「お父さん、何か用だったの?」そう聞かれて、俺は「いや、何でもないんだ」と答えた。喉まで出かかっていた『団地が壊される』という言葉を、必死に飲み込んで。たった一つだけの頼みの綱だった娘にさえ、どうしても迷惑をかけることができなかった。老後のために積み上げてきたものは、ほとんど全て、あの娘のために消えていた。なのに、今、住む場所まで失おうとしている。区役所で「保証人が必要です」と言われた時、俺…

「お父さん、何か用だったの?」そう聞かれて、俺は「いや、何でもないんだ」と答えた。喉まで出かかっていた『団地が壊される』という言葉を、必死に飲み込んで。たった一つだけの頼みの綱だった娘にさえ、どうしても迷惑をかけることができなかった。老後のために積み上げてきたものは、ほとんど全て、あの娘のために消えていた。なのに、今、住む場所まで失おうとしている。区役所で「保証人が必要です」と言われた時、俺...

ある朝、神戸の古い団地の郵便受けを開けた時、その日はただの始まりに過ぎなかったはずだ。しかし、そこに入っていたのは行政からの茶封筒が一通。中を開けると、それは自分が暮らす団地の取り壊し通知だった。もう一通は、年金から差し引かれる金額が増えるという税制改正の知らせ。クロス秀夫、64歳。妻を亡くして5年。東京に嫁いだ娘が一人いるが、連絡は滅多にない。

彼は身を固くし、細々と生きてきた。警備員のパート給料と僅かな年金で、質素だが整った生活を守ってきた。アイロンの効いたシャツ、磨かれた革靴、タイプ別に整列された小銭。それらが彼の人生の規律だった。しかし、その規律は、たった二枚の書類によって静かに崩れ始めた。取り壊しまでに新しい住まいを見つけなければならない。だが、この年齢で、保証人など立てられるはずもない。

彼はまず、区役所へ相談に行った。窓口の若い職員は丁寧だったが、答えは決まっていた。「連帯保証人が必要です」と。秀夫は言葉を飲み込んだ。喉まで出かかった「東京の娘に頼れるか」という言葉は、しかし、彼のプライドが許さなかった。家の恥を外に晒すわけにはいかない。そう思うと、何も言えなくなってしまった。

その夜、彼は久しぶりに娘の美香に電話をかけた。東京の物価の高さ、夫の転職、保育料の値上げ。美香の話は、彼の相談を遮るように続いた。彼女の声は疲れきっていて、少しでも余裕がなさそうだった。「お父さん、何か用だったの?」そう聞かれた時、秀夫は「いや、何でもないんだ」と答えた。「ちょっと元気にしてるかなと思って」と。彼は、自分が今、住む場所を失おうとしていることなど、一言も言えなかった。

その後、彼は生活費をさらに切り詰め、夜勤を頼もうと店長に掛け合ったが、年齢を理由に断られた。自転車操業のような生活の中、年末年始のスーパーでの出来事が彼の心を折った。レジで財布を落とし、小銭を撒き散らしてしまったのだ。周囲の客の冷たい視線、ため息。彼は床に膝をつき、一円玉を一枚ずつ拾い集めながら、自分がこの社会で完全に透明な存在になったことを思い知った。

年が明け、彼はハローワークへ足を運んだが、年齢を理由に仕事は見つからない。そして、ついに彼は一つの決断をした。区役所の掲示板に貼られていた、保証人不要の高齢者向けシェアハウスの案内。場所は、北海道の山奥。それでも、年金で収まる家賃と、保証人が不要という条件は、残された唯一の選択肢だった。

電話で手続きを進める中、緊急連絡先を聞かれ、彼は「なし」と答えた。娘の名前を出すべきか迷ったが、出さなかった。その沈黙は、彼の人生の集大成のように感じられた。

出発の朝、彼はガランとした部屋を出た。荷物は、古いスーツケース一つだけ。団地の廊下で、誰にも会わなかった。彼がここに住んでいたという痕跡は、郵便受けの名前が外された時点で、もう完全に消えていた。

駅のホームで列車を待つ間、彼は最後に自分の革靴を見た。何度も磨き上げてきたが、今はもう艶を失い、傷だらけだった。無意識に手を伸ばしかけたが、彼はその手を引っ込めた。生まれて初めて、その靴を磨こうとしなかった。

列車が動き出す。窓の外で、見慣れた街が流れていく。彼は、これまで積み上げてきたものをすべて置き去りにして、行き先も知らない土地へと向かっていた。それが、静かな、しかし確実な、彼の人生の終わりだった。

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