夕食後のリビングで、息子の口から放たれた言葉に、私は自分の心が音を立てて砕け散るのを感じた。
「もう二度と会わないから、早く出て行ってください」
25年間、この家族のためにすべてを捧げてきた私に向けられた、あまりにも冷たい宣告だった。
突然立ち上がった息子と嫁が、邪魔者を追い払うように私たち夫婦を見下ろしていた。
「聞こえなかったんですか?出て行ってくださいって言ってるんです」
嫁のカナが腕を組んだまま、冷たく言い放った。
「ケンジ、あなた何を言ってるの?」
私の震える声は、もう二人には届かないようだった。
息子の教育費として1200万円。結婚式と同居のためのリフォーム代として500万円。そして、孫の世話を週一回、三年間も続けてきた私たち。
それなのに、今この瞬間、私たちは家族から完全に切り捨てられようとしている。
でも、息子たちはまだ知らない。この家の本当の持ち主が誰なのかを。
私は平田洋子、67歳になる。夫の誠は70歳で、二人で力を合わせて息子を育ててきた。
市役所の事務職員として25年間真面目に働き続けた私の人生は、息子のために捧げてきたと言っても過言ではない。
ケンジが国立大学に合格した時の喜びは、今でも鮮やかに思い出す。教育費の総額1000万円は、私たち夫婦の老後資金を削ってでも用意したお金だった。
そして五年前、カナと結婚する時も、結婚式の費用や同居に伴うリフォーム代など500万円を援助した。
「ケンジさん、カナさん、これから二人で力を合わせて素敵な家庭を築いてくださいね」
結婚式で涙ながらに伝えた私の言葉を、今でもはっきりと覚えている。
さらに三年前、孫の正太が生まれてからは、週一回、朝九時から夕方五時まで無償で面倒を見続けてきた。自分の時間はほとんどなかったけれど、家族のためならそれが当然だと思っていた。
でも、そんな日々は、ある日を境に一変していった。
変化は、とても小さなことから始まった。
一年前のある日、私がケンジの好きな肉じゃがを作った時のこと。
「今日の夕食は、ケンジの好きな肉じゃがにしたわよ」
そう言った私に、カナは冷たい目を向けてきた。
「ケンジは最近、和食は重いって言ってますから」
「あら、そうなの?時代についていけてませんね」
その言葉に、胸がちくりと痛むのを感じた。
別の日、孫の正太と公園に行こうとした時も、カナは私から正太を引き離すように抱き上げた。
「正太、そっちに行っちゃだめ」
「え?最近、お母さんの見てる間に危ないことが多くて」
「そんな、私ちゃんと見てるわ」
「年齢的に、反応が遅いんじゃないですか?」
三年間、毎日のように世話をしてきた孫。まるで私が危険人物であるかのように扱われる屈辱が、心に重くのしかかった。
半年が経った頃、嫌がらせはさらにエスカレートしていった。
リビングでテレビを見ていた私に、カナが声をかけてくる。
「お母さん、そこ、私たちが座る場所なんですけど」
「あら、ごめんなさい」
慌てて席を移動する私に、カナは追い打ちをかけるように言った。
「それと、この部屋、散らかってますよね」
「散らかって?朝掃除したばかりなんだけど」
「ちゃんと見えてないんじゃないですか」
そこへ、仕事から帰ってきたケンジが、カナの言葉に乗っかるように私に尋ねた。
「母さん、認知症とか大丈夫?」
「ケンジ、何を言うの?」
私の抗議の声も、二人には届かない。
「最近、物忘れも多いですし」
カナの冷たい言葉に、ケンジも同調する。
「年だからしょうがないけど、心配だよ」
認知症という言葉で、私の人格そのものを否定されたように感じた。
ある日、カナが友人と電話している声が、隣の部屋にいる私の耳に入ってきた。わざと聞こえるように話しているのが、痛いほど分かった。
「うちの義母がさ、もう本当に時代遅れで大変なのよ。昭和の考え方から抜けられないの。正直、邪魔なのよね」
隣の部屋で聞いている私は、涙をこらえるのに必死だった。
そして三ヶ月前、ついに金銭的な要求が始まった。
「母さん、ちょっと相談が」
ケンジが改まった様子で話しかけてくる。
「何?」
「実は俺たちだけでこの家の管理をしたいから、生活費を入れて欲しいんだ」
「生活費?でも家事も孫の世話も全部やってるわよ」
するとカナが冷たく言い放った。
「それとこれとは別です。月に8万円お願いします」
八万円。年金が月十二万円なのに。
「じゃあ、家を出ていくか」
ケンジのその言葉に、私は何も言えなくなった。
「分かったわ」
夫の誠が後で私に心配そうに尋ねた。
「洋子、本当にいいのか?」
「仕方ないわ。家族なんだから」
そう答えながらも、心の中では何かが少しずつ壊れていくのを感じていた。
年金十二万円から月八万円を渡すと、私たちに残るのはたった四万円。さらにカナは食費として月三万円も要求してきた。私たち夫婦に残るのは、月にたったの一万円。
「あ、それと正太の習い事の費用も負担してもらえます」
カナの追加要求に、私は抵抗する気力も失いかけていた。
「え、でも、もうおばあちゃんなんだから、孫のためでしょう」
そして一ヶ月前、私たちの生活は完全に使用人以下の扱いになっていった。
毎朝五時に起きて、家族全員の朝食準備、掃除、洗濯。孫の世話、夕食の準備、片付け。毎日十時間以上の家事労働をこなしても、感謝の言葉は一つもなかった。
ある日、掃除のためにケンジたちの部屋に入ろうとした私に、カナが鋭い声で言った。
「お母さん、私たちの部屋に勝手に入らないでください」
「掃除をしようとしただけよ」
「触って欲しくないので」
その夜、ケンジがさらに信じられないことを言い出した。
「それと母さん、夕食は僕たちが食べ終わってから、別で食べてくれ」
「別で?家族なのに」
「狭いテーブルだから、分かるでしょう」
それから私たち夫婦は、毎晩台所で二人だけで食事をするようになった。
リビングからは、ケンジとカナの楽しそうな声が聞こえてくる。
「あー、お母さんいないと快適」
「そうだね。気を使わなくていいから」
台所で小さくなって食事をする私たちの耳に、その言葉が容赦なく飛び込んできた。
夫の誠が小声で私に言う。
「洋子、こんなのおかしい」
「大丈夫よ。我慢しましょう」
そう答えながらも、私の握りしめた拳は震えが止まらなかった。
長年、家族のために尽くしてきた私たちが、なぜこんな扱いを受けなければならないのか。怒りと悲しみが入り混じった感情が、胸の奥で渦巻いていた。
そして二週間前、私の我慢は完全に限界を迎えようとしていた。
いつものように孫の正太と遊ぼうとした時のこと。
「おばあちゃんと遊ぼう」
そう声をかけた私に、カナが正太を抱き上げて引き離した。
「正太、あっち行きなさい」
「カナさん、最近正太と遊ばせてもらえないんだけど」
私の控えめな抗議に、カナは冷たく言い返した。
「当然でしょう。お母さんの教育方針、古臭くて困るんです」
「教育方針?私、ただ可愛がってるだけなのに」
「それが問題なんです。甘やかしすぎ」
そこへケンジが入ってきて、カナに同調するように私に言った。
「母さん、正太のことは僕たちに任せて」
「でも、孫なのよ」
私の声はもう慟哭するようになっていた。
「正直、母さんの時代遅れな考え方を植えつけられたくないんだ」
三年間、毎日のように世話をしてきた孫。その孫とまともに会話することすら許されなくなった現実が、胸を締めつけた。
そして一週間前、私の心を完全に打ち砕く出来事が起こった。
その日、カナの両親が訪ねてくると聞いて、私は少し期待していた。もしかしたら、一緒に食事ができるかもしれないと。
チャイムが鳴り、玄関からカナの明るい声が響いた。
「お父さん、お母さん、いらっしゃい」
その声の温度は、私に向けられるものとは全く違っていた。
「お邪魔します」
「どうぞどうぞ。上がってください」
ケンジの丁寧な態度に、私は思わず息を飲んだ。
リビングでは、カナが満面の笑みで正太を呼ぶ。
「正太、おじいちゃん、おばあちゃんだよ」
「わーい」
正太が嬉しそうに駆け寄る姿を見て、カナの母親が優しく抱きしめた。
「正太、大きくなったわね」
「さあさあ、一緒に食事しましょう」
ケンジが用意した料理は、私たちが普段食べることのない豪華なものだった。
台所で様子を見ていた私と誠は、思わず顔を見合わせる。
「あの、私たちも一緒に」
小さな声で訪ねた私に、カナが振り返って冷たく言い放った。
「いいです。お父さん、お母さんは別で食べてください」
その言葉に、ケンジが信じられない言葉を続けた。
「二人は外の人だから、空気読んでよ」
外の人。
その言葉が、私の心に深く突き刺さった。
外の人。私たちは、外の人なの。
「ケンジ、それはないだろう」
誠が息子に向かって声を荒らげた。でも、ケンジはまるで私たちが存在しないかのように、カナの両親を案内していく。
「さあ、どうぞ。こちらへ」
台所に取り残された私たちの耳に、リビングから楽しそうな声が聞こえてくる。
「ケンジさん、本当に優しいわね」
カナの母親の声。
「でしょう?私、幸せなんです」
カナの嬉しそうな声。
「お父さん、お酒もいっぱい、いかがですか?」
ケンジの丁寧な口調。
私たちの実の息子は、実の親には「外の人」と言い放ち、カナの両親には最高のもてなしをする。
その光景が、私の心を完全に壊していった。
台所で誠が私の肩を抱いた。
「洋子、外の人。私たち、外の人なんだって」
震える声でそう言った時、何かが心の中でプツンと音を立てて切れたように感じた。
カナの両親が帰った後、ケンジとカナがリビングで話している声が聞こえてきた。私たちは台所で、その会話を黙って聞いていた。
「そろそろ、お父さんたちに出て行ってもらわないか」
カナの声。
「そうだな。正直、邪魔なんだよ」
ケンジの答えに、私は拳を強く握りしめた。
「でしょう?今日みたいに、私の両親が来た時も気を使うし」
「よし、今日はっきり言おう」
誠が怒りで声を震わせながら、私に言った。
「洋子、これは…」
「でも、私は冷静だった。聞きましょう。全部聞きましょう」
そして、二人がリビングから私たちを呼ぶ声が聞こえた。
「母さん、父さん、話がある。座って」
ケンジの冷たい口調。
ついに、その時が来た。
今までの献身が完全に踏みにじられる瞬間。
「もう二度と会わない。早く出ていけ」
ケンジが放ったその言葉に、カナが追い打ちをかける。
「聞こえなかったんですか?出て行ってくださいって言ってるんです」
でも、私はもう取り乱さなかった。心の中で、覚悟が静かに固まっていくのを感じていた。
「そう、分かったわ」
私の冷静な返事に、ケンジが拍子抜けしたように訪ねる。
「え?」
「来週までに出ていけばいいのね」
「できれば、明日にでも」
カナの言葉に、誠が私を見る。私は夫に小さく頷いて見せた。
その夜、寝室で誠が心配そうに訪ねてくる。
「洋子、本当にいいのか?」
私は冷たく微笑んだ。
「ええ、もう決めたの。あの子たちに、本当の現実を教えてあげる時が来たのよ」
「そうか。俺もお前を守る」
「ありがとう。明日、弁護士に電話するわ」
もう、優しい母親を演じる必要はない。息子たちは重大な間違いを犯した。この家の本当の持ち主が誰なのか、まだ知らないのだから。
翌朝、私は静かに行動を開始した。長年の我慢が、ついに終わる時が来た。
寝室の奥にしまってあった古い書類箱を取り出すと、誠が隣で見守ってくれた。
箱の中から取り出した書類を、ゆっくりと広げていく。そこには、真実が記されていた。
不動産登記簿。建物名:平田住宅。所有者:平田洋子。
実は、この家は私の名義なのだ。
二十七年前の記憶が、鮮やかに蘇ってくる。
若かった頃の私と誠が、不動産屋の前で話していた場面。
「洋子、家を買おう」
「でも、ローンは大丈夫?」
「頭金は俺が出す。でも名義は、洋子の方がいい」
「どうして?」
「お前の方が若いし、年齢的に有利だ。万が一の時の相続対策にもなる」
不動産屋が書類を差し出しながら確認する。
「それでは、奥様名義で登記させていただきますね」
あの時の決断が、今こうして私を守る盾になろうとは、誰が想像できただろうか。
現在に戻り、誠が書類を見ながら確かめる。
「ケンジは、この家が俺名義だと思い込んでるな」
「ええ、一度も確認したことがないんでしょう。あの子は親の家を相続できると思って、好き勝手してたのね」
私は静かに微笑んだ。
「甘かったわね。世の中、そんなに甘くないのに」
二十七年前、この家を購入した時の頭金八百万円は夫が出した。でも名義は私になっている。そして三十五年ローンも、私の名義で組んだのだ。現在の残債はあと五年で約三百万円。
つまり、法律上この家の完全な所有者は私なのだ。
午前十時、私たちは法律事務所の扉を開けた。
六十代の男性弁護士が、穏やかな笑顔で迎えてくれる。
「なるほど。状況は理解しました」
書類に目を通した弁護士が、私に訪ねる。
「平田さん、法律的には非常に明確です。この家の所有者はあなたです」
「息子に出ていけと言われたんですが」
誠が身を乗り出して確認する。
「それは全くの誤解ですね。所有者はお二人ですから」
私は冷静に質問を続けた。
「息子たちに退去してもらうことは可能ですか?」
「可能です。ただし正式な手続きが必要になります。内容証明郵便での通告が良いでしょうか」
弁護士が少し驚いたように私を見る。
「その通りです。さすが、よく勉強されてますね」
私は静かに微笑みながら答えた。
「二十五年前、市役所で法律に関わる仕事をしてきましたから」
「では、退去通告書を作成しましょう。期限は一ヶ月後でお願いします。十分な猶予期間を与えたという証拠にもなります」
誠が感心したように私を見つめる。
「洋子、お前、完璧だな」
三十八年間、優しい母親を演じてきたけれど、もう終わりよ。二十五年間の事務職員経験は伊達じゃない。法律知識、書類作成能力、冷静な判断力。すべてを使って、完璧な反撃を準備していく。
帰宅後、私は証拠の整理を始めた。
この数週間、私はすべての会話を携帯電話で録音していたのだ。
録音を再生すると、ケンジとカナの暴言が鮮明に蘇る。
「お荷物はいらない」
「外の人でしょう」
「もう二度と会わない。早く出ていけ」
すべての言葉が、証拠として残っている。
次に、この一年間の家計簿を広げる。そこには、私たちが受けた金銭的搾取の記録が細かく記されていた。
生活費支払い、月八万円。食費支払い、月三万円。さらに孫の習い事代など。年金十二万円のうち、毎月十一万円以上を取られていた証拠だ。
誠が息を呑んで言う。
「これは、経済的虐待だな」
「弁護士もそう言ってました」
そして最後に、私は電話を取り出した。
「はい、まるまる引っ越しセンターです」
「来週の月曜日、朝九時からお願いしたいのですが」
「承知しました。荷物の量は?」
「3LDKマンションの一室です。ただし…」
私は静かに、しかしはっきりと告げた。
「私と夫の荷物以外、すべてです」
「え?」
「詳しくは当日説明します。トラックは大型を二台お願いします」
電話を切った私に、誠が確認するように尋ねる。
「洋子、本当にやるんだな」
私は冷たく微笑んで答えた。
「ええ。彼らが出ていけと言ったのは私たち。でも出ていくのは、彼らよ」
翌週の月曜日。息子たちが仕事に出た後、引っ越し業者が来る手はずは完璧に整った。
運命の月曜日がやってきた。
朝七時、ケンジとカナが出勤の準備をしている。
「じゃあ行ってくる」
ケンジがいつものように私に向かって言う。
「母さん、来週までに出ていく準備、ちゃんとしてる?」
私は穏やかに微笑んで答えた。
「ええ、全部準備できてるわ」
カナが嬉しそうに続ける。
「早ければ早い方がいいですからね」
「そうね。今日中には片付くと思うわ」
ケンジが驚いたように尋ねる。
「本当に?」
「ええ、引っ越し業者も手配済みよ」
カナの顔が明るく輝く。
「まあ、意外と行動早いじゃないですか。じゃあ、今日帰ったら、母さんたちいないんだな」
私は冷たく微笑んで答えた。
「そうなるわね」
ケンジとカナが玄関を出ていく足音が、遠ざかっていく。
誠が静かに私の隣に立った。
「言ったな」
「ええ、さあ、始めましょう」
息子たちはまだ気づいていない。出ていくのが誰なのか、まだ分かっていないのだ。
午前九時ちょうど、大型トラックが家の前に止まった。
引っ越し業者のリーダーが、確認のために尋ねる。
「平田様のお宅ですね」
「はい、よろしくお願いします」
「運び出すのは…」
私はリビングを指さして、はっきりと告げた。
「この部屋の荷物、すべてです」
「すべてですか?」
業者が戸惑いの表情を見せる。
「ただし、私たち夫婦の寝室の荷物は残してください」
誠が補足するように言った。
私は登記簿を取り出して、業者に見せる。
「この家の所有者は私です。現在の居住者が不法占拠に近い状態になりましたので、荷物を退去させます」
業者のリーダーが納得したように頷く。
「なるほど。分かりました」
そして、作業が始まった。
まず、リビングの高級ソファーが運び出されていく。ケンジが自慢していた65インチの大型テレビも、慎重に運ばれていく。ダイニングテーブルセット、カナの趣味で揃えた食器棚。ケンジの書斎の机と本棚、すべての書籍。正太の子供部屋からは、ベッド、おもちゃ、すべてが消えていく。
「冷蔵庫もお願いします」
業者が中身を確認する。
「中身はそのまま運んでください。すべて彼らのものですから」
誠が確認するように言う。
「俺たちの寝室のものだけ残して、全部だ」
キッチン家電も次々と運び出されていく。洗濯機、電子レンジ、炊飯器。取り外し可能なエアコンも、すべて運び出しの対象だ。
五時間かけて、次々と荷物が運び出されていく。息子たちの生活の痕跡が、どんどん消えていく。
私はチェックリストを確認しながら、一つ一つの作業を見守った。かつて家族で過ごしたリビングが、今はがらんどうになっていく。残っているのは、壁と床だけ。
午後二時、すべての作業が完了した。
「すべて運び出しました。保管場所はまるまるトランクルームです。一ヶ月分の料金は支払い済みです」
「了解しました」
誠が私に向かって言う。
「荷物は一ヶ月預かってもらえる。その間に、あいつらは対応を考えるだろう」
「法的には完璧よ。文句のつけようがないわ」
がらんとしたリビングの真ん中に、私は一通の封筒を置いた。それは、内容証明郵便のコピーと、弁護士からの退去通告書。
封筒の中には、すべての法的手続きが記されている。
退去通告書。本物件の法的所有者は平田洋子です。一ヶ月以内の退去を求めます。荷物はまるまるトランクルームに保管中です。弁護士:まるまる法律事務所。
「これで、法的にも完璧ね」
誠が満足げに微笑む。
「あいつらの驚く顔が目に浮かぶな」
「楽しみね」
私も冷たく微笑み返した。
そして、午後六時。玄関のドアが開く音が聞こえた。
「ただいまー」
ケンジの上機嫌な声が響く。
「今日から、やっとお父さんたちがいない生活ね」
カナの嬉しそうな声。
「そうだな。これからは気楽に…」
ケンジの言葉が、突然途切れた。
リビングのドアを開けた瞬間、二人の動きが完全に止まった。
がらんの部屋。何もない空間。
「え…」
カナが絶句する。
「何これ?」
ケンジの声が震えている。
「家具が全部ない…」
カナが信じられないという表情でリビングに入ってくる。
「ソファーは?テレビは?」
ケンジが叫ぶ。
「食器棚もテーブルも、全部ない」
カナがダイニングへ走る。
「冷蔵庫がない」
ケンジがキッチンを確認して、絶望的な声を上げる。その声が、空っぽの部屋に響いた。
「正太の部屋も、おもちゃも、ベッドも、全部…」
カナが正太の部屋を見て、悲鳴のような声をあげた。
ケンジが、テーブルの上の封筒に気づく。
「これ、何だ?」
震える手で封筒を開ける。退去通告書を読むケンジの顔が、みるみる青ざめていく。
「退去通告…」
カナが覗き込んで、信じられないという表情になる。
「所有者、平田洋子…。そんな、この家、お父さんのものじゃないの?」
ケンジが何度も書類を読み返す。
「嘘だろ?嘘だ…」
その時、私たちが寝室から出てきた。
私は穏やかに、しかし冷たく微笑んで言った。
「お帰りなさい」
驚いたケンジが、必死の形相で訪ねる。
「お母さん、これ、どういうこと?」
「どうもこうも、あなたが言った通りにしただけよ」
カナが理解できないという顔で言う。
「出ていけって言ったでしょう」
「それは、母さんたちに…」
ケンジが反論する。
「でも、この家の所有者は私よ。出ていくのは、あなたたちの方でしょう」
私は冷たく微笑んで、はっきりと告げた。
カナが震える声で言う。
「そんな…聞いてない」
「聞かなかったのは、あなたたちでしょう」
私は静かに、しかし確実に真実を告げていく。
「二十七年前、この家を買った時、私の名義にしたの。登記もローンも、すべて私の名前」
ケンジがまだ理解できないという表情で言う。
「で、でも…父さんの家だと…」
誠が冷たく答えた。
「俺は頭金を出しただけだ。名義は最初から洋子だ」
私はさらに言葉を続ける。
「法律上、この家の完全な所有者は私。あなたたちはただの居候だったのよ」
カナが信じられないという声で言う。
「居候って…」
「そう。そして、その居候が家主に出ていけと言った。だから、居候の荷物を運び出しただけ」
ケンジが懇願するように言う。
「母さん、そんな…」
私は、過去の言葉をそのまま返した。
「外の人には厳しくするんでしょう?私たち、外の人だったものね」
カナが言葉につまる。
「それは…」
「荷物はまるまるトランクルームに一ヶ月間保管してあるわ。その間に新しい住まいを見つけて、引き取りに行ってちょうだい」
ケンジが必死に訴える。
「一ヶ月?そんな短期間で…」
私は冷たく微笑んで答えた。
「あら、あなたたちは私に“今すぐ”出ていけと言ったわよね。一ヶ月も猶予を与えるなんて、私、優しい方でしょう?」
その言葉に、ケンジとカナは何も言い返せなかった。
完全な逆転。完璧な仕返し。因果応報が、今ここに実現したのだ。
その夜、ケンジとカナは必死に懇願してきた。
「母さん、お願いだ。許してくれ」
ケンジの声は震えている。
「お母さん、私たち、どうすればいいんですか?」
カナも涙声になっている。
でも、私は冷静だった。
「自分たちで考えなさい。もう大人でしょう」
「で、でも、今から家を探すなんて…」
ケンジが訴える。
「あら、私たちには“今すぐ”出ていけって言ったわよね。一ヶ月も猶予があるなんて、むしろ感謝して欲しいくらいだわ」
カナが助けを求めるように言う。
「お金も、貯金も、ほとんど…」
「それは、あなたたちの問題でしょう」
ケンジがすがるように訪ねる。
「母さん、お金貸してくれない?」
私は冷たく微笑んで、かつての言葉を返した。
「お荷物には、お金はありません」
「え?」
「あなたが言ったのよ。お荷物はいらないって。だから、お荷物の私には、お金なんてないの」
誠が息子に向かって言う。
「ケンジ、お前は親を外の人と言った。外の人に金を借りるのは、おかしいんじゃないか」
私はさらに続けた。
「それに、過去一年間で、年金十二万円から毎月十一万円も取っておいて、まだ足りないの?」
カナが言葉につまる。
「それは…」
「そのお金も返してもらおうかしら」
ケンジとカナの顔が、さらに青ざめる。
「でも、優しい母親だから、今回は請求しないでおいてあげる。その代わり、二度と私たちの前に現れないで」
ケンジが最後の懇願をする。
「母さん、本当に…?」
私は息子の言葉をそのまま返した。
「あなたが言ったのよ。二度と会わないって。私は、あなたの言葉を守ってあげてるだけ」
すべての言葉を、そのまま返した。因果応報。これが現実だ。
あれから三ヶ月が経った。
近所の奥さんが、私に教えてくれた。
「洋子さん、聞いた?ケンジさんたち、何かあったみたいよ。カナさんの実家に転がり込んだらしいわよ」
「まあ」
「でもね、カナさんのお母さんも怒ってるらしくて。息子さんの親を追い出すような人たちとは思わなかったって。近所でも評判になってるわよ」
親孝行だと思われていたケンジが、実は親を虐待していた。社会的信用も、完全に失った。カナの両親からも、一ヶ月で追い出されたと聞いた。自分たちが巻いた種なのだから。
そして今、私たち夫婦は静かで平和な生活を取り戻している。
朝はゆっくり八時に起床。好きな時間に好きなことをする自由。友人たちとのお茶会も、心から楽しめるようになった。
「洋子さん、最近、表情が明るくなったわね」
友人が嬉しそうに言う。
「そうかしら」
「前はなんか、疲れてる感じだったけど。肩の荷が下りたの?」
「ええ、そんなところね」
「息子さんとは…」
「連絡はないわ」
「それでいいの?」
「そうでも…。洋子さんは、正しいことをしたわよ」
「ありがとう。私も、今はそう思えるわ」
理不尽に屈しない強さを手に入れた。自分を大切にすることの大切さを学んだのだ。そして、何より自由を取り戻した。
ある日、誠が私に提案してくれる。
「洋子、来月、温泉旅行に行かないか?」
「いいわね。どこに行きましょうか?」
「お前の好きなところでいいぞ」
「じゃあ、京都がいいわ。紅葉の季節ね」
「決まりだな」
こんな会話ができる日々が、こんなにも幸せだとは。
「こんな生活、久しぶりだわ」
「これからは、俺たち二人の時間だ」
「ええ、本当の意味で、私たちの人生が始まったのね」
庭で花に水をやる私に、誠が窓から声をかける。
「洋子、コーヒー入れたぞ」
「今行くわ」
今、私は本当に幸せだ。自由で、平和で、心から満たされている。
あのこと、もう会うことはないだろう。でも、それでいい。
私は、私の人生を生きる。それが一番大切なことなのだから。
理不尽に耐え続けることが美徳とは限らない。自分の尊厳を守ることは、決して悪いことではないのだ。
もしあなたも今、理不尽な扱いを受けているなら、我慢し続ける必要はない。あなたには、自分を守る権利がある。
あなたの人生は、あなたのもの。理不尽に屈しない強さ。それは、年齢に関係なく、誰もが持つべきものだ。
私は六十七歳にして、ようやくその強さを手に入れた。でも、遅すぎることはない。今この瞬間から、あなたも変われるのだから。



