「おい、宮本。ちょっとこっち来い。」
呼び出したのはレナさんだった。取引先に出す見積もり書を机に叩きつけながら、彼女は言った。
「桁が違うんだよ。見ろよ、この金額。お前、何やってんだ?」
「何のことですか?」
身に覚えがなかった。俺が最後に見積もり書を作成したのは数ヶ月前。なのに、レナさんが突きつけてきた書類には、わずか数日前の日付が入っていた。そして作成者の欄には、しっかりと俺の名前とハンコが押してあった。
「あんたの名前が入ってるんだよ。作成者としてな。」
「そんな…何かの間違いじゃないですか?僕はここ数日、見積もり書なんて作ってません。」
「はっ。高卒はダメだね。何もできない。こんなことで足を引っ張らないでくれる?」
レナさんは俺の言い分を聞こうともしない。彼女はこの会社で俺の指導係をしている先輩社員で、某有名私立女子大を出たいわばエリート。父親は同じ会社の営業企画統括部長を務める沢木さんだ。この親子、揃って高卒の社員を馬鹿にしていることで有名だった。
入社してからずっと、レナさんには理不尽な扱いを受けてきた。ミスをすれば「やっぱりバカ」と怒鳴られ、少しでも成果を出せば「私が指導しているから」と手柄を奪われる。その上、高卒の社員を潰すために、親子で点数稼ぎをしているらしいという噂まで聞いた。
数週間前にも、総務に提出するはずだった書類が紛失する騒動があった。実際に書類をなくしたのはレナさんだったのに、彼女は高卒の女性社員に責任を押し付けた。その女性社員は、今は休んだまま戻ってこない。
「俺も気をつけないとな。」
先輩と言葉を交わしたその数日後、俺は同じ罠に嵌められた。
「ほら、これ。どう説明するつもりだ?」
レナさんは得意げな顔で俺を見る。すり上げた目で、口元を歪ませた。その表情を見た瞬間、俺の中で何かがはっきりした。あの女性社員と同じように、俺は嵌められたんだと。
「とにかく、僕は何も知りません。それに、僕を子供扱いするのもやめてください。」
「何よ、事実じゃない。あんた、高卒でしょ?世の中舐めてるんだよ。」
「そうかもしれませんけど、ちゃんと確かめもせずに追い込もうとするのは、そっちの方こそ子供みたいじゃないですか?」
俺が言い返すと、レナさんは一瞬固まった。そして、足を踏み鳴らして部屋を出ていった。
翌朝、今度は部長の沢木さんに呼び出された。会議室に行くと、親子揃って待ち構えていた。
「宮本君。ミスをしたことを認めないそうじゃないか。私の目が悪いのかな?作成者の欄には、君の名前とハンコがあるんだよ。」
「ですから、それは昨日もお伝えしました。僕は作成していません。誰かが勝手にやったんです。」
「ほう。君は随分と図太い神経をしているんだな。」
部長は冷笑しながら言った。
「どうせ高卒で何もできないんだから、さっさと認めて辞めたらどうだ?」
「うん。辞めても生きていけないだろうけどな。」
レナさんが追い討ちをかける。親子で好き勝手に俺を攻撃してくる。感情的になれば負けだ。そう自分に言い聞かせて耐えた。
「どうして、そこまで言われなければいけないんですか?僕はやっていません。」
「やっていないだと?君が重要な取引先にミスをしたんだ。そしてそれを認めずに開き直る。それだけの話だろう。」
「いいえ。この見積もり書は、僕が作ったものじゃありません。」
「いいや。この見積もり書の作成者は、親会社の社長が指名している。君を指名しているんだよ。そんなことも忘れるとはな。」
「だから、こいつはバカなのよ。」
親子はここぞとばかりに俺を罵倒する。そして、最後に部長が言った。
「まともに親に躾もされずに、かわいそうだとも言えるな。」
「君の親は、きっと無能なんだろうな。顔を拝ませてもらいたいものだ。」
その一言で、俺の何かが切れた。
「…親を、どうのこうのと言うのは、やめてください。今から親を呼びます。それで、実際に顔を見て、同じことを言ってみてください。」
「ああ、好きに呼び出して構わんよ。」
俺はポケットからスマホを取り出した。一瞬、親子がぎょっとしたのが分かった。俺は会議室を出て、母に電話を入れた。
「母さん、悪いんだけど、会社に来てくれないか?」
「分かった。10分で行く。」
俺は会議室に戻り、言った。
「10分ほどで到着します。」
親子は大笑いした。
「本当に呼んだよ。ここまでバカだとは思わなかった。」
「その通りね。あんな嘘、すぐにバレるのに。」
俺は何も言わずに待った。約束通り、10分後に母が会議室の扉を開けた。
「お待たせしてすみません。」
その顔を見た瞬間、部長とレナさんは固まった。まるで親子だと見せつけるかのように、同じ表情で。
「し、社長…?」
「ああ、おはようございます。どうされました?息子のリツが、私から指示を受けて作成した見積もり書にミスがあってトラブルになっていると聞いたものですから。」
母は落ち着き払った声で言った。親子は信じられないものを見るような目で、俺と母を交互に見つめる。俺の母は、この会社の親会社である広告代理店の社長だった。
「私はこの見積もり書を、レナさんに作成してもらえるように頼んだはずよ。大事な昔からの取引先だから、ミスがあってはならないとね。」
「あ、あの、それは…」
「だから、仕事が確実で取引先とも面識があるレナさんを指名したの。覚えていない?実は私も少し思うことがあって、あなたを試してみたのよ。プライドが高いあなたなら、助けを求めずに自分でやろうとするだろうと思ってね。そして、もしミスをしたら、立場の弱い誰かに全部を押し付ける。まさか、想像通りになるとは、ちょっと怖いぐらいよ。」
母の言葉に、レナさんは顔を真っ青にして黙り込んだ。母は続ける。
「あなた方が親子であろうが、この状況は見過ごせませんよ。しっかりと調べさせてもらいます。結果と処分をお伝えします。」
親子は何も言えずに、うつむいた。これまでの出世のために、高卒社員を潰してきた行為が全て暴かれた。結局、二人は同じ日に辞表を提出して、会社を去っていった。
「悪かったわね。息子とはいえ、妙なことを頼んで。」
「本当だよ。俺はスパイみたいなもんだからね。」
母は小さく笑った。彼女は子会社から上がる不穏な報告と、その裏にいる沢木親子をずっと気にかけていた。注意や忠告をしても、子会社では揉み消されてしまう。だから、就職先を探していた俺に、この会社への潜入調査を頼んだのだ。
「よくやったわ。おかげで、問題は解決した。」
「まあ、お前の息子だしな。」
俺はそう言って笑った。母はとんでもない人生を選んだ。会社を経営しながら、結婚して俺を育てるという選択もした。誰かは俺のことを「二代目」だと見るかもしれない。しかし、俺はそこに目を向けずに働こうと思っている。
俺がすべきことは、母のために堅実に働いて、会社の業績アップに貢献することだ。野望は燃やさない。自分のなりに、いい社員を目指そうと心に決めている。



