「パパ呼びなよ。どうせ来ねえだろうけどな」――深夜のコンビニで、私は強盗の男にそう嘲られながら床に倒れていた。顔を殴られ、髪を掴まれても、私は一度も泣かなかった。泣く代わりに、ポケットの携帯で短縮ダイヤルを押した。電話の相手に伝えたのは、たった一言。「お父さん、強盗に襲われてる」。すると山本は大笑いして、こう言ったんだ。「五分待ってやるよ。どんなパパが来るか楽しみだな」。私は壁に寄りかかり、…

「パパ呼びなよ。どうせ来ねえだろうけどな」――深夜のコンビニで、私は強盗の男にそう嘲られながら床に倒れていた。顔を殴られ、髪を掴まれても、私は一度も泣かなかった。泣く代わりに、ポケットの携帯で短縮ダイヤルを押した。電話の相手に伝えたのは、たった一言。「お父さん、強盗に襲われてる」。すると山本は大笑いして、こう言ったんだ。「五分待ってやるよ。どんなパパが来るか楽しみだな」。私は壁に寄りかかり、...

深夜のコンビニに男の笑い声が響いていた。私はレジカウンターの前に倒れ込んでいた。口の中に鉄の味が広がる。それでも頭の芯だけは妙に静かだった。

目の前に二人の男がいる。派手な柄のスーツに、過剰なアクセサリー。緩み切った笑顔を浮かべているのは、余裕と侮蔑だけだった。

「おい、もう一回言ってみろよ。パパ呼んでみろよ。こんな一人じゃ何もできねえだろ。さっさと金出せ」

笑い声が蛍光灯の白い光の下に広がる。私はゆっくりと体を起こし、顔を押さえた。手は震えていなかった。ポケットに手を入れ、携帯を取り出す。

「後悔しますよ」

「あ?誰に電話してんだ。パパか?」

男たちはまだ笑っていた。私は短く状況を告げて電話を切った。

「興奮もあれば済むと思います」

「はあ?何言ってんだこいつ。パパが来るってか。笑わせんなよ」

私は何も答えなかった。ただ静かに二人を見つめ返した。五分鐘後、この男たちは気づく。自分たちがどれほど取り返しのつかないことをしたのか。

私は伏せマリナ、二十二歳の大学四年生。深夜のコンビニでアルバイトをしている。週に三回、夜十一時から朝五時までのシフトだ。友人たちにはいつも不思議がられる。

「なんでそんな時間に働くの?危なくない?」

その度に少し笑って答える。

「時給がいいから。それだけだよ」

嘘ではない。ただ、本当のことを全部話しているわけでもない。学費も生活費も自分で稼ぎたかった。誰かに頼るのが、どうしても好きじゃなかった。

授業は昼間だけで、深夜なら客も少ない。最初こそ緊張したけれど、今では静寂の中に心地よさすら覚える。空調の音だけが響く店内で棚を整えながら、卒業後の自分を想像する。新しい町、新しい仕事、誰も私の名前を知らない場所での生活。それはずっと夢だった。

だから今夜もいつも通りレジに立った。穏やかな夜は、今日も続くと思いながら。

深夜二時を過ぎた頃、自動ドアが開いた。派手な柄のスーツを着た男たちが、ぞろぞろと連れ立って入ってくる。五人、六人。数えながら、私はレジの後ろで姿勢を正した。

「いらっしゃいませ」

声を作ったのは、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚があったからだ。普通の客じゃない。男たちは商品に目もくれず、無言で店内に散らばっていく。出入り口のそば、飲料コーナーの前、レジへと続く通路。気づけば、逃げ道になりそうな場所は全部塞がれていた。

先頭の男が私を見て、隣の男と視線を交わす。確認するような、どこか余裕のある目だった。山本健太、二十代後半くらいだろうか。派手な柄のスーツに、太いネックレスを光らせた男が、カウンターに向かってゆっくりと歩いてくる。レジの前に手を置いた。

「おい、金を出せ」

いきなりだった。挨拶もなく、当然のことのように。私はレジから一歩下がった。

「警察を呼びますよ」

「警察が来る前に終わらせるだけだろう」

笑いながらカウンターを乗り越えてくる。後ろでは、渡辺という山本より少し年上に見える三十歳くらいの男が、天井を見て防犯カメラを確認していた。計画してきたのだ。この時間、この店、女が一人でいることまで。

「やめてください」

バックヤードの方へ体を向けた瞬間、渡辺がすでに回り込んでいた。前に山本、後ろに渡辺。壁際まで下がっても、もう逃げ場はない。

「こんな一人でよくこんな時間に働けるな。怖くねえのか」

渡辺の口元が緩んでいる。楽しんでいた。山本の手が、私の腕を掴んだ。引っ張られて、体が傾く。

「強がってんじゃねえよ。どうせパパでも呼びたいんだろ」

「嫌です」

「は?何その態度だ。てめえ」

次の瞬間、衝撃が走った。平手打ちだった。視界が白くなり、耳の奥でノイズが響く。

「おいおい、やりすぎんなよ」

渡辺が一歩引いた。だが山本はその声すら聞こえていないようだった。目が据わっている。

「この女、舐めてんのか?謝れよ。さっさと謝れば終わりだろうが」

「謝る理由がありません」

山本の顔が一瞬止まった。次の瞬間、拳が振り下ろされた。今度は平手ではなかった。顔面に硬い衝撃が叩き込まれる。膝から崩れ落ちた。口の中に鉄の味が広がって、視界がぶれる。

山本の手が髪を掴んで、引き起こす。

「どうだ?まだ反抗すんのか?怖いならパパ呼びな。どうせ来ねえだろうけどな」

もう一発拳が入った。体が吹き飛ぶように突き飛ばされ、床に倒れ込む。冷たいタイルが背中に触れた。山本が私を見下ろして笑っている。何が面白いのか、笑いが止まらないようだった。

「なあ、そろそろ金だけ取っていこうぜ」

「うるせえ。こいつが舐めた態度取ったんだろうが。もうちょっと教育してやらないとな」

教育。その言葉を、山本は本気で使っていた。頬が熱い。体が重い。それでも頭の中だけは静かだった。

ポケットに手を伸ばす。指先が携帯電話の角に触れた。

「あ?何してんの?」

私は短縮ダイヤルを押した。

「お父さん、今コンビニで強盗に襲われてる。二人組。場所は…」

それだけ言って電話を切った。

「はあ?パパに電話したのか。マジで受けるんだけど」

「おい、まずいんじゃないか」

「何がまずいんだよ。パパが来たって、どうせ近所のオッサンだろ。ちょろいわ」

私はゆっくりと起き上がった。顔を押さえながら、まっすぐ山本を見る。

「後悔しますよ」

「は?興奮もあれば済むと思います?」

山本が一瞬動きを止めて、私の目を見た。それから盛大に吹き出した。

「じゃあ五分待ってやるよ。どんなパパが来るか楽しみだな」

「山本、本当にいいのか?」

「いいっつってんだろ。ビビりすぎだろ。お前、女のパパに何ができんだよ」

山本は腕を組み、出入り口の方を向いた。余裕たっぷりににやにやしながら。私は壁によりかかり、目を閉じた。頬が熱い。口の中がまだ痛い。それでも頭の中は澄んでいた。五分もあれば十分だ。

山本が腕を組んで出口の方を向いたまま笑っている。仲間の一人に何か言って、笑い声が上がった。私のことなど、もう眼中にないようだった。

「あと三分ってとこか。どんなパパが来るか楽しみだな」

渡辺は笑えずにいた。何度も入り口の方に目をやって、足を小さく動かしている。

「なあ山本、やっぱり逃げようぜ」

「は?今更何言ってんだよ」

「いや、なんかさ、こいつずっとおかしいだろ。殴られてんのに泣かないし。電話してから妙に落ち着いてるし」

「強がってるだけだって。女なんてそんなもんだろ」

「でも普通もっと泣くだろ。謝るだろ。なんで壁に寄りかかって待ってんだよ、こいつ」

山本が初めて私をちゃんと見た。壁に背をつけて、静かに入り口を見ている私を。

「別に怖くて動けないだけだろ。気にすんな」

でも渡辺は納得していない。唇を引き結んで、また入り口を見た。

「なんか嫌な予感がするんだよ」

「うるさい。ビビりすぎだって」

私は何も言わなかった。言う必要がなかった。頬の熱さはまだ残っている。口の中がまだ痛い。でもそれよりずっと強く、確信だけが胸の中にあった。お父さんは来る。

そして五分が経った。

最初に気づいたのは音だった。低いエンジン音が一つ聞こえた。また一つ。それがどんどん重なって、地の底から響くように迫ってくる。山本の笑い声が、ふっと止まった。

窓の外に黒い車体が滑り込んできた。一台止まる。また一台止まる。三台、五台、八台。私は数えるのをやめた。

「おい、なんだこれ?」

山本が窓ガラスに顔を近づけて外を覗き込む。さっきまでの余裕が、みるみる剥がれていく。車のドアが次々と開いた。降りてくるのは、全員黒いスーツを着た男たちだった。二十人、三十人。それでも止まらない。誰一人言葉を発しない。無言のまま整列して、店に向かって歩いてくる。乱れがない。息が合っている。何度もこうやって動いてきた人間たちの、迷いのない足取りだった。

「やばいやばいやばいやばい。逃げようぜ」

「どこに逃げるんだよ」

山本自身の足が、小さく震えていた。

黒服の男たちが無言で自動ドアをくぐってくる。一人入れば、次が続く。二人、三人、五人。波のように止まらない。男たちを取り囲むように、静かに、静かに人の壁が完成していく。誰も怒鳴らない。誰も脅さない。それが却って恐ろしかった。

「ち、ちょっと待ってくれ。俺たちは別に大したことは…」

後ずさりしようとした山本の背中が、何かに当たった。振り返ると、黒服の男が無表情で立っていた。前を向く。横を向く。どこを向いても黒い壁がある。山本の口が半開きのまま固まった。

黒服たちの人壁が左右に割れて、奥から一人の男が歩いてくる。黒いスーツに白いシャツ。派手なアクセサリーも何もない。それなのに、一歩踏み出すたびに周囲の空気が変わる。黒服たちが自然と道を開ける。誰も指示していない。体が勝手に動いている。

父だった。

父は私のそばまで来て立ち止まった。腫れた頬、切れた口元を、言葉もなくただ見ていた。その沈黙の中で、拳が静かに握られた。

「マリナ、大丈夫か?」

「大丈夫。お父さん、来てくれたから」

父の目が一瞬だけ緩んだ。それからゆっくりと、チンピラたちの方を向く。さっきまでの柔らかさが、すっと消えた。

「後で病院に行こう。まずはこいつらに話をつける」

山本はその目と正面から視線が合った瞬間、体を引いた。本能的な後退だった。一歩、また一歩。でも背後には黒服の壁がある。

「お前たち、どこの組だ?」

「つ、塚本組です」

「塚本組か」

父が低く繰り返した。驚くでもなく、鼻で笑うでもない。ただそれだけで、山本の背中がさらに丸くなった。

「俺は伏竜神会の組長だ」

短い。しかし完全な沈黙があった。

「す、すいません。本当に知らなかったんです」

渡辺が頭を下げたまま、顔を上げられないでいる。仲間の男たちも次々と膝をついた。誰も顔を見せようとしない。

「この子は俺の娘だ」

「うそだろ。なんでそんな人が、こんな深夜に一人で…」

「マリナ、お前から話してやれ」

私は静かに言った。

「学費も生活費も全部自分で稼いでいます。お父さんのお金は一切使っていない。親に頼らないで生きていきたかった。だから自分でバイトを選んで、自分で働いている。それだけです」

しばらく、誰も何も言えなかった。竜神会組長の娘が、深夜のコンビニで一人バイトしていた。護衛もなく、組の名前も使わずに。その事実を飲み込もうとして、山本の顔が歪んだ。

「そ、そんなこと分かるわけないじゃないですか。知らなかったんだから」

「知らなかった?」

父が静かに繰り返した。

「知らなかったら、女の顔を殴っていいのか?」

「そ、それは…」

「知らなかったら、床に倒しても良かったのか?」

「すいません」

「知らなかったら、髪を掴んで引き起こして良かったのか?」

山本はもう答えられなかった。

「お前たちは今、俺の娘の顔を見ているか?」

誰も顔を上げられなかった。

「見ろ」

低い一言だった。山本がゆっくりと顔を上げた。腫れた私の方を、父が静かに指差す。

「これが、お前たちのやったことだ。覚えておけ」

山本の目が私の顔に向けられた。そこに移ったものが何だったのか、私には分からない。ただ山本はすぐに目をそらした。そらさずにはいられなかったのだろう。

「話をしようか」

父の静かな言葉の重さを、山本たちはまだ理解していなかった。

「山本、何人だ?」

「二十人くらいです」

「二十人か」

父が静かに繰り返した。驚くでもなく、鼻で笑うでもない。ただその数字の重さを口の中で確かめるように。

「竜神会の構成員は三百人を超える。この地域の不動産、飲食、建設、表の商売の大半が、俺たちと繋がっている」

山本は黙って父の話を聞いている。

「警察にも顔が利く。警察に駆け込めば助かると、どこかで思っていたのだろう。その逃げ道は、今塞がれた」

山本の目が泳いだ。

「三年前、南区の松岡組が俺たちに喧嘩を売った。松岡組、知ってるかな?」

「名前は聞いたことが…」

「いつの間にか消えたって?」

「…ええ」

「俺が消した」

たった一言だった。説明も補足も何もない。事実として、ただそれだけを言った。黒服の男たちは表情一つ動かさない。彼らにとっては知っている話だった。

「組長も幹部も、末端の組員も、全員だ」

山本が隣の渡辺を見た。渡辺は山本を見返さなかった。床を見たまま、動かない。

「松岡組はな、最後まで強がっていた。俺の前に連れてこられても、まだ値切ろうとしていた」

父がどこか遠くを見るような目をした。懐かしんでいるわけではない。ただ事実を事実として思い出しているだけの顔だった。

「今頃どこにいるか、俺も知らん」

俺も知らない。その言葉の意味を、山本は正確に理解しただろうか。興味がないということだ。壊した後のことは、もう興味がない。そういう男だと、この一言が言っていた。

「塚本組は二十人だと言ったな。松岡組は三十人いた」

父はそこで口を閉じた。山本がゆっくりとその意味を飲み込んでいく。三十人いた組が、全員消えた。自分たちは二十人だ。松岡組より十人少ない。その計算が終わった瞬間、山本の手が床をぎゅっと掴んだ。父はそれを見ても、何も言わなかった。言わなくていい。答えはもう山本の中にあった。

「山本、黙ってろ」

かすれた声だった。渡辺はそれきり口を閉じた。

しばらく誰も何も言わなかった。父は急かさなかった。山本が今何を考えているか分かった上で、待っていた。

「今夜ここに来たのは、お前らの判断か」

「はい」

「塚本から直接指示があったわけじゃない、ということか」

「そうです」

「だが塚本は、お前らがこういうことをするのを知っていた」

山本は何も答えることができない。

「止めなかった。それが答えだろう」

山本が口を開けたまま固まった。否定できなかった。塚本組長は知っていた。知った上で黙っていた。組員が女を殴って金を奪う。それを黙認できる組が、どんな組なのか。父の目が静かにそう言っていた。

「組員がやっていることを黙認する。それは組織ぐるみ、ということだ」

山本の額が、また床に落ちた。言い返す言葉が何もなかった。

「娘に何をした?全部言ってみろ」

「金を出せと言って…逃げようとしたから腕を掴んで…」

「続けろ」

「殴りました」

「何発だ?」

山本は息を飲んだ。その問いが来るとは思っていなかったのか。口が小さく動いて、また止まった。

「三発です」

「…」

父は私の方を一瞬だけ見た。腫れた頬、切れた口元は、何も言わなかった。ただその沈黙が答えだった。

「す、すいません。本当に何でもします」

「謝罪はいい」

静かな一言だった。しかしその冷ややかさが、山本の言葉を完全に断ち切った。

「お前らの払う金額を教えてやる」

父がゆっくりと指を折り始めた。

「娘の治療費が五十万。慰謝料が五百万。店の損害賠償は百万。娘の精神的苦痛に対する追加慰謝料は三百万。合わせて九百五十万だ。一週間以内に全額払え」

一つ告げられるごとに、山本の顔から色が消えていく。数字が積み上がるごとに、膝がさらに床に沈んでいくようだった。

「九百五十万なんて、どこにも払えません。お願いします。それだけは…」

「娘を傷つけた代償だ。お前らの事情は関係ない」

「で、でも、そんな…」

「用意できなければ、お前らの家族に全部話すか。父ちゃん、母ちゃん、兄弟、親戚、友人。お前らが何をしたか、一人残らず伝える。深夜に女一人の店に押し入って、顔を殴って床に転ばした。髪を掴んで引き起こして、また殴った。そういう人間だと、知っている全員に伝える」

山本の体が小刻みに震えた。

「いや、やめてください。家族だけは、お願いします。すいません。俺たちが悪かったです」

「家族には、お前らはこの町で顔出して歩けなくなる」

「何でもします。本当に何でもします。金も必ず払います。だから、家族だけは…」

「何でもするか」

父が静かに繰り返した。許すわけでもない。ただその言葉の重さを確かめるように。

「娘が泣いていれば、少しは考えてやってもよかった」

私は父の横顔を見た。床に倒されても、拳を入れられても、髪を掴まれても、この子は一度も泣かなかった。

「娘が泣かなかった分、俺は怒る」

山本は何も言えなかった。言葉を探しているのではなかった。この男の前では、どんな言葉も届かないと体が分かっていた。

「これはお前ら個人への制裁だ。組織としての問題はまた別だ。塚本には俺から話をつける。覚悟しておけ」

山本と渡辺が、ほぼ同時に床に崩れ落ちた。仲間の男たちも次々と膝をついていく。誰も顔を上げない。誰も口を開かない。さっきまで笑っていた男たちが、全員床に這いつくばっていた。蛍光灯の白い光だけが、何も変わらず店内を照らし続けている。

「マリナ、少し休め。こいつらのことは俺たちが見ておく」

「大丈夫。ありがとう、お父さん」

父が小さく頷いた。その目が一瞬だけ柔らかくなった。

山本たちはこれで終わりだと思っていたのだろう。最悪の事態は去ったと。しかし、この後彼らはさらに愚かな選択をする。

翌日の夜、塚本組のアジトに山本の怒声が響いていた。

「このままじゃ終われるか?あの女のせいで俺たちは終わりだ。九百五十万なんて、どこにそんな金がある?家族にも全部知られる」

拳がテーブルを叩く。渡辺は腕を組んだまま、山本を黙って見ていた。

「わかったわかった。落ち着けよ」

「落ち着けるか。お前だって同じだろ。このまま黙って払うのか?」

「払えるわけないだろう。そんな金」

「じゃあどうすんだよ」

渡辺がゆっくりと身を乗り出した。

「あの女を使えばいい」

「何?」

「人質だ。あの女さえ抑えれば、親父も強気に出られない。慰謝料の撤回くらい、簡単だろ」

山本が渡辺を見た。昨日まで「逃げようぜ」と言っていた男が、今は一番無謀な提案をしていた。

「確か北の方だったような気がするな。帰り道に人気のない路地。あそこで待てばいい。捕まえたらすぐ親父に連絡する。慰謝料を撤回しないと、娘の命はないってな」

仲間たちは次々と頷いた。誰も止めなかった。止められる冷静さは、もうこの部屋の誰にも残っていなかった。

翌日の夕方、私は大学からの帰り道を歩いていた。空が少しずつ暗くなっていく。昨日のことが頭をよぎった。今日は授業が早く終わった。早く帰れる。それだけを考えていた。

いつもの路地に入った。住宅と住宅の間の細い道で、この時間は人通りがほとんどない。近道だから、毎日通っていた。

その時、前方に黒いワゴンが滑り込んできて、急停車した。ドアが開く。降りてくる男たちを見て、足が止まった。

「あなたたち、昨日ぶりだな」

「暴れるなよ。騒いだら、昨日より痛い目見るぞ」

昨日より。その言葉がどういう意味か、その顔を見れば分かった。一歩下がろうとした瞬間、後ろから腕を掴まれた。

「離して!」

「うるさい」

複数の手が体に絡みついて、抵抗する間もなく車へと押し込まれる。ドアが閉まった。エンジンの音が響いて、景色が動き始める。窓の外に、見慣れた路地が遠ざかっていく。携帯を取り出そうとしたが、すでに手首を抑えられていた。

三十分ほど走って、車が止まった。連れ込まれたのはハイビルだった。窓のない薄暗い部屋。床にはコンクリートが剥き出しになっている。椅子に座らされ、手を縛られた。ロープが手首に食い込む。

私の携帯を山本が持っている。短縮ダイヤルを探す指が、少し迷った。

「もしもし、組長。俺だ。山本だ。昨日のコンビニのこと、覚えてるよな」

山本の口元に笑みが戻っていた。昨日床に這いつくばっていた男と同じ人間とは思えないほど、余裕のある顔だった。

「お前の娘さんは、今俺たちが預かってる。返して欲しければ、慰謝料を撤回しろ。それと、二度と俺たちに手を出すな。簡単な条件だろう」

山本が口を閉じた。父の声が、電話越しに漏れ聞こえた。何を言っているのかまでは聞き取れなかった。ただ、山本の顔がみるみる変わっていくのは見えた。

「は?場所は、なんでわかる?」

山本の手が止まった。余裕の笑みが剥がれていく。父が何を言ったのか、私には分かった。場所は分かっている。十分以内に行く。

「ちっ、そういうことだ」

山本が携帯を見つめたまま動けないでいる。渡辺が「なんて言ったんだ」と小声で聞いた。山本は答えなかった。答えられなかった。

もう遅かった。

山本が十分以内に行くという言葉の意味をまだ測りかねているうちに、ハイビルの外から音が届いてきた。エンジン音だ。一台ではない。重なり合って、地面を伝うように近づいてくる。山本が窓の割れた隙間に顔を近づけた。黒い車体が次々と敷地に入ってくるのが見える。二十台、三十台。ドアが開く度に黒いスーツの男たちが降りてくる。五十人はいる。ハイビルを完全に取り囲んでいく。

「おい、マジで来やがった。なんでわかったんだ?こんな場所…」

山本の口が半開きのまま固まっていた。渡辺は壁に背をつけて、出口を探すように視線を走らせる。どこを見ても、黒服の男たちがいた。逃げ場など、最初からなかった。

ハイビルの扉が内側から押し開けられた。足音がコンクリートの床に響く。黒服の男たちが左右に割れて、道を作った。父だった。ゆっくりと入ってきて、室内を一度見渡す。その目は真っ先に、私を見つけた。

父は私の前に膝をついて、縛られた手首のロープを解き始めた。指先が丁寧に、素早く動く。

「大丈夫か?怪我はないか?」

「大丈夫。お父さん、ありがとう」

ロープが解かれた瞬間、手首に血が戻ってくるような感覚があった。父が私の手を一度だけ握った。温かかった。それから立ち上がり、山本たちの方を向いた。さっきまでとは別の顔をしていた。

「誘拐か」

「す、すいません。俺たちはコンビニで娘を殴った慰謝料から逃げるために…」

山本は何も答えられなかった。

「お前たちは一体、何を考えていた?」

山本が口を開けたまま答えられない。何を考えていたか、今となっては自分でも分からないのだろう。追い詰められた人間が、追い詰められたまま動いた。九百五十万が払えないから、人質を取れば撤回させられると思った。

「そういうことか。俺がそういう交渉に応じる人間に見えたか」

山本の顔がさらに青くなった。応じるわけがないと、今は誰でも分かる。ただ昨日の夜は、追い詰められてそれしか見えなくなっていた。その結果がこれだ。

「すいません。俺たちは本当にもう二度と…」

「生まれたった一言だった。渡辺が口を閉じた。

「お前らも、塚本組も、全部潰す」

山本が膝から崩れ落ちた。渡辺も、壁に沿ってずり落ちていく。仲間の男たちも、次々と膝をついた。父はそんな彼らを一瞥してから、携帯を取り出した。

「もしもし、塚本か。竜神会の父だ。今すぐここに来い。お前の組員が、俺の娘を誘拐した。十分以内に来なければ、お前の家族に直接話をつけに行く」

それだけ言って電話を切った。

「組長を呼ぶんですか?」

「当然だろ。お前らだけの問題じゃない」

「でも、組長は今回は関係ない。俺たちが勝手に…」

「勝手にできるまともな組か」

山本が口を閉じた。反論しようとして、できなかった。

十分後、扉が勢いよく開いた。転がり込むように入ってきた男は、息を切らして汗だくだった。五十代くらいだろうか。大柄な体格の男だが、今はその体さえ小さく見えた。

「申し訳ございません。組長、こいつらが一体何を…」

塚本が山本たちを見た瞬間、顔が歪んだ。

「てめえら、何してやがる。竜神会の娘を誘拐だと?」

塚本が山本に向かって踏み出す。拳を振り上げかけた。その腕を、父の一言が止めた。

「待て」

塚本が固まった。

「お前にも責任がある」

「しかし組長。こいつらが勝手に動いたことで、俺は何も指示していません」

「知っていたか?こいつらがこういうことをしていると」

「…ええ、まあ」

「知っていたか?」

塚本が口をつぐんだ。知っていた。その顔が答えていた。

「それがお前の責任だ」

「それは…組員の判断を尊重していただけで…」

「組員の判断を尊重した結果、竜神会の娘が誘拐された。そういうことだな」

塚本は言葉に詰まった。何か言おうとして、どう言っても言い訳にしかならないと分かったのだろう。

「南区での違法営業、東区での賭博、全部把握している。お前の組が組織ぐるみでやってきたことだ」

「そ、それはうちの組員が独断で…」

「独断でできることじゃない。金の流れも、指示の記録も、全部揃ってる」

塚本の体から力が抜けていくのが見えた。大きな体が、みるみる縮んでいくようだった。

「証拠があるんですか?」

「警察に持っていけば、明日にでも動ける」

塚本が床を見た。しばらく何も言わなかった。頭の中で何かを計算しているのだろう。しかし、どう計算しても出口はないと分かったのだろう。

「すいません。こいつらを破門にします。慰謝料も、俺が全額払います。組員も全員処分します。だから、首だけは…」

塚本が床に膝をついた。両手を畳んで、頭を下げている。

「破門では済まない」

「で、でも俺が全責任を取ります。こいつらには相応のバツを与えます。組の名前だけは…」

「お前の組は組織ぐるみで腐ってる。こいつらを切り捨てても、根っこは変わらない」

「お願いします。二十年かけて作ってきた組です。これだけが、俺の全てで…」

「その二十年で、何をしてきた」

塚本は答えられなかった。二十年でやってきたことを、父は全部知っている。それを分かった上で聞いていた。答えれば答えるほど、自分で自分の首を絞めることになる。

「お願いします。俺の命でも何でも…」

「命はいらない」

父は静かに遮った。

「村社会からの絶縁がどういう意味か、教えてやる」

塚本は顔を上げた。

「今日からお前らは、裏社会で生きていけない。どの組も、お前らとは付き合わない。商売の場所も、住む場所も、全部失う。今までやってきた不動産、飲食、建設。竜神会の影響下にないものは、一つもない。全部潰す。この地域全体で、お前らの居場所はなくなる」

「そんな…そんなことをされたら、生きていけない」

「分かってるじゃないか」

父は静かに言った。許すわけでも、哀れむわけでもない。ただ事実を確認するように。

「山本、渡辺。慰謝料九百五十万、変わらない。一週間以内に払え」

「払えません…」

「払えなければ、お前らの家族、親戚、友人、知っている全員に伝える。深夜に女が一人で働く店に押し入って、顔を殴って床に転ばした。髪を掴んで引き起こして、また殴った。そういう人間だと。それだけじゃない。今日の誘拐も、全部話す」

山本の口は動かなかった。渡辺も、それに続いて頭を垂れた。

「塚本。お前は今日で終わりだ。組員全員、裏社会から追放する。お前らがやってきた悪事は、全部警察に通報する。逃げ場はない」

塚本が床に崩れ落ちた。山本と渡辺も、顔を上げる気力すら残っていないようだった。ハイビルの中が、静まり返っている。

「マリナ、帰ろう」

「うん。お父さん、ありがとう」

私は父と並んでハイビルを出た。外の空気が冷たかった。

塚本組が消えるまで、時間はかからなかった。警察が動いたのはあの夜のうちで、翌朝には組事務所に捜査が入った。西区の恐喝、南区の違法営業、東区の賭博。証拠は全て揃っていた。逮捕者が出るたび、残った組員たちが雲散霧消するように姿を消した。塚本がどこへ行ったのか、裏社会の誰も知らない。竜神会の絶縁を宣言された組の末路など、そんなものだった。

山本と渡辺は慰謝料を払えなかった。払えないと分かった時点で、父は動いた。二人の実家、親戚、友人、かつての知人。一人残らず、あの夜何が起きたかが伝わった。深夜に女が一人で働く店に入り、顔を殴って床に転ばした男たちだと。電話が鳴らなくなるのに、時間はかからなかった。

今の二人は、日雇いの現場を点々としながら食いつないでいる。しかしこの地域で、竜神会の影響が届かない場所はない。どこへ行っても、長続きしない。

ある日、山本は誰に言うでもなく呟いたという。

「あの時、素直に謝っていれば…」

あの時。コンビニで女が床に倒れていた時のことを言っているのだろうか。それとも、父親が来た後のことを言っているのだろうか。どちらにせよ、答えは変わらない。取り返しのつかないことをしたと気づいた時には、全てが終わっていた。

一方の私は、今日も深夜のコンビニに立っている。あの夜と同じ蛍光灯の下で、同じようにレジを打っている。何も変わっていないようで、少しだけ変わったことがある。父のことだ。

父の仕事が特殊だということは、ずっと知っていた。だから距離を置いて、自分の力だけで生きようとしていた。でも、あの夜父は五分で来た。それだけのことが、何かを変えた気がする。

普通の生活を送りたいという気持ちは、今も変わらない。来年の春には卒業して、新しい場所で新しい生活が始まる。ただ、いざという時に頼っていい人がいると知っている生活は、以前とは少し違う。

自動ドアが開いて、客が入ってくる。私はいつも通り顔を上げた。

「いらっしゃいませ」

穏やかな夜が、また続いていく。

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