兄の結婚式の当日、俺は家にいた。
「ねえ、あんたは結婚式来ないでくれる? 中卒の俺を見下す大卒で大手企業に務める兄嫁。あんたみたいな中卒が式場にいると恥ずかしいのよ。」
そう言われたのは、兄が車を取りに行っている間のほんの一瞬だった。兄の前ではあんなに優しく笑っていたのに、二人きりになると、彼女はまるで別人のように牙をむいた。
俺は高校を中退している。正確には、俺の家族はエリート一家だ。親父もお袋も名門大学を卒業した超一流企業の社員で、兄はトップの成績で有名大学に入り、今では大手企業に勤めている。幼稚園からお受験をして名門校に進み、成績はいつもトップだった。褒められるのが嬉しくて、何も疑問を持たずに勉強を頑張ってきた。
だが、高校に進学した頃から、この家の勉強に特化した学歴第一の考え方に疑問を持つようになった。
人間には勉強よりももっと大事なことがあるんじゃないだろうか。自分にはもっとやるべきことがあるんじゃないだろうか。
そう思うと、次第に勉強に身が入らなくなった。成績は下がり続け、留年も危うくなった。俺は高校を中退した。
「勉強もしないで何をしてるんだ!」「高校も出ないなんて一家の恥だ!」
両親からは散々怒られた。だが、兄だけは俺の気持ちを理解し、味方になってくれた。
「きっと、いつかケ太の本当にやりたいことが見つかるさ。まだ若いんだから、ゆっくり探していけばいい。」
そう言ってくれた。それから俺はいろんなアルバイトに挑戦したが、どれも長続きしなかった。飽きっぽい性格が災いして、すぐにやめてしまった。それを繰り返すうちに、高校中退から5年、6年が過ぎた。
なかなか自分のやりたいことが見つからず、俺は焦った。そして、新しいアルバイトに挑戦するのも億劫になり、だんだんと人に会うことも嫌になって、完全に引きこもりになってしまった。
毎日、薄暗い部屋で自分の至らなさを恨む日々。正直、体も心も限界だった。
そんな時、部屋のドアがノックされた。
「健太、大丈夫か?」
兄だった。順調に大学を卒業し、大手企業に勤めて一人暮らしをしている兄が、俺を心配してわざわざ訪ねてきてくれた。
今外に出る元気がないんだよ。そうだけ答えるのが精一杯だった。
「外に出るのが辛いなら、家の中でできることを探してみたらどうだ? お前の部屋にもパソコンがあるだろう。今はな、ネットで繋がって、家の中で完結する仕事もたくさんあるぞ。」
その言葉で、視界が開けた気がした。できないことがあるなら、できることから探せばいい。俺はネットの世界から自分のやりたいことを探し始めた。
それから数年が経ち、兄のおかげで目が覚めた俺は、今では在宅の仕事で生計を立てることができている。元々勉強が得意だった俺は、持ち前の学習能力を発揮し、収入を得られるようになるまでに時間はかからなかった。
あの時アドバイスをくれた兄には、感謝してもしきれない。
そんなある日のことだった。深夜まで仕事をしていた俺が昼頃に目を覚ましてリビングに行くと、兄が帰ってきていた。兄の隣には、見慣れない女性が座っている。俺の寝癖頭を見て、その女性は少し軽蔑したような目を向けた。
「ケ太、この人は島田彩佳さん。結婚を前提にお付き合いしてるんだ。」
兄からそう紹介されて、俺は慌てて手櫛で髪を直した。
「こんな格好ですいません。弟の健太と申します。兄がお世話になってます。」
「島田彩佳です。お兄さんとお付き合いさせてもらってます。どうぞよろしくお願いします。」
彼女はそう言ったが、言葉の上辺だけなのは明らかだった。彼女は兄と同じ有名大学を出て、大手IT企業に勤めている。心の中で俺を見下しているのだろう。
その後、兄の前ではにこやかに話す彼女だったが、兄が席を外すと、途端に態度が変わった。
「ねえ、あんたさ、兄貴がいなくなったら急に私に媚びるの?」
「あんたさ、高校中退ってことは中卒でしょ。あんたみたいなのと家族になるの恥ずかしいんだけど。」
そう言われても、俺は気にしないようにした。だが、彼女の態度は次第にひどさを増していく。俺自身は気にしなければいいだけだが、心配なのは兄の奥さんとしてどうなのかということだった。兄は大手企業に勤めているから関わる人間も多い。そのうちの誰かにあんな失礼な態度を取ってしまったら、仕事人としての兄に多大な迷惑がかかる。何か大きな失態を犯さなければいいが、と心配していた。
そして、ついに二人の結婚が決まった。挨拶に来た二人に、両親は彼女との結婚を喜び、話は円満に進んでいった。
その時だった。兄が台所で酒の準備をしに行った隙に、彼女が俺に言った。
「ねえ、あんたは結婚式出席しないでくれる?」
「あんたみたいな中卒が式場にいたら恥ずかしいのよ。弟だったらさ、お兄さんの顔を立てると思って、出席は遠慮してよ。」
「おい、何をバカなこと言ってるんだ!」
ビールとグラスを持った兄が、怒りの表情で彼女を見ていた。兄は俺をかばってくれた。
「ケ太は俺の自慢の弟だ。恥ずかしいことなんてあるわけがないだろう。」
「だって…。」
「彩佳、俺から謝る。すまなかった。俺はお前に来てほしい。だから、彩佳に言われたことは気にせず、式に出席してくれ。」
尊敬する兄から頭を下げられ、俺は頷いた。しかし、彼女はその後もずっと不満な顔を崩さなかった。食事中も、兄が席を外すたびに俺に「本当に来ないで。私たちのせっかくの結婚式を邪魔しないで」と耳打ちしてきた。
そして、結婚式当日。
俺は結局、二人の式には出席しなかった。両親には「連日の徹夜で体調が悪い」と嘘をついた。あれからずっと悩んだが、俺が出席することで彼女が不機嫌になり、式の最中ずっと不満な顔をしていたら、兄にとっても悲しい式になる気がして、行かないという結論に至った。
式はたくさんの人に祝福され、滞りなく進んでいった。そして、披露宴で彼女の会社の上司である坂本浩司という男が、二人に話しかけた。
「この度はおめでとうございます。」
「ありがとうございます。」
「ところで、健太さんは来られてないのかな?」
そう言われて、兄が彩佳を見る。健太の名前が出たことで、彩佳の表情が曇った。
「島田君が何かを知ってるのか?」
「私が来ないでって言ったんです。」
「なぜだ?」
彩佳は開き直ったように言った。
「あんな中卒のクズなんて、社会で何の役にも立ってないんだから、相手にしなくていいでしょ。」
坂本は一瞬大声で怒鳴りそうになったが、式の最中であることを考えて抑えた。
「お前、健太さんが何者か知らないのか?」
「は?」
「健太さんは、うちと提携している会社の社長なんだぞ。」
「え…?」
実は、俺は彼女が務めるIT企業と提携している個人会社を経営していたのだ。俺は常に在宅でリモートで仕事をしていたため、顔を出すことがなかった。その上、彼女はそれに関わりのない部署にいたため、俺と会っても自分の会社と関わりのある人物だとは知る由もなかった。そして、俺の仕事はこの企業の中核を担う部分を担当していたため、俺に手を切られたら会社は大損害を被る事態となる。
そんな事情を聞いた彩佳は、言葉を失った。
「そんなことも知らないぐらい適当に仕事をしているお前と違ってな。健太さんはものすごく会社に貢献してくれてるんだ。その人を捕まえて、中卒のクズとはどういうことだ?」
彩佳は呆然としていた。そして、至って冷静に怒っていた坂本だったが、次第に顔が青ざめていった。慌てて携帯を取り出すと、式場の外に出て俺に電話をかけてきた。
「はい。健太さんですか? この度はうちの社員が失礼なことをしてしまって、本当に申し訳ありません。」
「いや、それは坂本さんが悪いんじゃないですから。」
「いえ、これは私の教育の至らなさが招いた結果です。本当に申し訳ありません。このことはしっかりと社内で問題として扱い、処分します。なので今後とも弊社とのお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします。」
「それはこちらこそ。どうぞよろしくお願いいたします。」
二人がそう会話をしている頃、彩佳は青ざめた顔で、今にも泣き出しそうだった。その後も式は進行していくが、彼女は心ここにあらずといった表情で、呆然としたまま式の時間を過ごした。
その後、彩佳は会社を首になった。そして、今まで俺に吐いていた暴言や見下した態度を取っていたことも、兄の知るところとなった。
「お前、二度と俺の弟を見下したような態度取るなよ。暴言も許さん。今度そういう振る舞いをしたら離婚だからな。肝に命じておけ。」
普段は穏やかで優しい兄からそう強く言われて、さすがに反省したらしい。あれ以来、俺に対する態度が180度変わった。
ある日、また昼頃に目が覚めた俺がリビングに行くと、兄と彩佳さんが来ていた。
「あ、健太君、おはよう。昨日も夜遅くまで仕事、大変だね。」
「あ、ええ、そんな…。」
「あ、コーヒー飲むでしょ? 今から入れるからちょっと待ってて。」
「あ、はい。」
彩佳さんが台所に立つ。正直、態度が変わりすぎて気持ちが悪いぐらいだった。
「兄貴、ちょっと怖いよ。」
「まあでも、あれなら問題も起こさないだろ。」
「まあ、そうだね。」
兄と二人でそう話した。確かにこの様子なら兄の奥さんとしても問題を起こさないだろうし、何より俺自身が家で安心して仕事ができるので良かったんじゃないかと思う。
「どうぞ。」
彩佳さんが入れてくれたコーヒーは美味しかった。それを飲み干すと、俺は席を立った。
「じゃ、俺はまだ仕事があるので。」
「そっか。頑張ってね。」
そう笑顔で言う。やはり少し気持ちが悪い。慣れるのには、少し時間がかかりそうだ。



