富永部長が修理代を無料にしろと迫ってきた。俺は即座に取引を打ち切る決断をした。あの時はこれで終わりだと思っていた。だが、この選択がまさかここまでの騒動を引き起こすとは、その時はまだ夢にも思っていなかった。
俺は川上悠也。40歳で小さな工場を経営している。ここは元々、父が立ち上げた工場だった。5年前に父は病気で亡くなったが、職人気質で無骨者だった父は、昔から俺に厳しかった。それなのに、どういうわけか従業員たちからは慕われていたのだ。
俺はそれが昔から不思議で仕方なかった。父が死んだ後、古参の森さんが教えてくれた。
「あの人はな、常に悠也君のことを考えていたんだよ。まあ、言い方は厳しかったけどな」
信じられなかったが、よく考えてみると思い当たる節はある。俺のためになることを厳しく注意してくれたり、もっと技術を伸ばそうと叩き込んでくれたりしていた。よく思い出せば、あれは全部俺のためだったのだ。
俺も心の底から父を憎んでいたわけではない。ただ、もっと会話をしたかった。従業員と楽しそうに話す父を見て、どうして俺には話しかけてくれないんだと、嫉妬心を抱いたこともある。
そんな父との最後の絆が、あの医療機器の特注機械だった。父は病床で設計図を描き、それを俺が形にしていった。何度も失敗した。父からも「お前はまだまだだな」と息を引き取る間際まで言われ続け、それでも俺は諦めずに完成させた。そして父は、機械が完成するのを見届けると、すぐに亡くなった。
だからこそ、この機械には俺にしか分からない重さがある。それをこの男、富永部長は「ポンコツ」と吐き捨てた瞬間、俺の中で何かが決定的に変わった。
半年ほど前から状況は変わっていた。取引先の業績が横ばいになり、さらなる増産をするとのことで人事移動が決まった。新しく来た部長が、コスト削減を掲げる富永という50代の男だった。
メンテナンスに行くと、富永はいつも機械の調子が悪いと言ってきた。状況を聞くと、思った通り機械を過剰に動かしていた。
「富永部長、今までの倍も動かすなんて、おかしくなって当たり前です」
俺がそう言うと、富永は鼻で笑いながら返した。
「こっちは増産してるんですよ。これくらいにも耐えられないポンコツなのか」
ポンコツ。その言葉が胸の奥に突き刺さった。この機械は医療機器メーカーからの依頼で、5年かけて開発したものだ。父が病床で描いた設計図…それを俺が形にした。無数の失敗と、父の厳しい言葉の数々。それらを乗り越えて完成させたのだ。
「これは超精密な機械です。過剰に動かしているのに、メンテナンスの頻度が変わらなければ不具合も出ますよ」
俺はごくごく当たり前のことを言った。だが富永はため息をついた。
「じゃあ、メンテナンスの頻度を上げればいいんでしょう。やってもらって当然だよね」
腹が立ったが、俺は感情を抑えて淡々と説明した。
「それですと、メンテナンスの費用は今までの倍になりますが」
すると富永は怒り出した。
「何言ってるんですか。本社の機械が我が社の製造に耐えられないだけのポンコツなんだから、修理代はただでいいですよね。そもそも、もう5年も経ってるんだから、アフターサービスでそれくらいやるでしょう」
「5年使っても使い続けているのには、相当の理由があるからです」
俺は思わず言い返した。父との最後の絆を馬鹿にされたような気がしたのだ。
富永は嘲笑いながら畳みかけた。
「そうですか。無理なら、こっちは業者変更でいいんですよ。そちらも何度も修理に来なくて済む。お互いウインウインでしょ」
俺は確認のため念を押した。
「それは、もう今後一切うちが修理をしなくても良いということでしょうか」
「そうだ」
富永は頷いた。俺は一瞬でいろいろと考えた。だが、困るのはうちじゃない。父の顔が思い浮かんだ。
「じゃあ、修理はやめます」
俺がそう答えると、富永は少し驚いた顔をした。
「お宅みたいな工場が、うちとの取引をやめたらどうなるか分かってるんですか。私にそんな態度を取って、工場が存続できるとでも思ってるのか」
声には隠しきれない焦りがあった。富永は俺が修理を断ると思っていなかったのだ。
俺はその問いを無視して、畳みかけた。
「では、この場で契約を解除するということでよろしいですね」
引くに引けなくなった富永は、「そういうことになるな」と頷いた。
俺はすぐに背を向けた。富永は「夜になったのか。廃業する準備でも始めてくださいね」と言ってきた。
「廃業する代わりに、別の業者にすぐに頼んでメンテナンスした方がいいですよ」
俺はそう言い残した。我ながら、お人好しなことを言ったものだ。
工場に戻って従業員に顛末を話すと、森さんが俺の肩をポンと叩いた。
「悠也君の気持ちも分かるよ。あの機械は親父さんの最後のお仕事だったしな」
他の従業員も俺の判断に納得してくれたようだ。
「でも、メンテナンスに行かなかったら、あの機械は…」
1人の従業員が言った。俺は頷いた。
「別の業者を入れると言っていましたが、おそらく無理でしょうね」
そう言うと、森さんの口元から笑いが漏れた。
「君は本当に親父さんにそっくりだな。あの機械は、他所が触ったら終わりだからな」
そして森さんは、父が昔取引先に馬鹿にされて契約を切られた話をしてくれた。その後、その取引先は機械を動かせなくなり、営業できなくなって平謝りしてきたという。
「初めて聞いた父のエピソードだったが、なぜかすんなり想像できて俺も笑ってしまった。まさか自分が父と同じことをしているなんて、夢にも思わなかったが、父にも俺の判断は正しいと言ってもらえたような気がした」
翌日、俺は作業場で熱中していた。作業服のポケットの中でスマホが震えていたが、手が離せない状態だったので放置していた。ずっと震えているのは分かっていたが、出ることができなかった。
ようやく手が開き、作業場を出てスマホを取り出すと、なんと着信が50件も入っていた。すべて富永からのものだった。
驚いて着信履歴を見ていると、またしてもスマホが震え出した。今度は出た。
「もしもし」
「やっと出た! 君は電話に出るのは常識だろう!」
富永が叫ぶ。
「あの、私どもと御社との契約は昨日で解除という話でしたよね」
「機械が止まった! このままでは我が社の損失額が大変なことになる!」
富永は早口でまくし立てた。
「あの後、別の業者に頼んだんですよね」
「頼んだ。頼んで、このざまだ。本当にあいつらは使えん。君ならできるんだろう。早く来てくれ」
状況から察するに、メンテナンス不足で機械の動きが止まり、すぐに別の業者を呼びつけたのだろう。だが、うちの機械は特殊で、そこらの業者には対応できなかったのだ。
「申し訳ありませんが、今日お伺いするのは難しいです。行けるとしても、明日以降ですね。もちろん、メンテナンスの料金に出張費、技術費も込みになりますので、相応の金額になりますが」
俺が淡々と答えると、富永は取り乱し始めた。
「何を言ってるんだ! 私が頼んでいるんだぞ!」
「ええ、そうですね。我々の機械も技術も馬鹿にしてきた上に、契約まで解除したあなたに、何の義理もありません。そもそも、契約を解除した方がお互いのためだと言ったのはあなたです。私もそこには同意しました」
電話の向こうで富永は青ざめているだろう。
「明日までに納品しないといけない分がまだ完成していないんだ。遅延損害金も発生する。今すぐに動かしてほしい」
富永は懇願した。だが、富永の会社の負債が跳ね上がろうと、俺には関係ない。
「そうですか。大変ですね。ただ、何度言われても、私どもがお伺いするには明日以降となります」
今度は富永がすり寄ってきた。
「私はようやく、この部長というポジションに上がれたんだ。家では妻と娘から邪魔者扱いされていてな。部長になったことで、なんとか家族からも認められるようになったんだ。だから、ここで失敗はできないんだ。もし納期が遅れるようなことになれば、私に責任が…家族からも何と言われるか」
家族に認められたいという気持ちは、誰しも持っているだろう。だが、それとこれとは別の話だ。これが本当のことなのか、俺に訴えるだけの作り話なのかも分からない。だが、これは富永がうちにしてきた非礼の結果であり、完全に富永の自業自得なのだ。
「そうですか。大変ですね」
俺は同じ言葉を繰り返した。すると、富永のすする泣く声が聞こえてきた。今までの態度から考えると、同情を買うための演技のようにも思えた。
「うちは、費用を一切払わないと言ってくる取引先とはお付き合いしたくありません。どうしてもというのなら、明日になります。ただ、通常のメンテナンスだけしかできないので、御社の過失でそれ以上の修理となりますと、かなりの額になりますね」
俺がそう話すと、富永のすすり泣く声が止んだ。やはり演技だったようだ。
そして今度は、大きな声で怒鳴られた。
「使えねえ奴だな。もういい!」
一方的に電話を切られた。使えない奴に「使えない」と言われてしまった。まあ、いいか。俺は別の取引先に向かう準備を始めた。
その翌日、朝から工場の入り口に1台の車が入ってきた。来客の予定がなかったので、従業員もざわつき始める。降りてきたのは、見知らぬ年配の男性と富永だった。
俺が出ていくと、年配の男性が口を開いた。
「大変申し訳ありません」
どうやら社長のようだ。富永は不機嫌そうな顔でそっぽを向いている。
社長の話によると、富永から俺たちが一方的にメンテナンスの契約を解除したと報告を受けていたらしい。だが、自分の失態を隠すためにそう報告してきたことが、周りの従業員たちにより判明したという。
「現在弊社の作業は全て止まり、多額の損害が発生しています。どうにかあの機械を動かしていただきたい」
社長は頭を下げた。ただ頭を下げる社長の横で、富永は相変わらず不機嫌そうな態度を隠そうともしていない。今まで付き合ってきた会社だし、情がないわけではなかった。だが、富永のその様子を見て、俺の中にあった迷いは消えた。
「申し訳ありませんが、修理はお引き受けできません」
その言葉に、社長は絶望したように顔を上げた。すると富永は、何を思ったのか勝ち誇った。
「ほら見ろ。やっぱり使えない奴だ」
俺の実力がないと言いたいのだろう。あの機械は、父が病床で書いた設計図をもとに、俺が5年かけて完成させた完全オーダーメイドだ。内部の調整機構には、市販の部品を一切使っていない。どの業者が見ても、図面なしでは手の出しようがない。
逆に言えば、図面を持つ俺以外が触れば、触れば触るほど壊していくだけだ。それがあの機械の唯一無二たる理由だった。
俺は静かに、しかしはっきりと告げた。
「あの機械は、もう直せません。以前からお伝えしていましたが、まず無理な増産が故障の原因です。それに加え、電話での状況から察するに、知識のない別業者が内部をいじり回した結果、再起不能になっているでしょう。直すには、1から作り直すのと同等の時間と費用がかかります」
富永の顔から血の気が引いていく。社長は震える声で「そんな…」と絶句した。
「富永部長は、業者を変更すればウインウインだとおっしゃいましたよね。うちはその言葉通り、すでに別のメーカーさんと専属に近い契約を結びました。あの機械は、亡き父が病床で設計図を描き、私が完成させたものです」
そう言うと、近くにいた森さんが頷いた。
「亡き悠也社長の最後の絆。俺たち従業員も特別な思いであの機械をメンテナンスしてたんだよ。あんたたちはそれを踏みにじった」
社長は涙ぐみながら、声を震わせた。
「御社の先代も職人だったのですね。そうでしたか」
俺は続けた。
「父が病床で書いた設計図は、技術を尊重してくれる人のためにあります。ただの使い捨ての道具だと思っている方に、これ以上貸せる技術はありません」
社長は俯いた。一瞬の静寂に包まれる。それを破ったのは、富永の言葉だった。
「そんな勝手なことが許されるか。訴えてやるぞ!」
うちの従業員が一気に騒めき立つ。ここまで来ても、何も分からないのか。こいつは。俺は心底呆れてしまった。
「お言葉ですが…」
俺が言いかけたその時だった。
「黙れ!」
鋭い声が響いた。社長の声だった。わめき散らす富永に向かって、社長は一喝した。
「お前の虚偽報告と傲慢な態度が、我が社を破滅させたんだ!」
そして、俺に向き直った。
「川上社長、全てはこちらの不手際のせいです。機械の撤去費用と、今までの見舞い分は即座に全額を支払います。これ以上のご迷惑はおかけしません。本当に申し訳ございませんでした」
再び頭を下げる社長。富永は青ざめながらも、反論した。
「社長、元々故障するような機械を契約させたのは、向こうの落ち度ですよ!」
俺はいい加減にしてほしかった。
「いい加減にしてください。うちは稼働の上限を契約書にも書いています。以前からのお付き合いですし、目をつぶって追加料金もなくメンテナンスしていました。それについては何度も忠告したはずです。契約書やメールの履歴、全て証拠はありますよ。故障するような機械なんて作っていない。うちに落ち度があるとしたら、あなたのような担当者になった時、すぐに契約を打ち切らなかったことですね」
俺が言い放つと、富永は唇を噛み、その場で崩れ落ちた。
「本当に申し訳ありませんでした」
社長はもう一度深く頭を下げ、富永を無理やり車に押し込んで去っていった。車が見えなくなった頃、森さんが手を叩き始めた。
「よく言った!」
すると従業員たちも、俺に向かって拍手を始めた。俺は照れながら答えた。
「父と皆さんの思いは、守れたと思います」
その後、富永は解雇され、多額の賠償責任を問われたという話を社長から聞いた。社長は言葉通り見舞い分を振り込んでくれ、新型の機械を試験的に導入してもらうことになった。社内の人員精査が行われたらしく、富永のような態度を取る人は1人もいなくなっているという。
富永は家族と離れ、転職活動をしているそうだ。まあ、俺にはもう関係のないことだ。
うちの工場では、車の部品メーカーとの契約が大成功。これからうちの機械で作られた部品が街中を走ると思うと、なんだかワクワクしてくる。
うちは技術を安売りしない。ただし、必ずそれに見合った仕事をする。その信念は、絶対に曲げることはない。俺は父や従業員の思いを胸に、これからも走り続けたいと思う。



