父の葬儀が終わったばかりなのに、夫の茂春が親戚の前で「これからは俺が野中旅館を仕切る」と堂々と宣言した。
あまりにも勝手なその言葉に私は耳を疑ったけれど、茂春の本当の暴走はそこから始まった。
3日後、父の四十九日もまだだというのに、茂春は私や母に一言の相談もなく新社長就任披露宴を強行した。親戚や取引先を広間に集め、得意満面で言い放った。
「今日から俺が法律だ。古臭い宿は潰して、カジノ付き巨大ホテルを建設する。」
創業100年の老舗旅館を、父が命をかけて守ってきたこの場所を、茂春は最初から乗っ取るつもりだったのだ。
広間がざわつく中、私は母と目を合わせ、静かにマイクを握った。
「残念だけど、あなたに継がせる旅館はもう存在しないわ。」
その瞬間、会場の空気が凍り付いた。
「実は父が他界した直後、旅館の土地と建物は、その経営権も含めてすべて売却していたの。」
「一体どういうことだ?俺は何も聞いてないぞ。」
顔色を変えた茂春の叫びが広間に響き渡った。
私は野中ひさみ、32歳。旅館の若女将をしながら、2歳年上の夫・茂春と5歳になる娘の千明と共に暮らしている。私がいる野中旅館は、曾祖父が建て、祖父から父へと受け継がれてきた100年の歴史を誇る老舗旅館だ。
父は伝統を大切にしながらも新しいサービスを取り入れ、安定した経営を続けていた。その一人娘である私は、大学を卒業した後、若女将として働き始め、両親のもとで旅館経営を学んでいる。地域の人々に愛され、近年では外国人観光客の利用も増え、旅館にはいつも笑顔が溢れている。
子供の頃から旅館で働く両親を見ながら、いつか私が女将になると夢見てきた。実際に働き始めるとその多忙さに驚きもあったが、お客様の笑顔に触れるたび誇らしい気持ちにもなる。私にとって旅館は生きがいそのものなのだ。
夫の茂春と出会ったのもこの旅館だった。
6年前、茂春は両親と共に旅館を訪れた。一泊二日の旅行を楽しんだ茂春の母は、「自慢の息子」だと笑顔を見せ、満足そうに微笑んでいたのだが、旅館を出ようとしたその時、急に胸を押さえて倒れ込んだのだ。
駆け寄った私は救急要請をしつつ、旅館に備え付けてあったAEDを使用して救命に務めた。その甲斐あって茂春の母は一命を取り止め、その後は元気に回復したのである。
数日後、茂春は「お礼に是非食事をご馳走させて欲しい」と連絡してきた。最初は当たり前のことをしただけだと断っていたのだが、「母の命を救ってもらった人に何もしないわけにはいかない」という茂春の熱意に負けたのだ。
茂春の申し出を受け入れた私は、当日旅館の仕事を母に頼み、待ち合わせのレストランへと向かった。そのことがきっかけとなり、連絡を取り合うようになった私たちはやがて交際することになり、5年前結婚したのである。
結婚後は茂春が婿養子として私の家に入ることとなり、それまで務めていた会社を辞めて旅館を手伝うことになった。当時の茂春は旅館はおろか接客のことも何も知らなかったのだが、それでも父のもとで番頭見習いとして実直に働き、伝統を受け継ぐ若者として懸命に努力を続けてくれたのだ。
当初は失敗することも多かった茂春だが、物腰の柔らかい話し方と丁寧な接客で従業員や常連客の心を掴んでいった。私のことも大切にしてくれ、両親への気遣いも忘れない。母は「いいお婿さんが来てくれた」と笑顔を見せ、父も茂春の今後に期待できると満足だった。
結婚の翌年には娘の千明が生まれ、旅館業と家事と育児に一層多忙となった私を、茂春は献身的に支えてくれ、娘の世話も積極的に行ってくれたのだ。周囲からは誰もが羨む理想の夫婦だと言われ、私は満たされた毎日を送っていたのである。
しかし、どういうわけか千明は茂春に懐かなかった。茂春が抱き抱えようとすると激しく泣いて抵抗し、どこか怖がっているようにも見える。
「まさか。僕が何か嫌なことをしてしまったんだろうか。」
我が子に拒絶され、茂春は困り果てていた。たまたま機嫌が良くなかっただけよ。茂春は千明のことを誰よりも可愛がってくれている。成長していく中で父親の愛情を感じ、自然に懐いていくでしょう。
この時はそう思っていたのだ。
しかし千明は2歳になっても茂春を拒否することが多かった。茂春と一緒に風呂に入ることも嫌がり、寝る時は必ず私の横にへばりつく。毎日懸命に世話をしてくれる茂春が千明に何かしたとも思えず、私は頭を悩ませていた。
ある日、千明を寝かしつけるついでに、「パパの何が嫌なの?」と聞いてみた。
「パパの顔、怖い。」
千明の言葉が理解できなかった。茂春は穏やかな性格が顔にも現れている。その上、千明が茂春に怒られた事実もない。それなのに千明は何を言っているのだろうか。
「パパは千明のことが大好きなのよ。」
「でも本当に怖い顔して千明を見てる。『もうすぐ終わりだ』って。」
千明は泣きそうな顔をして訴えてくるが、普段は穏やかな茂春が娘を嫌う理由もない。きっと怖い夢でも見たのね。
「夢じゃないもん。本当だもん。」
必死に訴える千明をなだめ、寝かしつけた私は母に相談してみることにした。
「私たちには何でもないことでも、小さい子供には怖いことはたくさんあるわ。でも成長と共に大丈夫だって分かってくる。あなたもそうだったのよ。」
そうなのかもしれない。茂春には申し訳ないけど、もうしばらく我慢してもらおう。子供には子供にしか見えないものがある。同じように、子供にしか感じない感情があってもおかしくない。
思い返してみれば私も、風の音が誰かの囁きのように感じて怖がったり、テレビで見たオカルト映像が本当に起こりそうな気がして母を困らせていた。千明もきっとそうなのだろう。そう思い込んでしまったのだ。
それからも千明は変わらず「パパが怖い」と訴えてきたが、そのたびに話を聞き流してしまっていた。
年末が近づくにつれ、旅館の仕事も忙しくなる。猫の手も借りたい状況の中で、千明の話に向き合う余裕もなかったのだ。
しかし、そんな中旅館で不可解な事件が相次ぐようになった。
ある日、旅館の売上金を銀行に預けるため金額を確認していると、帳簿に書かれた金額と合わない。何度数えても20万ほど足らず、金庫の中を調べたのだがどこにも見当たらない。帳簿が間違っているのかと確認してみても、おかしな点は見当たらなかった。
売上金は基本的に毎日銀行に預けており、普段は緊急用の資金以外は金庫に入っていない。しかし銀行が休みになる週末の売上は月曜日まで金庫で保管されることになる。そのことを知っていて金庫を開けられるのは、両親と私と茂春の4人だけだ。
その中の誰かが盗んだとは思えない。結局その日は紛失したことを両親に伝え、金庫の鍵の管理を徹底しようということになり様子を見ることにしたのだが、どういうわけか月曜日になるたびに現金が不足するという事態が続いたのだ。
同じ頃、宿泊客から「部屋の金庫から貴重品がなくなった」と訴えがあった。事情を確認すると、旅館近くの観光に出ようと、スマホ以外の貴重品を金庫に入れて施錠して出かけたらしい。金庫に入っていたのは身分証明書やキャッシュカードが入った財布とブランドのバッグ、アクセサリー数点ということだ。
宿泊していた客は窃盗事件だと大騒ぎしたが、お客様が外出中に掃除のため部屋に入ることはあっても、仲居たちは金庫の番号を知らない。とはいえ、客室の金庫の番号は固定のもので、一度泊まったことのある人なら覚えていてもおかしくないが、定期的に部屋の金庫を入れ替えているためその可能性も低いだろう。
結局すべての貴重品を賠償することで気持ちを納めてもらったが、不可解な事件はその後も続いたのだ。
「こんなに紛失が続くなんておかしいわ。」
「うん。明らかに窃盗事件だな。」
考えたくはなかったが、盗んでいるのはおそらく従業員の誰かだろう。どういう方法を使ったのかは分からないが、一緒に働いていれば事務所や客室の金庫の番号を知る機会もある。
「だけど従業員を疑うのは良くないよ。」
「そうだけど、それ以外考えられないわ。とにかく十分注意して、金庫の番号を他の人に知られないようにしましょう。」
売上金はともかく、お客様が安心して泊まれる環境を徹底しなくては。父は安心安全な旅館の信用を守るため、客室の金庫をお客様自身が暗証番号を設定できるものに入れ替えたのだ。
その日の夜、父は私だけを部屋に呼び、事務所に隠しカメラを設置したと告げた。
「これで売上金を盗んだ犯人もはっきりするわね。」
「ああ。だけど、このことは母さんにも茂春君にも黙っておいてくれ。」
「え?どうして?」
おしゃべり好きな母がうっかり従業員の前で隠しカメラのことを話してしまえば、犯人が警戒してしまう。それは理解できたのだが、茂春にも秘密にする理由が分からない。もしかして父は茂春のことも疑っているというのだろうか?
「念のためだよ。」
昔から慎重な父は、婿養子とはいえ「他人だ」と茂春にも真実を知らせないという。どこか引っかかるものはあるものの、父が決めたことであれば従うしかない。私は父の言いつけを守り、隠しカメラの存在を黙っていることにしたのだ。
しかし、事態は急展開を迎えた。
数日後の朝礼の時、茂春が改めて重要な報告があると切り出したのだ。
「盗まれた現金が見つかった。」
「え、どこから?」
「それが…」
茂春は、窃盗犯が従業員の中にいないことを証明するため、個人ロッカーをチェックしたらしい。すると、1人の男性従業員のロッカーから現金が入った封筒が見つかったという。その封筒には、客室から盗まれたアクセサリーも入っていたのだとか。
「それで、誰のロッカーから見つかったの?」
「鈴木君だ。」
従業員の鈴木は1年前から働いてくれている真面目な男性だ。そんな彼がそんなことをするわけがない。
「僕も信じられません。でも、これが見つかった以上、擁護することはできません。」
茂春は現金とお客様のアクセサリーが入った封筒を差し出した。
「僕は何も知りません。」
鈴木は必死に否定したが、茂春は彼のロッカーに入っていた証拠だと、開ける瞬間から発見に至るまでの動画を流したのだ。その動画によれば、鈴木のロッカーはきちんと施錠されており、事務所で管理しているマスターキーを使用する以外、鈴木が持っている鍵を使うしか開ける方法はない。
「疑いたくはないが、証拠がある以上、君には責任を取ってもらう。」
父はその場で鈴木を首にしたのだ。
それで事件は解決するかと思われた。しかし、その後も金庫の現金が紛失するという事件は続いたのだ。
さらに悪いことは続くもので、旅館での不祥事が相次いで起こったのである。ある日、旅館で食事をした数人の客が腹痛を訴えた。病院を受診してもらうと食中毒だという。仕入れを任せている料理長は昔から厳しい衛生管理をしっかり行っている。料理人たちは毎月健康管理も行っており、体調不良者は調理場への入室も禁じているというのに、一体なぜ食中毒が発生したのか。不可解に思いながら保健所に連絡し調査を受けた。その結果、客に提供した食材からサルモネラ菌が検出されたという。
幸い被害者が少なく重症化は免れたものの、旅館の信用は大きく失われた。さらに、被害者から噂が広がり、宿泊予約が減少したのだ。
「一体どうして?」
父は連日頭を悩ませていた。100年続いた老舗の看板に泥を塗ってしまったと、自分を責めていたのだ。
「もしかしたら、俺の代で潰してしまうかもしれない。」
売上が下がり続ける現状に、父は神経をすり減らしていった。
そんな中、今度は地元新聞に「野中旅館の経営体制に不信感」という記事が掲載されたのである。記事では客室の金庫から貴重品が紛失したことや食中毒が発生したことが取り上げられ、そのすべてが杜撰な管理体制が問題だと書かれていた。
その記事が出てからというもの、宿泊客はさらに減り、旅館は閉鎖の危機に追い込まれたのである。父は責任を感じ、連日、顧客の元を訪れ頭を下げ続けた。
「どうしてこんなことに…」
「信用を回復するためには、経営者が交代するしかないかもしれないね。」
「交代って、父を経営から外すってこと?」
茂春は、旅館の経営を回復させるためには父の引退が必要不可欠だという。しかし、これまで堅実に旅館のために働いてきた父に引退を求めることなどできるはずがない。
「最悪の場合だよ。だけど不祥事を起こしたことは事実だし、誰かが責任を取らなきゃ客は納得しない。」
茂春の言うことは理解できた。それでも、父の苦労を知っている私は納得することができなかったのだ。
「とにかく、今は経営の立て直しができるよう、やれることをやるわ。安心して旅館を利用してもらえるよう、取れる対策はすべて行い、旅館の信用を取り戻す。」
私の中に強い決意が生まれたのだ。
しかし、その数日後、父が倒れた。連日の過労が祟ったのだろう。ある日突然、私の目の前で倒れたのだ。脳梗塞だった。救急搬送された父は一命は取り止めたものの、意識を失ったまま。いつ目覚めるかも分からない状況だった。父は入院を余儀なくされ、旅館は一層窮地に追い込まれたのである。
「お父さんのお見舞いは僕が行くから。ひさみとお母さんは旅館の立て直しに集中して。」
「ありがとう。助かるわ。」
茂春は旅館の営業と立て直しに奔走する私と母を気遣ってくれたのだ。
「旅館を守りたい気持ちは僕も同じだ。家族一丸となってこの危機を乗り切ろう。」
茂春の気持ちが嬉しかった。
しかし、その数日後、私は衝撃を受けることとなったのだ。
ある日、地元新聞を読んでいると茂春の写真が目に入った。どうして茂春が載っているのかしら?不思議に思いながら記事を読み進めると、旅館の不祥事に関して茂春がインタビューに答えていた。野中旅館の不祥事についてどう思っているかと尋ねられた茂春は、まず問題とした上で「家族経営の限界だ」と答えている。さらに「革新的な改革が必要だ」と話し、「自分が次期社長となって不祥事だらけの旅館を立て直す」と宣言していたのだ。
茂春が次期社長になることなど誰も考えていない。まして父が存命中にも関わらず、勝手にインタビューに答え、父を引きずり下ろすと宣言する茂春に不信感が湧き起こった。
その直後、地元の観光業界の会長から電話がかかってきた。
「茂春君が次期社長とは一体どういうことだ?」
「それが…私たちも戸惑っていて。父は彼に社長を任せるとは一言も言ってません。」
「野中旅館は代々、血縁者が相続してきた。仮に父君が亡くなったとしても引き継ぐのは血縁者である君であり、茂春君が社長になることはない。それなのに彼は勝手に次期社長だと宣言してしまったのだ。もしかしたら彼は最初から旅館を乗っ取るつもりだったのかもしれないな。」
会長の言葉に、私はショックを隠せなかった。しかし、それが本当だと考えると、すべてのことが納得できたのだ。
茂春であれば、金庫の鍵の在り処も暗証番号も知っている。客室の金庫の番号も彼は知っていた。客が不在にしている時間も、茂春なら容易に知ることができる。考えてみれば、食中毒が起きた日、茂春は人員不足を理由に料理の配膳を手伝っていた。あの時、密かに客の料理に毒を混入させることも可能だったはずだ。地元の新聞に不祥事の詳細を垂れ込んだのも、茂春だとすれば納得がいく。
結婚して以来ずっと茂春のことを信用してきたが、考えてみれば娘の千明だけは「パパが怖い」と言っていた。茂春がよからぬ計画を立てている時の顔を千明が目撃してしまい、何らかの脅しを受けていたとすれば、娘が怖がる理由も納得できたのだ。
それでも私は茂春を信じたかった。私は彼を信じるために、真実を明らかにしようと行動したのである。
3ヶ月後、母と旅館の今後について話していると突然電話が鳴った。病院からだ。「容態が急変した」と言われ、急いで母と共に父の元へ向かう。
「間に合わなかったよ…」
茂春は顔を下に向け、残念そうに言葉を詰まらせた。病室に入ると、顔に白い布をかけられた父が横たわっていたのである。
「どうして?父が亡くなったなんて…」
意識がはっきりしないことが多かったが、医師の懸命な処置により峠は乗り越えたと思っていたのだ。
茂春が何かしたに違いない。私には確信があった。茂春はずっと私たち家族を欺いてきた。父の看病をすると言ったのも、旅館を乗っ取るための手段だったのだろう。父の亡骸を前に、私と母の中には強い決意が湧いていた。
茂春から旅館を守る。父が守ってきた大切な旅館を、茂春の思い通りにさせてたまるものか。反撃することにしたのである。
数日後、父の葬儀を取り行った。多くの人が早すぎる死を悼む中、茂春だけは嬉しそうに笑っている。
「これからは俺が野中旅館を仕切る。」
父の葬儀が終わったばかりだというのに、茂春は親戚一同の前で宣言したのだ。その様子を私と母は黙って見つめていた。
3日後、茂春は新社長就任披露宴を行った。父の四十九日もまだだというのに、私や母に一言の相談もないまま強行したのである。
「今日から俺が法律だ。古臭い宿は潰して更地にする。ここにカジノ付き巨大ホテルを建設する。」
茂春は親戚や取引先が集まる広間で声高らかに宣言したのである。
カジノ付き巨大ホテルの建設。これこそが茂春の目的だったのだ。
私は母とアイコンタクトを取り、マイクを握った。
「残念だけど、あなたに継がせる旅館はもう存在しないわ。」
「実は父が他界した直後、旅館の土地と建物は、その経営権も含めて売却していたの。」
「一体どういうことだ?俺は何も聞いてないぞ。」
思惑が外れた茂春はひどく動揺を見せている。
「そもそもこの旅館は、父から私が相続したの。個人の財産をどうしようと、あなたに報告する義務はないわ。」
「俺たちは家族だろ。なんでそんな大事なことを…」
「家族ね。私もそう思ってた。だけど、あなたはずっと私たちを裏切ってた。」
「違う!」
そこに、宿泊客として滞在していた金剛剛が現れた。金剛は父の知り合いで、地元では有名な不動産王だ。
「ここはすでに私の所有物だ。お前のような小物に渡す看板はねえ。」
「ど、どういうことだ?」
「実は父君は生前、もし自分に万が一のことがあれば、娘と旅館を茂春から守って欲しいと、私に事業譲渡の相談を持ち掛けていたのだ。」
「嘘だ。じじいはずっと意識がなかった。」
「ええ、あなたの前ではね。病院に運ばれた当初、確かに父君は意識がなかった。しかし数日後、意識を取り戻し、奥さんと娘さんに真実を明かしてくれていたのだ。」
茂春の本性を知った父は、意識が戻ったことを茂春に悟られないようにし、密かにボイスレコーダーを仕掛けていたのである。
私は父が託したボイスレコーダーを再生した。会場内に茂春の暴言が響き渡る。
「さっさと死んでくれよ、じじい。お前がいなくなったら、ひさみもババアも放り出して、愛人を何人も住ませるんだ。俺の理想のハーレムの完成だ。だからさ、いつまでもしつこく生きていられると困るんだよ。」
その音声に、会場内は凍り付いた。茂春は父に対して暴力を振るっていたのだ。
「お前の旅館を乗っ取るために、これまでいい夫を演じてきたんだ。ひさみみたいな野暮ったい女。最初から興味なんかない。」
その言葉に、私は憤りを覚えた。
「あなたはこの旅館を乗っ取るためだけに私と結婚したのね。そうとも知らず、これまで信じてきた私がバカだったわ。」
「違う。これは陰謀だ。あのじじいの策略だ。」
茂春は必死に言い訳しているが、今更何を聞かされても信じることなどできるはずがない。
「あなたは私たち家族を欺いていただけじゃない。父の死も、あなたが仕組んだことでしょう。」
回復を見せていた父が急死したことに、医師も驚いていた。毎日父の死を望んでいた茂春が、何か仕掛けたとしてもおかしくはない。
「どこにそんな証拠があるんだ。」
茂春は自分は無関係だと否定しているが、その口元が一瞬、歪んだことを私は見逃さなかった。
「証拠なら、ここにあるもん。」
千明が会場に駆け込んできたのだ。千明は手に持っていた通信のできるゲーム機を掲げた。
数日前、母と共に父の見舞いに訪れた千明は、自分で録画したメッセージ動画を父に見せようとゲーム機を持っていったらしい。しかし、父が眠っていたため、ゲーム機を置いて帰ったのだとか。命の危機を感じた父は、そのゲーム機を使って茂春の暴行を録画したのだ。
千明はゲーム機を操作し、録画されていた動画を流した。そこには、父に暴行を加える茂春の姿がはっきりと映っている。茂春は父の命まで手にかけ、強引に旅館を乗っ取ったのである。
「こんなものが証拠になるわけない。」
動画を見てもなお否定を続ける茂春を、千明は鬼のような形相で見つめていた。
「あなたの本性は、すでにバレてますよ。」
金剛の後ろから、解雇されたはずの鈴木が顔を出したのだ。
「お前にはどうも、まんまと僕を嵌めてくれてありがとうございます。」
鈴木は立派なスーツに身を包み、微笑を見せた。
「実は、鈴木君は金剛さんの指示のもと、極秘に野中旅館の内部調査を進めていたんだ。茂春さんの悪事は、もう何もかも見通しですよ。」
鈴木の声と同時に、会場内のモニターに映像が流れた。そこには、茂春が深夜に旅館の事務所に忍び込み、金庫から現金の束を抜き取る姿が映っていたのである。
「ひさみちゃんのお父さんに頼まれてね。鈴木君に隠しカメラを回収させたんだよ。」
父は、鈴木を解雇した後も彼の無実を信じていたらしい。病院に入院することになってからも、金剛に頼んで旅館内を調べさせていたそうだ。
「こんなの、でっち上げだ。」
「いいえ、これは紛れもない事実です。あなたは旅館のお金を横領し、複数の愛人にマンションやブランド品を買い与えていた。」
鈴木は、茂春が購入した高級品のリストと共に、愛人たちとやり取りしていたチャットの履歴を見せつけた。そこには、「じじいの命もあと数日で終わりだ。そうなったら旅館を売り払って山分けしよう」と、愛人と決託していた内容が書かれていたのである。
「う、嘘だ。首になった腹いせに、俺を嵌める気だろう。」
「まさか。旅館を首になっても、僕は何も困りません。むしろあなたが罠にはめてくれたおかげで、こうやって証拠を得ることもできました。」
鈴木はボイスレコーダーを再生し、茂春の愛人たちの証言を流した。愛人たちは、すでに自分たちの悪事が露呈していることを知り、あっさり茂春を見切ったのだとか。さらに、「素直に証言すれば罪に問わない」という鈴木の言葉を信じて、茂春の暴言を次々に証言してくれたらしい。
「お前が貢いでいたのは、野中さんが命を削って稼いだ金だ。」
「殺人未遂、覚悟しろよ。」
金剛に証拠を突き付けられ、茂春はその場に崩れ落ちた。
「あなたとは離婚します。」
私は記入済みの離婚届を突きつけ、慰謝料と養育費を請求した。
「待ってくれ。俺は本気じゃなかった。あの女たちに唆されて…頼む。許してくれ。」
茂春は私の足元にすがりついてきたが、口先だけの謝罪など私の心には響かない。
「二度と私たちの前に顔を見せないで。」
私はしがみつく茂春を振り払い、会場を後にしたのである。
その後、茂春は金剛の通報により駆けつけた警察官によって逮捕された。警察の取り調べでも「自分は騙されていただけだ」と主張しているようだが、愛人たちの証言により茂春が主導していたことは明白だ。警察が旅館の防犯カメラを調べたところ、茂春が客室に忍び込み、金庫から貴重品を持ち出し、それらを鈴木のロッカーに入れて罪を着せたことも判明した。さらに、地元新聞社に旅館の不祥事を密告したのも茂春だったことが分かったのである。
起訴された茂春には、殺人及び未遂、業務妨害、建造物侵入、窃盗等の罪が科せられた。その後行われた裁判でも茂春は無実を主張したが、身勝手な言い訳など通るはずがない。数ヶ月後の判決では、茂春に実刑が下されたのだ。
その結果を受け、私は剛弁護士団を引き連れ、茂春に損害賠償請求を行った。これにより、すでに差し押さえられている茂春の財産と共に、愛人に買い与えたマンションや貴金属などもすべて差し押さえられることとなったのだ。
茂春が起こした旅館乗っ取り事件は、テレビのニュースやSNSでも大きく取り上げられ、彼の社会的信用は地に落ちた。ある意味、刑務所に収監されたことは彼にとって良かったのかもしれない。こちらの世界では、財産を差し押さえられた愛人の怒りと、世間の冷たい風が吹き荒れているのだから。
その後、私と母は金剛の支援を受け、旅館を再建させるべく奮闘している。父が残したこの旅館をもう一度、お客様に安心して利用してもらえる場所となるよう、徹底した管理体制を整え、一つ一つのサービスを見直した。その上で記者会見を開き、私の社長就任と透明性のある旅館経営を発表したのである。
最初こそ客足が少なかった旅館も、鈴木の協力もあり、今ではすっかり元の姿を取り戻した。茂春との離婚が成立したことで、小学生になった娘の千明は旅館の仕事を自ら手伝うようにもなってくれ、将来は女将になると意気込んでいるのだ。
千明の、これまで見たことのない笑顔を見ていると、彼女の訴えに耳を貸さなかった自分が恥ずかしくなる。しかし、だからこそ今後は娘の声を真摯に受け止め、親子三代で旅館を盛り上げていこうと心に誓っているのだ。
老舗旅館の看板を背負い、私らしく精一杯生きていこうと思っている。



