「引退を考えてほしいってことだ。」
近藤社長はニタニタと笑いながら、平然とそう言った。58歳の俺、木沢洋介は、その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「え、引退ですか? いや、でも俺はまだまだ現役でやれます。定年まであと2年はありますから。」
「いや、そんなに頑張らなくていいよ。今の時代、昭和気質のじじいはこの会社には不要なんだよ。」
その瞬間、俺はこの会社で積み上げてきた全てが否定されたような気がした。長年営業として契約を取ってきて、部長にまで昇進し、地道に築き上げてきた取引先との信頼関係。それら全てが「不要」の一言で片付けられた。
「今後はわしの後ろにいるこの子たちに任せる。彼らはわしがヘッドハンティングしてきた高学歴の若手社員たちだ。お前の部下たちに任せるよりも、ずっとマシだろう。」
近藤社長の後ろには、誇らしげな顔をした若い社員たちが数人立っていた。俺はこれ以上話しても無駄だと悟り、その場を後にした。背中からは社長の高笑いと、若手たちの嘲るような笑い声が聞こえてきたが、俺は全て無視した。
「せいぜい頑張ってくれ。俺はもう何も知らないからな。」
俺は数十年世話になった会社を、そう呟きながら去った。退職する際、俺が必要な情報と資料を全て残し、笑顔で退職届を提出した。決して後ろめたさを見せなかった。
退職してからは家で穏やかに過ごしていた。妻には全てを話してあり、彼女は俺以上に近藤社長に怒りをあらわにしていた。そんな中、俺が育てた部下の一人である唐木だけは、定期的に連絡をくれた。彼は真面目で仕事が早く、かなり優秀な男だ。俺は定年退職する時には彼を部長に推薦しようと思っていた。
唐木の話では、社長が連れてきた高学歴の若手たちは、横柄な態度を取るばかりで仕事が全くできないらしい。上司に敬語も使えず、俺が残しておいた資料も確認せず、自分たちのやりたいようにやっているとのことだった。
退職して1週間が経ったある日、妻と家でくつろいでいると、スマホが鳴った。画面には「近藤社長」の名前。
「あんな人の電話、出なくていいわよ」と妻は強く言ったが、俺は苦笑いしながら電話に出ることにした。
「おい、木沢君。どうしてもっと早く電話に出ないんだ。取引先から来た請求書が今までより高くなっているんだ。確認のために会社に来い。」
「いや、俺は退職したので無理です。」
俺は近藤社長が何かを言い切る前に電話を切った。すぐに唐木に連絡すると、彼はこう説明してくれた。
「取引先が木沢さんの退職を知って、通常の金額に戻したらしいんですよ。木沢さんのために随分と割引してくれていたんですね。中には倍近くになった取引先もあるので、会社は支払いに困っているようです。」
なるほど。俺は入社からずっと地道に営業し、取引先と信頼関係を築いてきた。あの割引は、俺と取引先の間だけで交わされていた約束だったのだ。近藤社長はそれを一切知らないだろう。
さらに数日後、今度は唐木から焦った声で電話がかかってきた。
「木沢さん、大変です! 一番古い取引先の方たちが、『木沢さんがいないなら契約を打ち切る』と言って、会社に来ています!」
「ああ、なるほどな。多分、近藤社長から電話がかかってくるだろうから、一旦切るぞ。」
予想通り、すぐに近藤社長から電話がかかってきた。
「おい! 今すぐ会社に来い!」
「いや、前にも言いましたけど、俺は退職したので無理です。」
だが、近藤社長の怒鳴り声は止まらない。
「取引先の杉田社長が、お前に会いたいと言っているんだ。頼む、来てくれ!」
杉田社長とは、俺が長年お世話になった古い取引先だ。俺もちゃんと退職の挨拶をしていなかったので、その機会は必要だと思った。決して近藤社長のためではない。俺はそう自分に言い聞かせて、しぶしぶ会社へ向かった。
会社に着くと、社長室に通された。中には杉田社長がいた。
「杉田社長、お久しぶりです。遅くなって申し訳ありません。」
「いいや、こっちこそ退職した君に来てもらって申し訳ない。実はな、君の代わりに来た新しい担当者が、敬語もまともに使わないし、仕事中にスマホをいじっているんだ。私が注意しても聞く耳を持たない。」
杉田社長は怒りを込めて続けた。
「そして『木沢さんは年寄りなので首になりました』と言ってきたんだ。さすがにその物言いには頭に来てしまってね。」
俺はにっこりと笑いながら、近藤社長を見る。彼は気まずそうに視線をそらした。
「本当に申し訳ないです。ですが、俺の退職も含め、全ては近藤社長が決めたことなので、俺にはどうすることもできませんよ。若手に任せると言って、指導も満足にされないままだったようですが。」
「だったらこの会社はもう終わりだ。木沢君を辞めさせた時点で、将来は決まったようなものだよ。」
「そ、そんなこと言わないでください! 部品の金額をお安くしますから!」
「ああ、では、木沢君と取引していた時の金額に戻して、品質も同じものを用意してくれるなら、契約は継続しましょう。」
杉田社長はそう言い残して帰っていった。俺も続くように会社を後にした。
その数日後、今度は杉田社長から直接連絡が来た。
「木沢君、すまないね。今から近藤社長と話しに行くので、ついてきて欲しいんだ。」
前回のやり取りもある。俺は杉田社長に同行した。会社に着くと、再び社長室へ通され、近藤社長と向き合った。俺は何も言わず、ただ様子を見ることにした。
「近藤社長。この前、お約束したことをお忘れかな? 私は同じ品質の部品でお願いすると言いましたよね。それにも関わらず、あなたは金額に応じた粗悪な部品を私の会社に下ろしていましたね。私がそれに気づかないとでも思ったのですか?」
「も、申し訳ございません! 取引をやめるのだけは堪忍してください!」
近藤社長は杉田社長に怒鳴られ、土下座をする勢いで謝罪している。俺はその姿を見て、ただため息をついた。いくらなんでもやり方がひどすぎる。
「頼む! もう一度、話を考え直してくれ! 戻ってきてくれ!」
近藤社長は縋るように俺に懇願した。
「そうですね。俺が出す条件に近藤社長が納得してくれるのであれば、ですが。」
「いいだろう。条件もなしで戻れと言うのは、虫が良すぎるからな。」
俺はにっこりと満面の笑顔を浮かべ、杉田社長も同じように笑ってくれた。近藤社長は首が取れるんじゃないかというくらいに縦に振っている。
俺は話を進めた。
「まず、近藤社長が連れてきた高学歴の若手社員たちを、一切営業に関わらせないことを約束してください。それから、今後は俺が育ててきた唐木や他の部下たちを営業に出してください。その約束が守れるなら、会社に戻ります。」
「あ、分かった! そのようにしよう!」
近藤社長は文句を言いたそうだったが、交渉は成立した。社長がヘッドハンティングしてきた若手たちは、営業以外の部署に配置されることになった。
こうして俺は、唐木や他の部下たちに温かく迎えられ、再び営業の現場に戻ることになった。定年を迎えるその日まで、もう一度だけ頑張ろうと、俺は心に誓った。



