「オタクのブレーキ、そろそろ特許の期限切れるでしょ。もう内製化するから、契約終了で」…

「オタクのブレーキ、そろそろ特許の期限切れるでしょ。もう内製化するから、契約終了で」...

「内製化するから」

その一言が、あまりに自然に、あまりに軽く、取引先の担当者の口からこぼれ落ちた。

うちの特許を、内製化だと?

俺は岡沢。64歳。機械部品を製造する会社の社長を務めている。ネジやナットといった馴染みのある部品から、ブレーキのような専門性の高い部品まで手がけているのがうちの強みだ。特に、父の跡を継いでからは安全性が何よりも求められる部品に力を注いできた。

中でも、特許登録済みのブレーキはうちの最大の武器だ。この特許は、俺が社長を継いだ頃に登録が完了した。約20年前のことだ。強い思い入れのある一品でもある。

いつか息子に胸を張って渡せるものを作り続ける。それが俺の仕事だと信じてきた。

うちの取引先の中に、フォークリフト業界でも最大手と肩を並べる会社がある。父の代から続く、大切なお得意様だ。様々な部品を納品しているが、中でも例の特許ブレーキがメインと言っていいだろう。

フォークリフトは、工場や倉庫で重い荷物を持ち上げ運ぶための産業車両だ。物流の現場では欠かせない機械であり、その性能は作業員たちの命に直結する。だからこそ、ブレーキの性能は特に重要視される。

今まで、先方とは良好な関係を築けていたと思う。うちの部品の精度や安全性を高く評価してくれていたし、俺たちも先方の誠実な対応に心地よさを感じていた。

しかし、それは一人の男の出現で狂い始めたのだ。

「このブレーキ、特許だよね。うちでも作れそうだけどね」

俺は嫌な記憶を思い出し、無意識に作業の手を止めた。俺は社長だが、手が空いている時は現場に出てみんなと一緒に作業をしている。汗を拭い、ふとその人物の名前を思い出す。

鈴木。40代くらいの男性だ。年の割に子供っぽい言動が目立つ。

鈴木は半年前に、取引先の支社から本社へと移動してきて、うちの担当になった。支社でそれなりの成果を上げたからこそ、本社に上がってこれたのだろう。だが、それにしては自分の偏見で物を言うところがあった。

おまけにプライドが高く、「元受けは下受けよりも偉い」と言わんばかりの物言いだ。初めてうちに来た時も、納品しているブレーキを手に取り、吐き捨てるようにあの言葉を言ったのだ。

重い荷物を積んだフォークリフトを、確実に寸分の狂いなく止める。言葉だけ聞けば簡単に思えるかもしれない。しかし、その確信は俺たちが一丸となって編み出した特殊な合金素材と、独自の加工技術のおかげだ。素材の選定から仕上げの工程まで、機械任せにできない部分が何箇所もある。だからこそ、他の誰にも真似できない安全性に仕上げられる。

それが認められたからこそ、特許登録だって認められたのだ。

担当になったばかりの相手だ。ここは大人の対応をするべきだろう。俺はそう自分に言い聞かせ、その場は飲み込んだ。

いかんいかん。少し落ち着かないと。

俺は首を振り、一人呟いた。気がつけば、無意識にタオルを強く握りしめていた。

鈴木とは頻繁にやり取りするわけではないが、実は近日中にうちの事務所で会う約束をしていた。鈴木に会うと思うと、ふとした時にあの日の嫌な気分が蘇ってくるのだ。

先方側から確認したいことがあるとのことだが、詳細は聞かされていない。こちらの準備もあるからと内容を尋ねても、教えてくれなかった。今回は一体何を言われるのだろう。そう思うと、自然と眉間に皺が寄る。

あの発言のせいもあるが、そもそも鈴木はむちゃくちゃなのだ。納期や金額に関して強引な要求を突きつけてきたり、なぜか特許の技術面について探りを入れるようなメールを社員に送り付けたりと、何を考えているのかよくわからない。

特に特許に関しては、俺が厳重に注意をした。単に取引先として理解を深めたかっただけだと鈴木は言ったが、その時のニヤニヤした顔は薄気味悪かったのを覚えている。

元受けは偉いから何をしてもいいと思っているようだが、本来、元受けと下受けは支え合う関係だ。俺たち側にだって、言うべきことはある。

そうだ。清和になる必要はない。こちらは泰然として構えていればいい。言うべきことは言い、やるべきことをやる。

その日は、約束の時間よりも1時間も前に鈴木が姿を表した。

「え、もう来たのか。それは困ったな」

部下からの報告に、俺は思わず困り果てた。この時、俺は鈴木の会社とは別の会社の社長である田中さんとの打ち合わせの真っ最中だったのだ。

田中さんもまたうちの大切なお得意様であり、俺にとっては友人であり、年の近い兄のような存在でもある。取引内容について話し合っているところで、最低でもあと30分は話し合いが終わりそうにない。

「申し訳ないが、鈴木さんにはお待ちいただいて」

俺が部下にそう言った直後だった。

「失礼」

報告に来た部下を押しのけるようにして、鈴木が姿を現した。

「あれ? 打ち合わせか何かですか? どうせ暇だろうと思って、早めに来ちゃいました」

鈴木は挨拶もせず、俺と田中さんを遠慮なく眺めた。

「打ち合わせ? いや、田中さんは……」

一瞬、何のことかと思ったが、すぐにピンと来た。田中さんはうちと似たタイプの作業服を着ている。それゆえに、田中さんをうちの社員だと勘違いしたのだろう。

俺はとにかく咳払いをした。

「田中さんは、大切なお客様です。約束の時間まで1時間もありますし、どうか別室でお待ちください」

田中さんは驚いていたが、黙って俺たちの様子を見守っている。

「いやいや、どう見ても社内の人間との打ち合わせか何かでしょ。俺と会うのがおっくうだからって、言い訳は見苦しいですよ」

自分と会うのがおっくうだという自覚はあったのか。思わず心の中で呟いたが、今はそんな場合ではない。

「ですから、岡沢社長。構いませんよ。私が退出しましょう」

「そんな必要は……」

田中さんが立ち上がるのを見て、俺は慌てた。

「いや、いても構わないですよ。どうせすぐ済む話だから」

鈴木は言いながら、勝手に田中さんのそばの椅子に腰かけた。そして、俺と田中さんをよそに、勝手に話し始めた。

「要件は2つです」

鈴木は指で数字を示しながら言う。

「1つは、ネジやナットなどの汎用性の高い部品の値下げです。現在の価格から、さらに2割以上の値引きを要求します」

うちの部品は確かに単価が一般的には高い部類に入る。だが、その分質重視で寿命も長い。長い目で見ればコスパもいいという点を、本社の社長は気に入ってくださっている。

俺は鈴木側の社長と話したこともある。長い付き合いなので、社長自らそう言ってくれたのは確かだ。

「じゃあ、まあ、それはいいでしょう」

鈴木は、いつもなら何倍にもして言い返してくるところ、すぐに引き下がった。

「では、2つ目です」

この2つ目の要求に、俺は耳を疑った。

特許ブレーキの製造工程と素材に関する、詳細な開示。正直に言って、頭がどうにかなってしまったのかと疑った。

「のためにお聞きしますが、どんなつもりでお尋ねに?」

我ながら冷たい声だったと思う。非常識を越えて、侮辱されたと感じ、手が震える。

「端的に言って、品質管理のためです」

鈴木はそう答えたが、納得できるわけもない。

「両方とも……特に特許ですが、特許が特許である理由を考えたら、そんな質問ができるとは思えません。慎しんでお断りいたします」

俺は大きく息を吐きながら言った。その隣で、田中さんは表情を変えないまま鈴木を見据えていた。

「随分強気ですね。下受けのくせに。まあ、いいでしょう。こっちで勝手に研究させてもらいますから」

は?

これにはさすがの田中さんも驚いたらしい。俺と驚きの声が重なった。

うちの特許を、鈴木側が研究? 何を言っている? 頭の中が疑問で埋め尽くされていく。

鈴木はポカンとした俺と田中さんの顔を見て、失笑した。

「はあ、まあ、前から思ってたんですよ。オタクのブレーキ、内製化できたら楽でいいのにって」

「一体何を……」

俺が口を出そうとすると、鈴木は「まあまあ」と苦笑しながら俺を静止した。

「オタクのブレーキさ、もうすぐ特許の期限切れるでしょ」

確かに特許ブレーキの期限は近い。だが、それがどうしたというのだろう。俺は鈴木の意図が分からず黙っていたが、俺が怯えているように見えたようだ。鈴木はニヤリと笑みを深める。

「高い金払っていちいち納品してもらうなんて、バカバカしい。実物を見てもそんなに難しそうに見えないし、そういう態度を取るならもういいです。自社で内製化するから、契約終了ってことで」

契約終了。その短い言葉が、俺の頭の中で反響した。分かることは、どうやら脅されているらしいということ。

俺たちの努力の成果を、鈴木は簡単に否定した。そんな奴と契約し続けるなんて、こっちから願い下げだと感情が沸騰する。実際に言葉に出しかけて、俺は奥歯を噛みしめた。

頭の中に、社員たちの顔が浮かんだのだ。

もちろん鈴木は許せない。しかし、鈴木のいる取引先は業界最大手と言っても過言ではない大得意様だ。俺が下手に感情的に対処すれば、俺を信じてくれている社員の生活はどうなる?

だが、ここまで侮辱されて、俺たちがただ黙って期限を待つだけだと本気で思っているのだろうか。

俺はふと、ある視線に気がついた。ずっと俺と鈴木のやり取りを黙って見守っていた田中さんだ。田中さんは俺と目が合うと、穏やかに微笑み、軽く頷いた。「大丈夫だ」。なぜか、そんな意味に見えた。

その瞬間、頭に昇っていた血が下がった気がした。今の俺を亡き父が見たら、呆れて怒鳴りつけるところだろう。

「わかりました」

俺はゆっくり口を開いた。鈴木はその言葉を、自分の要求を受け入れると取ったらしい。

「腹が決まりました。じゃ、今後は内製化しますから」

「いえ、断固として拒否します。契約終了。それについては承知いたしました、ということです」

俺が言うと、ようやく田中さんも口を開いた。

「鈴木さん、と言いましたかな? この辺りでお引取りになるなら、今だと思いますよ」

田中さんの発言に、鈴木は眉を潜めた。

「はあ?」

田中さんに矛先が向きそうだったので、俺は慌てて間に割って入る。

「先ほども言いましたが、こちらの方は我が社の社員ではございません」

田中さんが誰で、どんな立場の人間か説明すると、鈴木は目を見開いた。

「は?」

さっき聞いたニュアンスとはまた違う、間の抜けた声を出し、鈴木は俺と田中さんを交互に見る。

「とにかく、契約終了ということですから、もうお引き取りください。それから、特許の使用は全面的に停止させていただきます。鈴木さん、後悔しますよ」

こうして、俺は長年のお得意様との関係に見切りをつけたのだった。

俺は鈴木が帰ってすぐに、契約終了の手続きを開始した。必要書類の準備はもちろん、鈴木のいる取引先本社の社長への挨拶も忘れない。

鈴木が内製化を口にした翌日、俺は取引先の社長に電話をかけた。長年のお得意様ということもあり、一応個人的な連絡先は交換し合っていたのだ。

俺は一連の経緯を説明した。

「というわけですから、書面にて正式に通告いたします。よって、本日以降の特許ブレーキの使用はお認めできません。長らくのご愛顧、誠にありがとうございました」

今までの感謝を一緒に告げると、社長は絶句していた。

「ありえない」と言っていたが、第三者の証言もある。田中さんが自分の存在を明かしてもいいと言ってくれていたので、名前を出させてもらった。さすがに他社の人間の証言があるとなると、社長は俺の言うことが事実であると信じてくれた。

「え? 引き受け内製化? 私は何も……そもそも内製化って、岡沢社長の特許製品をですか? そんなバカな」

ほとんど俺と同じ反応をするので、危うく笑いそうになってしまった。

「今すぐ私がそちらに伺って謝罪したいところではございますが、現在出張中でして」

どうやら飛行機を使っての出張ということで、急には戻れないらしい。社長はひとまず俺の宣言通り、特許ブレーキの使用を停止、つまり全ラインを停止すると言った。特許元のうちが許可しない以上、やむを得ないだろう。

社長は平謝りだった。鈴木本人に事実確認を取り次第、謝罪に向かわせると言ってくれたが、俺は社長にこう切り返す。

「御社には本当に感謝しております。許せないのは鈴木さん自身ですが、その鈴木さんを弊社の担当につけ、今まで放置していた本社の体質そのものにも不審感があります。謝罪自体はお受けいたしますが、特許の再使用を約束するものではありません」

社長は「それでもいい」と言って、電話を切る時までずっと謝っていた。

翌朝、鈴木本人から連絡が入り、直接謝罪に来たいという。やってきた鈴木の隣には、見慣れない人物が同席していた。曰く、取引先の専務だという。

「この度は、大変申し訳ございませんでした」

鈴木以上に頭を深く下げる専務に、俺は「鈴木さんはともかく、どういうことでしょうか」と尋ねると、こういうことらしい。

鈴木が本社に移動し、うちの担当になって間もない頃、鈴木は専務と酒の席を共にしたという。鈴木は本社移動直後で、目に見える成果を早急に上げなければという焦りを抱えていた。

酒の席での雑談は、次第にうちの特許ブレーキの話になり、「いやあ、あれほど高性能なブレーキがうちでも作れたらいいんだがなあ」と酒に酔った専務はそう口にしたらしい。なんてことはない。ただ思ったことを口にしただけだ。

しかし、鈴木はこれを好機と捉えた。

「もしも岡沢社長のブレーキが内製化できるとしたら、私を評価してもらえるんでしょうか?」

「え? 鈴木君、面白いこと言うね。まあ、そんなことが可能になったら、そりゃ評価しないわけないよ」

多分に酔った上での発言。専務としてはそう受け取ったに違いない。ただし、不運なことに鈴木は本気だった。

「まさか……ここで俺は口を挟んだ。以前、鈴木さんはうちの社員に特許の探りを入れるようなメールを送ってきたことがありましたが、あれも……」

鈴木は青ざめた顔で、黙ってこくりと頷いた。

呆れていると、専務は土下座する勢いで再び頭を下げる。

「私の不躾な発言が発端でした。本当に、なんとお詫びすればいいか……」

専務がそこまで言った次の瞬間だった。

「期待してもらえてると思ったのに!」

鈴木が声を張り上げた。大事になってしまったという思いからか、視線があちこちに泳ぎ、唇は震えている。

専務には加担する意図などなく、ただ鈴木が暴走しただけ。俺の中にあった怒りは、自然と憐れみに変わっていた。

鈴木の視線が俺を捉える。俺にすがりつく勢いで手を伸ばしたが、専務に制された。

「内製化は撤回してある。うちが取引先でいなくなれば、あんただって大打撃じゃないのかなあ。だろ? おい、鈴木君、やめるんだ」

専務はなりふり構わず暴れ回り、声を荒げる鈴木を何とか抑えようとしていた。椅子を蹴り上げた鈴木を見て、俺は呆れ果て、大きくため息をついた。鈴木にとって、謝罪よりも自分のしでかしたことをなかったことにしたくてたまらないのだろう。

「そもそもね、内製化なんて、したくてもできないはずですよ。うちだって、ただ黙って期限を待つわけがない。大幅に改良したものを申請し、新たに特許として登録完了済みなんです」

最後の最後に告げると、今度こそ鈴木は沈黙した。

「私はね、特許云々というよりも、あなたがうちの……いや、技術そのものを軽視する言動が許せない。我々が扱うのは、人々の生活や命を守るものだ。長年少しずつ磨き上げてきたものを、簡単に作れると思うな。バカを言っちゃいけない」

俺が言うと、専務は噛みしめるように頷いていた。

「専務さん、あなたや社長は本当に寝耳に水で、謝罪の姿勢も誠実そのものだ。長年の感謝だってある。でも、信頼が崩れたのは事実なんです。申し訳ないが、これ以上謝罪してもらっても、私の気持ちは変わらない」

そう告げると、鈴木のすすり泣きが微かに聞こえ始めた。

その後、鈴木は懲戒解雇になったと聞いた。教えてくれたのは、改めて謝罪にやってきた取引先本社の社長だ。再契約はできない結果になったが、社長は最後まで誠実に謝罪してくれた。

もしかしたら逆上して恨み言を言ってくるかもしれないと思ったが、社長は深々と頭を下げた。

「上に立つものとして、私がひたすらに甘かったのです」

その言葉には重みがあった。

田中さんの伝手から今回の一件が静かに広まった結果、取引先は業界内での信用を大きく損ない、他社との取引にも影響が出始めたと聞いた。あのラインが再開したという話は、それから数年経った今も耳に入ってこない。

業界とは狭いもので、不誠実というものは長く記憶されるものだ。きっと、しばらくは混乱が続いていくのだろう。

俺はと言うと、田中さんや他のお得意様のお声がけがあり、新規の契約がいくつかまとまった。あの日の怒りが、俺たちの技術をさらに一段磨き上げた。新しい特許のもと、うちの仕事はまだまだ続いていく。

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