「サインしないでください。その通訳は嘘をついています」
静寂に包まれた特別会議室に、少女の声が響き渡った。その一言で空気が凍りついた。日本を代表する大手商社の役員たちと、海を越えてやってきたアラブの王族たち。数十の視線が、部屋の隅でお茶の準備をしていた十八歳の少女に突き刺さった。
「なんだね、君は?誰がこんな小娘を入れたんだ?」
専属主席通訳の一条が顔を真っ赤にして怒鳴った。数カ国語を操るエリート中のエリート。彼は少女を嘲るように見下した。
だが誰も知らなかった。このエリート通訳が、数分後に人生最大の後悔に打ちひしがれることを。
時計の針を十分ほど戻す。地上五十階。東京を見下ろす商社ビル最上階の特別会議室。巨大なマホガニーのテーブルには、伝説の経営者・豪田会長が座っていた。七十八歳。耳は少し遠くなっていた。
向かいには白い伝統衣装をまとったアラブの王族、発散殿下と側近たち。今日の会議は歴史的な意味を持っていた。中東の巨大インフラ開発プロジェクト。総事業費一兆四千億円。この契約が成立すれば、商社は向こう数十年の安泰が約束される。絶対に失敗が許されない最終交渉だった。
「発散殿下は我が社の最終条件に大変満足されております」
滑らかな声で告げたのは一条。高級スーツを着こなした四十代の男。数々の難交渉をまとめてきた実績があった。彼はアラブ側に振り返り、流暢なアラビア語で話しかけた。
「殿下はゴ田会長と仕事ができることを大変喜ばれています」
一条が差し出した契約書。会長が万年筆を手に取り、ペン先を紙に近づけた。役員たちは息を飲んで見守る。
だが、部屋の隅でコーヒーを準備していた新入社員の少女・優衣だけは、震える手でポットを握りしめていた。
違う。一条さんの言っていることは全然違う。
発散殿下が話したアラビア語。それは一条が訳したような歓迎の言葉ではなかった。
「日本の技術は評価する。だが違約金の条項がおかしい。我々が全リスクを負うことになっているではないか。このままではサインできない」
殿下ははっきりとそう言った。一条はそれを完全に隠蔽し、嘘の通訳をしたのだ。
優衣は特別な才能を持っていた。IQ212。一度見聞きしたものは決して忘れず、複雑な言語の法則すら瞬時に理解してしまう。彼女にとってアラビア語の方言を聞き分けることは呼吸と同じくらい簡単だった。一条はわざと日本側に不利な契約を結ばせようとしている。サインすれば、遅延が発生した瞬間に商社は一兆四千億円の違約金を支払うことになる。会社は倒産する。
「会長、サインしてはいけません。その通訳は嘘をついています」
優衣の叫び声が会議室を切り裂いた。会長の手が止まる。一条の顔が怒りで歪んだ。
「貴様、高卒の便所掃除の分際で何を言っている。警備員、この頭のおかしい女をつまみ出せ」
「おい、お前、ここは遊び場じゃないぞ。上司を呼べ」
「高卒の分際で一兆円のプロジェクトに口を挟むな」
高級スーツに身を包んだエリートたちの容赦ない言葉が飛び交う。だが優衣は一言も発せず、唇を噛みしめて耐えた。彼女の瞳は黒縁メガネの奥で、決して一条からそらされなかった。
「どうせ山辺高校しか出ていない小娘だろう。アラビア語のアの字も知らない分際で」
一条の侮辱は続く。役員たちも同調し、早くつまみ出せと声を荒げた。
「どうしたのだ、一条。その娘はなぜ騒いでいる?」
ゴ田会長が尋ねる。一条はすぐに耳元へ近づき、声を潜めた。
「会長、お気になさらず。頭の弱い雑用係がパニックを起こしているだけです。すぐに排除させますので、どうぞサインを続けてください」
「そうか。失礼のないようにしろよ」
会長は再び万年筆を握り直した。優衣の脳内はスーパーコンピューターのような速度で回転していた。
だめだ。会長の耳には届いていない。あの人がサインしたら全てが終わる。
重厚な扉が開き、屈強な警備員が二人飛び込んできた。優衣の細い両腕が掴まれ、引きずられていく。
「お前は本日付けで首だ。荷物をまとめて消えろ」
一条が勝ち誇った声で吐き捨てた。優衣は絶望しながらも、脳内データベースをフル回転させていた。視界の端に、発散殿下の斜め後ろで無言のままじっと自分を見つめる白髪の老人が映った。
あの人は誰?
服装のわずかな違い。立ち位置。そのまなざし。すべてが繋がった瞬間、優衣の口元に微かな笑みが浮かんだ。
「おじいちゃん、サインしないで!」
引きずられながら、優衣は渾身の力を振り絞って叫んだ。その瞬間、ゴ田会長の万年筆が完全に止まった。ペン先からインクが滲み、契約書に黒い染みを作っていく。室内が異様な緊張感に包まれた。
一条は耳を疑った。「おい、今こいつは何と言った?」
閉まりかけていた扉の隙間から、ゴ田会長がゆっくりと顔を上げた。彼は優衣の瞳をまっすぐに見つめた。
「お前は…さおりの娘か?」
その名前を聞いた瞬間、役員たちの顔色が変わった。さおり。それはゴ田会長が目に入れても痛くないほど可愛がっていた娘。しかし二十年前、身分の違う男との結婚を反対され、家を飛び出した。
優衣の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。「はい。母は十年前に病気で亡くなりました。亡くなる直前まで、お父さんに迷惑をかけたくないと言って、決して連絡しようとしませんでした」
優衣は母が残した日記と、ゴ田会長の記事の切り抜きを読み、自分の祖父がどんなに偉大な人物かを知っていた。そして、高齢にも関わらず会社の最前線で戦い続ける祖父を、一番近くで影ながら支えたい。IQ212の頭脳を持ちながら一流大学に行かず、高卒の雑用係として入社したのはそのためだった。決して名乗るつもりはなかった。会長の孫という肩書きが知れれば、社内に無用な混乱を招くからだ。
「感動の再会は後にして、まずはサインを!」
一条がヒステリックに叫んだ。社運をかけた契約を破棄するわけにはいかない。空気が再び一条に傾く。
その時、優衣の視線は再び、アラブ側の老人と交差した。彼は一条を、まるで底辺の虫を見るような目で見つめていた。
「一条さん。あなたが本当にアラビア語の完璧な通訳だとおっしゃるなら、これから私がする質問を殿下たちにそのまま通訳してみてください」
一条は嘲るように笑った。「そこまで言うなら、お前のその痛々しい質問を殿下の御前で通訳してやろう。さあ、言ってみろ」
優衣は深呼吸をし、はっきりと告げた。「では発散殿下にこう聞いてください。殿下、なぜあなたほどの身分の方が、その後ろに静かに控えておられる。今回のプロジェクトの真の出資者であるファハド太殿下を差し置いて、このような不平等な契約を結ぼうとしているのですか?」
その言葉を聞いた一条は大爆笑した。「ファハド太殿下だと?お前、まさかこのよぼよぼのじいさんがアラブ最高権力者だとでも言いたいのか?笑わせるな」
役員たちも嘲笑した。しかし、優衣の表情は一切変わらなかった。「笑うのは後にして、早く通訳してください」
「いいだろう。お前のその妄想をアラビア語で全世界に晒してやる」
一条は勝ち誇った顔で発散殿下に向き直り、アラビア語で話し始めた。「殿下、お聞き苦しいことをお許しください。この頭のおかしい女が、あなたの後ろにいるその老けた使用人をファハド太殿下だと抜かしております。日本の底辺労働者の妄想です。どうかお気になさらず」
その瞬間、アラブ側の座席から一切の物音が消えた。発散殿下の顔から血の気が引いた。側近たちの表情が恐怖と驚愕に凍りつき、その目は一斉に背後に立つ老人へと向けられた。
「なぜ誰も笑わないんだ?」
一条は動揺し始めた。静寂の中、白髪の老人がゆっくりと一歩前に出た。その瞬間、発散殿下をはじめとするアラブ側の全員が立ち上がり、深く頭を下げたのだ。
「日本の通訳よ。貴様は今、私を老けた使用人と呼んだな」
その言葉を理解した瞬間、一条の顔面は蒼白になった。優衣が冷たい声でとどめの一撃を放つ。
「偉大なるファハド太殿下。この男はあなたを侮辱しただけではありません。先ほど発散殿下が指摘された違約金の条項がおかしいという正当な懸念を、私たちの会長には満足していると嘘の通訳をしました」
ファハド太の鋭い眼光が、一条へと突き刺さった。「日本の通訳よ。お前は我が一族と、誇り高きこの会社を同時に愚弄した。万死に値するぞ」
一条はパニックに陥り、必死に言い訳を探そうとした。しかし、優衣は止まらない。
「あなたの本当の狙いはそこではありませんよね。あなたは日本語の契約書には商社が免責されると書き、アラビア語の契約書にはアラブ側が全リスクを負うと書いた。契約違反が起きた場合、その莫大な違約金は誰の懐に入るように仕組まれていたのですか?ダミー会社の代表取締役の名前は、奥様の旧姓ですよね?」
一条の顔から完全に表情が抜け落ちた。額からは滝のような汗が吹き出し、高級なスーツがじっとりと濡れていく。
「ダミー会社の名前はハマホールディングス。タックスヘイブンとして有名な某諸島に登記されています。代表者名はさゆり沢田。一条さん、あなたの奥様の旧姓は沢田ですよね」
「間違いない。一条君の奥さんの名前だ」
役員の一人が声を上げた。周囲の役員たちが一斉に一条から距離を取る。一条は顔を真っ赤にして否定したが、もはや誰も耳を貸さなかった。
「だから言ったじゃないですか。あなたは疲労で思考力が低下しているって」
一条が契約書を破り捨てようとしたその時、重厚な扉が開き、アラブ側の専属通訳であるサイードが現れた。一条が毒を盛って病院に監禁したはずの男だった。
「私を助け出してくれた御人がいました」
サイードは優衣に向かって深く一礼した。優衣が清掃員に変装して病院から救出したのだ。すべては一条が底辺と見下した少女の手によって計算され尽くしていた。
「あなたのダミー会社は、テロ資金供与の疑いにより全世界で凍結されました。あなたが五年間かけて盗み出した数十億円の裏金は、すべて電子の海へ消えました」
サイードの言葉が終わる頃には、警察官たちが会議室へと駆け込んできた。一条は発狂し、優衣の足元にすがりつく。
「優衣様!俺が悪かった!会長に口利きをしてくれ!被害届を取り下げさせてくれ!靴でも何でも舐める!」
一条の号泣と懇願。しかし、優衣は静かに見下ろすだけだった。その瞳には怒りも復讐の喜びもなかった。ただ深い哀れみだけが浮かんでいた。
「一条さん、あなたは私にこう言いましたね。一生かかっても払えない数億円を請求してやる。自己破産して一生泥水をすって生きろ、と。あなたが私に突きつけたその未来は、今あなた自身のものになりました」
一条はそのまま警察官に引きずり出されていった。厚い防音扉が閉まると同時に、彼の叫び声は完全に遮断された。
会議室に深い静寂が戻る。ゴ田会長が重い足取りでファハド太と発散殿下の前に進み出た。
「我が社の愚かな社員があなた方を騙そうとしたこと、心よりお詫び申し上げます。この契約は我が社のような不器用者が受け負うべきではありません。大変無念ですが、本契約は我が社の方から辞退させていただきます」
役員たちが絶望の表情を浮かべた。だが、その時だった。
「誰が契約を辞退して良いと言った」
ファハド太がゆっくりと立ち上がり、優衣の目の前まで歩み寄った。そして、優しい微笑みを浮かべた。
「日本の若き天才少女よ。我がアラブの王族は決して恩を忘れない。この一兆四千億円の契約、私はある一つの条件でくれるなら、今すぐこの場でサインしよう」
「条件は一つ。このプロジェクトの日本側最高責任者を、この少女にすることだ」
優衣は思わず声を上げた。ゴ田会長も役員たちも耳を疑った。
「殿下、彼女はまだ十八歳の新入社員です。実務経験がまったくなく、会長のお孫さんというだけで…」
「実務経験など後からいくらでもついてくる。私が評価しているのは彼女のIQ212の頭脳だけではない。権力に媚びず、身の危険を顧みず真実を叫んだ勇気と誠実さだ。ビジネスにおいて最も重要なのは、決して裏切らないという信頼だ。この少女とならば、我が国の未来を安心して預けることができる」
ファハド太は優衣に向かって深く温かい微笑みを向けた。その言葉を聞いたゴ田会長は、目から大粒の涙をこぼした。杖をつきながら優衣の前に歩み寄り、その小さな肩を震える手で包み込んだ。
「優衣、お前は今日、この会社と私を救ってくれた。これまで一人で苦労をかけたな。これからは私が全てを教えよう。さおりが残してくれたこの世界一の宝物を、責任を持ってこの会社を背負って立つ人間に育てあげる」
優衣の目から止めていた涙が溢れ出した。施設で孤独に生きてきた少女。遠くから祖父の会社を支えたいと願い、トイレ掃除やお茶汲みを文句一つ言わずにこなしてきた日々。そのすべてが、今最高の形で報われた。
優衣は涙を拭い、分厚い黒縁メガネを外した。その素顔は、かつてゴ田会長が溺愛した娘・さおりに瓜二つだった。
「偉大なるファハド太殿下。その身に余る光栄、謹んでお受けいたします。私のIQ212の頭脳、これからの人生のすべてをかけて、両国の未来のために尽力することをお約束いたします」
その堂々たる宣言に、ファハド太は満足げに大きく頷いた。発散殿下も満面の笑みで拍手を送った。
「さあ、おじいちゃん…いや、ゴ田会長、サインを」
優衣はサイードが持参した本物の契約書をテーブルに広げ、一条が叩き落とした万年筆を拾い上げて会長に手渡した。ゴ田会長は迷うことなく、力強くサインを書き入れた。発散殿下も続き、流れるようなアラビア文字で署名をする。
一兆四千億円の中東インフラプロジェクト。悪意に満ちた罠を乗り越え、真の信頼関係によって結ばれた歴史的な契約が成立した。特別会議室は割れんばかりの拍手に包まれた。
それから半年後。優衣は中東プロジェクト統括本部長として、役員会議で堂々とプレゼンテーションを行っていた。
「以上が、ドバイにおける次世代スマートシティ開発の第一フェーズにおけるコスト削減のシミュレーションです。私の計算では、現地の資材調達ルートを最適化することで、さらに三百億円の利益を生み出すことが可能です」
完璧なアラビア語を交えた理路整然としたプレゼン。役員たちは感嘆のため息を漏らした。
会議が終わり、ゴ田会長が嬉しそうに目を細めた。
「素晴らしいプレゼンだったぞ。お前がいるおかげで、わしも安心して引退できそうだ」
「何言ってるの、おじいちゃん。まだまだ現役で頑張ってもらわないと困るわよ。私のIQ212でも、おじいちゃんの長年の経営者の勘にはまだ勝てないんだから」
優衣がいたずらっぽく笑うと、ゴ田会長は豪快に笑った。窓の外には雲一つない青空が広がっていた。
かつて「変人」と見下され、孤独だった天才少女は、自らの勇気と誠実さで未来を切り開き、かけがえのない家族と共に歩むことを手に入れた。彼女の顔にはもう、分厚い黒縁メガネは必要なかった。



