会場の笑い声が、一斉に止んだ。グランドピアノの前で、5年間鍵盤を避けてきたはずの指が、まるで意志を持つかのように最初の和音を叩いた。営業推進部長の肩書きで人前で晒された、一人の派遣社員の指先が、その会場の空気をひっくり返す音を紡ぎ始めた。
時間は同じ日の朝に遡る。午前7時50分、まだ誰もいないオフィスで、カナは毎朝同じ手順でゴミ箱を替え、コピー機の電源を入れ、ブラインドの位置を揃えた。音を出せないから、指先だけで小さくピアノの鍵盤を叩く仕草をした。5年前まで、当たり前のように触れていたものだ。
窓際の派遣用の机の上には、名札とチキス、そしてメモ帳だけが置かれていた。メモ帳には、亡くなった父親が生前に書いた付箋が貼ってある。「音は嘘をつかない」。その横に、クリップで派遣契約の更新通知が挟まれていた。履歴書のコピーには「趣味:ピアノ(現在休止中)」と書いたはずだったが、薄いコピーで「休止中」の文字は潰れ、ただ「ピアノ」とだけ読めた。カナはため息をつき、そのコピーを机の端に戻した。
中学3年の冬、父が脳梗塞で倒れた。それまで家計を支えていた父を失い、母は泣かないように声を殺して笑いながら働き続けた。高校の入学金を封筒から出し、カナはピアノ教室に通うのをやめた。指が震えて、鍵盤を正確に押せなくなった。先生は何も言わずに肩を抱き、譜面だけを鞄に押し込んだ。あれから5年、その日焼けした譜面は棚の奥に眠っている。
父を亡くし、その後、過労で母も病に倒れた。母が入院してから、働きながら妹の面倒を見る日々が始まった。進路説明会の帰り道、妹のミオがカナの袖を掴んで言った。
「お姉ちゃん、中学校出たら私も働く。」
「そんな苦労はさせない。私がなんとかする。」
カナは毎朝6時30分に起き、起きて、動くことだけを繰り返した。そして母も亡くなり、今、食卓を囲むのはカナとミオの2人だけだ。朝8時半、エレベーターで唯一名前を呼んでくれる新入社員の伊藤が声をかける。
「松本さん、おはようございます。今日のレセプション、ここ抑えておきますね。」
「ありがとうございます。」
総務の先輩は消耗品の発注を指示しながら、期限だけを厳しく言った。
「派遣さんだからってサボらないでよ。」
「承知しました。」
カナは発注番号を控え、書類の角を揃えて提出した。そこへ、営業推進部長の片桐が部下を連れて通りかかり、カナの机の前で足を止めた。
「おい、派遣。爪短くしろよ。百貨店の担当が見に来るんだ。」
「申し訳ございません。契約上、業務に支障がなければ…」
「見た目が支障なんだよ。ブランドは雰囲気で売れるんだ。」
片桐は名札を一瞥し、鼻で笑って去っていった。期待されないのは楽だった。カナは左手の親指で手のひらを撫でた。誰にも見えない癖だった。
昼休み、レセプション会場となる丸ノ内のホテル最上階へ搬入確認に向かった。フロアに鎮座するグランドピアノの黒い光沢を見て、カナの足が止まった。
「5年触ってない。触ったら戻れなくなる。」
カナはピアノの足を避けるように、花の数を数えて確認を済ませた。ステージ袖には譜面台が置かれていたが、そこに乗るはずだった楽譜に名前は書かれていなかった。触らない。触ったら、きっと戻れなくなる。
夕方、本社に戻ると、伊藤が小さな紙袋を差し出した。
「松本さん、これ…。いえ、いつも黙って動いてるの見てました。今日、頑張ってください。」
「ありがとうございます。」
カナは紙袋を両手で受け取り、指先が少し震えた。誰かに見られていたという事実が、胸の奥に温かく残った。
午後6時半、レセプションが始まった。受付でカナは次々と来場者に名札を渡す。片桐は笑顔を保ったまま、取り引き先の重役に名刺を配っていた。予定では、英国からのゲストが着席した後、同行のピアニストが演奏を披露する段取りだった。しかし、フライトの遅延で、招へい予定だった世界的ピアニストが到着しなかった。
「正体のピアニストは、飛行機の遅延のため本日の演奏には間に合いませんでした。急遽、社内で代役を…。経営企画の渡辺部リサさんにお願いいたします。」
受付のカナはその名を聞き、息を飲んだ。渡辺部は緊張した面持ちで舞台に上がり、ピアノの前に座った。最初の数小節は丁寧に流れたが、中盤でリズムが崩れ、指が止まった。再び弾き始めるも、和音が繋がらず、会場からざわめきが消えた。渡辺部は立ち上がり、深く頭を下げてステージを降りた。拍手は怒らなかった。
「お前のせいで、場が死んだぞ。」
そう言って、片桐は渡辺部の肩を掴んだ。彼女は涙を浮かべ、声をかすれさせた。
「すみません…。」
片桐はマイクを握り、笑顔を張り付けて再び客席に問いかけた。
「プニングでしたね。ほかに、ピアノのできる方、社員でいらっしゃいますか?」
社員席は静まり返り、誰も手を上げなかった。片桐は会場の隅を見渡し、受付の黒いスカートに目を止めた。
「ああ、そうだ。派遣の松本さん、履歴書に『趣味:ピアノ』って書いてあったよな。おい、来い。何でもいいから弾いて、笑いでも取って場をつなげ。」
「え、私は…」
「謙遜するな。とにかく来い。後の責任は全部お前だ。」
カナは腕を掴まれ、強引にステージへ上げられ、ピアノの椅子に座らされた。ルイが立ち上がりかけたが、先輩社員がその袖を引いた。
「伊藤、黙ってろ。侵入のくせにしゃしゃるな。」
片桐が名札を読み上げると、会場から「え、マジ?」というざわめきが広がった。笑い声も聞こえる。
「さあ、引け。みんなが笑ってくれたら、それでもいい。失敗したら、全部お前の責任だ。」
カナは鍵盤を見つめながら、ルイの方を一瞬だけ見て、小さく首を振った。言い返さないで。私が、なんとかするから。
白と黒の並びが視界いっぱいに広がった。5年前の病室の明かりが、頭に浮かぶ。母が酸素マスクの下で目を強く見開き、カナの手の甲に力を込めたあの日。
「行って、本戦、勝って帰ってきて。お母さんを安心させてくれるなら、それでいい。」
「すぐ戻るから。」
コンクールの本戦で最後の音を弾き終え、審査員が優勝を告げた瞬間、ロビーで携帯が震えた。病院からの電話だった。母は、数分前に息を引き取っていた。
「嘘。」
あの時、行かなきゃ、ずっと母のそばにいられたのに。ピアノなんて、大嫌いだ。カナは拳を口に押し当て、後悔に押しつぶされそうになった。日々の暮らしとピアノを天秤にかけ、自分はピアノを選び、母の死に目に立ち会えなかった。カナは自宅でピアノの蓋を下ろし、触れる理由を自分から奪った。
「私が絶対、ミオのこと守るから。」
そして今、目の前の鍵盤は冷たく、5年という月日の重さを感じさせた。しかし、そっと触れると、指はまだ形を覚えていた。嘘だった。本当は、鍵盤が恋しかった。お母さん、聞いて。カナの目から一筋の涙が落ち、黒いピアノの蓋に当たった。カナは涙を拭わず、鍵盤を見据えた。ルイが心配そうな目を向けていたが、カナはそれに応えず、鍵盤へ向き直った。
「お父さん、お母さん、ミオ、ごめんね。もう1度だけ。」
カナは一気に鍵盤を叩き、低音の和音が3つ、重なって会場に響き渡った。嘲笑は途切れ、スマホを構えていた人の手が止まった。カナは息を吸い、先ほどの和音に続けて指を走らせた。革命の別名を持つあの曲。左手が低い倉を引き、右手が戦闘的な旋律を重ねていく。遅れて会場に到着した外国人男性が、客席の橋で息を飲み、カナから目を離せなくなった。
「な、なんだあの音…。」
「本物だ…。」
片桐の笑顔が消え、失敗した渡辺部はステージ脇で息を飲んだ。カナは目を閉じ、5年間途切れていた手の動きに身を任せた。爪の先が鍵盤の面をかすめても、音は正確に立ち上がった。最後の和音が鳴り終わると、数秒間、会場は時が止まったかのように静まり返った。誰も咳払いせず、グラスを置く音すらしなかった。カナがゆっくり目を開け、手を鍵盤から離すと、客席の誰かが立ち上がった。それが合図となり、スタンディングオベーションへと変わっていった。
「素晴らしい!」
先ほど到着した外国人男性が人込みをかき分け、カナの元へ歩み寄った。彼の名刺には「英国オーケストラツアーマネージャー、オリバー・グレン」とあった。
「あなたは、もしかして松本カナさんですか? 私は5年前、あの日本コンテストのジュニア部門本戦で、あなたの演奏を聞きました。忘れもしない。私は審査補佐の1人でした。その本戦で優勝した少女が、あなたでしたね。」
会場が再び大きなざわめきに包まれた。
「お父様が亡くなられていたこと、後から伺いました。表彰に呼ばれる前にお母様が急変し、トロフィーを手にする前にお母様も失われたと、記録にありました。」
「はい…。」
「私はあなたを追っていました。ただ、あれ以来、あなたは姿を現しませんでした。理由は聞きません。それでも、やっぱり指は正直でした。今も、覚えていましたね。」
拍手が再び起こり、いくつものスマートフォンが伏せられた。
「ちょっと待てよ。」片桐が慌てて口を挟んだ。「履歴じゃ、趣味って書いてあったじゃねえか。」
「『趣味』と書いたのは私の説明不足でした。欄には『ピアノ(現在休止中)』と私は記入しました。提出のコピーが薄く、『休止中』の文字が潰れて読めなかっただけだと思います。」
「…とにかく、場はつないだ。それは認める。だが、誤解を招いたのはコピーだ。派遣会社のミスで、俺に今回の件の責任はない。」
その言い分に、客席の重役が眉をひそめた。すると、会場のサイドから、落ち着いた声が響いた。
「片桐部長。」
代表取締役会長の日夏が、ゆっくりと前に出た。
「今の、部の侮辱と強制について、説明してください。」
「会長、場を盛り上げるためで…」
「『盛り上げる』? 私は、あなたのピアノの腕を出ました。ピアノが立派かどうかは、服の派手さじゃ決まらない。大切なのは、真剣に弾くことと、その音に責任を持てるかよ。あなたは、偏見で松本さんを標的にしていたと。今の時点で確定ね。」
「いや、でも…」
「見た目で人を切るのは、勝者の品格の自殺よ。取り引き先の前で、派遣を盾にした。責任の逃げ道は、もうない。」日夏は片桐の持っていたマイクを取り上げた。「松本さん、あなたの演奏、ありがとう。」
「ありがとうございます。」カナの声は震えていたが、言葉は途切れなかった。「音は嘘をつかない。そして、人がつくのは、見た目の嘘だけです。」
「その通りだ。」日夏は頷き、再び片桐に向き直った。「片桐部長、あなたはコンプライアンス委員会の審査対象です。海外顧客への謝罪同行と、コンプライアンス研修を3ヶ月。移動先は内部通告で。異動先の詳細は、明日の取締役会で決定しなさい。」
「会長、それは…殺すようなものです。」
「殺してない。仕事の序列を戻しただけ。」
「会長、俺は売上のために…」
「売上は、人を踏み台にして守れない。評判を守るのは、隠蔽じゃなく、誠実さよ。あなたの配置違えは、今夜、内部通告する。」
その場の空気が固まった。肩切りは口を開け、何か言おうとして、言葉にならなかった。隣にいた社員が一歩横にずれ、片桐の開いた手だけが震えていた。屈辱と敗北に、彼の顔は青ざめ、膝が震え始めた。
やがて、片桐はカナの前に歩み寄り、深く頭を下げた。
「…すみませんでした。」
「顔を上げてください。」
「いや、お前さんと、派遣の担当者にも…すみません。松本さんが1番、ひどかったです。」
ルイが震える声で言い切った。カナはルイの横顔を見て、小さく頷いた。
「松本さん。正社員として、文化事業の立ち上げをしたい。私はあなたの音を、会社の力にしたい。答えは急がなくていい。」
カナは涙を拭わずに、深く一礼した。
「検討させてください。」
レセプションが終わり、カナは会場の椅子を片付け始めた。ルイが手伝いに来た。
「松本さん、手伝います。」
「伊藤さん、今日はありがとう。」
「松本さんの、トレーの隙間、いつも同じでした。癖ですか?」
「癖です。」
控え室のドアから顔を出した日夏が、2人を見て微笑んだ。
「感覚が揃うのは、長い練習の名残りね。」
カナは鞄の雪の飾りに触れた。ミオが中学生の時に作ってくれたものだ。指先で冷たさを確かめながら、「音は嘘をつかない」という父の言葉を思い出していた。
翌週、取締役会で片桐の処分が決定した。異動先は地方百貨店の窓口担当。彼の名刺は肩書きが細く削られ、窓口で差し出すたびに、相手の指が1拍止まった。コンプラ研修は3回目でようやく合格し、抗議室を出た風はアスファルトの匂いだけがした。
カナは派遣から正社員へと移行し、文化事業準備室にデスクをもらった。初日、机に譜面のコピーを置き、鉛筆の濃さだけ注意した。
「音は怖くない。怖いのは、言い訳だけよ。」
休みの朝、カナはミオと小さな墓石の前に花を並べ、水をそっとかけた。
「お父さん、お母さん、お姉ちゃんが昨日、また引いたよって。」
「うん、ちゃんと伝えた。」
風が髪を揺らし、カナの雪のチャームだけが細く光った。
渡辺部は別部署で契約書のチェックに戻り、カナに会うと深く頭を下げた。
「あの夜は、助けてくれてありがとうございました。」
「私は、自分のためです。」
2人は短く頷き、エレベーターの前で別れた。丸の内の夜風は冷たかったが、カナの肩の力は抜けていた。肩書きじゃなく、どう弾いたかだ。
翌月、小さなホールで子供向けのピアノ体験教室が始まった。カナは鍵盤の数字を黒板に書き、子供たちに笑いかけた。
「お姉ちゃん、早い!」
「音を合わせることを、覚えようね。」
後ろの席で、オリバーが腕を組み、小さく頷いていた。
レッスンを終え、ホールを出たカナは空を見上げた。夜のざわめきの中で、最後の和音だけを思い返す。次は逃げない。父と母の分も、音に責任を持つ。ミオが隣を歩き、2人の影が街灯の下で同じ長さになった。夜の街は明るく、2人は並んで、一定の幅で人並みに紛れていった。



