毎晩午前0時13分、私の部屋の玄関を誰かがノックする。最初は気のせいだと思った。でも、ある朝、玄関の前に古い女物の草履が置かれていた。大家に相談すると、彼は青ざめて言った。「10年前、その部屋の前で女が1人死んでいるんだ」その夜、扉の向こうから聞こえた声に、私は凍りついた。「やっと帰ってきたね」それは、10年前に死んだはずの母の声だった。そして、母が残したノートには「鏡を見せてはいけない」と…

毎晩午前0時13分、私の部屋の玄関を誰かがノックする。最初は気のせいだと思った。でも、ある朝、玄関の前に古い女物の草履が置かれていた。大家に相談すると、彼は青ざめて言った。「10年前、その部屋の前で女が1人死んでいるんだ」その夜、扉の向こうから聞こえた声に、私は凍りついた。「やっと帰ってきたね」それは、10年前に死んだはずの母の声だった。そして、母が残したノートには「鏡を見せてはいけない」と...

午前0時13分、私は毎晩同じ時間に目を覚ますようになった。最初は偶然だと思っていた。しかし、ある夜、玄関から「コン、コン」と控えめに扉を叩く音が聞こえた。

覗き穴を見ても誰もいない。布団に戻ろうとした瞬間、もう一度「コン、コン」。今度はさっきより近かった。

翌朝、玄関の前に置かれていたのは、見覚えのない古い女物の草履だった。私は怖くなり、大家に相談した。大家は草履を見るなり顔色を変えた。

「それ、捨てない方がいいよ」
「どうしてですか?」
「この部屋の前で、10年前に女の人が1人亡くなっているんだ」

本当に恐ろしいのは、その女が死んだことではなかった。その夜、午前0時13分、玄関が「コン、コン、コン」と3回鳴った。そして、扉の向こうから女の声がした。

「やっと帰ってきたね」

私はその瞬間、気づいた。その声は、10年前に死んだはずの母の声だった。

【サキ・ナオ 32歳】

私が東京の小さな出版社で働きながら、この古いアパートに引っ越してきたのは3年前のことだ。築40年以上の木造アパートで、駅から徒歩15分。綺麗とは言えなかったが、家賃も安く、仕事場まで電車1本で通えた。1人暮らしには十分だった。少なくとも、あの夜までは。

最初に異変を感じたのは、引っ越してから2週間ほど経った頃だった。夜中にふと目を覚ますと、部屋の中が妙に静かだった。時計を見ると、午前0時13分。なぜかこの時間だけは、今でもはっきり覚えている。

喉が渇いて台所へ水を飲みに行こうとした、まさにその時だった。玄関の方から「コン、コン」と小さく扉を叩く音が聞こえた。こんな時間に誰だろう。時計を見る。0時13分。もう一度音がした。

強く叩いているわけではない。まるで、こちらが起きていることを知っていて、遠慮がちに呼びかけているような音だった。私はしばらく動けなかった。そして恐る恐る玄関へ向かい、覗き穴から外を見た。しかし、廊下には誰もいない。古い蛍光灯がチカチカと明滅しているだけだった。

気のせいかと思い布団へ戻ったが、それから毎晩だった。午前0時13分になると、必ず玄関から音がする。

最初の3日間は無視した。4日目には玄関まで行った。5日目には覗き穴から外を確認した。しかし、誰もいない。思い切って声をかけてみた。

「誰ですか?」

返事はなかった。ただ、扉の向こうから何かを引きずるような音が聞こえた。そして翌朝、玄関を開けた私は、そこで立ち尽くした。扉の前に古びた草履が一足置かれていた。女物だった。雨に濡れたように、それが黒く湿っている。なぜか強い嫌悪感と、胸の奥にひどく懐かしい感覚が走った。まるで、昔から知っているものを見つけたような。

その日の夜、私は大家のところへ向かった。草履の話をすると、大家の顔から血の気が引いた。

「その草履、まだ玄関にあるのか?」
「はい」

大家はしばらく黙っていた。そして、私の目を見ずに言った。

「あの部屋で前に何があったか、聞いてないよね」
「いいえ」

「10年前、あの部屋で女の人が1人亡くなってるんだ」

私は何も言えなかった。だが、大家が続けた言葉を聞いた瞬間、背中に冷たい汗が流れた。

「その女の人ね。亡くなる前の何日間も、毎晩誰かが来るのを待っていたそうだよ」
「誰を?」

大家は答えなかった。ただ、玄関の方を見つめながら小さく呟いた。

「息子さんを」

その言葉を聞いた瞬間、私はなぜか返事ができなかった。

「息子さんですか?」
「そう。確か20代くらいの息子だったと思う。でも、その息子さんはもうずっと前に家を出ていたらしい」

「じゃあ、なぜその女性は… 」

大家は答えず、しばらく黙っていた。古いアパートの狭い管理人室には、時計の音だけが響いていた。やがて大家は重い口を開いた。

「その女の人、亡くなる直前まで毎晩玄関の前に草履を揃えていたんだって。息子が帰ってきた時、すぐに家へ上がれるように、って」

私は背筋に寒いものを感じた。なぜか今朝、自分の部屋の前に置かれていた草履を思い出していた。

「でも、息子さんは帰ってこなかった。亡くなった原因は病気だったって聞いてる。ただ… 」

大家はそこで言葉を止めた。

「ただ、最後の日だけ様子がおかしかったらしい。夜中に何度も玄関を開けようとしたそうだ。『帰ってきた。今度こそ帰ってきた』って言いながらね」

私は黙って聞いていた。

「でも、外には誰もいなかった。そして翌朝、その女性は亡くなっていた」

管理人室を出ると、外はすっかり暗くなっていた。自分の部屋へ戻る途中、何度も後ろを振り返った。誰かに見られているような気がした。部屋に入ってからも落ち着かず、玄関に置かれたままの草履が気になり、耐えられなくなってゴミ袋に入れて捨てることにした。

ところが、袋を玄関の外へ出した瞬間だった。

背後から「コン」と音がした。振り返ると玄関の扉。誰もいない。もう一度「コン」。今度は扉の内側からだった。私は息を止めた。まるで、誰かが部屋の中から扉を叩いている。しかし、私は今玄関の外にいる。

恐る恐る扉を開けた。部屋の中には誰もいなかった。ただ、玄関の床に何かが落ちていた。拾い上げると、それは1枚の古い白黒写真だった。若い女性と小さな男の子が映っている。女性は笑っている。男の子も。写真の裏には、筆書きの文字があった。

「なおへ」

その瞬間、頭の中が真っ白になった。

「なお」。私の名前だった。

もちろん、この女性も男の子も知らない。それなのに、写真に映った女性の顔だけは、なぜか見覚えがあった。いや、正確には顔ではない。その笑い方。少しだけ目を細めて、口元を優しく上げる癖。それは、幼い頃に1度だけ見た母の笑顔と全く同じだった。

私の母は、私が7歳の時に亡くなっている。父からは病気だったと聞かされていた。そして私は、母の写真をほとんど持っていなかった。震える手でもう一度写真を見ると、裏面の先ほどの文字の下に、さらに小さな文字があることに気づいた。

「この部屋で待っています」

その夜、私は一睡もできなかった。ベッドに横になっても、頭の中からあの写真が離れない。母が私に宛てたものなのか。それとも、ただ同じ名前の別人なのか。そう考えようとした。だが、写真に映っていた女性の顔を思い出すたび、胸の奥がざわついた。

私は幼い頃、母の顔をほとんど覚えていない。残っているのは断片的な記憶だけだった。雨の日に傘を差してくれたこと。熱を出した夜、額に手を当ててくれたこと。そして、「なお、いい子にして待っていてね」と言われた記憶。それがいつのことだったのかは思い出せなかった。ただ、その言葉だけが妙に鮮明に残っている。

午前0時を過ぎた。私は時計を見ないようにしていた。しかし、時間が近づくにつれて、部屋の空気が変わっていくのが分かった。静かすぎる。冷蔵庫の音も、外を走る車の音も聞こえない。

そして午前0時13分。

「コン」

来た。私は布団の中で息を殺した。今夜は絶対に玄関へ行かない。そう決めていた。

ところが、2回目の音が鳴った直後。玄関の下から、何かがゆっくり差し込まれた。私は目を疑った。古い紙だった。床の上を滑るようにして、部屋の中へ入ってくる。恐る恐る近づき、それを拾った。

紙には、たった1行だけ書かれていた。

「どうして帰ってこなかったの?」

手が震えた。私はすぐに紙を床へ落とした。その瞬間、玄関の向こうから女の声が聞こえた。

「なお」

私は凍りついた。その声を知っていた。幼い頃の記憶に残っている声。母の声だった。

「お母さん… 」

自分でも驚くほど小さな声が出た。返事はない。私は玄関へ近づき、覗き穴を見た。しかし、廊下には誰もいない。ただ、覗き穴の向こうが真っ暗だった。おかしい。廊下には蛍光灯がある。いつもなら黄色っぽい光が見えるはずだ。少し身を引いた、その時だった。

覗き穴の向こうから、「カチっ」と音がした。誰かが反対側から覗き穴に目を近づけた音だった。私は反射的に後ろへ飛び退いた。

「見てるの?」

女の声がした。今度ははっきり聞こえた。

「なお、そこにいるんでしょ」

私は口を抑えた。声を出してはいけない。そう思った。すると、突然玄関のドアノブがゆっくり回り始めた。

ガチャ。ガチャ。

鍵は閉めてある。それでも、ドアノブは何度も動く。そして女が囁いた。

「開けて」

私は動けなかった。

「お願い」

ドアの向こうから、すすり泣く声が聞こえる。

「ずっと待ってたの」

その瞬間、私はあることに気づいた。泣いているのに、声が玄関の外から聞こえてこない。すぐ後ろ、私の耳元から聞こえていた。

私はゆっくり振り返った。誰もいない。だが、窓ガラスに映った自分の背後に、白い着物を着た女が立っていた。

振り返ることができなかった。窓ガラスに映っているものをもう一度確認する勇気がなかった。ただ、背中のすぐ後ろに誰かがいる。そんな感覚だけがはっきりと伝わってくる。息をすることさえ怖かった。

窓ガラスを見る。そこには私が立っている。そして、その背後に白い着物を着た女。髪は長く、顔は見えない。肩から胸元まで黒い髪が垂れ下がっている。

私は目を閉じた。もう一度開く。女は消えていた。

ほっとした瞬間、耳元で囁かれた。

「なお」

私は叫び声をあげ、玄関まで走った。ドアを開けようとした。しかし、鍵に手をかけた瞬間、動きが止まった。

大家の言葉を思い出した。最後の日、あの女性は玄関を何度も開けようとしていた。帰ってきた、と言いながら。

私は鍵から手を離した。その直後、玄関の向こうからまた声がした。

「どうして開けてくれないの?」

私は答えなかった。すると、ドアの下から黒いものがゆっくり入り込んできた。髪だった。長い女の髪が、隙間から1本、また1本と伸びてくる。私は後ずさった。髪は床を這い、私の足元へ近づいてくる。その先端が私の足首に触れた。冷たい。まるで濡れた糸のようだった。私は必死に足を振り払った。すると髪は一瞬で玄関の向こうへ引っ込んだ。そして、静かになった。

私はしばらくその場に座り込んでいた。やがて朝になった。外が明るくなると、私はすぐに大家のところへ行き、昨夜のことを全部話した。大家は黙って聞いていたが、話し終えると深いため息をついた。

「やっぱり出たか…

Thumbnail

その言葉に私は食い下がった。

「大家さん、あの部屋で何があったんですか?」

大家はしばらく迷っていた。そして、古い鍵束を取り出した。

「本当は見せたくなかったんだけどな」

連れて行かれたのは、アパートの奥にある倉庫だった。そこには古い家具や段ボールが積まれていた。大家は一番奥から古びた木箱を取り出した。

「前の住人が残していったものだ」

箱を開ける。中には古い手紙や写真、新聞記事の切り抜きが入っていた。その中の1枚を見た瞬間、私は息を飲んだ。10年前の新聞記事だった。そこにはこう書かれていた。

「1人暮らしの女性、自宅で死亡。身元確認に時間」

写真に映っているアパートは、私が今住んでいる建物だった。そして、記事の女性の名前を見た瞬間、手から新聞が落ちた。

サキ・ミヨコ。

私の母と同じ苗字だった。

「母… 」

声が震えた。大家は何も言わなかった。私は慌てて次の紙を手に取った。そこには当時の警察による身元確認について書かれていた。女性には息子が1人いた。しかし、その息子は10年前の時点で、すでに死亡していた。

私は読み間違えたのかと思った。だが、何度読み返しても同じだった。

「息子さんは… 亡くなっていた?」

大家が静かに頷いた。

「だから警察も随分不思議がっていたそうだ」

「じゃあ… 母は誰を待っていたんですか?」

大家は答えなかった。その代わり、木箱の底から1枚の写真を取り出した。昨日、私の部屋で見つけたものと同じ写真だった。しかし、こちらには裏側に別の文字が書かれていた。私は震える手で読み上げた。

「…

が帰ってくるまで、この部屋を離れてはいけない」

その瞬間、倉庫の外から「コン、コン」と扉を叩く音がした。大家と私は同時に顔を上げた。時計を見る。

午前0時13分。

そして、倉庫の扉の向こうから女の声がした。

「お母さんを置いて行かないで」

私はその場から動けなかった。大家も同じだった。倉庫の扉の向こうから、もう一度「コン、コン」と音がした。今度はさっきよりも弱い。まるで、扉の向こうにいる何かが私たちの返事を待っているようだった。

大家が震える声で言った。

「返事をしちゃいけない」

私は黙って頷いた。2人とも息を殺していた。すると、扉の向こうから女の声がした。

「なお」

私は反射的に大家を見る。大家は唇に指を当て、首を横に振った。

「なお、そこにいるんでしょ」

声は徐々に近づいてくる。まるで、扉のすぐ前ではなく、私の頭の中から聞こえているようだった。そして突然、扉の向こうで何かが床に倒れる音がした。

数分経っても、何も起こらない。大家が慎重に扉へ近づき、ほんの少しだけ隙間を開けた。しかし、廊下には誰もいなかった。ただ、床に濡れた足跡が残っていた。

裸の足跡だった。しかも、その足跡は廊下から倉庫へ向かっているのではなかった。倉庫の扉の前から、こちら側へ向かっていた。つまり、誰かが倉庫の中に入ってきた後、私たちの背後を通って扉の外へ出ていったように見えた。

私は恐る恐る振り返った。さっきまで私たちが立っていた床に、濡れた足跡がいくつも残っている。そして、その最後の一歩は、私のすぐ後ろで止まっていた。

「いつから… 」

その時だった。倉庫の奥にある棚の上に、1冊の古いノートが置かれていることに気づいた。一見すると普通のノートだが、表紙には「サキ・ミヨコ」と書かれていた。

母の名前だった。

ページを開くと、日付ごとに短い文章が残されていた。最初のページには「今日もなおから連絡がない」と書かれていた。次のページには「きっと忙しいだけ。明日には帰ってくる」。さらに数日後には「玄関に草履を置いた。帰ってきたら、すぐに上がれるように」。

私はページをめくる手を止められなかった。だが、私はその記憶を持っていない。母からの連絡も、帰る約束も、何も。

さらに読み進めると、文章の雰囲気が変わっていった。

「今夜、玄関の外に誰かが立っていた。なおの声がした。でも扉を開けたら誰もいなかった」
「あの子は帰ってきている。でも、私の前には姿を見せてくれない」
「お願いだから、もう私を呼ばないで」

そして最後のページには、震えた文字でこう書かれていた。

「なおの声を真似して、私を外へ連れ出そうとしている」

私はノートから顔を上げた。大家が青ざめている。

「どういう意味ですか?」

大家はしばらく黙っていた。そして、ようやく口を開いた。

「10年前、あの女性が亡くなる前の夜。近所の人が、玄関の前で誰かと話している声を聞いているんだ。女の人はずっと『あなたはなおじゃない』って叫んでいたそうだ」

背中が冷たくなった。

「じゃあ、母は何を見たんですか?」

大家は首を振った。

「それは誰にも分からない」

ただ、大家がノートの最後のページを指差した。

「ここを見て」

私は目を近づけた。最後の文章の下に、薄く別の文字が残っていた。さっきまで気づかなかった。

そこにはこう書かれていた。

「もしなおがこの部屋に帰ってきたら、絶対に鏡を見せてはいけない」

その言葉を読んだ瞬間、胸の奥が凍りついた。なぜなら、その夜私の部屋には、母の写真を見つけたあの窓の横に、古い姿見が1枚置かれていたからだ。

「鏡を見せてはいけないって、どういうことですか?」

私が尋ねても、大家は答えなかった。ただ、何かを思い出そうとするように目を伏せている。やがて、小さな声で言った。

「あの鏡は、最初から部屋にあったものじゃない」

「じゃあ、誰が置いたんですか?」

大家は首を振った。

「分からない。ただ、10年前にミヨコさんが亡くなった後、部屋の片付けをした時には、もう置かれていた」

私は急に、自分の部屋にある姿見が怖くなった。昨日まで何度も見ていた鏡だった。ただの古い家具だと思っていた。しかし、母のノートに書かれていた言葉を知ってしまった今では、とても普通の鏡には思えなかった。

大家は木箱の中から、もう1枚の紙を取り出した。

「これも持っていきなさい」

そこには母の字で、短い文章が書かれていた。

「鏡の中にいる人は、私たちが知っている人の顔をしている。でも、本当の姿ではない。名前を呼ばれても、絶対に返事をしてはいけない」

「母はこの鏡を見たんですか?」

大家は少し迷ってから頷いた。

「見たからこそ、怖がっていたんだと思う」

その瞬間、私はある疑問を抱いた。

「じゃあ、なぜ私はこの部屋に入居できたんですか? 母が亡くなった部屋ですよね?」

大家の顔が歪んだ。それは、まるで何かを隠しているような表情だった。しかし、その先を聞く前に、倉庫の外から何かが落ちる音がした。

ガタン。

2人とも振り返った。大家が慌てて扉を閉める。私は息を殺した。廊下から、ゆっくりと足音が聞こえてくる。ペタ、ペタ、ペタ。裸の足音だった。しかも、こちらへ近づいている。

大家が小声で言った。

「帰りなさい」

大家は私の腕を掴んだ。

「今すぐ帰って、鏡を布で覆うんだ。絶対に自分の顔を映さないようにしろ」

私は急いで倉庫を出た。廊下には誰もいない。だが、床には濡れた足跡が続いていた。その足跡は、私の部屋へ向かっていた。

私は走って部屋へ戻った。玄関の鍵を開け、中へ入った瞬間、嫌な気配が肌を撫でた。部屋の電気をつける。そして、目が釘付けになった。

窓の横に置かれた鏡。鏡には部屋の中が映っている。ベッド、机、窓、そして私。何もおかしくない。そう思った。

だが、1つだけ違っていた。

鏡の中の私は、笑っていた。私は笑っていない。なのに、鏡の中の私は口元を大きく歪めて、こちらを見ていた。

私は一歩後ずさった。鏡の中の私は、ゆっくりと右手を上げた。私の右手は動いていない。それでも、鏡の中の私は指を1本だけ伸ばした。そして、鏡の向こうから母の声がした。

「なお、その人、本当にあなたなの?」

私は息を止めた。次の瞬間、鏡の中の私の背後に、白い着物を着た女が立っていた。

今度は、はっきりと顔が見えた。

その顔を見た瞬間、私は理解した。母は鏡を見て、鏡の中の私を見て、怯えていたのだ。そして母は、震える唇でこう言った。

「なお、お願いだから、その鏡から離れて」

その言葉が聞こえた瞬間、鏡の中の私は、ゆっくりと首を傾げた。そして、母の声ではなく、私自身の声で囁いた。

「お母さん、私、帰ってきたよ」

私は叫び声をあげ、鏡に掛かっていた布を引き裂くようにして、その鏡を覆った。