真夏の公園で、若い母が水道の水だけで幼い娘の髪を洗っていた。石鹸もない。ただ手で水をすくってかけるだけ。娘は「気持ちいいでしょ、ママ」と笑う。その母の服はくたびれ、足元には大きな荷物がいくつもあった。
通りかかった俺、森川洋介32歳は、その光景から目を離せなかった。商店街の片隅で小さな美容室「こもれ」を一人で切り盛りしている。先代から受け継いだ店だ。
二人の親子を放っておけなくて、俺は声をかけた。「怪しいものじゃないです。すぐそこで美容室をやっていて、もし良かったら髪を洗っていきませんか?」
母は警戒しきった目で娘を背中に隠した。「お気持ちはありがたいですが、手持ちもありませんので」
俺は麦茶と乾いたタオルを差し出した。「困った時はお互い様ですよ」母はためらいながらも、娘のために受け取ってくれた。
その日から、気になって仕方なかった。師匠の北村さんに話すと、「気になるならまた誘ってみたらいい」と言われた。
二日後、二人は店に来てくれた。母は「桜井まき」と名乗り、娘は「鈴」といった。シャンプーをすると、まきさんの目から涙が溢れた。「こんなにちゃんと洗ってもらったの久しぶりで」
鈴は知らない大人の男が怖いらしい。無理はさせず、前髪だけを整えてやると、少しだけ笑った。
それから、まきさんと鈴は二日に一度は店に来るようになった。ある日、鈴は「今日はね、漫画喫茶で寝るんだよ」と無邪気に言った。二人は家がないのだと気づいた。
師匠に相談すると「順番が大事だ。まずは安心して過ごせる場所だ」と言われた。師匠は知り合いの大家さんを紹介してくれた。古い平屋の一軒家。風呂も付いていた。
まきさんは浴室を見て言葉を失い、涙をこぼした。「ゆっくりお風呂に入れる場所がなくて」そう話してくれた。
実はまきさんは、夫からの暴力から逃げてきたのだ。娘を連れて夜行バスに飛び乗り、この町に流れ着いた。実家とは絶縁状態だった。
引っ越しの日、花屋のおばさんや銭湯の主人が布団や鍋を持ってきてくれた。「困ってる人を助けるのに理由が要るか」と。
家は手に入ったが、仕事がなかった。まきさんは保育士の資格を持っていた。俺は提案した。「うちの店で、子供を預かる係として働いてくれませんか?」
それから店は変わった。子供連れの客が増え、鈴もすっかり店に馴染んだ。まきさんは生き生きと働き、店は町で評判になった。
花屋のおばさんに「あんた、まきさんを見る目が変わったわよ」と言われた。確かに、俺はまきさんのことが好きになっていた。でも、結婚だけは避けてきた。温かい家庭を知らずに育ったから。
鈴の誕生日、みんなでお祝いをした。鈴は「お兄ちゃんがパパだったらいいのにな」と言った。俺は言葉を返せなかった。
秋、まきさんが言った。「誰かに見られている気がする」鈴も「怖いおじさんを見た」と言う。夫がこの町まで辿り着いたのだ。
夜、店の前にその男が現れた。「俺の娘を返してもらいに来た」師匠と二人で立ち向かい、警察を呼ぶと男は退散した。
翌日、まきさんと警察と弁護士の元へ行った。保護命令を申請し、正式に認められた。
裁判所から帰ると、店の前に見知らぬ年配の夫婦が立っていた。まきさんの両親だった。師匠が実家を訪ね、和解を取り持っていたのだ。
父親は「すまなかった」と頭を下げ、涙を流した。母親はまきさんをきつく抱きしめた。離婚も成立し、親子は本当の意味で自由になった。
まきさんに「今度はあなたの番じゃないですか?」と言われた。母から届いていた手紙。開けられずにいた。
俺はまきさんと鈴に付き添われ、母の家を訪ねた。母は泣きながら謝った。「守ってやれなくてごめん」俺は「ちゃんと幸せに生きてるから」と伝えた。母を許せた。
数週間後、まきさんが言った。「私、町を出ようと思う」実家でやり直すと。俺は走って追いかけた。「行かないでください。俺はあなたと鈴と家族になりたい」
まきさんも「私もずっと同じ気持ちでした」と泣きながら笑った。
季節は巡り、再び夏。俺とまきは結婚し、鈴と三人で暮らし始めた。店は家族の店として生まれ変わった。
ある夕方、鈴の髪を整えて赤い水玉の髪飾りをつけた。「ありがとう」鈴が言った。「お父さんだって。しずのお父さんでしょ」
その瞬間、涙が溢れた。「そうだよ。俺は鈴のお父さんだ」
まきも隣で泣いていた。師匠は「いい店になった」と笑った。
窓から差し込む夏の光が、三人を優しく包んでいた。あの日公園で出会った親子と、こうして本当の家族になるなんて。俺は心から思った。血が繋がっていなくても、心を寄せ合えば人は家族になれるのだと。



