バーベキューの準備で忙しい中、役員の妻である佐木さんがまた余計な口出しをしてきた。断るたびに社員に手作りの菓子を押し付け、挙句は社員に飲み物を注文するような女性だ。私はついに堪りかねて注意した。
「新井夫人、すみませんが、準備は私たちがしますので、あちらでお待ちください。あまり口を出されると現場が混乱しますし、何より会社の人間でもない方が社員を指図するのはいかがなものかと」
すると彼女はカッと顔を赤らめて怒鳴った。
「高が中卒の分際で私に指図するなんてご同罪だわ。あなたの段取りが悪いから私が代わりに手伝ってあげているのに。そんなことも分からないなんて。本当、低学歴はこれだから」
「申し訳ありませんが、ここの責任者は私ですので、任せていただきたい」
私の言葉に佐木さんは「覚えてなさいよ」と捨て台詞を残してその場を去っていった。
私は宮下慎一。とある自動車部品メーカーに勤務している。中肉中背で薄い顔という日本人の典型のような外見で、自分の感情より周囲の意見を優先するからか、社内でも目立たない存在だと自負している。だが、そんな私でも勤続年数だけは長く、後輩や同僚には何かと相談を持ちかけられることも多い。
私の実家は小さな町工場を営んでいた。だが、私が中学生の時、父が大病を患った。母を早くに亡くし、それからは男手一つで父に育てられた私は、少しでも父の助けになればと中学卒業後、すぐに工場で働き出した。
父の工場は技術こそ定評があったものの取引先との縁がなく、経営は苦しかった。だが、私や工場で働く若い人間が中心となって積極的に営業をかけたところ、とある自動車部品メーカーがその技術に目をつけてくれ、結果的に工場はその会社の一部門として吸収され、倒産を免れたのである。
やがて私は仕事の飲み込みの速さと正確さ、そして父や工員に叩き込まれた技術に対する知識をその会社の社長に気に入られ、「今社で働かないか」とスカウトされた。その頃には手術に成功した父もだいぶ回復していて、後押しもあり、私は実家の工場を離れ、本社勤務となり現在に至っている。
また、私が本社に移った頃は会社もさほど大きな規模ではなかったものの、数年後、大手自動車メーカーの下請けとなった時期から急成長を果たした。そして今では特許技術も数多く保有する、その分野では知らない者はいないと言われるほどの会社となった。
だが、規模が大きくなればそれだけ社内での圧力も増えてくるというものだ。
昼を過ぎ、皆がそれぞれ業務をこなしているフロアに、取引先から戻ってきたらしい同僚が息を切らして駆け込んできた。
「おい、今から新井の奥さんが来るぞ。下ですれ違ったから間違いない」
その一言に、みんなはうんざりした様子を隠すこともなくため息をついた。
「またあのまずい菓子食わされるのか」
「つうか、あの人、フロアの効率化とか言ってるけど、提案がことごとくズレてんだよな」
「そもそもあの人、夫が役員ってだけで、この会社の社員でもないのにな」
口々に愚痴を吐く同僚たちに、私も内心同意する。
数年前にこの会社の常務に収まった新井は、定年退職した元役員だ。俗に言う下りである。会社としては彼の持つコネとパイプを期待して役員の席を用意したのだが、本人もそれを十分に察してこちらの足元を見ているのか、日々仕事もせずにただ偉そうにふんぞり返っている種類の人間であった。そして彼が常務に就任してからの一番の迷惑といえば、彼の妻である佐木さんが、断るごとに社員に差し入れと称して手作りの菓子を携えて会社に押しかけてくることだった。
しかも彼女は自分自身のセンスや提案力に絶大なる自信を持っているらしく、来るたびにああしろ、こうしろと、よく知りもしないのに社内のシステムに口出ししては、自分の思い通りに運ぼうとする。
その日も同僚が知らせてきた数分後、フロアに彼女の甲高い声が響き渡った。
「皆さん、今日も皆さんが大好きな私の手作り菓子を差し入れに参りましたわ。今日はね、私が最近はまっているカヌレを焼いてまいりましたの」
瞬間、社員たちの心情を反映してフロアの空気が一気に淀んだのだが、それには全く構わず、早速佐木さんは取り巻きの数人と共にフロアを練り歩き、強制的に手作り菓子を社員へ押し付けて回った。
「それにしてもここ、暑くございません?空気も良くないわ。もういくら面倒でも、空気の入れ替えくらいはなさいませんの?」
出来の悪い生徒を前にした教師のような顔で彼女はそう言うと、取り巻きたちが心得たように問答無用でフロアの窓を開け放ち始める。すると、突然吹き込んできた風に煽られ、吹き飛ばされそうになる書類を守るため、社員たちが慌て始めた。だが、その混乱の中、佐木さんだけは得意げな顔をして胸を張る。
「働いたら喉が乾いたわ」
そう言って近くの社員に飲み物を出すよう要求する始末。その暴虐無道に私が思わず彼女の方を見やれば、タイミングが悪いことに佐木さんの方もこちらを見たところだったらしく、ばっちりと目が合ってしまう。
「あら、中卒の宮下さん、何か私に申し上げたいことでもおありなの?」
「いえ、そういうわけでは」
佐木さんの問いに私が静かに首を振れば、彼女はふんと鼻を鳴らして口の端を吊り上げる。
「そうよね。私たちに中卒のあなたが文句をつけることなんてあるわけないものね」
嫌みたっぷりにそう言うと、佐木さんはそれきり私には興味をなくしたようにしてそっと歩を向ける。
一流大学を出て官僚となった新井は、平等な割にとにかくプライドが高いのだが、それは妻である佐木さんも同様だった。そして、何かの折に新井夫妻は私が中卒だと知ったらしく、以降、思い出したようにして私を馬鹿にしてくるのだった。
夫の立場を傘に着て、社員でもないのに我が物顔で振る舞う妻。そして、そんな妻を止めず、仕事もしない形だけの役員の夫。会社運営においての不健全要素となっているこの負の遺産をどうにかできないものだろうかと試行錯誤しながら、私は日々を過ごしていた。
それからしばらくして、春の恒例行事である社内懇親会が近づいてきた。新年度前に社員やその家族も参加して、会社の敷地内で大規模なバーベキュー大会を行うのだ。また、その懇親会では毎年、新年度の目標や体制が皆の前で発表される手はずとなっている。私は懇親会の責任者として、当日もバーベキューの準備に追われていた。するとそこへ、呼ばれもしないのに再び佐木さんが顔を出し、早速ああだこうだと余計な口を出してくる。
「こんな安物のお肉しか用意できなかったの?もう言ってくだされば特上のものをお持ちできたのに。それに、あなた手が遅いわよ。私に貸しなさい。ほら、もう溢れちゃったじゃないの」
「す、すみません」
「このお洋服、いくらすると思ってらっしゃるの?万が一汚れたらどうしてくれるのよ。もう、それより、あなた、私にホットカフェラテを買ってきてちょうだい。ほら、急いで。今すぐよ。今すぐ」
突然割り込んできた常務夫人の言動に、準備を手伝ってくれていた新人はすでに泣きそうになっている。ただでさえ忙しいところに、さらに仕事を増やすばかりか、社員を困らせ、顎で使おうとする彼女へ。とうとう私は溜まりかねて口を開いた。
「新井夫人、すみませんが、準備は私たちがしますので、あちらでお待ちください。あまり口を出されると現場が混乱しますし、何より会社の人間でもない方が社員を指図するのはいかがなものかと」
日頃から中卒だなんだと馬鹿にしている相手からそんな注意を受けた彼女は、立ちまち不機嫌になってしまったようだ。佐木さんはカッと顔を赤らめて怒鳴る。
「高が中卒の分際が私に指図するなんてご同罪だわ。あなたの段取りが悪いから私が代わりに手伝ってあげているのに。そんなことも分からないなんて。本当、低学歴はこれだから」
「申し訳ありませんが、ここの責任者は私ですので、任せていただきたい」
私の言葉に佐木さんは「覚えてなさいよ」と惨めな形相で怒らせながらその場を去っていった。
「宮下さん、いいんですか?」
「いいんだよ。誰かが言わないといけないんだから。ほら、それより準備が間に合わなくなるよ」
心配顔で私を見つめてくる新人に、私は普段通りの笑顔を見せて頷く。
佐木さんを完全に怒らせてしまったので、後々面倒なことにはなるだろうが、今は目の前の仕事だと気持ちを切り替えて、私はその後も懸命にバーベキューの準備に努めた。そしてなんとか予定通りに準備が終わり、食材や飲み物が行き渡るとともに、あちこちで賑やかな笑い声が聞こえ始める。社員やその家族たちの楽しそうな様子に、私も安心してバーベキューを楽しんでいた。
だが、そんな和やかな一時も束の間、数メートル先に座っていた佐木さんとその取り巻きが、ニヤニヤと笑いながら私の方へ近づいてくるのが見えた。その手には、鍋からよそわれたばかりの豚汁が入ったプラスチック容器。
そして彼女たちは私の横を通り過ぎる瞬間、佐木さんはこともあろうか、湯気を立てる熱々のそれを私の胸の辺りにぶちまけてきたのだった。
「あ、やだ。ごめんなさい。手が滑っちゃって」
あまりの暑さに飛び上がった私に、佐木さんはそんなことを言いながらもクスクスと忍び笑いをもらす。見れば、彼女の夫である新井もそんな私の姿を指さして愉快そうに笑っていた。
やがて佐木さんは火傷の心配をするふりをしながらこちらに身を寄せると、私にだけ聞こえる声でこんなことを言ってきた。
「あんた、中卒のくせに、生意気にも指図なんてするからよ。どっちが偉いかなんて分かりきってるのに、本当、腹立たしいったら。中卒のバカは、豚汁を飲むよりかけられた方がお似合いだわ」
そうして勝ち誇ったように鼻を鳴らすと、佐木さんは「早くお着替えなさいよ」などと、まるで他人事のようにそう告げて、満足したかのように去っていく。
「大丈夫ですか?私、ここ片付けておきますんで、宮下さんは早く着替えてきてください」
あまりにも子供じみたその嫌がらせに、直後は呆然としていた周囲も、まだ湯気の立っている汁をポタポタと垂れ流す私を見て、慌ててタオルやナプキンやらを差し出してくれた。幸い、バーベキューということで汚れてもいい服を着ていた私は、念のため着替えも持ってきている。
「宮下さんにちょっと注意されたからって、こんなことするなんて。信じられない」
と悲憤慷慨しているのは、先ほどもバーベキューの準備を一緒にしていた新人だ。だが、私はその悲痛な思いをなだめるように微笑むと、軽く手をあげる。
「ごめん。じゃあ、ちょっと着替えてくるから、後をお願いするね」
そう周囲に声をかけ、私はしばし中座したのだった。
日が傾き始め、バーベキューも終盤となり、社長が締めの挨拶のために壇上へと上がる。着替えから戻った私も、以降は特に嫌がらせされることもなく、食材などを片付けていた手を止めてその場に腰を下ろした。
「突然のことだが、皆に。私は今年度をもって退任することにした」
まず社員への感謝を述べた社長だったが、続けて退任を発表する。社長は老齢ながらまだまだ元気なため、このタイミングでの引退を良しとしていなかった社員たちは、驚きのあまりどよめいた。社長はそんな社員たちをなだめるように手をあげた後、優しい笑みを浮かべる。
「驚かせてすまない。だが、目まぐるしく物事が変化するこのご時世、心辺たりで老兵は去った方がいいと決断した」
社長の説明を、社員たちが静まり返って聞く。社長は静まり返った会場をぐるりと見渡し、一つ頷いてから口を開いた。
「では、新年度からの私の後任を紹介する。宮下慎一君」
「はい」
名前を呼ばれた私は、さっと壇上へ上がり、社長の横へ立った。
「宮下君は勤続年数も長く、この会社のいいところも悪いところも全て知り尽くしている。また、社内の誰よりも勉強熱心で知識も豊富なこと。そして何より、その人柄の良さは周知であろう」
社長の言葉に、今まで付き合いのあった後輩や同僚が、同意するように大きく頷いてくれる。
「よって、後任にはこの宮下君がふさわしいと、私は判断した。よろしくな、宮下君」
「はい。心身精誠を尽くして務めます」
差し出されたその手をしっかりと握り、私は心から頷いた。
「宮下君からも、皆に挨拶を」
「では、僭越ながら一言だけ」
スピーチを求められた私は、一旦言葉を切り、集まった社員やその家族たちの姿を見回す。視界の端には、呆気に取られた顔でポカンとしている新井夫妻とその取り巻きがいる。その驚愕ぶりに、私は思わず笑いそうになってしまった。
先の社長交代の件はもちろん上層部役員にはすでに伝えてあったのだが、新井常務だけには秘密にしてくれと、私はお願いしていた。そして、日頃の威圧的な態度が他の役員たちからの反感を買っていた常務は、私の希望通り何も知らされず、この場にいるようだった。
私が彼らの方を一瞥すると、新井夫妻は「ヒッ」と引きつった声をあげて顔を青ざめさせる。だが、私は何事もなかったかのように彼らに向かって笑顔を送ると、ゆっくり口を開いた。
「私が社長へ就任した暁には、社内改革を必ず実行します。学歴差別や、立場を傘に来た高圧的な振る舞いなどは厳しく処分。誰もがのびのびと働ける職場環境を作ることが目標です」
私がそう言った瞬間、新井夫妻はますます身を縮こまらせ、もはやその顔色は青を通り越して白くなっている。だが、彼らを除いた他の社員や家族たちは、私のスピーチに盛大な拍手を送ってくれた。彼らの仕事と生活を守ること、その責任の重さを改めて実感しながら、私はその場で深々と一礼したのだった。
さて、新年度が始まった。私は社長就任スピーチ通り、職務怠慢として新井常務を課長に降格、そして地方の出張所への左遷を決定する。その処分を受けてか、新井夫妻はまたたく間に離婚した。どうやら佐木さんが、左遷された夫にさっさと見切りをつけたようだ。
また、新井元常務は左遷と降格という処分が受け入れられなかったらしく、それから三ヶ月もしないうちに自らの意志で退職し、今は行方知れずとなっているという。
元役員だったこともあり、元の役所から苦情の一つでも来るかと思ったが、そんなことは特になかった。そして佐木さんはといえば、これまでの裕福な暮らしぶりから抜けられず、借金まみれになったまま分不相応な暮らしを続けているとのこと。彼らのその後は、まるで時代や取り巻く環境の変化に対応できなかった者の末路を見ているようで、私はより一層身が引き締まる思いがした。
その他にも前々から気になっていたシステムの効率化などを図った結果、格段に風通しの良くなった会社は業績も上がり、社員のモチベーション上昇にもつながっているようだ。
「宮下さんが社長になってくれて、本当に良かったです。これからも精一杯働かせていただきます」
食堂で昼食を食べていると、その姿を見つけてくれた後輩が駆け寄ってきて、そう言ってくれた。
「そう言ってもらえて嬉しいよ。これからもよろしく頼むけど、勢いだけでやろうとはしないように」
「へへ。肝に命じておきます」
社員が生き生きと働く姿を見守りながら、私はこれからも彼らのため、より良い環境作りを徹底していこうと心に誓った。



