「高卒無能が来る場所じゃない。時間の無駄だ。さっさと帰れ」
7200億円規模の湾岸開発プロジェクトの最終契約のため、俺は大手デベロッパーの本社ビルを訪れていた。だが、プロジェクトリーダーである開発部長の上田は、俺の作業着姿を見るなり鼻で笑い飛ばした。
「まさか佐々木、清掃員の面接にでも来たのか?どうせ無能なお前のことだ。リストラでもされたんだろう」
俺は佐々木建設の社長、佐々木45歳。高卒で大手建設会社に入り、現場作業員として15年間働いてきた。そのほとんどを海沿いの現場で過ごした。埋め立て地は地盤が柔らかく、通常の工法では建物が沈んだり傾いたりするリスクが高い。その問題を解決できる技術があれば大きな需要があるはずだと確信し、独立して今の会社を立ち上げた。
独立後、俺の会社は海沿いの建設に特化した。専門家を雇い、現場経験も反映させ、新しい工法を開発した。地盤の柔らかさを逆に利用して地震の揺れを吸収する仕組みだ。開発には5年かかったが、特許を取得できた。この工法のおかげで会社は急成長し、今では従業員100名を抱えるまでになった。
それでも俺は1人の職人としての自覚を忘れない。現場に出る時も、社長として仕事をする時も、いつも作業着姿だ。作業着は職人の誇りであり、恥じる必要はない。
今回のプロジェクトの建設予定地は海沿いの埋め立て地。地盤が非常に柔らかく、通常の工法では大規模な建物を立てられない。俺の会社が持つ特許工法なら安全に建設できる。行政も安全性が証明できない方法での建築は許可しない。実質的に、このプロジェクトに対応できるのは我が社のみだ。
ロビーで待っている間、床を掃除している清掃員の女性が目に入った。腰をかがめて丁寧に床を磨く姿を見て、俺は自分の原点を思い出す。
「いつもお疲れ様です」
女性は驚いたように顔を上げ、丁寧に会釈してくれた。その時、エレベーターが開き、上田が降りてきた。
上田は俺の高校時代の同級生だ。当時貧しかった俺に嫌がらせばかりしてきた男。高校卒業式の日、上田は俺に言い放った。
「大学にも行けない貧乏人が建設現場か。一生そこでやってろよ」
上田は俺を見ると、獲物を見つけたような表情で笑った。俺の作業着姿を上から下まで舐めるように見る。どうやら今日の商談相手が俺だとは気づいていないようだ。
その時、背後から若手社員の怒鳴り声が響いた。
「おい、そこ邪魔だ。さっさと退けよ」
声の先にはさっきの清掃員の女性がいた。慌てて道を開ける女性を見て、上田は軽蔑の色を浮かべる。
「おいおい、そんなに責めるなよ。底辺の仕事も大変なんだから。そうなんだろう、佐々木」
上田は清掃員を見下す態度をそのまま俺にも向けた。この会社の社風の悪さを肌で感じ取る。
「今日は商談に来たんだ」
一瞬の沈黙の後、上田は腹を抱えて笑い出した。
「はあ?冗談だろ?お前がその作業着姿で?笑いが止まらない」
「高卒無能は間違い。時間の無駄だから帰れば?そんな見え張って嘘をついて賢しらに振る舞わなくていいよ」
周囲にいた社員たちも上田の言葉に失笑をもらす。俺は静かに名刺入れを取り出し差し出した。しかし上田は受け取ろうともせず、俺の手を払いのけた。名刺は床に落ち、乾いた音を立てた。
俺はそれを拾い、静かに告げた。
「今回の湾岸プロジェクトの契約は白紙にさせてもらう」
上田は鼻で笑った。
「何言ってんだお前。頭おかしくなったか?高卒無能が来るところじゃない。とっとと帰れよ。警備員を呼ぶ前にな」
俺は上田を見据えて言った。
「後悔しますよ」
丁寧な口調にしたのは、俺が仕事上の取引相手であることを思い出させるためだ。しかし上田は何も気づかない。勝ち誇ったような笑みを浮かべている。俺はそんな上田を一瞥し、本社ビルを後にした。
会社に戻り、俺は専務の栗林に事の顛末を話した。栗林は黙って聞いていたが、途中で深く頷いた。
「実は私もこれまでの打ち合わせで、デベロッパー側の担当者たちの横柄な態度に疑問を感じていました。技術説明をまともに聞かず、常に上から目線でした。社員が清掃員を怒鳴りつける場面も目撃しています。上田部長が不在でもあの態度ということは、あの会社の社風そのものに問題があるのでしょう」
その時、執務室の内線電話が鳴った。栗林が受話器を取る。しばらく相手の話を聞いた後、栗林は受話器を抑えて俺に告げた。
「社長、デベロッパーの上田部長からです。商談開始の時間が過ぎているが、我が社の商談担当者がまだ来ていないと言っています」
予想通りの展開だ。俺は栗林に再度契約白紙を伝えるよう指示し、受話器を受け取った。
「先ほどロビーにいた佐々木だが」
「佐々木?なんでお前が電話に出るんだ?社長に早く代われよ」
「私が社長だからだよ」
電話口が一瞬静かになった。
「まさか、あの作業着の?…そうだ。私が今回のプロジェクトの施工を担当する建設会社の社長だ。再度伝えておくが、契約は白紙だ。その通知を今から正式に送らせてもらう」
「ち、ちょっと待ってくれ。あれは誤解で…」
俺は電話を切った。
1時間ほど経った頃、また内線が鳴った。今度はデベロッパーの常務社長からだ。
「佐々木社長、この度は誠に申し訳ございません。上田から事情を聞きました。開発部長が商談相手である社長を追い返してしまったと。なんとかもう一度機会を…」
「プロジェクトリーダーである上田部長は、商談相手を確認もせず外見だけで判断し私を追い返しました。そのような方が関わるプロジェクトに、弊社の技術を提供することはできません。お断りします」
大手デベロッパーとの契約を白紙にした翌日、俺は栗林に尋ねた。
「以前、我が社に問い合わせがあって断った案件で、まだ施工業者が決まっていないものはあるか?」
栗林は少し考えてから答えた。
「運送会社から、湾岸エリアに大規模な物流倉庫を建設したいという依頼がありました。ただ、当時は大手デベロッパーのプロジェクトを引き受けた直後で、スケジュールの都合上断らざるを得なかった案件です」
「その運送会社に連絡を取ってくれ。今なら対応可能だと伝えてほしい」
数時間後、栗林が明るい顔で戻ってきた。
「社長、先方、まだ施工業者を決めかねているとのことです。湾岸の軟弱地盤での大型工事のため技術面で不安があり、なかなか決断できずにいたそうです。明日にでも我が社に相談に来たいと言っています」
翌日、我が社を訪れた運送会社の社長は、挨拶もそこそこに熱心に話し始めた。
「半年前にお問い合わせした際は、すでにプロジェクトが埋まっているとのことで、正直諦めかけておりました。湾岸エリアに大規模な物流拠点を建設する計画です。しかし地盤が非常に柔らかく、複数の建設会社に相談しましたが、皆リスクが高すぎると断られました」
資料に目を通すと、計画は具体的で技術面での課題も正確に把握されていた。
「本社の特許工法なら、この難しい条件でも安全に建設できると確信しております」
規模は300億円程度で、7200億円の巨大プロジェクトには及ばない。しかし、誠意と技術を信頼してくれる相手と仕事がしたい。それが俺の信念だ。
「前向きに検討させていただきます」
面談を終え、執務室に戻ると栗林が待っていた。
「社長、先ほど大手デベロッパーの常務社長から再度連絡がありました。また、大手デベロッパーで技術担当をしていた方から私に連絡が入りました。上田部長が取締役会で厳しく責任を追及されているそうです」
「当然だな」
「しかし上田部長は反省するどころか、『相手の服装が悪かったのが問題だ。社長なら社長らしい格好をすべきだ』と開き直っているとか」
俺は苦笑する。上田は最後まで自分の非を認めないつもりらしい。
その翌日、俺は執務室で業界紙を広げていた。一面に大きな記事が載っている。
「大手デベロッパーの巨大湾岸プロジェクト暗礁に」
記事によれば、すでに2000億円の用地取得が完了しているものの、施工業者との契約が白紙撤回され、プロジェクトが完全に停止状態となっているという。さらに、唯一の施工可能業者との関係悪化が原因とも書かれていた。
デベロッパーがプロジェクトを進めるには、我が社の工法が不可欠だ。仮に他の建設会社が工事を受けても、構造計算からやり直し、建築許可の再申請が必要になる。最短でも半年から1年程度はかかるだろう。そして、我が社の特許工法は特許で保護されている。他者が使用するには、我が社とのライセンス契約が必要になる。特許の有効期間はまだ13年以上残っている。つまり、どう転んでも我が社を通さざるを得ないのだ。
翌日の午前中、受付から内線で大手デベロッパーの常務社長と上田部長が来たと伝えられた。わざわざ社長自らが謝罪に来たということは、事態の深刻さを理解しているのだろう。俺は上田がどんな顔をして現れるのか確かめたくなり、応接室で2人を迎えることにした。
常務は深々と頭を下げた。
「この度は誠に申し訳ございませんでした」
常務の謝罪は丁寧で誠実さが感じられた。一方の上田は、形だけ頭を下げているものの、その目には今も俺を見下す色が残っている。
「上田部長、あなたはロビーで私を侮辱し、名刺を床に叩き落とした。清掃員や受付の方々に対しても、人として扱わない態度を取っていた。それは人の尊厳を否定する行為だ」
上田の顔が歪む。その時、常務の携帯電話が鳴った。
「すみません。緊急の連絡のようです。少し席を外させていただきます」
常務が応接室を出ていき、2人きりになった瞬間、上田の表情が変わった。小声で、しかし怒りを込めて言い放つ。
「だがな。あんな格好で来る方が悪いんだよ。社長なら社長らしくスーツを着るべきだろ」
俺は呆れを通り越して怒りすら覚えた。作業着は1人の建設職人としての誇りだ。むしろ服装だけで人の価値を判断する。その浅はかさが今回の事態を招いたんだ。
上田が何か言い返そうとした時、ドアが開いて常務が戻ってきた。常務は青ざめた顔で上田を見る。
「上田、今の発言を私は廊下で聞いていた」
上田の顔から血の気が引く。俺は冷静に告げた。
「お前は学歴と肩書きしか見ていない。しかしビジネスで大切なのは技術と実績、そして誠意だ。お前はあのロビーで『後悔しますよ』という俺の警告を無視した。今後悔しているのはどっちだ?」
上田の顔がさらに青ざめる。
「帰れ。お前が失ったのは1つの取引ではない。信頼だ。それは一度失えば、もう二度と戻らない」
常務が慌てて立ち上がる。
「佐々木社長、お願いします。上田の処遇は役員会で厳重に検討します。ですから、なんとかもう一度チャンスを…」
「申し訳ございませんが、すでに別の大型案件が決まっております。今更御社と仕事をする理由がございません。人を外見で判断し、技術を軽視する会社とは、いかなる条件でも仕事はできません」
俺は応接室のドアを開け、2人を促した。常務は力なく頷き、上田の腕を掴んで立ち上がらせた。2人が応接室を出ていく背中を、俺は黙って見送る。
ドアが閉まった後、栗林が静かに入ってきた。
「社長、運送会社との打ち合わせの時間が近づいております」
「わかった。すぐに向かう」
3ヶ月後、業界紙の一面に大きな見出しが踊った。
「大手デベロッパー7200億円プロジェクト、正式に凍結」
記事によれば、臨時取締役会が開かれ、経営陣が一掃されたという。プロジェクトそのものも根本から見直すとのことだ。
栗林を通じて、上田のその後の顛末を知ることができた。上田は部長職を解かれ、その後、依願退職という形で会社を去ったらしい。巨大プロジェクトを潰した男として業界内で悪評が広まり、未だに再就職先も見つからないそうだ。
一方、運送会社から依頼された倉庫建設の件は順調に進んでいる。先方の社長は我が社の技術を正当に評価してくれ、現場の声にも真摯に耳を傾けてくれる。こういう相手と仕事ができることが何より嬉しい。
ある日、我が社を1人の女性が訪ねてきた。あの日、デベロッパーのビルで見かけた清掃員の女性だった。
「あの時、お声がけいただいてとても嬉しかったです。お礼が言いたくて…」
女性は丁寧にそう言ってくれた。俺は少し照れながら答えた。
「当然のことをしただけです。こちらこそ、いつもありがとうございます」
こういう出会いこそが、仕事の原点だと俺は思う。今日も俺は作業着を着て現場に立つ。1人の建設職人として、技術と誠意を何より大切にし、これからも仕事を続けていくつもりだ。


