午前1時を過ぎても、窓の外では雪が降り続いていた。今日も3件の手術をこなした。
「先生、少しは休んでください」
看護師の馳辺が苦笑いしながら、湯気の立つお茶を置いていった。
俺の名前は岡本覇斗。43歳。地方都市の総合病院で心臓外科医をしている。かつては大学病院で将来を期待された男だった。それももう15年も前の話だ。今は地域医療が全てだ。町の人々の命を支える。
机の引き出しを開けたのは、ほんの気まぐれだった。古いペンを探していただけのつもりだった。
奥に押し込まれた古いノートの感触に、指が止まる。表紙の角はすり切れている。「心臓手術研究記録」と自分の字で書かれていた。
めくる手が、自分でも分かるほど重い。数式と図——れ子と2人で夜を徹して書き綴った記録だ。あの頃の興奮が紙の上に残っている。
ページをめくっていく。そして最後のページで、俺は息を止めた。そこだけが切り取られていた。残された紙の淵が、15年経っても俺を責めているように見えた。
「先生、まだ起きていらしたんですか?」
ドアの隙間から馳辺が顔を覗かせた。
俺はノートを閉じた。「ええ、ちょっと古いものを整理していただけです。すぐに休みますよ」
「無理はなさらないでくださいね。あなたが倒れたら、この病院は回りません」
ドアが閉まる。俺はノートを引き出しの一番奥に押し込んだ。
あの女のことを、今更思い出してどうする。そう胸の中で呟いて、明かりを消した。
それでも、まぶたの裏に浮かぶのは、15年前の白い背中だった。
れ子。霧島れ子。俺の婚約者だった女。俺の全てを持って消えた女だ。
――15年前、東京の大学病院。
俺とれ子は心臓外科のチームで、同じ研究テーマに取り組んでいた。重症患者のための新しい手術方法。当時はまだ、世界のどこにも完成例がない術式だった。
研究室で、れ子はデータを覗き込んでいた。「あと、ここのカーブの取り方、もう一度シュミレーションし直したいわ」
「いいよ。徹夜になるけどな」
「いつものことでしょ」
彼女はそう言って、いたずらっぽく笑った。
2人で出した結論は、世界の医学を変える可能性を持っていた。学会発表は3ヶ月後に決まっていた。
俺たちは婚約していた。両家の挨拶も済み、式場の予約も入れていた。順風満帆という言葉が、あれほど似合う時期はなかったろう。同僚たちは「天才カップル」と俺たちを呼んでからかった。
鈴木教授も「君たち2人の研究は、この病院の誇りだ」と笑顔で肩を叩いていた。
あの笑顔の裏に何があったのか、当時の俺は何も知らなかった。
発表の2週間前。れ子は研究室に、いつもの時間に現れなかった。電話は通じない。アパートの部屋は、もぬけの殻だった。机の上はきれいに片付けられ、研究データの全コピーも、俺たちが2人で書いたあのノートの最後のページも、消えていた。
そして1週間後、別の病院から速報が出た。
『霧島れ子、新心臓手術を発表』
俺の名前はどこにもなかった。共同研究者の欄も、謝辞の1つさえも。
俺は鈴木教授に詰め寄った。
「岡本君は何か誤解しているようだね。あの研究の主軸は霧島君だ。君は補助に過ぎなかった」
その一言で、全てが終わった。ノートもデータも、れ子の筆跡で書かれていた部分が圧倒的に多かった。俺が共同研究者だと訴える根拠は、何一つ残されていなかったのだ。
病院内で、俺は「成果を横取りしようとする嫉妬深い男」になった。
半年後、俺は大学病院を離れた。逃げるようにして、この地方都市の病院に流れ着いた。
れ子の消息は、それきり分からない。学会の表舞台にも、2度と現れなかった。残ったのは、最後のページが破られたノートだけだった。
――その日、朝の回診を終えた俺の元へ、馳辺が早足でやってきた。
「先生、救急からです。原田正司さん、60歳。心臓がもう限界に近いそうです。画像はもうモニターに出ています」
「それから…元、大学病院の事務をされていた方だそうです」
聞き覚えのある名前だった。原田。15年前、あの病院に出入りしていた事務職員の1人だ。あの混乱の日々、廊下で何度かすれ違った気がする。
ICUで、その男はベッドに横たわっていた。顔色は土気色だが、目だけが妙に澄んでいる。
俺の顔を見るなり、原田はうっすらと笑ったように見えた。
「岡本先生でしたか。こうして再会するとは、人生は分かりませんな」
「お久しぶりです。今はとにかく治療に専念してください。話は後でいくらでも聞きますから」
原田の心臓の状態は、想像以上に悪かった。通常の手術では救えない。だが、ある特殊な方法を組み合わせれば、わずかに道はある。
俺の頭をよぎったのは、15年前にあと1歩で完成させるはずだったあの手術方法だった。
その夜、緊急の症例カンファレンスが開かれた。病院長が、珍しく深刻な顔をしている。
「この症例は当院だけでは難しい。県の心臓血管センターから特別チームを派遣してもらうことになった。責任者は明日、こちらに到着する」
「どなたですか?」
「国内有数の心臓外科医だよ。岡本先生も名前は知っているはずだ」
――霧島れ子先生だ。
部屋の空気が、ふっと遠いた。ペンを握る指先が、わずかに震えていた。
―翌朝、玄関ロビーに彼女は現れた。黒いコートに白いストール。15年前と同じ、髪を1つに結んだ姿。ただ、目元には深い疲れの影があった。
「岡本先生、本日はよろしくお願いいたします」
他人行儀な挨拶だった。
「こちらこそ。患者は原田さんです。状態は厳しいですが、できる限りのことをしましょう」
たったそれだけ言うのに、喉の奥が焼けるようだった。
その時だ。れ子の背後から、制服姿の少女が遠慮がちに顔を出した。中学生だろう。意思の強そうな目をした子だった。
「母さん、私、待合室にいるね」
「ええ、すぐに済ませるから」
「お子さんですか?」
「はい。娘の咲です。ご挨拶しなさい」
「霧島咲です。14歳です。よろしくお願いします」
咲は俺の顔をじっと見上げた。何かを確かめるような目だった。俺は思わず視線をそらした。馳辺が後ろで、俺とれ子を交互に見ている。何かを感じ取った顔だった。
俺は咳払いをして、話を仕事に戻した。
「では10時から手術前カンファレンスを始めます。馳辺さん、会議室の準備をお願いします」
「はい、ただいま」
廊下を歩きながら、俺は自分に言い聞かせていた。これは仕事だ。ただの仕事だ。15年前の話は、もう終わったことだ。
それなのに、引き出しの奥に押し込んだあのノートのことが、頭から離れなかった。破られた最後のページ。あれを破ったのは、間違いなくれ子だ。
ならば、なぜ。なぜ今、彼女はまたここに現れたのか。
窓の外では、夜の雨が止み、薄い日が差し始めていた。
――カンファレンスは思いの外、静かに進んだ。れ子は撮影した画像データを淡々と説明していく。声に余計な感情は混ぜない。
俺は資料の端をじっと見つめていた。顔を上げれば彼女の目を見てしまう。それが嫌で、ペンの先ばかり追っていた。
それでも、声は耳に入ってくる。
「術式の組み合わせは、岡本先生のご意見も伺いたいと思っています。原田さんの心臓の状態は、通常の再建では持ちません」
「わかりました」
「私の方でも、もう一度シュミレーションを組み直します。明日の朝までに案を出しましょう」
「ありがとうございます」
それだけのやり取りだった。
その日から、俺とれ子は同じテーブルで毎日を過ごすことになった。朝の検討会、午後の画像解析、夜の検討。気がつけば、15年の空白が嘘のように、2人の手は同じ図面の上で動いていた。互いに私語はない。それでも、術式の選び方や数値の読み方は、不思議なほど噛み合った。
咲は学校が終わると、毎日のように病院に顔を出した。母親の仕事が終わるのを、待合室で本を読みながら待っている。こちらが声をかければ、礼儀正しく頭を下げる。中学生にしては、よくできた子だ。
ある夕方、自販機の前で咲と2人になった。彼女は俺を見上げて、ぽつりと言った。
「先生って、お母さんと昔のお知り合いなんですよね。お母さん、先生のこと話す時だけ、ちょっと顔が違うんです」
「そうかい。昔、同じ病院で働いていただけだよ。難しい研究を一緒にしていてね」
「先生、優しい声で話すんですね。お母さんに似てる気がします」
俺は何と返せば良かったのだろう。言葉は出てこなかった。
馳辺は、そんな俺たちを遠くから見ていた。
夜の詰所で、彼女がふとついた。
「先生、あのお嬢さん、目元が誰かに似ていらっしゃいますね」
「気のせいでしょう」
「…気のせいかもしれません」
そう言いながらも、馳辺は何かを確信した目をしていた。
――原田の容体は、薬剤でなんとか踏みとどまっていた。だが時間は限られている。手術までの数日が、俺たち全員にとっての勝負になる。
その日の夕方、俺は1人で原田の病室を訪れた。原田はベッドの背を少し起こし、俺の顔をじっと見上げた。
「岡本先生、1つお聞きしてもいいですかな?」
「ええ、何でしょう?」
「先生は、15年前のあの一件、本当のところをご自分でお調べになりましたか?」
「今更調べて、何になるんですか? 終わった話ですよ」
「終わってはおりませんよ。少なくとも、私の中では」
俺は思わず、ベッドの脇に腰を下ろした。
原田はポツポツと話した。
「あの頃、病院の金の流れにおかしな筋がありましてね。私は事務としてそれを見ていました。研究費の名目で動いていた金が、ある1人の先生の口座に流れていたんです」
「誰の話をされているんですか?」
「鈴木一郎先生ですよ」
その名前を聞いた瞬間、どきっとした。俺の人生を闇に落とした、あの男だ。
「霧島先生は、何もかも1人で背負って消えなさった。あの方は何もお話になりませんが、私は今でもそう思っております」
俺は黙って原田を見ていた。
「先生、お調べになるなら、今ですよ。私の心臓はもう長くは持ちません。私が話せるうちに、お聞きください」
「わかりました。少し時間をください」
病室を出ると、廊下の突き当たりにれ子が立っていた。窓の外を見ている。
「れ子、少し話せるか?」
「手術のことですか?」
「いや、15年前のことだ」
彼女の表情が、一瞬だけこわばった。
「岡本先生、私は今は、患者さんのことだけ考えたいんです。それ以外のことは、どうか」
「逃げるのか?」
「…逃げているのではありません。話せないんです。それだけは信じてください」
そう言って、彼女は俺の横をすり抜けていった。
――その夜、俺はもう一度原田の病室を訪れた。今度は、最初から聞く覚悟を決めていた。
「鈴木先生はね、岡本先生の研究を、ご自分の名前で出すつもりだったんです。霧島先生はそれに気づいておられた。あの方は鈴木先生に呼ばれて、こう言われたそうです。『君が1人で発表する形にしなさい。さもなければ、岡本君の医師人生を潰す』とね」
俺は息を飲んだ。原田の声は静かだったが、一言一言が胸の奥を刺してくる。
「霧島先生は、岡本先生を守るために、ご自分が悪者になる道を選ばれた。データを持って消えたのも、岡本先生に迷惑がかからないようにするためです」
「なぜ、それを俺に話してくれなかったんだ?」
「話せば、先生は鈴木先生に立ち向かわれたでしょう。それでは、霧島先生の覚悟が無駄になります」
頭の中で、何かが大きな音を立てて崩れた。15年前、俺がれ子に向けてきた憎しみ。
俺は廊下に出て、壁に手をついた。
廊下の向こうで、咲が馳辺と並んで歩いていた。馳辺は何か優しい声をかけている。咲は小さく笑って頷いていた。
この横顔を見て、俺は足を止めた。
14歳。れ子が消えたのは15年前。俺は指を折って数えた。咲が生まれたのは、れ子が姿を消してから半年もしないうちのはずだ。
胸の中で、「まさか」という声と「やはり」という声が、同時に上がった。俺は壁に手をついたまま、しばらく動けなかった。
詰所に戻った馳辺が、心配そうにかけ寄ってきた。
「先生、お顔の色が悪いです。少しお休みになっては」
「馳辺さん、あの子は…咲さんは、お父さんの話を1度でもしたことがありますか?」
「いいえ、1度も。ただ…『お母さんが大切にしている人がいる』とだけ」
馳辺の目は、何かを察したように静かだった。俺はその場で深く息を吐いた。
窓の外には、薄い月が出ていた。
――明くる朝、俺は早めに病院へ着いた。原田の病室の前で、深く息を整える。昨夜のうちに、自分の中で覚悟は決めていた。全てを聞く。逃げずに聞き切るのだ。
原田は朝の検診を受けながら、俺を待っていた。
「お顔つきが、昨日とは違いますな」
「ええ、最後まで聞かせてください。お願いします」
原田は静かに目を閉じ、15年前のことを語り始めた。
鈴木教授は、俺たちの研究の価値を、誰よりも早く見抜いていたという。学会発表の3ヶ月前、教授はれ子を自分の部屋に呼びつけた。そこで、霧島れ子単独の名で発表せよと命じたのだ。
「先生はね、その場で断られたそうです。『岡本先生との共同研究だ』と、譲らなかった。すると、鈴木先生は岡本先生の医師免許に関わる話まで、持ち出されたとか」
「俺の免許を、人質に取ったということですか?」
「ありていに言えば、そういうことです。あの方は、医学会でそれだけの力を持っておられました」
れ子は1番考えた末、1つの結論を出したという。自分が研究データを持って消える。表向きは単独の発表者として記録される。そうすれば、俺には何の影響も残らない。ただの裏切られた共同研究者として、別の場所で医師を続けられる。
「そして、もう1つ。霧島先生には、どうしても消えねばならない理由がございました」
「その理由とは?」
「霧島先生は、その時すでに…岡本先生のお子さんを、お腹に宿しておいでだった」
時間が止まったように感じた。
「あの方は、私にだけそう打ち明けてくださいました。『この子を巻き込みたくない。覇斗さんに、私のせいで未来を諦めさせたくない』と。15年前のあの方の目は、今でも忘れられません」
俺は両手で顔を覆った。原田はそれ以上何も言わなかった。ただ、痩せた手で俺の腕にそっと触れた。
廊下に出ると、馳辺が立っていた。何も聞かずに、タオルを差し出してくれた。
「先生、少しだけお顔を洗ってきてください。…知らぬ顔はできませんから」
「ええ、ありがとうございます」
「あのお嬢さんのこと、私、最初にお会いした時から、なぜか胸が騒いでおりました。今、ようやく分かった気がします」
その目には、涙が滲んでいた。
――その日の午後。れ子が医局の扉を叩いた。手に、古びた封筒を抱えていた。
「岡本先生、これをお渡ししたくて」
「入ってくれ」
「失礼します」
机の上に、彼女は封筒を置いた。中から出てきたのは、1枚の古いノートのページだった。俺は震える指でそれを広げた。
そこに書かれていたのは、研究データではなかった。れ子の字で、手紙が綴られていた。
『覇斗さんへ。私をどうか許してください。あなたを守るには、これしか方法が思いつきませんでした。私はあなたを裏切るのではありません。あなたの未来を消したくないのです。いつか、いつか時が来たら、あなたに伝えることができると思います。その日まで、どうかメスを置かないでください。あなたの手は、たくさんの命を救うための手です』
涙が溢れ出していた。顔を上げると、れ子は窓辺に立って、外を見ていた。背中が、わずかに震えている。
「なぜ…今まで黙っていた?」
「あなたが地方で医師として立ち直ったと聞いて、それで十分だと思っていました。今更現れて、あなたの人生を乱す権利は、私にはないと」
「咲は…あの子は…」
「…あなたの娘です」
その一言を、俺はきっとずっと待っていた気がする。れ子はゆっくりと振り返った。目元が赤い。
「あの子には、いつかお父さんに合わせたいと思っていました。でも、私が合わせる勇気を持てませんでした。覇斗さんが私を許してくれるとは、思わなかったから」
「謝るのは、俺の方だ。15年間、お前を恨んだ。お前を信じられなかった。本当にすまなかった」
れ子の頬を、涙が一筋。言葉は、もういらなかった。
――原田の手術日が来た。朝の空は、よく晴れていた。
手術室に入る前、俺とれ子は廊下で目を合わせた。お互い、もう何も言わなかった。ただ、1度だけ深く頷き合った。
手術は6時間に及んだ。15年前、あと1歩で完成するはずだった手術。俺とれ子の手は、15年の歳月などなかったかのように動いた。全てがあの夜の研究室の続きだった。
手術の最後、心臓が再び動き出した瞬間、れ子がマスクの中で小さく息を漏らした。無影灯の下で、2人の影が1つに重なっていた。
原田は無事に集中治療室へ運ばれた。命は繋がった。
退院の日、原田は車椅子の上から俺たちを見上げて、ほろりと笑った。
「先生方、15年越しの手術、見届けさせていただきました。私の心臓も、もう少し働けそうです」
「原田さん、あなたが話してくれなければ、俺はずっと何も知らないままでした。本当にありがとうございました」
「いえ、これで私もあの世で胸を張れますよ」
玄関ロビーで、咲が待っていた。俺は彼女の前にゆっくりと膝を折り、目線を合わせた。
「咲さん、今までお父さんに会えなくて、寂しかった? …本当にすまなかった。これからは、少しずつでいい。俺のことを知っていってくれるかい?」
「先生が…お父さんなんですか?」
「ああ、14年遅れて、ようやくお前の前に立てた父親だ」
咲の目に、涙が溢れ出す。
「…お父さん」
馳辺が手で口を覆っていた。れ子は少し離れた場所で、静かに俺たち2人を見守っていた。
――夕方、病院の屋上で、俺はれ子と並んで立った。夕焼けが、町の屋根を赤く染めている。
「れ子、失った時間は戻らない。けど、これからの時間は、3人で歩いていけないだろうか」
「いいんですか? 本当に?」
「俺の方こそ頼みたい。もう一度、家族をやらせてくれ」
れ子は何も言わず、ただ静かに頷いた。風が、彼女の髪を揺らした。



