差出人は沼津市役所。ただの茶色い封筒だった。重さは50グラムもない。千鶴はそれを二本の指でつまみ上げ、表と裏を確認してから、台所の茶箪笥の上に置いた。まだ開けなかった。
2026年11月の朝、午前5時。沼津市内の民間病院の更衣室で、千鶴はゴム手袋を外していた。68歳の手は、毎晩の消毒液でひび割れていた。夜勤明けの電車に乗る時、清掃の仕事をしていると分からないように、千鶴はいつも薄い黄色のスカーフを首に巻いた。それは習慣だった。
家に帰ると、息子の両太がいる二階は静かだった。千鶴は台所で味噌汁を作り、盆に載せて二階へ上がり、ドアの前に置いた。「ご飯ですよ」と言っても、返事はない。しかし、ドアの向こうからキーボードの音が漏れていた。起きている。それで十分だった。
その日、帰宅して味噌汁を飲んでいると、ポストに郵便が届く音がした。千鶴はワンを置いて取りに行った。チラシに混じって、茶色い封筒が一通入っていた。沼津市役所からだった。
台所に戻り、封筒を開けた。中には2枚の書類が入っていた。市民税と国民健康保険料の変更に関するお知らせ。千鶴は静かに数字を読んだ。前年度の収入が、住民税非課税世帯の基準をわずかに上回った。その結果、保険料の区分が一段上がり、介護保険料の算定基準も変わった。
千鶴の頭の中では、長年の家計管理で培われた計算式が自然と動いた。年金から保険料を引き、光熱費と食費を引く。答えが出た。マイナスだった。もう一度計算した。今度は病院の清掃の給与を足しても、ギリギリだった。
なぜこうなったのか。思い当たる節はあった。去年の春から秋にかけて、病院が人手不足を理由に、夜勤のシフトを月に数回多く入れてくれないかと頼んできた。断る理由がなかった。お金が必要だったし、断れば次から声がかからないかもしれないと思った。その積み重ねが、基準をわずかに超えた。たった数万円の差だった。
千鶴は封筒を引き出しの中にしまった。引き出しの中には、すでに何枚かの書類が入っていた。以前届いた通知や、支払いの控えや、病院のシフト表のコピーが重なっていた。その上に今日の封筒を乗せ、引き出しを閉めた。
天井を見た。白い天井に、シミが一つあった。去年からあるものだった。北側の屋根の雨漏りが原因だと千鶴は検討をつけていたが、業者に見てもらうお金がなかった。
12月に入り、最初の木曜日。年金の振込日だった。千鶴はスマートフォンの銀行アプリを開いた。残高を見た瞬間、胸の中で何かが静かに沈んだ。新しい介護保険料が、年金から自動的に天引きされていた。国民健康保険料の増額と市民税の新たな課税通知が重なり、手元に残る金額は、去年のこの時期より月に約3万2000円少なかった。
3万2000円は、一ヶ月分の電気代とガス代と、息子の食費の合計とほぼ同じだった。
12月の第2週、千鶴は病院の人事課を訪れた。担当者の岡田という男に、給与の受け取り方について相談できないかと話した。しかし、岡田は言った。
「申し訳ありません。2026年度からシステムが完全に統合されており、給与支払いに関するデータは自動的に国税庁のデジタル基盤と連携しています。個別の対応は制度上できません。収入を調整したいのであれば、シフトの時間数そのものを減らすしかないですが、それは本人の意思によるものになります」
千鶴は頷いた。「ありがとうございます」と言い、深く頭を下げて、椅子を引いて立ち上がった。岡田はすでに視線を画面に戻していた。
その日の午後、千鶴はスーパーで買い物をしていた。豚の細切れを買おうとして手を伸ばした時、背後から声をかけられた。斜め向かいの小木原さんだった。
「まあ、上月さん、久しぶり。お買い物?」
小木原は笑顔で続けた。「そういえば両太さん、最近見かけないけど、大丈夫? 相変わらずお仕事忙しいのかしら。インターネットのなんていうの? デザインとかすごいわよね。家にいながら外国の会社のお仕事して。うちの主人なんか、そんなこと絶対無理って笑ってたわ」
千鶴の胸の奥で何かが短く張り詰めた。それでも表情は変えなかった。「ええ、あの子はもう、ミーティングが多くて、海外との時差もありますから、夜中まで仕事してることも多くて。私があれこれ声をかけるのも悪いと思って」
小木原は嬉しそうに相槌を打った。千鶴は会話の焦点を動かすために、視線を小木原のかごの中身にさりげなく向けた。
別れた後、千鶴は精肉コーナーに戻った。そこで、自分でも予期しない動きをした。豚の細切れではなく、その隣に並んでいた和牛のスライス、100グラム780円のトレイに手が伸びた。250グラムで1950円。今月の食費の予算で計算すると、これを買えば、あと4日間、夕食のたんぱく質を削らなければならない。それは分かっていた。それでも、千鶴はそのトレイをかごに入れた。小木原がまだ近くにいるうちに、コーナーを離れたくなかった。高月家は質素な暮らしをしている家ではない。そう思われていなければならなかった。
帰宅して、千鶴は和牛を玉ねぎと炒め、醤油とみりんで味を整え、白米の上に盛り付けた。息子の分を盆に乗せて二階へ。ドアの前に置き、「夕食です」と声をかけた。返事はなかった。
自分の夕食は、昨日の残りご飯にお湯をかけただけだった。食べ始めて三口目に、喉の奥から熱いものが競り上がってきた。胃酸だった。最近、この症状が出る回数が増えていた。
深夜、二階に足音がした。廊下を歩く音、洗面所の扉が開く音。水が流れる音。それから、また廊下を戻る音。盆を取り込む気配はなかった。千鶴は確認しに行かなかった。闇の中で背筋を伸ばし、座布団の上に座り、呼吸を整えながら、明日の清掃シフトの段取りを頭の中で確認した。具体的な手順を考えている間は、胃の痛みが少し和らぐ気がした。
翌朝、階段の下に置かれた盆の上の食器は空になっていた。千鶴はそれを見て、特に何も思わなかった。思わないように、長い時間をかけて、そう習慣付けてきた。
その日の午後、千鶴は市役所の収納に電話をかけた。状況を説明し、分割納付の相談をしたいと言った。担当者は丁寧な口調で答えた。分割納付は制度上可能であること。申請書の提出と審査が必要であること。ただし、分割した場合でも延滞金が発生する可能性があること。審査の結果によっては、担保の提供を求める場合があること。悪意はない。ただ制度の説明をしているだけだ。それは分かっていた。
12月の第3週、娘の弓からメッセージが届いた。
「土曜日、そちら方面に出張があるから、夕方によるわ。5時頃。夕飯はいらないから」
千鶴はその夜、家の中を一通り見回した。隅に積んである古い雑誌を押し入れの奥にしまい、台所の棚の上に置いていた市販薬の箱を引き出しに移した。更衣室の鏡の前に並んでいる薬の瓶も、鏡の裏の収納棚に入れた。病院の清掃員として働いていることを示すものは、作業着を含めて、全て押し入れの一番奥の段ボール箱に押し込んだ。箱の上に古い座布団を重ねた。
翌朝、千鶴は折りたんだ紙を取り出して、両太の部屋のドアの隙間から差し込んだ。
「土曜日の夕方5時頃、お姉ちゃんが来ます。その間、部屋から出ないでください。お願いします。お母さんより」
土曜日、千鶴はシャワーを浴び、髪を乾かし、引き出しの奥にしまってあった薄い水色のカーディガンを出した。普段は冠婚葬祭の時にしか着ないものだったが、今日は特別だと思った。しかし、着てみてから少し改まりすぎるかと思い直し、また引き出しにしまって、いつもの紺のカーディガンにした。
午後3時を過ぎた頃、千鶴は台所で夕食の下ごしらえをした。弓は夕食はいらないと言っていたが、万が一気が変わった場合のために、冷蔵庫に何か用意しておくことにした。
弓がピンポンを押したのは、午後5時10分頃だった。弓は紺色のコートを着て、肩にブランドのロゴが入ったバッグをかけていた。手には、千鶴が聞いたことのない店の名前が印刷された洋菓子の箱を持っていた。
「いらっしゃい」と千鶴は言った。弓は「出張で沼津まで来るのは久しぶり」と言った。疲れた様子だったが、化粧はきちんとしていた。
お茶を入れ、最中の小皿も添えた。しばらく当たり障りのない話が続いた。東京の話。弓の夫が部署変わった話。上の子供が来年から中学受験の塾に通い始めるという話。
その時、二階から音がした。椅子を引く音か、何かを床に置く音か、はっきりとはしなかったが、確かに上から響いてきた。二人とも同時にそちらに顔を向けた。弓の表情が変わった。柔らかかった目の周りが、少し硬くなった。
「お母さん」と弓はもう一度言った。今度は声の調子が違った。「お兄ちゃん、まだ二階にいるの?」
千鶴は手を膝の上で少し動かした。「ええ」と答えた。
弓は茶箪笥の上の湯呑みを置いた。今度はゆっくりと、音を立てないように置いた。それから、少し前のめりになった。
「お母さん、正直に教えて。お兄ちゃん、仕事、本当にしてるの?」
千鶴は目をそらさなかった。「してますよ。在宅で、色々と」
弓はしばらく千鶴の顔を見ていた。千鶴は視線を外さなかった。外したら終わりだと、本能的に分かっていた。笑みを保ったまま、湯呑みを手に取り、一口飲んだ。お茶はもうぬるくなっていた。
弓は体を起こした。そして、上を向いた。この視線が天井を通り抜けて、二階の息子の部屋に向かっているのが、千鶴には分かった。弓は黙っていた。それが千鶴には、声を出されるより怖かった。
「お母さん」と弓が言った。声は低く、平坦だった。「お母さん、いい加減にしてよ」
千鶴は何も言わなかった。弓は続けた。
「もう42よ。普通の42歳が何をしてると思う? 会社に行って、家族を養って、ローンを払って、それが当たり前の42歳。お母さんはそれを分かってて、ずっとあの人の食事を作って、電気を使わせて、家賃も光熱費も全部持って。それって、あの人のためになってると思ってるの?」
千鶴の言葉は出てこなかった。出てこないのは、弓が完全に間違っているからではなかった。千鶴自身、夜中に通帳を眺めながら、同じことを何度も考えたことがあった。しかし、考えるたびに、その考えの先が見えなかった。もし食事を出さなければ、両太はどうなるのか。出てくるのか。それとも、出てこないまま、部屋の中で何かが起きるのか。その先を想像するたびに、千鶴の思考は止まった。
弓はもう一度、上を見た。それから、立ち上がった。千鶴が声をかける間もなく、弓は今を出て、廊下に向かった。足音が廊下を進み、階段の下に来た。千鶴は立ち上がり、後を追った。
「弓と、止まって」と言った。声が少し大きくなった。
弓は振り返らなかった。階段を上がり始めた。千鶴は廊下に立ち、階段の下から上を見上げた。弓が二階に上がり、廊下を歩く音がした。それが止まった。両太の部屋の前に来たのだと分かった。
次の瞬間、弓がドアを叩く音がした。激しくはなかった。しかし、躊躇のない、はっきりとした音だった。
「お兄ちゃん、私、弓。ちょっと開けてくれない? 話したいことがあるの」
返事はなかった。千鶴は階段の下から一歩、踏み出した。弓はもう一度叩いた。今度は少し強く。
「お兄ちゃん、聞こえてるでしょう? 逃げないでよ。いつまでこうしてるの? お母さんがどれだけ大変か、分かってるの?」
千鶴は階段を上がり始めた。一段目を踏んだ時、両太の部屋の中で音がした。椅子が動く音だった。それから、何か重いものが床の上を転がるような音。本か、あるいは別の何かが、内側からドアに当たった音がした。鈍い、重みのある音だった。続いて、荒い息遣いが、壁越しに漏れてきた。言葉ではなく、ただの呼吸の音だった。
弓がわずかに後ずさった。千鶴は二階まで上がり切り、廊下に出た。弓の横顔が見えた。弓の目は、ドアを見つめていた。その目の中に、千鶴が見慣れていないものがあった。怒りではなく、恐れに近い何かだった。
「弓と、こちらで」と言った。今度は弓が振り返った。その顔は、少し青かった。千鶴は一歩前に出て、弓の腕を取った。
「下に行きましょう」と言った。声は静かだった。自分でも驚くくらい、静かな声だった。
弓は抵抗しなかった。千鶴に腕を引かれながら、階段を降りた。今に戻り、千鶴は弓を茶箪笥の前に座らせた。自分も向かい側に座った。二人はしばらく黙っていた。
弓が先に口を開いた。「あの人、大丈夫なの?」声はさっきとは違った。問い詰めるような調子ではなく、ただ確認するような、疲れた声だった。
千鶴は頷いた。「大丈夫です」
弓は膝の上に視線を落とした。「お母さん、本当にお母さん、大丈夫なの?」
千鶴の胸の中で何かが動いた。「大丈夫です」と千鶴は言った。声は揺れなかった。
弓は顔を上げ、千鶴を見た。その目は何かを言いかけていた。しかし、言葉にはならなかった。代わりに、視線が茶箪笥の上に落ち、最中の小皿に止まった。もう一つ取って、口に入れた。千鶴はそれを見ていた。弓が子供の頃、甘いものを食べる時だけ、少し幸せそうな顔をした。それは今も変わっていなかった。
しばらくして、弓は帰り支度を始めた。玄関で靴を履きながら、「またね、お母さん」と言った。
「元気でね」と千鶴は言った。
弓が角を曲がって見えなくなってから、千鶴は引き戸を閉めた。鍵をかけ、玄関の靴を揃えた。それから、今に戻り、台所に行った。時計を見ると、六時を少し過ぎていた。外はもう暗くなっていた。
二階に上がった。両太の部屋のドアの前に立ち、いつものように盆を置いた。今夜は大根の煮物と鶏胸肉の薄切りとご飯だった。湯呑みに番茶を入れて添えた。盆を置いてから、少しの間、立ち尽くしていた。ドアの向こうは静かだった。キーボードの音もなかった。
「ご飯ですよ」と千鶴はドアに向かって言った。返事はなかった。いつも通りだった。
廊下を戻り、階段を降りた。今の電気を消して、座布団に座った。暗い中で、千鶴は今日一日のことを頭の中でなぞった。弓がコートを脱いだ時、最中を口に入れた時の顔。階段を上がっていく足音。そして、あのドアに当たった鈍い音。弓が見せた、恐れに近い表情。
今日、弓に本当のことを言わなかった。お金が大丈夫ではないこと。税金の通知書が茶箪笥の引き出しに入っていること。屋根の雨漏りを直せていないこと。夜中に病院の廊下を掃除していること。それを言えなかったのは、言って何かが解決するとは思えなかったからか。それとも、言ってしまうことへの恐れからか。千鶴には判断がつかなかった。おそらく、その両方だった。
弓は怒って帰ったわけではなかった。ただ、疲れた様子で帰っていった。それが逆に千鶴には重かった。怒りは、次の来訪の理由になりうる。しかし、疲れは、距離を置く理由になる。
台所の時計が七時を告げた。千鶴は立ち上がり、台所に行き、冷蔵庫を開けた。弓のために用意しておいた大根が残っていた。それを小鉢に移し、電子レンジで温めた。自分のご飯をよそい、座って食べ始めた。今夜は一人分だった。いつもそうだが、今夜は特にそう感じた。
食べながら、千鶴は弓が置いていった洋菓子の箱のことを思った。開けていなかった。まだ茶箪笥の上に置いてある。明日、一つ食べようかと思った。それから、思い直した。両太の盆に一つ乗せてやればいいかもしれない。甘いものは、両太も嫌いではなかったはずだ。少なくとも子供の頃は好きだった。今もそうかどうかは、聞いたことがない。もう何年も、そういう話をしていなかった。
食器を洗い、台所の電気を消した。廊下を通って洗面所に行き、顔を洗い、歯を磨いた。鏡の中の自分を、今日は少し長く見た。弓が「顔が細くなった」と言っていた。確かにそうかもしれなかった。頬の辺りに、以前にはなかった影がある気がした。
洗面所の電気を消し、廊下に出た。二階の廊下は静かだった。両太の部屋の前の盆がどうなっているかは、確認しなかった。確認すれば眠れなくなることを、千鶴は知っていた。
自分の寝室の襖を開け、布団を敷いた。横になり、電気を消した。天井の暗がりの中で、目を開けていた。弓の声が、断片的に戻ってきた。
「お母さんが全部やってあげるから、困らないから」「お母さんが変わらないと」
言葉の一つ一つは、頭の中で繰り返す度に、少しずつ形を変えた。攻める声に聞こえたり、心配する声に聞こえたり、何かを諦めた声に聞こえたりした。千鶴はどの解釈が正しいのか、決めることができなかった。
外で風の音がした。12月の夜の風だった。窓の障子がかすかに震えた。千鶴はそれを聞きながら、目を閉じた。眠れるかどうかは分からなかった。ただ、今夜は眠ろうとしてみることにした。明日の夜は夜勤がある。体を休めなければならない。
眠る前に、一つだけ考えた。今日、弓があの部屋のドアを叩いた時、両太は何を感じていたか。怒りか、恐れか。あるいは、どちらでもない、もっと別の何かか。千鶴には分からなかった。10年間、分からないままだった。そして、おそらくこれからも、分からないまま続いていくのだと思った。その夜、千鶴は明け方近くに、ようやく眠った。夢は見なかった。
1月の末、赤い封筒が届いた。正確には赤というよりも、薄いサーモンピンクに近い色だった。しかし、千鶴の目には、それは紛れもなく赤く映った。差出人は沼津市税務課。宛名の欄には「市民税・県民税及び国民健康保険料納付に関する最終通知」と記されていた。
封筒を手に持ったまま、千鶴は玄関の三和土に立っていた。立ったまま、しばらく動けなかった。
台所の椅子に座り、封を切った。中から二枚の紙が出てきた。一文目には、今年度の市民税と国民健康保険料の未納分について、所定の期日までに納付がない場合、地方税法の規定に基づき、預金口座の差し押さえ及び不動産に関する処分手続きを開始する旨が記されていた。
千鶴は紙を持ったまま、文章を三回読んだ。一回目は言葉の意味を追った。二回目は数字を確認した。三回目は、何か読み間違いがないかを確かめた。何度読んでも、読み間違いはなかった。期日は2月14日だった。今日から数えて16日後だった。
金額は、分割払いの申請が認められた分を差し引いてもなお、一括で用意しなければならない部分が残っていた。その金額を頭の中で確認し、千鶴は通帳の残高と照らし合わせた。答えは出るまでもなかった。口座の残高では足りなかった。
台所の時計を見た。午前8時を少し回っていた。千鶴は紙を封筒に戻し、他の書類と一緒に茶箪笥の引き出しの奥に押し込んだ。それから、立ち上がり、夜間に水を入れて火にかけた。お湯が湧くまでの間、窓の外を見ていた。1月末の空は白く曇っていた。庭の枯れた木の枝が、風でわずかに揺れていた。
今日の夜勤を一回休むべきかどうか考えた。市役所に行くには、平日の昼間でなければならない。夜勤を一回休めば、その分の日当が消える。しかし、行かなければ差し押さえの期日は一刻と近づいてくる。答えは出ていた。今夜の夜勤を休むしかなかった。
病院に電話をし、体調不良を理由に欠勤の届けを出した。電話を切ってから、受話器を持ったまま少しの間、立っていた。嘘をついたという感覚は、特になかった。体調が悪くないかと言えば、相も言い切れなかった。
市役所の収納の窓口は、午前9時から開いていた。千鶴は9時を少し過ぎた頃に家を出た。薄手のコートを着て、首にいつものスカーフを巻いた。空は引き続き白く曇っており、空気は湿っていた。雨が降り出しそうな気配があったが、傘を取りに戻るのが面倒で、そのまま歩き出した。
バスに乗り、市役所の最寄りのバス停で降りた。収納の待合スペースには、すでに数人が座っていた。千鶴は受付で番号札を取り、椅子に腰を下ろした。番号が呼ばれるまで、20分かかった。
担当窓口に座ったのは、若い男性職員だった。千鶴は封筒を取り出し、窓口の台の上に置いた。通知書を受け取ったこと、現在の収入と支出の状況、分割払いの申請がすでに一部通っていること。しかし、一括納付が必要な部分について、今の状況では対応が難しい旨を、できるだけ整理した言葉で説明した。
職員は書類を確認しながら話を聞いた。説明が終わると、職員はキーボードを打ち始めた。画面を見ながら、いくつか確認の質問をした。現在の年金受給資格額はいくらか。給与収入は月額いくらか。扶養している家族はいるか。千鶴は一つ一つに答えた。家族の欄で少し迷ってから、「同居の家族が一人います」と答えた。
職員は画面を見たまま、「その方は、収入がありますか」と聞いた。千鶴は少しの間、答えなかった。それから、「いいえ」と言った。職員は特に表情を変えず、「わかりました」と言って、また入力を続けた。
しばらくして、職員が顔を上げた。現在の状況をシステムに記録したこと。一括納付が必要な部分についての分割申請を、再審査の対象として上申できること。ただし、審査の結果によっては認められない場合もあること。また、仮に認められた場合でも、延滞金が加算されること。そして、最終的に納付が滞った場合に取り得る法的手続きについて、職員は一つ一つ説明した。
千鶴は頷きながら聞いた。言葉の意味は分かった。内容も分かった。ただ、言葉が頭の中に入ってきては、すぐに出ていくような感じがした。まるで底に穴の開いた容器に、水を注いでいるような感覚だった。
手続きを終えて窓口を離れたのは、10時半を少し過ぎた頃だった。エレベーターに乗り、一階に降りた。自動ドアが開き、外に出た。空気は冷たく、雨がいつの間にか降り始めていた。細かい霧のような雨だった。傘を持っていなかった。千鶴はそのまま歩き出した。
特に、どこかに行くつもりはなかった。ネクタイを締め直すつもりだったが、足が自然と、別の方向に向いた。駅に向かうつもりだった。しかし、足が自然と、別の方向に向いた。子供たちが学校に通う頃、よく使っていた道だった。弓も両太も、小学校の時、毎日この踏切を渡って通学していた。千鶴もかつては、買い物帰りに何度もここを通った。しかし、夫が死んでからは、この方向に用事がなくなり、ほとんど来ることがなくなっていた。
踏切の前に来た時、ちょうど遮断機が降り始めるところだった。カンカンカンという音が鳴り始め、赤いランプが交互に点滅した。千鶴は遮断機の前で足を止めた。前後に人はいなかった。両側の歩道も、この瞬間は静かだった。雨はまだ降っていた。
千鶴は遮断機のバーを見ていた。白と黒のしま模様のバー。その向こうに、線路が光りながら続いている。雨に濡れた線路は、曇り空の下でも妙に光って見えた。遠くから列車の音が聞こえてきた。最初は低く、それが少しずつ大きくなっていった。
千鶴はその時、ふと気づいた。自分の足が逃げようとしているわけでも、何かをしようとしているわけでもなく、ただそこに立っているということに。傘もなく、コートが雨に濡れ、髪が額に張り付いたまま、遮断機の前に立っているということに。なぜここにいるのか、しばらく考えても、はっきりとした理由が出てこなかった。
列車が近づいてきた。風が来た。列車が通り過ぎる直前の、あの独特の風で、千鶴のコートの裾がバタリと煽られた。顔に当たった風は、冷たく、湿っていた。それと同時に、胃の奥から熱いものが押し上げてくる感覚があった。次の瞬間、痛みが来た。みぞおちの少し下から、喉の奥にかけて、焼けるような痛みだった。胃酸が逆流する時の、あの感覚で、今回は特にひどかった。
千鶴は思わず前かがみになった。膝に手を当て、深く息を吸った。列車が目の前を通り過ぎ、轟音と風が一緒にやってきて、すぐに去っていった。遮断機が上がった。千鶴はしばらく、そのままの姿勢でいた。通りかかった自転車がちらりとこちらを見て、そのまま走り去った。
千鶴はゆっくりと体を起こした。胃の痛みはまだあったが、さっきよりは少し落ち着いていた。その場に立ったまま、いくつかのことを順番に確認した。足が動くこと。手が動くこと。雨がまだ降っていること。コートが濡れていること。今日の日付が1月の末であること。市役所での手続きが今日終わったこと。家に両太がいること。
最後の項目のところで、千鶴は顔を上げた。両太がいる。今日の昼、家に置いてきたり太がいる。冷蔵庫の中にある昨日の夕食の残りを、両太が自分で温めることができるかどうか、千鶴には分からなかった。電子レンジの使い方は知っているはずだった。しかし、知っているかどうかと、実際にやるかどうかは、別の話だった。今日の昼を、食事の盆を届けないとしたら、両太はどうするか。どうするかは分からなかった。ただ、それを確かめに帰る必要があった。それだけは、はっきりしていた。
千鶴は踏切を渡り、来た道を引き返した。歩きながら、ポケットの中に手を入れた。右のポケットに、市販の胃薬のシートが入っていた。一片押し出して、口に入れた。薬莢は石灰の味がした。飲み込んでから、また歩き始めた。バス停に向かいながら、雨の中の通りを歩いた。コートはすっかり濡れていた。靴の中にも水が入っていた。歩くたびに、足の裏が地面を踏む感覚が変わった。それでも、足は動いた。一歩ずつ、バス停に向かって動いた。
バスが来るまで、屋根のあるバス停のベンチに座った。座ってから、スカーフが濡れていることに気づいた。首に巻いたまま濡らしてしまった。取り外して膝の上に置いたが、絞る方法はなかった。
バスに乗り込み、窓際の席に座った。窓の外、雨に濡れた沼津の街が流れていった。停留所が三つ過ぎた頃、千鶴は今日の費用を頭の中で計算した。バスの往復運賃。市役所での手続きに要した時間による、一日分の日当の損失。胃薬の残り枚数と、次に薬局に行く必要がある時期。それらを一つ一つ積み上げていくと、今日という日は、数字の上では明らかなマイナスだった。しかし、計算を続けながら、千鶴は窓の外を見ていた。雨はまだ降っていた。町の景色は、いつもと変わらなかった。商店。住宅。信号。電柱。見慣れた景色だった。何十年も見てきた景色だった。それが、今日も雨の中で濡れながら、そこにあった。
最寄りのバス停で降り、家まで歩いた。玄関の鍵を開けて、中に入った。靴を脱いで揃えた。廊下に上がり、コートを脱いでハンガーにかけた。コートから水がしたたり、廊下の床に小さな水溜まりができた。千鶴は雑巾を取ってきて、それを拭いた。それから、台所に行き、両太のための昼食を用意した。冷蔵庫にあった昨日の大根の残りを鍋で温め、ご飯をよそい、薄く切った漬け物を添えた。盆に乗せて、二階に上がった。両太の部屋のドアの前に、盆を置いた。
「ご飯ですよ」とだけ言った。返事はなかった。いつも通りだった。
千鶴は廊下に立ち、ドアを見た。ドアは閉まっていた。ドアの向こうから、低い音量でパソコンのファンが回っているらしき音が、かすかに聞こえた。少しの間、立っていた。それから、廊下を戻り、階段を降りた。
台所に戻り、自分の昼食を用意した。温めた大根の残りと、ご飯と、梅干一つ。茶箪笥に座って食べた。食べながら、今日役所で記入した書類の控えを引き出しから出して、もう一度確認した。数字は変わっていなかった。状況も変わっていなかった。ただ、手続きをしたという事実だけが、今日新たに加わった。それが何かを変えるかどうかは、まだ分からなかった。
食べ終わってから、濡れたスカーフを洗面所に持っていき、手で洗って絞った。浴室の物干しにかけた。乾くかどうかは、明日の朝になれば分かる。千鶴はそれを見てから、洗面所の電気を消した。廊下に戻った時、二階でキーボードの音がし始めた。それを聞いて、千鶴は少し息をついた。大きな安堵ではなかった。ただ、音がするということが、今日のところはそれで十分だった。
今に戻り、座布団に座った。茶箪笥の上に、市役所でもらった書類の控えが置いてあった。千鶴はそれを手に取り、もう一度眺めてから、引き出しにしまった。引き出しを閉めた。窓の外では、雨がまだ続いていた。1月の終わりの雨は、降り始めたら長引くことが多かった。千鶴は膝の上で手を重ねたまま、雨音を聞いていた。特に何も考えていなかった。考えようとすれば考えられたが、今日はそれをしなかった。ただ座って、雨の音を聞いていた。そのうち、体が少し重くなってきた。今日は夜勤を休んでいる。眠っても構わない時間だった。千鶴はそのまま、座布団の上に横になった。枕は取りに行かず、腕を折って頭の下に敷いた。目を閉じた。雨の音はまだ続いていた。体は疲れていた。足の裏が冷えていた。それでも、少しずつ意識が遠くなっていく感じがした。千鶴はそのまま、雨の音の中で眠った。
熱が出たのは、2月に入ってすぐのことだった。最初は喉の奥に薄い痛みがある程度で、千鶴はそれを疲れのせいだと思っていた。1月の末に市役所に行った日、雨の中、傘もなく歩き続けたことを、体が忘れていなかったのかもしれない。帰宅してすぐ着替えたし、温かいものを食べて眠った。それで十分だと思っていた。しかし、翌朝を迎えると、喉の痛みは胸の奥まで広がっていて、関節がしつこく痛むような違和感があった。体温計を取り出して測った。38度5分だった。
千鶴はしばらく、体温計の数字を見ていた。38度5分というのは、仕事を休まなければならない数字だった。しかし、今月はすでに1月末に一日欠勤している。もう一日休めば、それだけで今月の手取りがさらに減る。それでも、起き上がろうとした時、体がそれを許さなかった。立ち上がった途端、床が傾いたような感覚があり、千鶴はすぐに座布団の上に戻った。目まいではなく、ただ足に力が入らない感じだった。体が重く、頭の中が薄い膜で覆われているような感覚があった。
病院に電話しなければならなかった。今日も欠勤すること。それから、明日以降のシフトについて。電話をしようと、スマートフォンを手に取ったが、画面に触れたまま、少しの間、動けなかった。また体調不良を理由にする。先月に続いて、もう一度。担当者がどう思うかは、考えても仕方がなかった。ただ、電話するしかなかった。
電話を済ませ、スマートフォンを枕の横に置いた。それから、両太のことを考えた。今日の昼食と夕食を用意しなければならない。冷蔵庫に何があるか、頭の中で確認した。昨日のご飯が残っていた。卵があった。冷凍のうどんがあった。それと、インスタントの味噌汁のパックが、残り三つあった。自分で動けなくても、両太が自分で何かを食べられるように、そこに置いておくことができれば、それで今日はなんとかなるかもしれなかった。しかし、問題はそれを両太に伝える方法だった。ドアの隙間から紙を入れることはできる。ただ、今日は起き上がれる自信がなかった。スマートフォンで何かメッセージを送る手段があればよかったが、両太はスマートフォンを持っていなかった。正確には、かつては持っていたが、いつからか使わなくなり、どこにしまったかも、千鶴は知らなかった。
千鶴はそのまま、目を閉じた。考えていても仕方なかった。今日は動けない。それだけが事実だった。両太は10年間、自分なりに生きてきた。冷蔵庫の中のものを食べるくらいのことは、できるかもしれなかった。できないかもしれなかった。それは今の千鶴には、どうしようもなかった。
眠った。どのくらい眠ったか分からなかった。目が覚めた時、部屋の光の加減が変わっていた。午前中の白い光ではなく、午後の少し傾いた光になっていた。喉の痛みはまだあった。体の重さも変わらなかった。熱はおそらく、下がっていなかった。体温を測る気力がなかったので、確かめなかった。
台所から、音がしていた。最初、千鶴はそれを聞き間違いだと思った。自分が眠りの中で作り出した音かもしれないと思った。しかし、目を開けてしばらく聞いていると、それは確かに台所からの音だった。水道の水が出る音。鍋が台に置かれる音。それから、引き出しが開けられる音。千鶴は体を起こそうとした。床に手をついて、もう一度試みた。今の入り口から、台所の方向を見た。襖の向こうに、人の輪郭があった。
両太だった。背中を向けて、台所に立っていた。来ているのはくたびれたグレーのスウェットで、裾がほつれかけていた。髪の毛は、後ろから見ても乱れているのが分かった。首筋が細く、白かった。千鶴は、それをしばらく見ていた。両太が台所に立っているという事実が、すぐには頭の中に収まらなかった。
水の音がして、鍋に水が入れられた。それから、コンロに火がつく音がした。カチカチという点火の音がして、それから静かになり、やがて火が燃える音に変わった。両太は火を見ながら立っていた。背中がわずかに動いた。何かを探しているのか、台所の棚を確認しているようだった。
千鶴は声をかけようとした。しかし、声が出なかった。喉が痛くてという理由もあったが、それだけではなかった。声をかけることで、両太がその場を離れてしまうかもしれないという気持ちがあった。今、この瞬間、両太が台所に立っていることが、千鶴には壊れ物のように感じられた。触れれば崩れるかもしれない何かだった。だから、千鶴はそのまま、遠くから見ていた。
しばらくして、鍋の中で何かが動く音がした。水が湧き始めたらしかった。両太が冷蔵庫を開けた。中を見て、少しの間、立ち尽くしていた。それから、何かを取り出した。卵だった。両太の横顔が、千鶴の目からは少ししか見えなかった。表情はよく分からなかった。ただ、視線は冷蔵庫の中に向いており、真剣というより、ただ確認しているような目つきだった。卵を取り出して、冷蔵庫を閉めた。千鶴はその動作を追いながら、心の中で数えた。卵が二個。鍋の水が沸いている。両太は卵を茹でようとしているのか、それとも雑炊にしようとしているのか。どちらでも良かった。何であれ、自分で何かを作ろうとしていること。それだけで、千鶴の胸の中で何かが揺れた。
卵を鍋に入れる音がした。両太はしばらく、鍋の前に立っていた。背中が動かなかった。鍋を見ているのか、それとも別のことを考えているのか、千鶴には見えなかった。台所は静かで、コンロの火の音と、鍋の中で水が動く音だけがしていた。
千鶴はゆっくりと体を横に戻した。布団の中に体を沈め、天井を見た。台所からは、引き続き音がしていた。引き出しが開く音。何かを切るような音。それから、また水の音。両太がそこにいて、何かをしているという音。千鶴はその音を聞きながら、目を閉じた。
30分ほどして、廊下に足音がした。スリッパではなく、裸足で廊下を歩く音だった。その音が、今の方向に近づいてきた。千鶴はうっすらと目を開けた。両太が、入口に立っていた。手に、盆を持っていた。千鶴が両太の食事を運ぶ時にいつも使っている、古い木の盆だった。その上に、茶碗が一つと、小皿が一つ乗っていた。茶碗の中には白い粥が入っていた。粥は薄く水分が多めで、表面に卵がほぐれて混じっていた。小皿には、細く刻んだネギが数本、乗っていた。
両太は入口に立ったまま、中に入ってこなかった。視線は盆の上に落ちていた。千鶴の方を見なかった。目が合わないようにしているのか。それとも、照れているのか。ただ習慣的に目をそらしているだけなのか。千鶴には判断がつかなかった。
千鶴は体を起こそうとした。
「そこ、置いときます」
と、両太は言った。声は低く、少し枯れていた。長い間使っていない声のような音だった。千鶴は体を起こすのをやめ、横になったままで、両太を見た。両太は部屋に一歩入り、茶箪笥の上に盆を置いた。それから、素早く後ろを向いた。廊下に出ようとして、入口のところで足が一度,止まった。ほんの一秒か二秒だった。両太は振り返らなかった。ただ、立ち止まったまま、廊下の壁の方を向いて、
「ごめん」
と言った。声は小さく、ほとんど囁きに近かった。それだけ言って、廊下に出ていった。足音が階段を上がっていき、二階の廊下を歩いて、部屋のドアが閉まる音がした。
千鶴はしばらく、茶箪笥の上の盆を見ていた。体を起こした。ゆっくりと、時間をかけて。頭の重さはまだあったが、さっきよりは少し良い感じだった。茶箪笥の前まで膝で移動して、盆の前に座った。粥を一口、すくった。薄かった。味付けはほとんどなく、塩が少し入っているかどうかという程度だった。卵は火が通りすぎていて、白身が少し硬くなっていた。ネギは切り方がバラバラで、長いものと短いものが混在していた。温度は、ちょうど良かった。暑すぎず、冷めてもいなかった。
千鶴はもう一口、食べた。喉が痛かったが、粥は通りやすかった。三口目を食べた時、目の奥が熱くなった。千鶴は箸を置き、しばらく茶箪笥の木目を見ていた。木目の模様を目で追いながら、呼吸を整えた。泣くつもりはなかった。泣いても、粥が冷めるだけだった。それでも、目の奥の熱は引かなかった。千鶴は視線を上げず、粥を食べ続けた。茶碗の底が見えてきた頃、ネギを小皿ごとすくって、粥の上に乗せた。両太が刻んだネギだった。不揃いなネギだった。そのネギを粥に混ぜながら、千鶴は一つのことを考えていた。両太がいつ、最後に台所に立ったか。10年の間で、今日以外に両太が台所で何かを作ったことがあったか。記憶を探しても、思い当たらなかった。
茶碗を空にした。盆を持って台所に運ぼうとしたが、立ち上がった時、足元がふらついたので、盆は茶箪笥の上に残したままにした。布団に戻り、横になった。体はまだ重かったが、胃の中に温かいものが入ったせいか、少しだけ楽な気がした。目を閉じて、天井の暗がりを感じた。さっきの「ごめん」という言葉が、耳の奥で繰り返した。両太の声だった。長い間、聞いていなかった声だった。何に対して謝ったのか、はっきりとは分からなかった。10年分に対してかもしれなかった。今日だけに対してかもしれなかった。粥の味付けが薄かったことに対して、かもしれなかった。どれだとしても、千鶴にはどれでも良かった。ただ、その一言が今日、ここにあった。それだけのことだった。
翌日、熱は少し下がった。37度台の前半になり、体の重さが軽くなった。千鶴は午前中にゆっくり起き上がり、台所に行った。昨日の盆は、茶箪笥の上にそのまま残っていた。茶碗を洗い、小皿を洗い、盆を拭いた。それから、冷蔵庫を開けて、残っているものを確認した。卵はあと四個。ご飯は、昨日炊いた分の残りがあった。千鶴は昨日より少し薄めの粥を炊いた。自分の分と両太の分、二人分。塩を少し入れた。卵は一個だけ解いて、回し入れた。小ネギは冷蔵庫にまだ残っていたので、昨日より細かく刻んだ。盆に乗せて、二階に持っていき、部屋の前に置いた。ドアを軽くノックして、「ご飯ですよ」とだけ言った。返事はなかった。しかし、廊下に戻ってしばらく、台所で粥を食べていると、二階で音がした。ドアが開く音。廊下を歩く音。盆を取り込む音。そして、ドアが閉まる音。千鶴はその音の順序を聞きながら、粥を最後まで食べた。
三日目、千鶴の熱は平熱近くまで下がった。体は動いたが、まだ万全ではなかった。病院への出勤は、翌日からにすることにして、この日はうちで過ごした。午前中に、茶箪笥の引き出しを開け、この一ヶ月の間に積み重なった書類を全部取り出した。税の通知書。分割払いの申請書の控え。健康保険料の納付書。それらを日付の順に並べ直し、一枚ずつ内容を確認した。数字は相変わらず厳しかった。しかし、今日、千鶴の頭の中には、数字とは別の何かがあった。昨日と今日、両太の部屋の前に置いた盆が、毎回空になって戻ってきていた。それだけのことだった。ただ、それが何かを変えていた。何が変わったのかを言葉にしようとすると、うまく言えなかった。ただ、変わった気がした。
午後、千鶴は不動産屋の番号を調べた。沼津市内にある、賃貸物件を扱っている会社の番号をスマートフォンで検索した。三軒ほど候補が出てきた。千鶴はその中の一軒に、電話をかけた。担当者が出て、「どのような物件をお探しですか」と聞いた。千鶴は少し考えてから、「二人で住める。古くても構わない。家賃が安い物件を探している」と言った。担当者は「二人とは、どのようなご関係ですか」と聞いた。千鶴は「母と息子です」と答えた。電話を切った後、メモを見た。今日の字は、先月市役所で書いたメモの字より、少し整っていた。
この家を売ることになる。そのことを改めて確認しながら、千鶴は今の壁を見た。夫と一緒に建てた家ではなかった。夫の死後、子供たちが独立してから、千鶴が一人で維持してきた家だった。庭の木は枯れかかっており、北側の屋根は雨漏りがしたままで、間の壁紙は角から少し浮いていた。それでも、ここに長く住んできた。手放すことへの惜しさが、全くないとは言えなかった。しかし、それは今この瞬間に、決定的な重さを持つものではなかった。もっと差し迫った数字が、引き出しの中にあった。屋根は直せないまま、税金は払えないまま、この家にこれ以上、留まることはできなかった。それが事実だった。
千鶴は引き出しを閉めた。立ち上がり、台所に行き、夕食の支度を始めた。冷凍のうどんを茹でて、昨日の残りの煮物と一緒に出すことにした。
千鶴は夕食の支度をしながら、これからのことを少し考えた。新しい場所がどこになるかは、まだ分からなかった。もっと狭いところになるだろう。もっと古いところになるかもしれなかった。家賃が安いということは、そういうことだった。両太がそこで暮らすことができるかどうかも、分からなかった。しかし、今よりひどい状況を想像しても、今より良い状況を想像しても、どちらにしても、まだ先のことだった。今日できることは、今日する。それだけだった。
今に戻り、電気をつけた。自分の盆を茶箪笥に乗せ、座った。うどんをすすった。温かかった。出汁の味がした。普通のうどんだった。特別ではなかった。ただ、温かかった。食べながら、二階の音を聞いていた。しばらくして、ドアの音がした。廊下の音がして、盆を引き取る音がした。それから、ドアの音。千鶴は箸を持ったまま、天井を見た。両太がそこにいた。うどんではなかったけれど、盆を取りに来た。千鶴はうどんの残りを食べた。食器を洗い、台所を片付けた。台所の電気を消した。廊下を歩き、洗面所により、歯を磨いた。鏡の中の自分を見た。弓が「痩せた」と言っていた顔は、今日もそのままだった。変わっていなかった。少し青白いかもしれなかった。それでも、今日は昨日よりは良いように見えた。
自分の部屋に戻り、布団を敷いた。横になる前に、スマートフォンを手に取った。不動産屋の担当者からのメッセージが届いていた。「来週の水曜日に、一度ご来店いただけますか」という内容だった。千鶴は短く「はい、伺います」と返信した。送信してから、スマートフォンを枕の横に置いた。電気を消した。
暗い部屋の中で、千鶴は目を開けていた。天井は見えなかったが、あのシミがどこかにあった。雨漏りでできた、去年から気になっていたシミ。この家に長くいてきた。来年のこの時期には、ここにいないだろう。それをどう感じるかを確かめようとしたが、うまく確かめられなかった。喪失というほど重くはなかった。安堵というほど軽くもなかった。ただ、これからのことが、少しだけ実感を持ち始めていた。それだけだった。
二階から、低い音量の音楽が聞こえた。両太の部屋だった。何年かぶりに聞く音だった。音楽の種類は判別できなかった。ただ、音楽が流れているという事実だけがあった。千鶴はそれを聞きながら、目を閉じた。粥の味を思い出した。薄くて、卵が硬くて、ネギが不揃いで。それでも、温かかった。両太が作った粥だった。10年で初めて作ったものだった。うまくはなかった。しかし、それが今日の千鶴には、十分だった。二階の音楽は、千鶴が眠りに落ちるまで、続いていた。



