「ほら、これがお前の退職金だ。10円だよ」
社長の哲夫は、真っ赤な顔でそう言うと、ズボンのポケットから取り出した10円玉を俺に投げつけた。硬貨は床に転がり、どこかへ消えた。
「拾えよ。それがあんたの分だ」
俺は岡田五郎。60歳を目前にした技術者だ。地方の中小企業で金属加工の仕事を40年続けてきた。この会社を作り上げたのは、先代の社長だった。今の哲夫は、その先代の息子であり、3代目社長だ。
先代の社長は、職人気質で、しっかり者だった。会社を大きくし、社員からも慕われていた。息子の哲夫も、最初は父の背中を追って修行を積んでいた。
だが、哲夫は父親とは正反対の男だった。野心と自己顕示欲が強く、人の話を聞かない。父が亡くなり社長の座に就くと、彼はすぐに好き勝手をやり始めた。
「うちの業務は、全部外部に委託すればいい。俺は新しい時代を作るんだ」
哲夫は、会社の独自技術を平気で売り物にしようとした。ベテラン社員たちが、長年かけて築いてきたものを、金に換えようとしていた。俺たちが懸命に止めても、彼は「古い考えだ」と一蹴した。
彼は社員に言った。
「来月から固定給は廃止だ。これからは完全出来高払いにして、能力に応じて給料を払う」
とんでもない発表だったが、彼は勝ち誇ったような顔をしていた。だが、彼のそんな計画は、法律や手続きの壁にぶつかり、あっさり頓挫した。彼はそれも「制度が悪い」と人のせいにした。
そして、代わりに「減給制度」を導入すると言い出した。
「ミスや手抜きがあれば、給料を減らす。そうでなければ、警告だ」
哲夫は、ちょっとしたことで社員を処分するようになった。それが会社の士気を大きく下げた。若い社員たちから次々と辞めていった。中堅のベテランたちも、転職先を探し始めた。
俺は、転職せずに残った。先代の社長に育ててもらった恩がある。どんな状況になっても、この会社のために働き続けようと思っていた。
だが、ある日、哲夫が俺に言った。
「岡田さん、そろそろ辞めてくれないかね?」
「それはどういう意味でしょうか?」
「うちは65歳が定年なんだが、お前のような年寄りが給料をもらいすぎなんだよ。あんたが人件費を圧迫してるんだ」
「給料を下げていただいて構いません。私はこの会社のために、しっかり働いてきたつもりです」
「どうせ、親父に気に入られてたからって調子に乗ってるんだろ。俺はそんなの知らないぞ」
「退職は、受け入れるわけにはいきません」
「ああ、そうか。それなら首にしてやる! 今すぐ出て行け! あんたの痕跡や資料は全部破棄していけ。処分の手間をかけるな!」
俺は、まず自分の机の中の資料を、全部処分した。そして、会社のシステム室に向かった。俺は長年、この会社のコンピューターシステムの管理責任者を務めてきた。先代の社長の肝入りで開発した、製造ラインと生産管理のシステムだ。俺は、その全てを消去した。
数時間かけて、会社に残っていた俺の痕跡を、綺麗さっぱり消した。挨拶もせずに工場を出て、家に帰った。家族には、急な退職のことを話した。
翌日、電話が鳴った。哲夫だった。
「おい、あんた何をしやがった! システムを消したな!」
「何をおっしゃっているのか、さっぱりわかりませんね。『痕跡や資料は全部破棄していけ』という社長のご指示に従ったまでですが」
「冗談じゃない! 最後の最後まで使えない男だ!」
彼はそう叫ぶと、電話を切った。俺はこれで、40年間続けてきた会社人生に幕を下ろした。
それから3か月後、会社は倒産した。システムが停止し、工場の製造ラインは完全にダウン。業務は全て停止し、信用も失った。社員たちは一斉に退職し、哲夫は親族からも見放された。
一方、俺はというと、退職から1か月後、先代の娘で、銀行員として働く裕子さんから連絡があった。彼女は知り合いのベンチャー企業で、経験のある技術者を探していると言った。
「父は以前、岡田さんを『優秀で物覚えのいい人間だ』と自慢していました。ぜひ紹介したいと思いまして」
こうして俺は、今、新しい会社で若い技術者たちと一緒に働いている。知識と経験を伝えながら、逆に彼らから最新の技術について教わることもある。いくつになっても学びがあるということは、嬉しいものだ。
体と頭が動く限り、俺は誰かの期待に応えていきたい。


