高級ステーキ店の個室。暗い木目の壁と間接照明の下、白いクロスに赤ワインのグラスが並ぶ。その静寂を裂くように、ミカの声が響いた。
「夫が組長の私は無敵」
ミカは自分を睨みつけるあやの前に立っていた。熱々の鉄板ごと、皿の上で傾けられたステーキは、あやの胸元へと滑り落ちる。湯気とソースが白いブラウスに染み広がり、じわりと熱が肌に伝わった。あやはミカをじっと見返した。
「ちょっと、文句あるならうちの人に言いなよ。組長様にね」
ミカは高笑いをした。テーブルを囲むママ友たちは息を飲み、口元を抑えて動きを止めている。ミカは更に畳みかける。
「西村組の組長夫人よ。この辺で逆らえる人なんていないんだから」
あやは汚れた胸元を抑えもせず、顔に伝う熱のしめりをそのままに、ただ静かにミカを見つめ返した。テーブルの下、あやの指が、伏せて置いたスマホに伸びていく。個室の空気が張り詰めた。
その半日前。あやはいつもと変わらない静かな朝を迎えていた。狭いアパートの一室で、娘のみさが食べやすいようにと甘めの卵焼きを焼き、作り置きのキンピラと赤いミニトマトを小さな弁当箱に詰める。
「あやちゃん、今日の卵焼き甘い?」
眠そうな声で台所に顔を出したのは、小学4年生の娘・みさだった。
「甘いのにしといたよ。昨日ちょっと焼きすぎちゃったから、今日は柔らかくしたの」
「やった。じゃあ遠足のお弁当も甘い卵焼きにして欲しいな」
「遠足はまだ先でしょ。他に何食べたい?」
「うんと、唐揚げと卵焼きとトマトも。ゼリーは別でいいの。唐揚げの方が大事だもん」
「じゃあ、唐揚げは多めにしようね」
みさが笑いながら食卓に着く。あやはランドセルの留め具を確かめてやる。窓から差し込む朝の光の中、味噌汁の湯気が立ち上っていた。冷蔵庫には月々のやりくりを書き込んだ家計簿が磁石で止めてある。今月も少し切り詰めれば、娘の遠足の費用は足りる。あやは指先でその数字を確かめ、小さく頷いた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。横断歩道は必ず止まって、右左を確認すること」
「分かってるよ。毎日言わないで」
娘を見送った後、あやは洗濯物を干し、掃除機をかける。取り立てて贅沢ではないけれど、娘の笑顔を守れる暮らしがあればそれで十分だ。しかし、壁のカレンダーに目をやり、手が止まる。
今日は、月に一度のランチの日だ。会場はあやには少し背伸びのいる高級ステーキ店の個室。娘の同級生のママたちが集まる、その輪の中心にはいつも西村ミカがいた。派手な巻き髪、柄物のブラウス、黒いファーのベスト。指や首で光る金の装飾品。ミカは「うちの人はこの辺じゃ顔が利くからね」と鼻にかけ、ママ友たちを従わせていた。あやはいつも隅の席で静かに微笑むだけだった。目立たず、波風を立てずに。娘がミカの子と同じクラスにいる。ここでことを荒立てれば、しっぺ返しは必ず娘に向かう。あやは悔しさを飲み込んで、ずっと耐えてきた。
しかし、最近のミカの当たりは少しずつ強くなっていた。先日の授業参観で、あやの娘が学年の代表に選ばれたことが、ミカはよほど気に入らなかったらしい。
「地味な家の子が随分でしゃばるじゃない。代表なんて柄じゃないでしょ。親が親なら子も子だわ」
そんな言葉を、ミカはわざとあやの耳に入るように言う。あやは決して言い返さなかった。ただ、今朝のミカからの「今日はちゃんと来てよね。逃げないでよ」というメッセージは、いつもより念押しのようで、どこか引っかかっていた。
個室に集まったママ友たち。話題が子供の成績に移ると、ミカの声に分かりやすく棘が混じる。
「オタクの子が代表に選ばれたんですって。地味な家の子がそんなに鼻が高くなったのね」
あやは箸を置き、穏やかに、しかしはっきりと答えた。
「あの子が頑張った結果です。それだけのことですよ」
「頑張った? 親の欲目じゃないの?」
「先生方が認めてくださった結果です。欲目ではありません」
ミカの眉がぴくりと動いた。そして、笑みを浮かべたかと思うと、次の瞬間、自分の前の鉄板から熱々のステーキを掴み上げ、あやの胸元へ投げつけた。ソースが飛び散り、白いブラウスに染みが広がる。じわりと熱が肌に伝わった。
「夫が組長の私は無敵」
ミカはほくそ笑み、高笑いを始めた。ママ友たちは凍りつき、誰も動けない。ミカはさらに続けた。
「あんた、文句あるならうちの人に言いなよ。西村組の組長様にね。あの人が出てきたら誰も逆らえないんだから」
あやは汚れた胸元を抑えもせず、静かに立ち上がった。そして、テーブルの下に伏せていたスマホを手に取り、慣れた指先で一つの番号を選ぶ。
「何よ? 警察でも呼ぶつもり? 無駄よ。うちの人が話しをつけたら、そんなの一発でもみ消せるんだから」
ミカの声がわずかに揺れる。あやはミカを見もせず、電話を耳に当てた。数回の呼び出し音。応じたのは、低く落ち着いた男の声だった。
「もしもし」
「父さん、岩崎哲夫さん? 今、ステーキの個室にいるの」
電話の向こうで、一瞬の間があった。
「どうした?」
「同じクラスのお母さんに、ステーキを投げつけられたの。娘のことで笑いながら」
「相手の名は?」
「西村美香さん。さっき本人が『西村組』って言ってた。旦那さんが組長よ」
個室が静まり返った。
「その人、組長だから何をしても無敵なんだって。そう言って笑ってるの」
「……分かった。お前は何もしなくていい。汚れたまま座っていろ。俺の方で動く」
「ありがとう、父さん」
あやが静かに電話を切ると、個室には重い沈黙が落ちた。あやが電話口で口にした「夫の首事」という言葉——意味が分かったのか、ママ友たちの背筋が凍りつき、ミカの顔色が変わっていく。
「は、パパに泣きついたの? 何歳よ? 組長のうちに、あんたの家がどう立ち向かうっての?」
しかし、あやはミカを正面から見据えて言い放った。
「あなたのご主人の組が、この辺で名前が知られているのは分かったわ。でも、それがどこの傘の下にあるかまでは、ご存知ないみたいね。上か下かで言えば、西村組はずっと下です」
個室の空気が一瞬で張り詰めた。ミカは口を開けかけて、しかし言葉が出ない。
「今、電話に出たのは、私の父。岩崎哲夫。覇王連合会の会長です。私はその娘です」
高笑いが消えた。ママ友たちは驚愕の表情で固まっている。ミカはどもりながら反論する。
「は、はったりでしょ? うちの人はこの辺じゃ顔が通るんだから。あんたの親が本当に会長なら、なんでこんな所でパートなんかしてるのよ?」
「私が父の世界のことは娘に見せずに育ててきたからよ。あの世界の空気を吸わせたくなかった。友達と笑って学校から帰ってくる、娘の普通の毎日を守りたかった。だから名前も出さず、着るものも暮らしも、どこにでもある母親のままにしてきたの」
「何よ、今更言い訳?」
「言い訳じゃありません。腹が立たなかったわけじゃない。でも、ここで私が家の名を持ち出せば、娘の学校での毎日が私の素性に飲み込まれてしまう。それが怖くて、ずっと黙って耐えてきたんです。父の力を借りず、あの世界と距離を置いて、普通の母親でいることが私の願いでした」
あやは一度、汚れた胸元に視線を落とし、そして顔を上げてミカをまっすぐ見た。
「でも、あなたは私の娘のことで笑いながら、私に手をあげた。それだけは許せなかったんです。だから、もう耐える理由がなくなった。それだけのことです」
ミカは何も言えなかった。ただ、その場に立ち尽くすだけだった。
その夜、岩崎哲夫は若頭を呼びつけた。
「証言と診断書を揃えろ。西村組は毛古会の下だ。覇王連合会とは別系統だ。直接は動かず、毛古会に声をかけるんだ」
哲夫は長年頂点に立ち続けたが、それは根拠と取りを先に固めてから動いたからだった。若頭は2日ほどかけて、必要なものを静かに揃えていく。ママ友たちの証言、店員の証言、火傷の診断書。揃った書類を携えて、若頭は毛古会の事務所へ向かった。書類を見た毛古会の幹部は、すぐに理解した。
「覇王連合会の会長の娘か。申し訳ない。身内の不始末だ。西村組に声をかける」
「よろしくお願いします」
翌日、毛古会から西村組に連絡が入る。その電話を受けるまで、組長の浩司は妻が何をしでかしたのか知らなかった。ミカは夫に詳細を伝えていなかったのだ。
「お前の妻の件だ。数日前、高級ステーキ店の個室で、覇王連合会の娘にあの鉄板料理を叩きつけた。火傷の診断書が出ている。西村組の始末をどうけるか問われているのは、こっちだ」
「なんだと?」
「お前の妻が誰に何をしたか、もう一度言うか?」
浩司は言葉を失った。事務所の窓の外には、いつもと変わらない街並みが広がっている。しかし、その電話の後、西村組を取り巻く空気は一変した。裏の世界では「西村のところがまずいことに手を出した」という噂が静かに走り、長年付き合いのあった同業者たちも距離を取り始めた。
「お前、一体誰に手を出したんだ」
ミカの元に、夫から電話が入った。いつもの威圧感はなかった。
「ただのママ友よ。地味なパートみたいな女」
「そのパートみたいな女の親父が、どこの誰だか分かってんのか? お前が手を出した相手は、覇王連合会の会長の娘だ」
「え? そんな……なんで? なんであんな地味な格好してるのよ」
「お前は笑いながら手を挙げた。相手のことが分からなかったらしいな。もう誰も助けてくれない。俺にもう手がない」
電話の向こうで、通話が切れた。さらに翌日、ミカの元に「もう無理だ」という夫からの連絡が入る。
「あなた、何とかしてよ。あんたの組の力で、あの女を黙らせればいいでしょ」
「誰に頼めばいいと思ってるんだ。毛古会が来た時点で、もう誰も動いてくれやしない」
「そんなはずないじゃない。組長なんだから、まだ押し返せるでしょ?」
「相手の核が分かってんのか? 覇王連合会に、西村組で押し返せると思ってるのか?」
浩司はかつての兄弟分に最後の電話をかけたが、それも虚しく、「こっちまで巻き込むな」と断られる。同じ言葉が返ってくるばかりだった。それでも浩司は、組を失いまいと必死に手を打とうとした。相手の側に男を送り込み、脅しを散らつかせながら手打ちに持ち込もうとしたが、その動きは毛古会の耳にすぐに入り、「調子に乗るな。明日の席まで余計な真似をするな」と一喝されて、送り込んだ男たちは慌てて引き返した。
裏の世界で、浩司に対する目はさらに冷たくなった。数週間後、毛古会の席に浩司がつくと、正面の男はすぐに口を開いた。
「組を畳め。縄張りは返上。シノギからも手を引け」
「それは、今すぐということですか?」
「選択肢はない。向こうはそれで動いた。従うだけだ」
その言葉が、すべてを終わらせた。数日のうちに、若い衆は荷をまとめて次々と事務所を出ていった。組の金庫は手の付けられない場所にあり、縄張りも別の組へ引き継がれていく。明かりを落とした事務所の中で、浩司は長年かけて築いてきた“組長”の座が静かに手の中からこぼれ落ちていくのを感じていた。
やがて西村家の郵便受けに、一通の書留が届いた。火傷の治療費、衣服の弁償、慰謝料——総額800万円余り。ミカはその数字に指先を止めた。調停の席にミカは一人で着き、向かいには相手方の代理人弁護士が座っていた。
「争う余地は残されていません。調停で全額をお支払いいただくか、裁判になります」
ミカは「うちの人が組長なのよ」と言いかけて、しかしその言葉がもう誰にも通じないことを、その場で思い知った。夫の残した個人預金と、ミカが肌身離さず持ち歩いてきたブランドのバッグや指輪。かつて人に見せびらかすために手に入れた物が、買い取りの査定書として数字に並んでいく。800万円を削り出すのに、それらのすべてを売り払う必要があった。
一括で支払われた全額が指定口座へ振り込まれ、調停は成立した。しかし、刑事の話は別だった。被害届はすでに受理されており、ミカは取り調べを受けることになった。
「あの日、個室で何をしましたか?」
「あれは冗談のつもりだったのよ。ママ友のちょっとした言い合いで」
「熱々のステーキを投げつけたのは、冗談ですか?」
「うちの人が組長だから、誰も文句言えないと思っただけで……」
数週間後、ミカは事件として起訴された。胸元に残った火傷は、診断書の上で事件の証拠として記録されている。判決は懲役8ヶ月、執行猶予3年。前科が履歴に残った。ママ友たちは潮が引くように離れ、近所の噂は容赦なく回った。やがて一家は、玄関の表札を外し、荷物を積んだ車で町を後にするしかなかった。かつて「夫が組長の私は無敵」と高笑いをした声は、もうどこにも響かなかった。
西村一家が流れ着いたのは、縁もゆかりもない遠い土地だった。古びたアパートの一室。かつてのブランド品も、金の装飾も、人を見下せる相手も、そこには何もなかった。裕子は窓辺に腰を下ろし、見知らぬ街並みをただ眺めるだけだった。
一方その頃、夕暮れの商店街で、あやは値引きされた食材を選び、スーパーの袋を下げて家に帰ってきた。玄関の扉を開けると、娘がいつものように笑顔で駆け寄ってくる。
「ただいま。あやちゃん、見て! 今日の図工で作ったの」
娘は色が用紙で作った動物を、大事そうに両手で抱えていた。
「上手にできたね」
あやは腰をかがめて、そっと娘の頭を撫でた。二人で小さな食卓を囲み、湯気の立つ味噌汁をすする。窓の外はもう夕暮れで、オレンジ色の光が食卓の端を照らしていた。あの個室での出来事も、西村組の名前も、この食卓には一切入ってこない。なんでもないけれど、何よりも大切な時間だった。



