大学を卒業して田舎から都会へ出てきた俺は、会社の近くのアパートで一人暮らしをしていた。しかし、ある日、水道管が破裂して部屋が水浸しになった。修理までの数週間を過ごすため、大家さんが部屋を手配してくれると言うが、間に合わない。今すぐ泊まれるホテルを探す俺は、そこで思いがけない人と再会した。
彼女は俺にとっての義姉で、今は未亡人だった。俺には双子の兄がいたが、五年前に病気で亡くなっていた。義姉に会うのも五年ぶりだが、その美しさは前にも増しているように見えた。
義姉はホテルで働いていて、近くのホテルに全て連絡してくれたが、どこも満室だった。仕方なくネットカフェでもいいかと思い始めたが、義姉が自宅に招待してくれた。俺は断ったが、義姉は家が広いからと言い、兄との思い出がある家に入るのは気が引けたが、どこにも泊まるところがない。俺は思い切って義姉にお世話になることにした。
すると、ある日、義姉から問いかけられる。
「今晩、いいかな?」
義姉の提案に困惑する俺。
俺の名前は伊藤明。28歳で大学を卒業し、サラリーマンをしている。小さい頃から田舎暮らしで都会に憧れ、大学を卒業してから一人暮らしを満喫している。職場に近いアパートで周りには店もあり、家賃も安い。
古いアパートで部屋も狭いが、俺は結構気に入っている。今年の冬は寒波が激しく、都会の空気もすごく冷たい。例年にない積雪で、東北にでも住んでいるかのように町が混乱している。九州出身の俺にとっては滅多に見ない雪に、最初は感動した。しかし、降り続く雪の影響で各地の被害は大きくなっている。そして、俺もまさかその被害者になるとは思ってもいなかった。
「あれ? こんばんは。大家さん、こんな時間にどうしたんですか?」
「ああ、伊藤君、携帯に電話していたんだよ。」
「え? ああ、すいません。マナーモードのままで。」
「大変なんだよ。この雪で水道管が破裂してしまって、部屋に被害が出ているんだ。」
「え、アパートを全部ですか?」
「それが、部屋によっても違うみたいなんだ。伊藤君の部屋、確認してくれるか?」
「はい、分かりました。」
俺が帰宅すると、アパートの住人が外に出て大家さんと話し合っている。俺は慌てて部屋に登り、玄関を開けると、中から大量の水が溢れてきた。
「うわっ!」
「おい、大丈夫か? 伊藤君。」
俺は家から溢れる水にびっくりして、思わず足を滑らせて転んでしまった。
「ああ、すみません。びっくりしてしまって。」
「しかし、君の部屋は他の部屋より被害がひどいな。ちょっと待ってて。」
大家さんはそう言うと、急いでどこかに電話している。俺が部屋の中をもう一度見ると、全部の部屋が水浸しになっていた。これでは中に入るどころか、着替えすらできない。困り果てた俺に、電話を終えた大家さんがシャツとズボンを貸してきてくれた。
「これ、とりあえず着ててくれないかな? 今、ホテルを探しているから。」
「なんかすいません。ありがとうございます。」
管理人室に避難した俺は、とりあえず借りた服に着替え、大家さんの返事を待った。どうやら屋上に近い部屋が被害が大きいらしく、管理人室は無事だった。でも、管理人室は普段は昼間しか使わないので、人がギリギリ入るくらいのスペースだ。ここで夜を過ごすことはとてもできないほど小さかった。
「伊藤君、申し訳ない。ホテルが取れないんだ。」
「え、本当ですか? 困りましたね。」
「ちょっと、俺も近いところに聞いてみるよ。」
「この雪で滞在が増えているようだ。行っても空いていないと思うが、もしかしたら予備があるかもしれないし、それにないならネットカフェに行きますよ。」
「本当に申し訳ない。修理が済んだらまた連絡するから。」
「分かりました。では連絡待っています。」
俺はそう言って大家さんに挨拶すると、アパートを出た。今はまだ19時くらいだから、探しているうちにその辺に泊まるところくらいあるだろう。そんな楽観的な気持ちで雪の中を歩き始めた。
商店街を抜けると駅があるが、駅前にはホテルが並んでいる。ロビーで待っていたら、もしかしたらキャンセルが入るかもしれない。そう思った俺は、一番近いホテルへ入り、フロントを尋ねた。
「すいません。今夜一部屋空いていませんか?」
「申し訳ございません。今夜は満室でございます。」
「そうですか。予備とか、明日の部屋はありませんか?」
「申し訳ありません。滞在予定が伸びているお客様もいらっしゃって。」
「そうですか。すいませんでした。ありがとうございます。」
やはり大家さんが言っていた通り、雪の影響で滞在が増え、空がないらしい。楽観的な考えだったとはいえ、これは他も見込みがないのかと思ってしまう。しかし、夜が更ける前に探さないと、今夜寝るところもない。急いで他のホテルへ行こうとした、その時。
「あれ? あら、君じゃない?」
俺は一人の美人なホテルスタッフに声をかけられる。
「あ、ももこさん。ももこさんじゃないですか。お久しぶりです。」
彼女はももこさんと言って、俺の義姉だ。俺には双子の兄がいて、ももこさんはその奥さんだ。しかし、五年前に病気で兄は亡くなり、葬儀の時以来の再会だった。
「こんなところで、一体どうしたの?」
「実は今夜泊まるホテルを探しているんですが、満室みたいで。」
「雪がひどくて、このところずっとそうなの? ちょっと待っていて。」
ももこさんは俺をロビーに案内し、それからフロントへ行ってパソコン画面を見ている。どうやらももこさんは他のホテルを探してくれているようだ。
兄と暮らしていた頃は、年に二度実家に帰って来る時しか話したことはない。実家は狭かったので食事も外だったし、泊まるのもホテルだから、俺はほとんどももこさんとは話すこともなかった。兄は結婚して五年目の時、急に心不全で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。通夜と葬式の時は、ももこさんはずっと泣いていて、話しかけることもできなかった。だから、俺はあまりももこさんとは仲良くなかったんだ。
「あら、君、ごめんなさい。近くのホテルと、郊外まで調べたけど満室なの。」
「そうですか。大家さんに聞いていたので、もしかしたらって勝手に思っただけですから。」
「お部屋、入れないんでしょ? どうするの?」
「ネットカフェにでも泊まりますよ。それでホテルが空いたら移動します。」
「どれくらいの期間なの?」
「部屋の中は水浸しだし、正直どれくらいかかるか分からないんです。」
「着替えや荷物もないんじゃないの?」
そういえば、俺はさっき借りたスウェットで、荷物すら持たずにホテルを探している。今考えれば、ホテルに来るお客さんとは思えない恥ずかしい格好だ。慌てていたが、急に恥ずかしくなってきた。
「まあ、男ですし、なんとかなりますよ。」
時刻はもう21時近くになっている。もう今夜はネットカフェしかないと確信した。ももこさんと話していると、別のスタッフにも探してもらっていたようで、スタッフが来た。ももこさんは何やらスタッフと話しているが、待っていても部屋はないだろう。俺はホテルから出てネットカフェを探そうと思っていた。
「あ、申し訳ないけど、ネットカフェもいっぱいみたい。」
「え? ネットカフェもですか? 困ったな。」
「そうだ。あ、君、うちに泊まっていって。それがいいわ。」
「え、でも、ももこさんは一人暮らしでしょ。それに、俺、男だし。」
「何言っているの? 今でも義姉なんだから、頼ってよ。」
俺は色々考えたが、このままここにいても迷惑をかけてしまう。俺は思い切ってももこさんの家に泊めてもらうことにした。ももこさんは仕事がもう終わると言っていたので、俺はそのままロビーで待たせてもらった。ロビーには喫茶ルームもあり、温かい飲み物もあったので、非常に助かった。
外はまだ深雪が降り、辺りは一面真っ白な世界だ。明日も降り続けると予報も出ているし、とりあえず泊まるところができてほっとした。
仕事が終わったももこさんに連れられ、俺は家に招待された。兄と一緒に過ごしていた家なので、兄の服がまだ残っていて貸してくれた。兄は俺とほぼ体形が変わらなかったので、洋服もぴったりだ。こんなに立派な家を建てて、すぐに亡くなってしまった兄は、さぞ悔しかっただろうと思った。兄の家は二階建てで部屋もいっぱいある。将来、子供の部屋にしようと思っていたのだろう。使っていない部屋が、静かに寂しそうに佇んでいた。
「本当は、家を売ろうと思っていたのよ。一人では大きすぎるから。」
「これからも、ここに住むの?」
「あの人との思い出が他になくて、やっぱり離れられないんだよね。」
「まだあれから五年だもんね。忘れられないよね。」
「なんだか、ここにいると、帰ってくるような気がしているのよね。」
「そうなんだね。」
俺はそれ以上、何も語りかけてやれなかった。
「しかし、あの人と瓜二つね。双子だから当たり前だけど、体形も同じだからね。」
「まさか兄さんの服を借りるとは思っていなかったよ。」
「なんだか懐かしいわ。あの人が帰ってきたみたいだもの。」
「そうか。性格は全然違うけどね。」
「さ、何か作るわね。お腹空いたでしょう。」
「いやいや、お世話になるんだ。俺が作るよ。料理、得意なんだ。」
俺はお世話になるお返しに、料理を作ることにした。昔から俺は料理が好きで、休日にいろんなものを作っている。趣味程度だが、実家にいた頃は両親にも振る舞い、結構好評だった。冷蔵庫のもので作ったから簡単なものだったけど、味には自信がある。手早く作り、食卓へと運んだ。
「え、もうできちゃったの? すごいわね。冷蔵庫にはあまり食材がなかったのに。」
「昔から料理は得意なんだよ。さ、食べようよ。」
ももこさんは一口食べると、笑顔を浮かべ、幸せそうな顔になった。
「すっごく美味しいわ。あ、君、プロ並みよ。」
「え、そこまで言われると照れるな。」
「なんか不思議ね。あの人は料理が全くできなかったからね。」
「同じように見えるけど、俺と兄さんは全然違うでしょ。」
ずっと美味しいと言いながら食べてくれるももこさん。俺は一人暮らしだから、誰かと食事をするとこんなに嬉しい気持ちになるんだと思った。これ以来、一人暮らしを満喫していたのだけど、一人で本当は寂しかったのかもしれない。料理もなんだかいつもより美味しくできたような気がしていた。
食事を終え、風呂に入り、リビングでもう少し飲もうということになり、晩酌をしていた。ももこさんは、兄と結婚していた時の印象とは全く違い、明るくてサバサバした性格。俺は初めて一緒に過ごす夜なのに、初めてではない感覚があった。懐かしいような安心感もあり、会話も弾んだ。
「それじゃあ、大学はスポーツばかりしていたの?」
「そうなんだ。それで勉強はあまりできなくて、就職は苦労したよ。」
「ちょうど私たちの時は就職氷河期だったものね。私はラッキーだったのよ。」
「ももこさんは都会生まれなんだよね。」
「そうよ。でも実家もないし、今はここしかないわね。」
「そうだったんだ。でも、こんなに家が近いなら、たまに遊びに来ようかな。」
「是非そうしてよ。一人だし、お酒の相手が欲しかったの。」
「でも、ホテルって忙しいでしょ? 夜勤とかあるの?」
「私の部署はちょっと他と違うからね。時と場合によるわね。」
「じゃあ、晩酌の相手になるか。夜は暇だしね。」
「助かるわ。ずっと欲しいくらいよ。」
「だめだよ。襲っちゃうよ。俺は男なんだからね。」
「本当に、あの人とは別人だわ。」
「兄さんは俺と違って奥手な人だったもんな。」
「そう。プロポーズも三ヶ月かかったのよ。」
「え、三ヶ月もかかったの? 大変だなあ。」
「私も本当にプロポーズしてくれるのか、悩んだもの。」
俺とももこさんは話が絶えなかった。兄さんの話ばかりだけど、きっとももこさんも聞いて欲しかったんじゃないかと思った。一人でこんなに広い家で、寂しい思いをしてきたんだろう。考えただけで、男の俺でも耐えられないのではないかと思ってしまう。ももこさんは強くて、逞しくて、なんだか温かい人だなと俺は思った。
翌朝起きると、日曜なのにももこさんは早起きして朝食の準備をしていた。
「ももこさん、今日休みでしょ? ゆっくりしていてよかったのに。」
「いいのよ。朝ご飯、食べてね。簡単なものしかないけど。」
「ありがとう。ホテルが空いたらすぐ出るから、ごめんね。」
「その話なんだけど、さっき職場に電話したら、やっぱり空がないのよ。」
「そうなんだ。やっぱりこの雪が原因なのか。」
外は真っ白で、一面雪に覆われている。気温も下がっているので、まだ降り続くようだ。
「私は構わないから、いつまでも部屋使ってね。」
「一泊のつもりだったのに、申し訳ない。」
「何遠慮しているのよ。弟でしょ。」
昨夜から思っていたが、ももこさんはものすごい美人だ。未亡人とはいえ、この先誰かと一緒になることはあるだろう。五年過ぎた今でも、兄をこんなに愛しているから、誰も好きにならないのだろうか。なんだか俺はももこさんの将来が心配になってきた。自分も独身なんだが、すごく放っては置けない人のような気がしていたんだ。
昼から少し晴れ間が見え、俺はももこさんと買い物に出かけることにした。正直、部屋から何も出せなかったから、生活するにも何もできない。とりあえず身の回りの物を買いに、駅前へ出ることにした。日曜なのに人が少ない気がする。普段は買い物をする家族連れの多いパートは、なんだか閑散としていた。人が少なくて買い物はしやすかったが、少し寂しさを感じた。
俺は身の回りのものを適当に買い、ももこさんが待っている場所へ向かった。
「あ、終わった。」
「私もそろそろ終わるわよ。」
ももこさんは俺とは別行動で雑貨品を見ていた。昔から雑貨が好きで、デパートに行くたびにいろんなものを買っているようだ。ももこさんの家のリビングにも、たくさんの雑貨が飾ってある。集めることで安心感があるというももこさんは、やっぱり寂しいんだろうなと思ってしまう。
俺たちは雑貨コーナーを後にし、今夜の食材を買うため食料品売り場に来た。普段デパートに来ないので、食料品も新鮮に見える。あちこちのコーナーにご当地名物や珍しい食材など、たくさん店頭が並んでいる。新しい食材を見ると、なんだか料理をしたくなる衝動に駆られてしまう。きっとももこさんは雑貨を集めることでストレスを発散し、俺は料理なんだろうと思った。
家に帰り、ももこさんは買ってきた雑貨を広げ、幸せそうな顔をしている。俺は食材をちょうどいい大きさに切り、ビニールで小分けをしている。これからももこさんとの生活が始まるんだ。俺は毎日料理でお礼をしようと考えた。
俺は朝が早くて帰りも早い。ももこさんは朝が遅く、帰りも遅かった。だから朝は一緒に食べられないけど、夜はももこさんを待って一緒に食事をした。会社から帰っても、ももこさんが帰る時間までゆっくりあるから、俺は料理を満喫した。なんだか料理をしていると疲れが飛ぶし、ももこさんを待ちながら作ると気分が晴れた。誰かと一緒に生活をするっていうのも、なかなかいいな。そう思った。
それから一ヶ月が経つが、まだアパートの修繕は終わっていない。俺はだんだんももこさんとの生活が当たり前のように思えて、まだ修繕が終わらないよう願っていた。しかし、毎日一緒にいても、全く俺を男として意識しないももこさんに、兄には勝てないと思った。
俺は少しずつももこさんに惹かれているのかもしれない。最近、兄の話を聞くとなんだか焼きもちを焼いてしまう。五年経っても兄を思い続けるももこさんが、俺に向いてくれないのかと思うこともあった。しかし、そんなことをももこさんには決して言えない。俺はぐっと我慢し、兄の話を聞き通した。
そんなある日、調味料が切れてしまい、料理の途中だったが買い物に出た。すると、ちょうどももこさんが帰宅する姿が見えた。しかし、ももこさんは一人ではなかったのだ。ももこさんの隣には男性がいて、親しげに話しながら歩いている姿を見た。俺は思わず駆け寄り、ももこさんに話しかけた。
「お帰りなさい、ももこさん。」
「え? ああ、あ、君。えっと、もう夕飯できるから、ちょっと買い物行ってくる。」
すると、男性は俺とももこさんの会話に入ってきた。
「やあ、君が義の弟さんかい。俺は田崎。よろしくね。」
「ああ、どうも、こんばんは。」
「いや、君も大変だね。アパート住めなくなるなんて。」
俺はなんだかイラっとした。田崎さんは俺の話を何でも知っていて、いつもももこさんと話でもしている雰囲気だ。イラっとしたというより、嫉妬が大きかったのかもしれない。俺は思わずその場から離れた。
「じゃあ、買い物あるから行ってくるね。」
田崎さんには挨拶せず、ももこさんにだけ話しかけて、俺は走ってスーパーに向かった。ももこさんは俺に何か言おうとしていたけど、俺は田崎さんと一緒にいるももこさんを見たくなかった。そう思い、走り出したのだ。
買い物が終わり帰宅すると、ももこさんの姿はなかった。家の前で会ったのに、帰ってきていないのはおかしい。田崎さんとどこかへ行ったのかと思った。考えれば考えるほどイライラする。俺は冷めたスープを見て、一人でぼんやり考えた。
俺が間違っているのか。だってももこさんだって女だし、好きな人くらいはできる。俺は一緒に暮らしているうちに、勝手にももこさんとの幸せに浸っていたのかもしれない。当たり前のように過ごした一ヶ月間。しかし、俺は彼氏でも何でもないのだ。そもそも一緒に暮らしていても、男として見られることもない。やはり俺は義弟なんだと痛感してしまう。勝手に意識していた俺が、バカみたいに思えてならない。
俺は作ったスープを放置して、部屋にこもった。翌日、ももこさんは部屋にはいなかった。きっと田崎さんと一緒にいたのだろう。朝になっても帰ってきていなかった。俺は朝ご飯も食べず、会社へ向かった。
午前中の仕事を終え、少しアパートが気になり、様子を見に行くことにした。外壁が塗り替えられ、まるで違うアパートに来たような気がする。入口に大家さんの姿が見えたので、そばに行き声をかけた。
「こんにちは。 当時はどんな感じですか?」
「いやあ、伊藤さん、お待たせしてごめんね。」
車も次々と出たり入ったり、忙しなく動いている。
「実は少し遅れがあったんだけど、落ち着いたから作業が進んでね。明日には終わりそうだよ。明後日くらいから帰ってこれるよ。」
「それは急ですね。もう終わりですか?」
「大体の目安はあったんだけど、最後の部材が届かなくて。でも、雪が最近落ち着いているから、届いたよ。それが届けばすぐ終わるんだ。」
「そうなんですね。分かりました。ありがとうございます。」
「待たせて悪かったね。それじゃ、よろしくね。」
大家さんはまた別の業者と話を始めている。雪がももこさんと再会させてくれたのに、雪に引き裂かれるとは思っていなかった。明後日か。ちょうどいいか。正直、今ももこさんとなんだか気まずい関係で、一緒にいるのは辛い。これも縁がなかったってことかと、俺は考えることにした。
実際、一緒にいて勝手に惚れたのは俺の方だが、別の男と一緒にいるももこさんを見ているのは辛い。俺は一日を残し、ももこさんと話すことも正直辛いと思った。ホテルに行けばももこさんに会ってしまう。だから、俺は一泊ネットカフェに泊まろうと思ったんだ。
「お帰りなさい。」
「ただいま。ごめん。昨日、あれからホテルから呼び出されてしまって。」
「ああ、いいよ、別に。」
「あ、それから。俺、アパート修繕終わったから、出てくよ。」
「え、まだまだかかりそうだったのに。」
「今日様子見に行ったら、ちょうど親さんがいてね。話を聞いたら、明日終わるって。」
「じゃあ、もう明日には出ていくの?」
「うん。荷物も少ないし、明日会社から向こうに帰るよ。」
「そうなんだ。なんか寂しいね。」
「俺こそごめんね。ももこさん、彼氏とかいるなら言ってよ。俺、完全に場違いじゃん。」
「え? 彼氏なんていないわ。勘違いよ。田崎君は同僚で、気にしなくていいよ。」
「兄さんはもういないんだ。恋愛は自由だから。」
「待って。話を聞いて。」
「ごめん。ちょっと疲れているから。」
俺はそれ以上耐えることができなかった。ももこさんが何を言っても聞こえない。兄にも勝てない俺は、他の男に負けたんだ。気持ちを伝えないまま、このまま目の前から去ってしまおうと思ったんだ。
食事をしなかったせいか、急に腹が鳴ってしまった。俺はキッチンへ行き、ストックしてあったスープを温めた。ここでの生活で楽しかった料理も、これが最後だと思うとなんだか悲しかった。
「私も、お腹空いちゃった。」
「ああ、スープでよければ温めるね。」
「ありがとう。あ、君の料理も最後か。」
ももこさんはスープを飲みながら、しみじみと話している。俺は話したくても気になることが多くて、何も言えなかった。
すると、いきなりももこさんが俺に驚愕することを告げた。
「あのさ、今晩、いいかな?」
「え? 今晩?」
俺は驚きを隠せず、変な声を出してしまった。今晩って、今晩何をしようというんだ?
「部屋で待っているから。」
俺は急に体温が上がるのが分かった。どういうことだろう? なぜ、あんな意味ありげな言い方?
焦った俺は慌てて皿を洗い、片付けて、深呼吸してももこさんの部屋へ向かった。
「ももこさん、入りますよ。」
「どうぞ、入って。」
部屋に入ると、ベッドにももこさんが腰かけていた。しかし、辺りを見渡すと、兄の写真や持ち物が散乱している。まるで、今までの思い出の品を全て出しているようだった。
「私は、今夜、あの人に別れを告げたいの。付き合ってくれないかな?」
ももこさんの目には、もう溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「ももこさん。」
ももこさんはアルバムを開き、俺に思い出を語り出した。付き合っていた頃や結婚式、それから旅行や遊びに行った時のことも、全て語った。
「今日で、あの人とお別れをするの。私、好きな人ができてしまったの。」
「いいと思うよ。だって、ももこさんを兄は置いていったんだから。」
「ずっと怖かったの。あの人のことを忘れてしまう自分は、悪い人だと思っていた。」
「そんなことないよ。幸せになってね。」
「俺、田崎さん、あんまり知らないけど。」
「え? 田崎さん、彼じゃないわよ。」
「え、ち、違うの? だって、この前、一緒に。」
「だから、あれは本当にホテルに呼び出されて、仕事していたのよ。」
「じゃあ、一体、あなたよ。あ、君。」
「え?」
信じられない言葉すぎて、俺は何も言えなかった。俺は義弟で、男として意識すらされていないと思っていた。しかし、俺なんだ?
「最初の夜に再会した時、心臓が止まるかと思った。だって、あの人が生き返ったから。」
「ああ、そうか。俺と兄が似ているから。」
「それで、ああ、違うの。ごめん。最初は正直、代わりのつもりだった。嬉しかった。あの人が帰ってきた気持ちだった。でも、違う。あ、君は、あの人ではない。」
「俺は、ずっと兄さんに勝てないと思っていたんだ。」
「天秤にかけたりはできない。でも、あ、君を好きになった以上、私はあの人を忘れなければいけないの。」
「無理して忘れなくていい。そんなことしなくてもいいんだよ。好きになることと、忘れることは違う。」
「でも、それではあなたにも、あの人にも顔向けができない。」
俺はももこさんを抱きしめた。強く、強く抱きしめた。
「俺は、兄さんの代わりでもいい。そばにいたいんだ。ももこさんを守っていきたいんだ。」
「そんなの、私は卑怯だよ。」
「卑怯なんかじゃない。卑怯なのは兄さんだ。ももこさんを置いて先に行ったんだから。」
「手も顔も、感触も、言葉の数々も、何も忘れていないのよ。」
「そんなの忘れなくていい。俺が塗り替えていくから。」
「あ、君、私、私ね。」
「いいんだ。代わりで。でも、俺はきっと兄さんを超えてみせるから。」
「もう、私を一人にしないで。」
「分かった。約束する。」
俺はももこさんを一人にはしない。震えていたももこさんが少し落ち着き、俺はもう一度抱きしめ、そしてキスをした。
次の日、俺はアパートへ行き、大家さんに話をした。
「大家さん、俺、ここには戻りません。お世話になりました。」
「おやおや、何かいいことがあったのかい?」
「はい。雪は不幸ではなくて、幸せを運んでくれたんです。」
「そうだったのか。それは良かった。」
「迷惑かけたけど、悪かったとは言わなくていいんだね。」
「はい。逆に感謝です。長い間、お世話になりました。」
俺は今までのアパートに思い出を残し、新しい思い出のために歩き出した。
「この荷物、どこに持っていくの?」
「それはあっち。あの人の部屋よ。」
俺は正式にももこさんの家に引っ越してきた。ももこさんと正式な二人の生活が始まると言っても、一時は兄が三人目って感じた。ももこさんの中に兄がいる。だから、俺は兄がそっと思い出に変わるまで、兄の部屋を作った。全ての荷物を捨てると言ったももこさんだったが、俺は必要ないと言った。忘れようと無理に思っても、どうしようもないんだ。
俺は兄と違うから、代わりなんてできないけど、兄より長くももこさんのそばにはいられる。兄が残した思い出は大きいけど、これからの人生でももこさんと思い出をたくさん作る。俺の方が思い出が多くなれば、兄はきっとももこさんの中から空へ旅立つはずだ。
「兄さん、長くはいないでくれよ。」
兄の思い出の品を片付けながら、俺は兄と話をしていた。
「ももこさん、プレゼントがあるんだけど。」
「え、何? プレゼント?」
「はい。これ、中開けてみてよ。」
俺はももこさんに茶色い封筒を渡した。
「これって、病院?」
「そう。中開けて読んで。俺のことが書いてあるから。」
病院だと聞いて少しびっくりしたももこさんは、恐る恐る封筒を開けた。開けると、曇っていた顔が明るくなった。
「そう、健康診断の結果です。俺はパーフェクト、元気です。」
「ありがとう、あ、君のプレゼントだわ。」
結果を見たももこさんは、少し涙目で俺の胸に飛び込んだ。
あれから二年が過ぎて、俺とももこさんは今日結婚する。俺は兄さんに勝ったんだ。兄さんが果たせなかった、子供ができた。これだけは兄さんには絶対できないから、俺は本当の勝利を得た気がした。兄さんの仏壇の前で、俺は勝利の雄叫びをあげた。
「兄さんが残したままのももこさんに、赤ちゃんができたよ。兄さんにはできなかったから、俺の勝利だよ。兄さんの思い出は大きすぎてへこたれそうだったけど、俺、頑張ったよ。」
俺は兄さんの酒を開け、二人で飲んだ。なんだか兄さんの写真は、いつもより笑っているように見えた。きっと兄さんも俺たちのことを祝福してくれているに違いない。そして、双子の俺にももこさんを預けることを、一番願っていたと信じたい。これから先、何があっても俺はももこさんと子供を守って生きていく。
「兄さん、俺はきっとやり通して見せるからね。」
「あ、ご飯よ。降りてきて。」
「はい。今行く。」
兄さんの部屋は、いつも兄さんの匂いでいっぱいな気がする。これからも、俺たちを見守ってくれるのだろう。俺をももこさんに引き合わせてくれた兄さんに、俺は礼を言って部屋を出た。春には子供も生まれ、雪の季節は終わりを告げる。



