窓口の向こうで、岩瀬支店長は俺のファイルを指先で弾いた。スーツの胸元には新しい名札が光り、言葉は威圧的だった。5000万円を今週金曜の営業時間前までに一括で返せ。できないなら店を畳んで土地と建物を売れ。駅前再開発の邪魔な商売に金は回せない。俺は小さく頭を下げ、控えの発行に必要な100円を差し出した。岩瀬は受け皿から硬貨を指で弾き、ロビーの床に転がした。
硬貨がカランと音を立てて転がる。窓口周りの話し声が一瞬止まり、隣の職員が「いつも無駄のないご対応ですね」と笑い声を漏らした。ロビーの椅子に座っていた木村さよが、俺が膝をついて100円を拾う姿を見ていた。さよは静かに端末の録画を開始した。店内にいた客は足を止めたが、誰も声を上げなかった。
宮下副支店長が「窓口でのその言い方は規定違反です」と口を挟んだ。岩瀬は「人事も労務も俺が握る。黙れ」と一蹴した。宮下の足が止まり、俺を見た。俺は小さく首を振り、拾った硬貨を財布へ戻して静かに立ち上がった。泣くのは湯に帰ってからにしようと思った。
俺は松原ゆい。24歳。祖母から受け継いだ公衆浴場、松原湯の女将だ。高校を卒業してから湯の手伝いを始め、祖母が亡くなってからは名義も排水の受益権も引き継いだ。銀行から5000万円を借りて老朽化した設備を更新し、返済は滞りなく続けてきた。旧支店長が異動するとき、知恵権の資料は共有ドライブと紙の両方に残してくれた。新しい支店長は、当初から俺の店を嫌っていた。
岩瀬は着任するなりロビーの照明と看板の差し替えを提案し、再開発パートナーの名刺を掲げた。俺は黙って売上ノートを開き、返済の日を守り続けた。燃料は上がり、入件数は前年より減り、補修費だけが増えていった。それでも返済は一度も遅れなかった。常連客が帰った後、俺は湯舟の蓋を二重にし、循環を止めるレバーを下ろした。ばあちゃん、怖いって言いたい夜もあるよ。
商店街の会議で雑貨店の店主が小声で教えてくれた。新しい支店長がまた看板の話をしている。気をつけて。俺は「うちは図面だけは揃えてます」と答え、会議の資料袋に知恵権の目次だけを挟んだ。岩瀬は毎週返済表の印刷を置き、「遅延は1日足りとも許さん」と何度も言った。俺が通帳の控えを差し出しても、岩瀬は指で弾いて机の端へ滑らせた。湯の匂いを鼻で払うこともあった。基準通りに換気をしても「基準通りじゃ客は来ない」と言い放った。
10月に入ると、岩瀬は再開発担当と会議室を頻繁に使い始めた。松原の敷地を図面の端に小さく書き込み、前面の一体化を主張した。宮下は知恵権フォルダーを印刷して岩瀬の机に置いたが、岩瀬は「紙は増やすな」とシュレッダーにかけた。宮下は紙の控えを別の引き出しに忍ばせた。岩瀬は大口預金者の一覧を画面に映させたが、画面上部の数名だけを見て「松原様の口座は下の方にあります」という担当者の声を無視した。見なくていい。戦闘は低単価だ。担当者は画面を閉じ、印刷指示だけを残して席を離れた。
同じ週、岩瀬は支店の前で再開発担当と立ち話をし、松原湯の庇を指さした。あの庇を白くすれば一体感が出る。所有者の合意がいります。勇志で握ってる。言えば従う。再開発担当は苦笑いし、メモに写真を貼った。俺は庇の前に立ち、塗装業者の見積もりを封筒に入れて金庫へ戻した。色はうちが決める。さよは「銀行の人がまた湯の前で写真撮ってたから、うちの庇から越えないでって張り紙したよ」と教えてくれた。
11月、岩瀬はロビーで来客に笑いかけ、親指で松原湯の看板を示した。「あそこは景観のノイズだ。低単価の化石戦闘、すぐ片付く」と話した。客は首をかしげ、案内の紙だけを受け取った。さよはロビーに立ち、端末を胸元で構えて録画を続けた。言葉は残すよ。俺は湯の裏門を閉め、閉店の札を掛けた。今夜は湯の明かりを早めに落とす。金庫の手順だけは最後に残す。
窓口で硬貨を弾かれた夜、宮下は会議室で時刻付きの内部報告書を起こした。窓口での威圧、100円を弾いた事実、今週金曜期限の一括返済の通告。これはコンプライアンス案件だ。宮下は保存音を確認し、送信予約の欄に翌朝の時刻を入れた。深夜、俺は金庫から青いファイルを取り出し、祖母のノートの端に走り書きされた番号へ電話をかけた。呼び出し音が2回鳴り、眠気を含んだ声がした。小沼です。下水道と知恵権どちらですか?松原のゆいです。排水の受益権の停止通知を今夜出したいです。了解。図面と登記の控えをメールで。立ち会いは俺が行く。
小沼は自治体の担当へ連絡し、経路届けと矛盾がないかを確認した。工事業者は作業服に反射テープを巻き、マンホールの蓋を外し、仮栓と識別テープで本管への接続を物理的に閉じた。写真は30枚、角度と地盤座標のメモも添付された。仮線は深夜に完了し、立ち合い記録に署名した。俺はスマホで写真を送り、小沼が整えた通知文案に電子署名をつけた。もう一方で、俺は別室の端末で大口預金の振り替え手続きを進めた。画面には20億円の残高が表示され、受け取り銀行の口座が切り替わった。ばあちゃん、手順通りだよ。マウスへ伸ばした指が震え、一度手を離して深呼吸をした。振り替え確認のボタンを押し、完了の控えをファイルへ挟んだ。
本部の資金監視端末に大口流出のアラートが深夜に上がった。当直職員は岩瀬へ架電したが、岩瀬は着信を切り、スマホを机の上に伏せた。明日の調礼が先だ。下水の話は午後でいい。同じ頃、岩瀬は自宅で再開発のスライドを直し、地図の図層表示をオフにしたまま保存していた。明日は調礼でパートナーと顔合わせだ。下水の図面なんて後でいい。小沼は銀行宛ての通知を2通に分け、到達記録の控えを俺へ渡した。一通はコンプライアンス直通、一通は支店の書留だ。俺は通知をポストへ入れ、振り替え後の残高通知は別封筒に入れて朝まで封を切らないと決めた。
翌朝、天町支店の職員用トイレで水が逆に上がり、床の排水溝から茶色い泡が吹いた。臭気が廊下へ広がり、ロビーの待合席の床の縁に汚水が染み込んでいった。客用トイレも同じく逆流し、受付は一時的に閉鎖された。清掃会社の呼び出しと本部への連絡が同時に飛んだ。予約していた法人客が足を止め、「こんな店信用できない」と吐き捨てて帰った。若手職員が嘔吐をこらえ、岩瀬は「下水トラブルだ。管理会社は何をしてるんだ」と声を荒げた。管理会社の担当は「松原湯の接続が閉じられた報告が入っています」と説明した。岩瀬は「勝手な真似を」と呟き、昨夜の着信拒否を思い出したようにスマホを見た。まさか、あの戦闘の女が口を開きかけて、言葉が続かなかった。
支店の前に警察のパトカーが止まり、騒音の通報だと警官がロビーを覗いた。岩瀬は名刺を差し出し、責任を管理会社へ振ろうとした。排水の所有者は誰ですか?隣接の権利者がいます。正面はこちらにあります。再開発パートナーの担当者がタクシーから降り、鼻を抑えて足を止めた。この状況で調礼は無理です。本部へ戻ります。岩瀬は「待ってください。看板の話だけでも」と追いかけたが、担当者は首を振って去った。
俺は松原湯の裏手のマンホールの手前に立ち、小沼が持つ封筒の角を指で押さえていた。袖をまくり、正面ロビーからのざわめきが風に混じって聞こえてきた。岩瀬がマンホールの向こうの俺を見て目を見開いた。お前が封じたのか。俺は静かに答えた。うちの敷地に勝手に汚水を流すのはやめてください。受益停止の通知は昨夜到達済みです。写真とログも提出します。岩瀬は膝から力が抜け、片手が床についた。俺は20億も動かしたんだと、その時初めて言葉にした。大口預金の内訳は、窓口で教えてくれませんでしたね。
取材に来た地方紙の記者がマイクを構え、カメラがロビーの汚損を映した。受益権の確認はされていたんですか?担当が、隣接する戦闘の主が大口預金者だと把握していましたか?岩瀬は把握してない。そんな雑用までと口ごもった。自治体の職員が後ろから近づき、届け番号をメモに照らした。経路は受益権の図面と一致しています。停止は手続きの通りです。松原様の預金は一覧にありました。下の方に。担当者は岩瀬から顔を背け、端末の画面を伏せた。たまれ。お前が見せなかっただけだ。店長がスクロールしませんでした。
窓口の動画が社内共有に上がってる。消せ。今すぐ消せ。消せません。ログが残ります。岩瀬は宮下の手にあるタブレットへ手を伸ばしたが、宮下が腕を上げた。暴れれば別件の通報になります。岩瀬は手を下ろし、爪が手のひらに食い込んだ。宮下は内部報告書の束を差し出した。窓口での威圧と知恵権フォルダー未閲覧のログがあります。俺が止めても、あなたが人事で封じました。コンプライアンスからの電話が岩瀬の携帯を連打し、スピーカーから冷静な声が漏れた。大口流出と店内汚損、手続き不備の報告が同時に上がっています。直ちに説明を。岩瀬は誤解です。底辺の戦闘が脅しで録音と映像、総勘定記録が揃っています。本部は俺を守るはずだ。俺は数字を上げた。守るのは規定と顧客です。あなたではありません。
岩瀬の唇が震え、「映像は編集だ。戦闘が仕組んだ。俺は被害者だ」と叫んだ。編集なら元データの提出をお願いします。言い訳は無理だと悟ったのか、岩瀬は眉間にしわを寄せ、黙り込んだ。客のスマホが一斉に向きを変え、動画の画面が広がっていった。嘘をつくな。窓口で硬貨弾いてたろ。岩瀬の膝が震え、額に冷たい汗が滲んだ。ロビーにはまだ下水の匂いが残っていた。
除金は戻せば、地権は話し合いで可能だが、違法な威圧は別枠だ。金を戻したら許してくれるんだろう。威圧の事実は金では消えません。記者はメモに威圧の日付と窓口番号を書き、ファイル名を添えた。岩瀬は声を上ずらせた。俺が見落とした。勇志と地見を繋げてない。頼む。ここで膝をついて片膝が汚れた床に落ちた。松原さん、私が間違っていた。窓口で見下して100円を弾いた。受益権も一覧も見なかった。本当に申し訳ありませんでした。今週金曜の一括通告は撤回してください。お願いします。
俺は静かに言った。謝罪は受け取ります。ただし手続きは法と規定の通りに進めます。さよがロビー脇の柱の影から出て、俺の袖を握った。帰ろう。声が出ないように。うん。ありがとう、さよさん。俺の声は少し枯れていたが、湯舟の前でお客様に説明する時と同じ静かな調子だった。記者が名刺を差し出し、マンホールの番号をメモに移した。住民説明はいつ予定ですか?書面は今夜までにまとめます。虚偽は入れません。清掃員がロビーにシートを敷き、吸引機の音を響かせ始めた。
岩瀬はスーツの肩が汚水の跡に触れたまま、床に手をついていた。評価が全部終わる。あなたの所業が終わらせました。若手職員がロビーの隅で頭を下げた。窓口で支店長に乗っかりました。すみませんでした。同期に馬鹿にされたくなくて言葉を重ねました。事実は記録に残っています。謝る相手を間違えないでください。俺は若手職員の目を見て短く息を吐いた。君は本社出頭、再研修、移動も検討です。はい、受けます。
数日後、岩瀬は本部の長時間面談へ呼ばれ、左遷と降格の文書に署名を迫られた。面談室では窓口の音声とロビーの映像が画面に並べられ、時刻が秒まで一致していた。コンプライアンス担当は受益権フォルダーの閲覧ログを指し、説明を求めた。顧客侮辱と手続き放棄がセットです。弁解の余地はありません。岩瀬は「俺は数字を上げた。駅前の顔を」と弱々しく言ったが、椅子の肘掛けを握る指は白くなっていた。本部は岩瀬に清掃手順の講習と手書きの反省文を課した。顧客対応の適性試験も受けてください。不合格なら配置転換です。岩瀬は早送りでテストの選択肢だけを丸して送信し、翌朝の点検で再生ログに早送りの印が残り、不合格と判定された。最初からやり直しです。岩瀬は夜10時まで残り、同じ講義を頭から見直した。
面談の最後、コンプライアンス担当が窓口の音声を再生した。岩瀬はスピーカーから流れる自分の声を、動かずに聞き続けた。この発言の後、本部の苦情窓口に相談が集中しました。分かってる。分かってる。本部の人事は岩瀬の管理職手当を削る欄に丸をつけた。岩瀬は地域の介護対象へ回され、再試験は3回差し戻され、理由が赤で埋まった。顧客対応の指導では「すみませんは禁止。申し訳ありません」と言い回しを20回繰り返させられた。岩瀬は地元の小さな窓口へ飛ばされ、毎朝古い番号を並べ、金庫補助と男子トイレの床磨きから回された。そこの老人は岩瀬の名札を見て「あんた噂の支店長か。用はない」と言い残した。岩瀬は再開発の地図フォルダーに手をかけても開かず、顧客の名前を間違えて訂正表を書き直した。ある昼、岩瀬は端末に出た松原湯の見出しを見て、検索窓をすぐに閉じた。拳を握り、30秒後に手のひらを開いてから、次の客を呼んだ。
一方、松原湯では常連が桶を洗い、麦茶を運んだ。ゆいちゃん、あの窓口のこと、忘れないでいいよ。うん。あーちゃんの地図がちゃんと聞いた。半年後、松原湯は補助金と町の支援でボイラー更新の工事に取りかかった。仮囲いの前に定表が貼られ、工事の前日、商店街の会長が鏡と手ぬぐいを運んで番台の上に並べた。松原湯は商店街の風呂だ。潰させない。ありがとうございます。湯でお返しします。会長は頭を下げ、脱衣場の前で靴を整えた。新しい配管は銀行側の要望に基づき、マンホールに監視カメラと流量計を挟んで再接続された。再接続の立ち合いでは宮下が銀行側の代表として署名し、俺と小沼が隣に立った。流量の上限は契約書に明記します。超えたら即連絡です。毎月報告書を送ります。ボイラーの更新工事は予定通り終わり、湯気の勢いは以前より穏やかになった。湯、柔らかくなったね。ありがとうございます。燃料の燃え方も整えました。
ボイラー更新後の晴れた日、町内会の婦人が鏡開きの餅を運び、脱衣場に小さな花が並んだ。ゆいちゃん、無理だけはしないで。はい。湯温と休憩は守ります。子供連れの親が初風呂の札を握り、番台に小さな声で願いを言った。天町支店の窓口には新しい案内が貼られ、会話の録音同意が太字で書かれていった。宮下は週に1回、受益権フォルダーの閲覧記録を本部へ送る手順を引き継いだ。俺は湯舟の縁に手を触れ、湯が指に伝わる温度をノートへ数字で残した。短期間、湯気が外へ抜け、冬の冷たい空気と混ざった。ノートの余白には、守れた、とだけ書かれた。



