからこそ、金の貸し借りはきっちりすべきよ。あなたが私を他人扱いし、存在を否定した瞬間に、私の親心も消えてなくなったの。これはもう、単なる債務者と債権者の契約でしかないわ。」
私は弁護士の友人に連絡を取り、すでに法的措置の準備を済ませていた。住宅援助の500万円だけでなく、ゆりがSNSで自慢していた贅沢品の購入資金の一部が、私の口座から勝手に引き出されていた証拠も揃えている。
――手配ミスで旅行に行けなかったあの誕生日。私は暗い部屋で一人、決意したの。自分を大切にしない人間に、私の人生を分け与える必要はないってね。
「覚悟しなさい。あなたたちが積み上げてきたその城は、もうすぐ跡形もなく崩れ去るわ。」
反論しようとする二人の言葉を遮り、私は静かに店の鍵を閉めた。これから始まるのは、感情に任せた喧嘩ではない。法と事実に基づいた、徹底的な清算だ。私はゆりが恐れている「世間体」という弱点も、しっかりと握っていた。彼女のSNSのフォロワーたちに、この「手配ミス」という名の裏切りの真実が知れ渡った時、彼女に居場所は残らないだろう。
――さあ、明日からは忙しくなるわよ。弁護士の先生と親族のみんなが、この店に集まることになっているから。
勝利を確信した心は、驚くほど澄み渡っていた。かつて息子に注いだ愛の分だけ、私はこの復讐を完璧に遂行してみせると、静かに自分に誓った。彼らが信じて疑わなかった優しい母親は、もうどこにもいない。そこにいるのは、理不尽に踏みにじられた尊厳を取り戻そうとする、一人の強い女性だった。
決戦の日は、皮肉なほどに天気のいい快晴となった。私は朝から店の入り口に「本日貸切」の札を掲げ、カウンターには数枚の書類とボイスレコーダーを静かに用意した。この場所は、亡き夫と共に汗を流し、地域の方々に愛されてきた私の聖域だ。それを汚そうとした者たちに、相応の報いを受けてもらう準備が整った。
「母さん、親戚まで呼ぶなんて大げさだよ。さっさと書類に判を押せば済む話じゃないか。」
琢磨が不機嫌そうに店に入ってきた。後ろには新しいブランドバッグを誇らしげに抱えたゆりと、その母親のみつ子が続く。彼女たちは、この場で店を売る契約が成立し、手付金が手に入るとでも思い込んでいるようだ。その晴れがましい笑顔を見るだけで、かつての愛情が急速に氷結していくのを感じた。
「あら、直美さん、今日でお店も最後ね。今までご苦労様。これからは私の家でしっかり働いてもらわなくちゃ。居候させてあげるんだから、感謝して欲しいわ。」
みつ子が私の顔を見て、勝ち誇ったように笑った。しかし、その場に揃ったのは二人だけではなかった。私の後ろには顧問弁護士が控え、さらに店の奥からは琢磨の叔父や叔母など親族の代表者たちが厳しい表情で姿を現した。彼らは私が事前に送った、息子夫婦の理不尽な要求と金銭的搾取の証拠を見て、義憤を感じて集まってくれたのだ。
「な、何よ、これ。みんなで集まって何のつもり?店を売る祝いでもしてくれるの?」
ゆりの声が震え始める。私は静かに、最初の一手を打った。
「今日集まってもらったのは、店を売るためではないわ。あなたたち夫婦に、私への借金500万円と、これまでの不当な搾取の清算を求めるためよ。」
「ゆりさん、あなたが私の預備の口座から、美容やダイヤ、ブランド品の支払いのために勝手に引き出した、合計250万円。その全ての証拠がここにあります。通帳のコピー、あなたがSNSで自慢していた写真、そして購入店舗での聞き込み結果も、全て揃っているわ。」
私が突きつけたのは、銀行の取引履歴と彼女のSNSに投稿されていた贅沢品の購入時期が完全に一致した対照表だった。ゆりの顔から、一瞬で余裕が消え去った。
「そ、それは……生活費が足りなくて、たくまさんの稼ぎが悪いから、仕方なくお母さんの予備のお金を使っただけよ。」
「いいえ。生活費は、たくまの給料で十分に足りていたはずよ。あなたが、見栄を張るために私のお金を盗んだの。そしてたくま、あなたはそれを知りながら、私をお荷物と呼び、店を奪ってみつ子さんの借金返済に当てようとした。親子の情を捨てたのは、あなたたちの方なのよ。自分の母親を家政婦として売り飛ばそうとした罪は、一生消えることはないわ。」
琢磨は顔を真っ赤にしながら、弁護士に向かって叫んだ。
「親子のことに、他人が口を出すな!母さんが自分で出した金だろ!」
しかし弁護士は、冷たく一通の公正証書を提示した。
「これは数年前に作成された、有効な金銭消費貸借契約書です。返済が滞った場合、住宅の持ち分を直美様に譲渡する旨が、たくま様ご本人の合意の上で記載されています。たくま様、あなたがお住まいのマンションの半分は、すでに法的に直美様のものとなる手続きが進んでいます。そして返済期限を過ぎた今、あなたはもはや、その家の住人ではありません。」
「そ、そんなの、向こうが勝手に書いたんだろ!詐欺だ!」
「いいえ。あなたの署名と実印があるわ。忘れたの?頭金を出した時、『念のために』と言って書かせたのよ。あなたはその時、笑って判を押したじゃない。まさか本当に使うことになるとは思わなかったでしょうね。甘いわ。私という人間を、そこまで愚かだと思っていたのかしら。」
さらに私は、みつ子に向き直った。彼女の顔は、先ほどまでの傲慢さが嘘のように引きつっている。
「みつ子さん、あなたにもご報告があります。あなたが娘を唆して私の資産を奪おうとした記録は、全てこのボイスレコーダーに残っています。あなたがゆりさんに『あの老婆を追い出して、店を金に変えなさい』と指示した会話は、しっかり録音されているのよ。不法行為の共犯として訴える準備もできています。あなたの借金は、自分一人で何とかしなさい。この店からも、娘夫婦の家からも、もう一円も出ません。あなたの贅沢三昧のために、私の人生が犠牲になる筋合いはないの。」
「直美さん、そんなひどいわ!家族じゃないの?助け合うのが普通でしょう!」
みつ子が叫んだが、私は冷たく切り捨てた。
「『他人には頼むな』と、ゆりさんがおっしゃったでしょう。私はもう、あなたたちの家族ではありません。今日限り、たくまとは親子の縁を切り、住宅の持ち分についても法的手続きを開始します。あなたたちには、直ちにマンションを明け渡してもらうわ。」
絶望に染まった二人が床に崩れ落ちる中、私は最後の一撃を加えた。
「それから、ゆりさん。あなたが『手配ミス』だと偽って私を仲間外れにしたグアム旅行。その費用も、元を辿れば私がたくまに渡した入学金の残りだったそうね。人の善意を泥で塗るような真似をした報いを、身を持って味わいなさい。明日から、そのマンションには住めなくなるわよ。差し押さえの手続きは、すでに完了しているから。あなたたちの自慢の家具も服も、全てが清算の対象になる。」
店内に沈黙が広がった。親族たちからも、「恥を知れ」「親を何だと思っているんだ」という罵声が飛ぶ。息子夫婦は、もはや言い返す言葉さえ持っていなかった。ゆりはみつ子と共に泣き叫び、琢磨は頭を抱えて震えるだけだった。
「母さん、ごめん。僕が悪かった。ゆりに言われて、つい……。やり直させてくれ。母さん、俺はあんたの息子だろ。」
足元にすがりつく息子の手を、私は静かに、けれど力強く振り払った。その哀願は、もう私の心には何も響かない。
「お荷物には、お金はありません。そう言ったのは、あなたたちよ。私という財布がなくなった世界で、自分たちの力だけで生きていきなさい。それが私からあなたたちへ送る、最初で最後の教訓よ。今から一時間以内に、私の家に置いてある荷物をまとめて出ていきなさい。それ以外のものは、全て私の所有物として処分します。」
そう告げると、私は弁護士と共に彼らを店の外へ促した。秋の風が、熱くなった私の頬を優しく撫でていく。搾取される恐怖から解放され、恩知らずな子供たちとの縁を断ち切った今、私の心には何十年ぶりかの清々しい自由が広がっていた。
――お片付けをしましょう。これからは、私のための新しい時間が始まるのだから。
泣き崩れる三人の姿を背に、私は優雅に店の戸を閉めた。因果応報。悪いことをすれば、必ず自分に返ってくる。そのあまりに当然な理を、私はこの手で完璧に証明してみせた。
自分を裏切った者たちへの最大の復讐は、私自身がより幸せに自由に生きること。その想いを胸に、私は今力強く踏み出した。もう二度と、誰にも私の尊厳を奪わせはしないと、空を見上げて誓うのであった。
息子夫婦が店を去ってから数ヶ月が経ち、私の日常にはあの日以来一度も感じることのなかった穏やかな静寂が戻ってきた。朝、窓を開けると、澄んだ空気が喫茶店のカウンターを優しく包み込む。かつては息子や嫁の機嫌を伺い、自分をお荷物だと思い込ませていた重苦しい空気は、もうどこにもない。
「おはよう、直美さん。今日もいい香りね。」
開店と同時に顔を見せてくれる常連さんたちの笑顔が、今の私にとって何よりの宝物だ。店を売ってローンの清算にしろと言われたこの場所は、今や以前にもまして活気に溢れている。私は、たくま夫婦から回収した資金とマンションの持ち分を売却して得たお金を元に、店の一部を改装した。
一方、私を裏切った者たちの末路は、まさに「自業自得」という言葉そのものだった。マンションを追われた二人は、みつ子の多額の借金も込みで、経済的に完全に破綻した。ゆりはあれほど執着していたブランド品を全て換金し、見栄のために続けていたSNSも、真実を知ったフォロワーたちからの批判に耐え切れず閉鎖したそうだ。
「母さん、本当にすまなかった。一度だけでいいから、会って話を聞いてくれ。」
たくまからは、何度も後悔の念が綴られた手紙や電話が届いた。しかし、私はその全てを静かに受け流している。あの子が本当に後悔しているのは、私を傷つけたことではない。安定した財布を失ったことだと分かっているからだ。親子という絆は、一度粉々に壊れてしまえば、二度と元の形には戻らない。
私は一人の女性としての尊厳を守るために、彼らを人生から切り離す決断をした。その決断に、一片の後悔もない。時折、みつ子とゆりが狭いアパートで肩を寄せ合って暮らしているという噂を耳にする。他人の資産を当てにし、嘘を重ねて築いた砂上の城は、あまりにも脆いものだった。
――彼女たちが「手配ミス」と笑って私を排除したあの誕生日。あの日、私は人生の後半戦を自分のために生きる権利を手に入れたのだ。
「直美さん、最近本当にお若くなったわね。表情がキラキラしているわ。」
お客様からかけられる言葉に、私は心から微笑み返す。自分の力で立ち、自分の意思で誰かを幸せにする。その当たり前のことが、これほどまでに心を豊かにしてくれるとは思わなかった。私は常連客で元銀行員でもある知人に協力してもらい、地域の若い世代の方々が経済的な被害に遭わないための無料相談会を、この店で定期的に開いている。
理不尽な扱いに耐えることが美徳とされる時代もあったけれど、自分の尊厳を踏みにじる相手に対して毅然と立ち向かう勇気を持つことは、自分自身の人生に対する責任だと思う。悪意を持って近づく者には、それ相応の報いがある。因果応報の理を身を持って知った今、私は本当の意味で自由になれたのだと感じている。
夕暮れ時、一人でコーヒーを入れる時間は、私にとって最も贅沢な一時だ。かつての苦しみも裏切りの悲しみも、全ては今の幸せにたどり着くための階段となった。これからは誰に遠慮することなく、この愛しい喫茶店と共に、一歩ずつ歩んでいこうと思う。正義は必ず実現され、誠実に生きる者は最後には必ず報われる。その確信が、私の胸を温かく満たしている。
物語の主人公は、いつだって自分自身。年齢を理由に諦める必要も、「家族」という名の鎖に縛られる必要もない。私はこれからも、この場所で私らしく凛とした姿で生きていくことを、亡き夫にも、そして自分自身にも誓うのであった。



